2013年4月25日木曜日

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)




この本は、医師でありかつ脳性まひの当事者でもある熊谷晋一郎さんによる、自らの身体(および官能)に関する当事者研究です。「なぜ自分はこのようにしょっちゅう転倒してしまうのだろうか」という問いに対して、「それは脳性まひだから」というおざなりの答えですまさずに、熊谷さんは次のような記述・説明を目指します。

もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。(22ページ)


読者の一人として、私は転倒させられました(たとえそれが私のからだで想像できる範囲の転倒であったにせよ)。医学的知識に加えて、神経科学・認知科学の知見、そして何よりも周到な自己分析と紋切り型に回収されない分析的記述に私は魅了されました。「当事者研究」についての関心から、昔買ったままにしていた本書を読みましたが、脳・意識・からだ・世界についていろいろと考えさせられ、啓発されました。

以下は、いつものように私なりの関心からの本書のまとめです(熊谷さんが意図していた主旨からは若干外れているでしょうからご注意を)。





1 脳・意識・からだ

脳、意識、からだの三者を語る場合、しばしば「脳/からだ」という対立で意識が無視されたり、「意識/からだ」という対立で脳が忘れ去られたりします。しかしこれら三者は、分けて考えることができるものの、互いに連続したものであり、外国語習得を含む技能獲得のことを解明するためには、これら三者の関係を的確に理解しておく必要があります。

1.1 脳と運動

自らの障害を説明するために、熊谷さんはまず脳と運動に関する科学的知見を整理します(24-31ページ)。その整理をさらに簡潔にまとめますと、次のようになるかと思います(まとめには私のことばが入っていますのでご注意ください。繰り返すようですが、この本に興味をもった方は必ずご自身でこの本を読んでください)。

運動が起こる順序は次の5段階に分けられる。

(1) 補足運動野・運動前野での運動プログラムの作成
補足運動野・運動前野(参照:ブロードマンの脳地図)で、これから行う運動プログラムが作られる。

(2) 後部頭頂葉での自らの意思の知覚
運動プログラムが後部頭頂葉に遠心コピーされ、人はそこではじめて自分の中にこれから行う運動への意思を感じることができる。

(3) 後部頭頂葉の内部モデルによるシミュレーションと、それによる未然の運動の感覚
後部頭頂葉にある内部モデルというプログラムで、運動プログラムのシミュレーションがなされ、人はそこで、まだ実際にはからだが動いていないにもかかわらず、自分の意思にしたがってからだが動いたかのように感じる。

(4) 一次運動野での計算と指令による実際の運動
シミュレーションの終わった運動プログラムが一次運動野に転送され、筋肉運動などの計算が行われ、運動指令が送られ、実際にからだが動く。

(5) 実際の運動結果からのフィードバック
運動結果が一次運動野や前部頭頂葉にフィードバックされる。フィードバック情報は大脳基底核で(1)の運動プログラムと比較され、右下部頭頂葉で(3)の内部モデルと比較される。比較の結果、乖離があれば、運動プログラムや内部プログラムが修正される。


この5段階で注目に値する点として、熊谷さんは、(1)と(2)の前後関係、(3)と(4)の前後関係、および(4)から(5)の遅延時間の三点をあげます。

(1)と(2)の前後関係については、人は意思を立ちあげてから運動プログラムを作成するのではなく、人が意思を自覚する以前に脳は(当人からすれば無意識の領域で)運動プログラムを作動させているということです。

(3)と(4)の前後関係は、人は実際に動くよりも前に、自分が動いているという感覚を得ているということです。(関連記事:「自由意志」―神経科学・村上春樹・仏教― やれやれ

(4)から(5)の遅延時間とは、運動指令が出てから、その運動結果が大脳皮質にフィードバックされるまでに0.2~0.3秒程度、意識に上るまでには0.5秒程度の時間がかかってしまうということです。



これらの知見を、脳-意識-からだの関係からまとめますと、次のようにまとめられるのでしょうか。 (a) 脳が運動開始のための準備をするのは、その運動への意思を意識の上で覚えることに先立つ。

(b) 意識は、実際にからだが動く前に先立って、運動の感覚を覚える。

(c) からだは脳の予測(シミュレーション)によって動きはじめるが、もし予測が外れた場合、そこからのフィードバック情報を得るのは0.2~0.3秒程度遅れてからである。

