以下は、この三月に、某教育委員会の連絡協議会であいさつをした時の内容です。
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先日、神戸で開催された英語教育研究の国際会議に出席しましたので、その時に学んだことをお話してあいさつに代えたいと思います。
http://yosukeyanase.blogspot.com/search/label/Exploratory%20Practice
私なりにまとめますと、その会議では英語教育研究の第三の波について討議されました。第一の波は1980年代中頃に標準化された科学的研究の波です。簡単に言いますと、実験心理学の真似をすれば、現場に役立つ知識が得られるのではないかという期待があったわけです。ですが、厳密な実験研究のフォーマットに従おうとしますと、どうも現場の感覚や認識とは離れてしまいます。
そこで第二の波が起こりました。アクション・リサーチです。英語教育界では1990年代中頃までにはずいぶん普及したのではないかと思います(日本はちょっと遅れましたが)。第一の波に比べて、第二の波は、現場でアクションを起こすことを重視して、そこから学ぼうという姿勢を明示しました。これもよかったのですが、折からの時代の風潮にあおられ、現場はとにかく何かアクションを起こすことを次々に求められました。予算獲得や「アカウンタビリティ」のために、他人にわかるような形で次々にアクションを起こし、その結果を第三者にもわかるような形で測定し報告せよといった命令が各地で実践者に下されました。その中で多くの現場が「改革疲れ」を起こしてきました。「また次のアクションか。そして報告書か。勘弁してくれよ」といったわけです。
そうして第三の波が起こりつつあります。それがExploratory Practiceです(ここではとりあえず「探索的実践」あるいは「探求的実践」と訳しておきます)。これはアクション・リサーチよりも、もっと現場の実情に適った活動をしてゆこうとする動きであると私は理解しています。本日は時間がありませんからその主な特徴を二つだけあげておきます。(cf http://www.momiji.h.kyoto-u.ac.jp/activities/lecture1.htm )
一つは理解を重んずるということです。改善のためのアクションを起こすことも大切ですが、そのまえに実践に関わる全ての者がしっかりと自分たちの実践を理解しておくことが重要だというわけです。「理解」なんて報告書に書きにくい事は、「アカウンタビリティー」全盛の昨今では軽視されがちかもしれませんが、相互理解なくして、共同体の実践がうまくゆくはずはありません。また人間は、それが子どもであれ、大人であれ、自分をちゃんと理解してくれる人のためには、何かをしよう、何とか役に立とう、善処しよう、とするものです。まずは理解を、それがたとえ数値になりにくいにせよ大切にしてゆこうというのがExploratory Practiceの第一の特徴です。
第二の特徴は、inclusivenessということです。関係者全員を巻き込むことです。Exploratory Practiceでは、研究者としての教師は学習者を、独自の実践者と考え、学習者の声をできるだけ聞き取ろうとします。教師が聞きたいことだけを聞くのではありません。学習者は「研究データ源」ではないのです。学習者の生態をありのままに理解しようとするのです。もちろん学習者の声には明らかに間違った見解も入っているかもしれません。でもそれならそれで、なぜそのような見解を抱くように至ったのか、そもそもそれは間違っていると本当にいえるのかと、学習者をもっとよく理解しようとするのがExploratory Practiceの特徴といえるかと思います。
考えてみますと、今までは「研究者(あるいは行政者)>教師>学習者」というヒエラルキーがなかったでしょうか。研究者(あるいは行政者)は、教師をあまり理解しようとしないままに次々に「正しいこと」を押し付けます。教師は学習者を理解しないままに、勉強を押し付けようとします。そのような権力関係で相互理解の可能性をつぶしてはいけないと思います。その意味でExploratory Practiceは教育実践の民主化であり人間化であると私は考えています。
現在、小学校への英語教育導入で全国各地が大騒ぎになっています。行政の皆様にお話している研究者の端くれとしての私は、行政者と研究者が、まず小学校の先生方のことをよりよく理解しようとすることが重要であることを自戒を込めて訴えたいと思います。小学校の先生方の不安や具体的な問題を無視してはいけません。それらを正しく理解することからすべてが始まります。そして小学校の先生方が、新しい英語という教科(あるいは活動)でも、引き続き児童のことをよく理解することを続けることが必要です。決して「これが時代の流れだから」とか「もう決定したことだから」といった曖昧な言葉で、権力を押し付けて、私たちのよりよい相互理解による教育実践の自己改善の芽を摘んではいけないと思います。
児童だけでなく小学校の先生方の'quality of life'を守るのが行政者そして研究者の仕事ではないでしょうか。
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