2010年11月9日火曜日

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・

前の記事でBachman and Palmerが「技能」(skill)というのを言語教育の構成概念として使うのを止めようと提案していることを報告しました。ウィトゲンシュタイン的な考えならもっともだと思います。「技能」という言葉に因われてしまって、「スピーキング」と呼ばれる言語使用にはすべて共通の要素があるはずだ、などと主張するのは賢明ではありません。そのような主張をする人の知性は空回りしています。

以下、ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』の新訳(Philosophical Investigations)とドイツ語原文を添えて正確を期した上で、私なりの(かなりの意訳的な)翻訳を提示し、この問題について考えみたいと思います。



11節
語られた言葉を聞き、手書きあるいは活版印刷された言葉を見るときに、それらの言葉がどの場合も同じ形式を持っているように思えるところにこそ私たちの混乱の源があります。形式が同じに思えることによって、一つ一つの場合の言語使用の違いがわからなくなってしまうからです。これは私たちが下手に考える時に起こることですからご注意を!

Of course, what confuses us is the uniform appearance of words when we hear them in speech, or see them written or in print. For their use is not that obvious. Especially when we are doing philosophy!

Freilich, was uns verwirrt is t die Gleichförmmighkeit ihrer Erscheinung wenn die Wörter uns gesprochen, oder in der Schrift und im Druck entgegentreten. Denn ihre Verwendung steht nicht so deutlich vor uns. Besonders nicht, wenn wir philosophieren!


「スピーキング」という名前が与えられると、私たちは「会話」だろうが「対話」だろうが、「討論」だろうが「交渉」だろうが、「学会発表」だろうが「朗読」だろうが、「演説」だろうが「ひとりごと」だろうが、それらは「スピーキング」なのだから、同じ枠組みの中で考えられるべきだと思始めます。しかし「スピーキング」という一つの名前が適用されているからといって、それぞれの活動の違いを捉えることを怠ってはいけません。むしろ下手に「スピーキング」として考えるのではなく、それぞれの言語ゲーム(生活様式)を具体的に思い起こすべきです(そしてそもそも想起できないなら、よく観察するべきです)。


ウィトゲンシュタインは、このように同じ言葉が適用されても、それぞれの事物は様々に異なる例として、道具箱の中に入れられた道具を出します。ウィトゲンシュタインは、架空の相手を登場させて思考します。


14節
誰かがやってきてこう告げたとしましょう。「道具というものはどれも何かを変える [という本質的特徴を持っている]。金槌は釘の位置を変え、ノコギリは板の形を変えるではないか」 ― それでは定規、膠(にかわ)を温めておく容器、釘といった道具は何を変えるというのでしょう? ― 「物の長さに関する知識、膠の温度、箱の強度を変えると言えよう」 ― そのように強引な言い含めをして、何かいいことがあるのですか?

Suppose someone said, "All tools serve to modify something. So, a hammer modifies the position of a nail, a saw the shape of a board, and so on." -- And what is modified by a rule, a glue-pot and nails? -- "Our knowledge of a thing's length, the temperature of the glue, and the solidity of a box." -- Would anything be gained by this assimilation of expressions?

Denke dir, jemand sagte: "Alle Werkzeuge dienen dazu, etwas zu modifizieren. So, der Hammer die Lage des Nagels, die Säge dir Form des Bretts, etc." -- Und was modifiziert der Maßstab, der Leimtopf, die Nägel? --"Unser Wissen um die Länge eines Dings, die Temperatur des Leim, unde die Festigkeit der Kiste." --Wäre mit dieser Assimilation des Ausdrucks etwas gewonnen?--


もちろん何か複数の事物に、明らかな共通要素がある場合もあるでしょう。しかし、もしそれが見当たらなかったら、下手な屁理屈で言葉を捻って無理矢理に共通要素をひねり出すようなことはやめて、虚心坦懐に事物を観察し記述するべきです。強引な用語法で共通要素を定義する人にはこう言いましょう。「そんなことして楽しいの?」


次は有名なゲームについての箇所です。ここでウィトゲンシュタインは、ゲームと呼ばれる様々な営みの共通要素は、それらがすべて「ゲーム」と呼ばれる以上、なくてはならないと決め付けるのではなくて、一つ一つのゲームをよく観察しようと言っています。下手に考えず、丁寧に観察することが大切なのです。