(d) 意識がフィードバック情報を得るのは0.5秒程度遅れてからである。意識によって動くことは、無意識(非意識)の脳の働きで動くことに比べて、圧倒的に遅い。

このように人間が、無意識的運動プログラムと意識的内部モデルという二種類のシミュレーション予測をもとに動いているということは、素人考えですが、武術でしたら、「客観的」に見たらそれほどまでに速いとも思えないAの動きに対して、Aの相手をしていたBは「まったく見えなかった。気がついたら倒されていた」と語る技につながっているのかもしれません(私も何度もこのような技をやられたことがあります)。Bがこれまでに経験したことがないし、経験から予測することもできないような動きをAがすれば、Bはシミュレーションができず動きにまったく対応できないでしょう。ですから、実際に相手に当て身を入れられたり投げられたりして、からだからのフィードバックをBが意識化したときには、相手のAは涼しい顔をしてBを見下ろしているというのは納得できるように思います。

脱線ついでに書きますと、約1年前にThe New York Timesに掲載されたエッセイで、Andy Clark(最近、翻訳書『現れる存在―脳と身体と世界の再統合』が出版されました)が、人間の知覚 (perception) において、予測 (prediction)が基盤となっていることをわかりやすくまとめていました。以下は、予測を有効に使う脳のメカニズムが示唆している意味合いをまとめたパラグラフです。

All this, if true, has much more than merely engineering significance. For it suggests that perception may best be seen as what has sometimes been described as a process of “controlled hallucination” (Ramesh Jain) in which we (or rather, various parts of our brains) try to predict what is out there, using the incoming signal more as a means of tuning and nuancing the predictions rather than as a rich (and bandwidth-costly) encoding of the state of the world. This in turn underlines the surprising extent to which the structure of our expectations (both conscious and non-conscious) may quite literally be determining much of what we see, hear and feel.


このような脳の予測をAndy Clarkは"predictive coding"と呼んでいるようです。以下は、Edgeでの解説です。

The basic idea is simple. It is that to perceive the world is to successfully predict our own sensory states. The brain uses stored knowledge about the structure of the world and the probabilities of one state or event following another to generate a prediction of what the current state is likely to be, given the previous one and this body of knowledge. Mismatches between the prediction and the received signal generate error signals that nuance the prediction or (in more extreme cases) drive learning and plasticity.


いずれにせよ、脳・意識・からだの関係については、もう一度まとめ直しますと、

(i) 無意識(非意識)の脳の働きが、予測により実際の運動や知覚に先立ってプランを立て人間はそのプランにより動き始めること、

(ii) 意識がそのプランを自覚するのは無意識(非意識)の脳の働きよりも遅れてのことであること、

(iii) からだからのフィードバックを脳が得るには時間がかかること、

(iv) 意識がフィードバックを得るにはもっと時間がかかること、

(v) 運動や知覚の修正は脳や意識がフィードバックを得た後におこなわれること、


となるかと思います。

こうしてみると、予測の基になる無意識(非意識)での蓄積、すなわち経験の質と量が、素早く的確な動き・知覚には大切だなと改めて考えさせられます。外国語学習でもインプット(リスニング・リーディング)の質と量が十分でないうちに、アウトプット(スピーキング・ライティング)を強要しても、そのアウトプットは非常にぎこちない(時間はかかるし、状況にも即していない)ものであることは、私たちが日頃観察していることですが、それは上記の説明からも納得できるように思います。



1.2 意識と運動

上の項で、意識は運動のいわば「主人」ではないこと、つまり意識(だけ)が動きを開始し制御していることではないことが確認されました。意識は動きのプランを無意識(非意識)の脳に遅れて自覚し、からだからのフィードバックも無意識(非意識)の脳より遅れて自覚するにすぎません。

考えてみますと、人間には200以上の骨、100以上の関節、約400の骨格筋があると言われています。意識だけで、これら一つ一つに迅速かつ的確に指令を出しこれらを制御するのは無理というものでしょう。

熊谷さんは、ロシアの運動生理学者ベルンシュタイン (Nikolai Bernstein) の「身体内協応構造」(『デクステリティ 巧みさとその発達』)の考えに基づき、からだには「多数の筋肉が各々ばらばらに意識からの指令を待っているようなトップダウンの「縦の関係」だけでなく、意識からの指令を待たずに、ある筋肉の動きが他の筋肉の動きと、緩やかなつながりを持ちながら互いに拘束しあっている「横の連携」がある」ことを示唆しています。

私たちの日常感覚でも動きが動きを呼ぶ、あるいはからだのあり方が次のからだのあり方を決めるように思えることは多々あります(私はここで不如意な外国語での発話の失敗や、武術の稽古でなかなか抜けない日頃の惰性的な動きなどを考えています)。ともあれ、からだは脳や意識だけでなく、からだ自身によってもコントールされていると考えてもいいのでしょう。

それでは意識は無用の長物かといえば、そうではありません。意識が進化の過程で出現したからには何らかの機能があると考えるべきでしょう。実際、意識は人間に立ち止まって考えることを可能にしています。(無意識・非意識の)脳や、互いに拘束しあっているからだの諸部分の、いわば自動的で固定的なパターンをいったん脇において、行動を抜本的に変容させる長期的な戦略を練ることは、意識の得意とするところではないでしょうか(もちろんその際、意識は言語などの媒体を巧みに使用することが多いのですが)。

脳・意識・からだを、連続的に考え、かつその3つそれぞれ固有の働きをより理解することが必要かと思います。





2 二者間の三種類の関係

この本で私がとりわけ興味をひかれたもう一つの論点は、人間関係の種類です。熊谷さんは、脳性まひ患者として、他人であるトレイナーに自分自身の身体運動に介入されるという経験を、とりわけ子ども時代に多く積みました(近年でも介護を必要とする時などにはやはり他人からの介入を受けます)。熊谷さんは、トレイナーである他人と、トレイニー(トレイニングの受け手)としての自分の関係から、(A)「ほどきつつ拾い合う関係」、(B)「まなざし/まなざされる関係」、(C)「加害/被害関係」の三種類の類型を設定します。ただしこれらの三種類の二者関係は、従事している目標によって、不安定に推移しうるものです(199ページ)。

2.1 ほどきつつ拾い合う関係

「ほどきつつ拾い合う関係」とは、合気道の「取り(捕り)」(技を掛ける側)と「受け」(技を受ける側)の間の関係性と似ているかと私は思いました。合気道では技を掛ける側(取り)だけでなく、技を受ける側(受け)に高度な技術が必要です。合気道で技を受けるとは、技に掛かるまいと抵抗して踏ん張ることではなく、かといって、ただ何もせずに技に掛かるがままになることでもありません。合気道では、技を掛けられた方は、相手の動きに即しつつも自らの自主性というか自立性を決して失わずに、いつでも反撃できる態勢を保ったまま、しかし最終的には相手の技に敢えて掛かります。合気道の稽古は約束稽古(=試合形式の自由な応戦ではない、役割を予め決めた稽古)なので、技に掛けられたほうが突然に逆転して反撃をすることは通常しませんが、技を掛けられる方は、相手を受け入れながらも自分で能動的に動き、常に(いってみるなら)「受動的能動性」を保ちます。あるいはことばを換えるなら、相手との関係性で動きながらも自らの独立性を保つ「相対的独立性」を稽古しているといえます。この「受け」の稽古は、いかなる状況でも自己を失わない稽古でもあるといえるかと思います(すみません、私は合気道の初心者なので、この記述は粗すぎたり間違っているかもしれません。でも素人の妄想をさらに重ねれば(苦笑)、こういった「受動的能動性」あるいは「相対的独立性」は社交ダンスの動きなどにもあるのではないでしょうか)。

熊谷さんが説明するトレイナーとトレイニーの関係において、トレイナーがトレイニーの「腕を引っ張り」、トレイニーの「腕が伸びる」という現象でも、もし両者が「ほどきつつ拾い合う関係」にあれば、単にトレイナーが能動的でトレイニーが受動的ということではありません。

トレイナーは、私の腕の伸びぐあいや筋肉の張りを感受しながら、「腕を引っ張る」力の強さを調節しているのであって、そういう意味では、私の「腕が伸びる」が能動的で、トレイナーの「腕を引っ張る」が受動的ともみなしうるのだ。このように、私の腕の動きとトレイナーの腕の動きのあいだには、相互に情報を拾い合い、影響を与え合う関係が、ある程度成立している。