66節
例えば私たちが「ゲーム」と呼ぶ様々な活動について丁寧に考えてみましょう。[将棋やチェスのように] 盤を使うゲームや [トランプやカルタのような] カードゲーム、[野球やサッカーのように] ボールを使うゲーム、あるいは [陸上競技のような] 競技ゲームです。さてこれらのゲームに共通するものはあるでしょうか? ―ここで「共通要素はなくてはならない。さもないとこれらを『ゲーム』と呼ぶことができないではないか」などと言わないでください。 ― そんなことを言わずに、これらすべてに共通しているものがあるかをよく観察してください。と言いますのも、よく見たら、すべてに共通するものはないことに気づくからです。これらにあるのは、類似性や親近性であり、これらはその類似性や親近性で連なり重なっているだけなのです。繰り返して申し上げます。下手に考えるのは止めて、よく観察してください。

Consider, for example, the activities that we call "games". I mean board-games, card-games, ball-games, athletic games, and so on. What is common to them all? -- Don't say: "They must have something in common, or they would not be called 'games'" -- but look and see whether there is anything common to all. For if you look at them, you won't see something that is common to all, but similarities, affinities, and a whole series of them at that. To repeat: don't think, but look!

Betrachte z. B. einmal die Vorgänge, die wir "Spiele" nennen. Ich meine Brettspiele, Kartenspiele, Ballspiele, Kampfspiele, u. s. w. Was ist allen diesen gemeinsam? -- Sag nicht: "Es muß ihnenn etwas gemeinsam sein, sonst hießen sie nicht 'Spiele'" -- sondern schau, ob ihnen allen etwas gemeinsam ist. -- Denn, wenn du sie auschaust, wirst du zwar nicht etwas sehen, was allen gemeinsam wäre, aber du wirst Ähnlichkeiten, Verwandtschaften, sehen, und zwar eine ganze Reihe. Wie gesagt: denk nicht, sondern schau!


もちろんここの箇所だけ見ると、ウィトゲンシュタインが挙げた「ゲーム」には、「複数の人間が予め定められた規則に従って勝敗を決しようとする営み」といった共通的特徴を見出すこともできます(注)。ですが、彼が言いたいのは、そのような共通的特徴を見出すことが有効な場合と、有効でない場合を見極めることが大切だということ、と考えられます。例えば将棋、チェス、ポーカー、百人一首、野球、サッカー、ハンマー投げ、マラソンなどを考える際に、これらを「複数の人間が予め定められた規則に従って勝敗を決しようとする営み」として考える方が有効か、それともそれぞれの特徴を個別に考えることの方が有効かということです。(ご興味があれば「空虚概念としての「オリンピック能力」あるいは「コミュニケーション能力」(1999/7/13)」および「言語ゲームの集合体としての英語教育(1999/7/4)」(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay99b.htmlの中程にあり)をお読みください。

ですから「言語使用も『スピーキング』『ライティング』『リスニング』『リーディング』に分けられるのだから、そう分けるのが正しい。「スピーキング」と呼ばれる活動はすべて「スピーキング」なのだから「スピーキング」の枠組みで教えなくてはならない」などと決めつけずに、私たちが関心をもっている言語使用の営みを思い起こし、あるいは観察し、それぞれの特徴を丁寧に記述した方がよくないか立ち止まって考えましょう。そして具体的な観察が望ましいのなら、その具体的な言語使用記述を、言語教育あるいは言語使用の促進を主目的とする言語教育の構成概念(construct)として構築(construct)してゆきましょう、となります。(これは最近genreを強調するESPの流れでもあるかと思います)。

もちろん「四技能」の分け方が有効な場合もあるでしょう。完全否定までしません。しかし英語教育を考える際に、自動的に「四技能」を前提としたら、少し時間をおいて、もっと丁寧に具体的に英語教育を考えることはできないか自省するべきでしょう。


哲学って役立つのよ(笑)




(注)
「ゲーム」とはドイツ語の"Spiele"で、英語なら"game"とも"play"とも訳せるものです。ウィトゲンシュタインは別の箇所で、子ども同士がボールなどで適当に、ルールもなしに遊んでいる例も"Spiele"として使っています。このような例も含めるなら上記の「・・・勝敗を決する」といった特徴も共通のものとは言えなくなるでしょう。


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関連記事:鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた』講談社現代新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html


追記

下のコメント欄で説明した趣旨で上のように訳しましたが、もちろんウィトゲンシュタインは、もし日本語を話したとしても、あまり「ですます調」で語るような人ではないでしょう。下は、ウィトゲンシュタイン「らしい」ような文体で訳出してみたものです。

11節
語られた言葉、手書きの言葉、印刷された言葉、これらの現れが同じ形式を有することが私たちを混乱させる。これらの言葉がどのように使用されるかが明瞭に現れないからだ。特に哲学を行う時には!