このようなときには、私の動きによってトレイナーの動きをある程度操ることができる。たとえば、腕を引っ張ってほしければ、わずかに私の腕をトレイナーの側に差し出して、もどかしそうにぎこちなく私の腕を伸ばそうとすればよい。そうすると、トレイナーは催眠術にかかったように、私の腕を伸ばしにかかるだろう。

このようにお互いが相手の腕を探り合っているときは、二人の意識の中で「私の腕」と「トレイナーの腕」が、これから関係を取り結ぼうとする接触点としてまなざされている。こうして、二人の身体が調和しつつあるときというのは、二人のまなざしが注がれる先がそろってくる。 (75ページ)


上の合気道の説明は、技を受ける側(受け)の立場から行いましたが、技を掛ける側(取り)の方から説明しても、「ほどきつつ拾い合う関係」が合気道でも成立していると思います。技を掛ける方は、決して相手を引っこ抜くように馬鹿力で技を掛けてはいけません。相手の抵抗がもっとも少ない方向を瞬時にかつ刻々と感知し、その方向に、意識的な力を最小にして技を掛けるのが合気道の稽古です(しかし同時に、両者のからだ全体の態勢関係から最大の力が出るように態勢を調節することも行なっています)。

こうしてみると、合気道は、人間関係への感性の稽古であるとも言えるかもしれません(さらに言うなら、からだのあり方から心のあり方を知り、からだを整えることで心も整える稽古であるのかもしれません ― 繰り返しますが、私は自分の一知半解を恐れます。てか、合気道、まったくの白帯だし(爆笑))。

「人間関係への感性の稽古」は、熊谷さんの表現を借りるなら、身体の調和、およびまなざしの注ぎ先がそろうこと、でしょうか。熊谷さんは、二人の身体が調和しまなざしの注ぎ先がそろうと、二つの身体が融合するとも表現します(75ページ)。そこではお互いが「相手の動きを想像的に取り込む作業」 ―一種の予測と言ってもいいかと思います― を通じて、相手の動きの中に入っていくからです(75ページ)。そうして二者がお互いの動きの中に入り合っていくと、二人のまなざし先もそろってきます。

こうして調和が目指されているときに、互いが相手の身体に入り込みあい、まなざしを二人が共有することになる。このような、つながりつつある二人が共有する「一つの対象に向かう複眼的なまなざし」を、「融和的なまなざし」と呼ぶことにしようと思う。このまなざしは、私一人の身体やそこからの単眼的な視点に収まっていないという意味で、客観性を備えていると言える。(76ページ)


この「客観性」ということばは印象的です。この場合の「客観性」とは、決して無関心な第三者による観察といった客観性ではなく、複数の目が一つの対象(それは世界の実在物であったり、心の中に描いているシミュレーションやプランでもあります)を見つめている、いわば「複眼性としての客観性」と言えるでしょうか。(純粋な疑問: ここでintersubjectivityという用語を使うべきでしょうか)。枠組みや関心を共有する他者と、まなざしの注ぎ先がそろい、未来への見立ても重なりあうときに成立する「客観性」について、考えを深めていきたいと思います(「客観主義」への批判としての参考記事:ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房



2.2 まなざし/まなざされる関係

ここでの「まなざし/まなざされる関係」とは否定的含意をもって描かれています。トレイナーとトレイニーの関係でいえば、トレイニーをまなざすトレイナーを、熊谷さんは次のように表現します。

課題訓練中のトレイナーというのは、生身の身体を持った「ほどきつつ拾ってくれる他者」というよりは、手も視界も届かないはるか高い場所から一方的に私をまなざすばかりの「超越的な他者」であった。そしてまなざしは、すべて私のほうへと向いていた。(132ページ)


このまなざすトレイナーは、トレイニーの心身の状態にほとんど関心をいだかず共感もしようとしないまま、冷徹な第三者として(あるいはトレイニーの世界からすれば「超越した者」として)「客観的」に裁定や指示を下そうとしている者といえるでしょう。