14節
ある者がこう告げる「すべての道具は、何かを変えるためのものである。金槌は釘の位置を、鋸は板の形状を変えるといったように」。 ―ならば定規、膠壺、釘は何を変えるというのだ― 「物の長さに関する知識、膠の温度、箱の強度を変える」― 言語表現をそのように同じように変えて何の益があるというのだ?―

66節
例えば私たちが「ゲーム」と称する営みについて考えるがよい。盤ゲーム、カードゲーム、球技ゲーム、競技ゲームなどである。「何か共通なるものがなくてはならない。さもなければ『ゲーム』と称することができないではないか」などと口走るな。見よ。そしてすべてに共通しているものがあるか確かめよ。よく見るならばすべてに共通するものではなく、類似性と親近性を見出すだろう。それが一つの全体をなす連なりなのだ。もう一度言う。考えるな、見よ!



追追記

悪ノリして、読書をしない平成の学生さんにも親しんでもらえる文体で訳してみました(笑)。

11節
まじ~、言葉ってぇ~、話してもぉ書いてもぉ本で読んでもぉ、カタチって同じじゃん。だからぁ、えっ、これって全部使い方が違うん?ってなるよねぇ。テツガクっぽく考えたりしてたらもう最悪。

14節
なんかワケわからん人が来てぇ、「道具ってぜ~んぶ物を変えるって知ってた?トンカチは釘の位置を変えて、ノコギリは板の形を変えるじゃん」とか言うわけ。私、カチンときて「じゃあモノサシとか、釘とかはどうなの?」って言ってやったの。そしたらぁ、すました顔でぇ「長さについての知識が変わるしぃ、箱の強さが変るじゃん」とか言うわけぇ。アタマにきてさ、私「そんなんして、何が楽しいん?」って言ってやったわ。

66節
「ゲーム」っていろいろあるじゃん。それについて考えてみたわけぇ。ボードの上でやるやつとか、カード使うやつとか、ボール使うやつとか、マジでやるやつとかいろいろあるじゃん、そんなやつよ。でさ、そのゲームがみ~んなもってるものってな~んだ? あっ「そりゃ何かあるさ、だってみんなゲームだろ」って言いそうになったよね。ハズレ~(笑)。見て、ホントにそんなのあるか確かめてよね。ちゃんと見たらさ、み~んなにあるのなんてないってわかるからさ。なんかお互いビミョーに似てるだけなんだよね。それでいて「ゲーム」ってみんな言っちゃうんだから、何かなぁって感じ。いい、見るのよ。考えちゃダメ!



追追追記
さらに悪ノリした大阪弁バージョンです。とはいえ、私の母語は大阪弁ではないので、間違いがあったら教えてください(笑)。

「ど~も~、ウィトゲンで~す」「シュタインでおます」「兄さん、ボク最近ことばについて考えてますねん」「なんや、キミえらい賢いなぁ」「ことばいいますのは、しゃべっても、書いても、本で読んでも、一緒に思えますやろ」「ま、同じことばやからなぁ」「でもでんな、一緒や思うから、使い方がえろう違うことに気づけませんねん」「なるほどなぁ」「兄さん、下手に考えたらあきまへんで」

「それでもキミ、『道具』はみんな物を変えよるさかいに、一緒とちゃうんか。トンカチでスコーン打ちよったら釘はびっくりして引っ込みよるし、ノコギリギーギー言わせたら板はサクーンと切れよるがな」「それなら兄さん、定規や釘はどないでんのん。定規や釘が何か変えまっか」「アホ、定規使うたら長さわかって賢うなりよるし、釘打ったら箱は『何でも来~い』になりよるがな」「うわ~、兄さん、その言い方エゲツないわぁ。兄さん、そんなんやって楽しいんでっか?」

「ええでっか、兄さん、ほな『ゲーム』で行きましょ。坂田三吉の将棋とか兄さんの好きな花札とか」「放っときぃな」「阪神タイガースの野球とか四年に一度のオリンピックとか、これみ~んな『ゲーム』って言いまんのや」「言われてもうたらそうかもしれへんなぁ」「ほしたら兄さん、ここで問題です。こいつらのゲームで一緒のものって何でしょ~う」「うん、こら難しいなぁ。でも何かあるわなぁ。ないと『ゲーム』言われへんよってなぁ」「ブーッ。不正解です~ぅ。兄さん、よう見なはれや。ぜんぶ一緒なもんてあらしまへんで。あっちゃこっちゃが似たり寄ったり。『ゲーム』なんてそんなもんでっせ」「そうかいなぁ」「そうかいなぁ、やあらしまへんが。昔から言うてますやろ。『下手な考え休むに似たり』」「そうかぁ。ほな、休ませてもらうわ」(礼・退場・拍手)










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8 件のコメント:

Tomo さんのコメント...

です・ます調で喋っているウィトゲンシュタインって初めて見ましたwww

が、とてもわかりやすい翻訳ですね。僕もいつかドイツ語でウィトゲンシュタイン読めるようになりたいです(日本語でも全然読めないですけど^^;)。ドイツ語もやんなきゃなぁ。

Yosuke YANASE さんのコメント...

Tomoさん、
いいツッコミありがとうございました(笑)。
ここではウィトゲンシュタインを冷静な人、仮想対話者を尊大な本質主義者に見せようとして、このような文体を選んでみました。まあ、でもウィトゲンシュタインの人柄から考えると「ですます調」ではありえないんですけどね(笑)。まあ、翻訳者は裏切り者、ということでご勘弁を。

Tomo さんのコメント...

この調子で広島弁版「論理哲学論考」と広島弁「哲学的探究」もよろしくお願いします!(^o^

http://getnews.jp/archives/83579

こんな感じでwんで、広島大学出版会からぜひ出しましょうww

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、

コメントありがとうございます。

Mac広島弁は面白いのですが、ちょっと翻訳臭い日本語が残っているのが残念ですね。「フラッシュ」とか「ロジックボード」といった専門用語は残したまま、他はできるだけ広島弁にするとすばらしいんですけどね。

で、私ですが、私は長年広島に住みながらも、広島弁が母語ではないので、自信がありません。

というわけでこれも私の母語ではないのですが、大阪弁バージョンを追加しました。(笑)

Tomo さんのコメント...

>翻訳臭い日本語が残っている

そうですね。それは僕も思いました。

大阪弁バージョンwwww「こんなウィトゲンシュタインはいやだ」シリーズができそうですねwww阪神ファンのウィトとかwwwwww「六甲おろし歌えるでえ」とか言うウィトは嫌だぁ(><)

ちなみに、ガメラさんがイメージされているような吉本新喜劇的大阪弁を喋る人は実はそこまで多くないんです(ひとくちに「大阪弁」と呼ばれるものでも、地域によって微妙な違いが存在します。「大阪弁」の中にも”家族的類似”があるわけですね^^;)

ひとつだけ訂正箇所を。「でもですねん。」というのは、ちょい不自然な感じがしますかね(^^;)

柳瀬陽介 さんのコメント...

Tomoさん、

「ネイティブ・チェック」をありがとうございました(笑)。私はノン・ネイティブで、テレビを通じてしか「大阪弁」に接していないので、どうしてもこのような表記になります。(「大阪弁」という言い方も「アメリカ英語」という言い方同様、あまりにも大雑把な括りですね)。


ちなみに、ガメラさんがイメージされているような吉本新喜劇的大阪弁を喋る人は実はそこまで多くないんです

え、そうなんですか。私は大阪の人はみんな吉本言葉をしゃべり、主食はたこ焼き、正装はスーツじゃなくて阪神タイガースのハッピ、おじちゃんはいつも灰皿を持ち歩いてポコポコヘッドをして、おばちゃんはみんな「アメちゃん」をくれるもんだと思っていました(笑)。語学と文化学習のため、いちど大阪にホームステイせねば・・・

Tomo さんのコメント...

「さて兄さん」でも良いですし、「ほしたら兄さん」とかでも雰囲気が出てて良いかもしれませんね。

僕もネイティブとノン・ネイティブの間くらいなので(中高という大事な時期を仙台で過ごしてしまったのが悔やまれます)偉そうなことはいえませんが(^^;)。

「アメちゃん」は、現実にあり得る話だと思います(笑)おばちゃんには2タイプいて、とても図々しくて下品なのと、結構なつっこくてお喋りな、道を訊いたらプラスアルファで色々な情報まで教えてくれるようなタイプがいる気がします。

前に自動車教習所の高速道路教習で、大阪人の先生と大阪人の女の子2人そして僕になったのですが、女の子たちも先生も、とても陽気で楽しかったなぁ。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1446377708&owner_id=13789172

いや、大阪、おもしろいですよ。なんというか、ディープです。

柳瀬陽介 さんのコメント...

ミクシィ日記読みました。


そうなのだ、ここ大阪では、たこ焼きを焼く技術というのは欠かすことの出来ない基礎的教養のひとつなのである。ツッコミ、値切り、たこ焼きは、おそらくギリシャ時代の文法gramatica、算術mathematica、天文学astroinomicaに匹敵するようなものなのだ。そんな当然のことを、気安く質問した自分を、僕は恥じた。


勉強になりますw