浅薄で頑なな「客観主義」がはびこるにつれ、リハビリテーションや教育の場にも、このような超越的=客観的な裁定者・指導者が「よい」トレイナーや教師としてもてはやされようとしているのかもしれません。あるいは、現場のことをほとんど理解できない者が「客観主義」的に机上で作った制度によって、本来は相手に寄り添うことを目指すべきトレイナーや教師が、超越的=客観的な裁定者・指導者になるように仕向けられているというべきでしょうか。

英語教育の世界でも文部科学省主導で、ちょっと前は「興味・関心・態度」を、素早く「客観的」に評価する方法などが仰々しく語られていました。昨年は、雨後のタケノコのようにCAN-DOリストの作成についての講習会が開かれました。一体この騒ぎはなんでしょうか。これらの制度で、学習者がのびのびと成長するのでしょうか(それともこの制度は、「お上の世界の大人の事情」に現場教師と学習者を合わせるための騒ぎでしょうか)。私はこれらの制度を善意あるいは焦りから設計する為政者や研究者の前提に、「超越的=客観的な裁定者・指導者こそが合理的であり科学的であり、英語教師もかくあるべきだ」といった考えが無批判に抱かれ、それが時に暴走しないかと懸念しています。

話を戻しますと、少年時代のトレイニングで、熊谷さんはトレイナーに「ほら、頼らずにもっと主体的に動かして!」と言われておそるおそるからだを動かしてみるとすぐに「ちがう!」と言われ続けました。「まなざし/まなざされる関係」でまなざす側がまなざされる側に求める「自発的に」ということばは、同時に「自らすすんで私 [=まなざす側] に従え」という命令も含まれていると熊谷さんは分析します。一方的にまなざされる側の「主体」とは、まなざす側の命令への「従属」とセットになっているのです(70ページ)。

熊谷さんは次のようにまとめます。

このような関係では、私の体だけではなく、私の努力の仕方や注意の向け方などの内面までもがトレイナーによって監視されている。これはつまり、体だけではなくて心にも介入されているような事態である。

このようにして《まなざし/まなざされる関係》のような状況では、うまく動けない責任を「私自身」に負わされるような焦りが生じることになる。そしてその焦りが、私の身体内協応構造を強め、悪循環へと陥らせていくのである。(70-71ページ)


「違う!」と叱責しかしないスポーツコーチの前でパフォーマンスをしなければならないことや、問い詰めるしかしない教師の前で発言しなければならないことを思い起こすなら、自分のからだと心の主体性が奪われ、からだはますますこわばり、心はますます焦る経験をした記憶がある人は多いのでしょう。

もちろん人間の社会化に、他者の心身の取り込みがあるとしたら、「まなざされる」者の心身が、「まなざす」者の心身のあり方に影響を受けるというのは不可避です。私たちは他者のあり方をいろいろと取り込みます。しかし自分の心身に他人の心身が過剰に侵入してくると、これは自己を失うことにつながりかねません。指導において指導者の焦りや「善意」から、学ぶ者の力を損ねているかもしれないことに、私たちはもう少し思いを馳せるべきでしょう(そういえば『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』ではこのあたりの分析がなされていました。後日読み返さなくては)。



2.3 加害/被害関係

加害/被害関係とは、上のまなざし/まなざされる関係が固定化され暴力的になった関係といえましょうか。そこにあるのは「痛みと怯えと怒り」あるいは「固まりと恐怖」です(67ページ)。熊谷さんはこう述懐します。

トレイナーの動きは、私の動きとはまったく無関係に遂行されていて、私の体が発する怯えや痛みの信号はトレイナーによって拾われない。トレイナーは交渉することのできない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として私の体に力を振るうのだ。 (67ページ)


(英語)教育において、この三種類の関係はどのように観察されるでしょうか。

教師と学習者の関係は、ほどきつつ拾い合う関係でなく、まなざし/まなざされる関係、いやそれどころか加害/被害関係に固定化されていませんでしょうか。

同様に、指導主事や外部講師といった教育行政権力者も、教師に対して、ほどきつつ拾い合う関係でなく、まなざし/まなざされる関係、いやそれどころか加害/被害関係に固定化されていませんでしょうか。

私としては、これらの考えをきっかけに、いろいろと観察と思考を重ねてゆきたいと思います。





3 からだと環境

3.1 からだと規範

と、あたかも「ほどきつつ拾い合う関係=善、まなざし/まなざされる関係=悪」とでも含意してしまうような書き方をしてしまいましたが、前にも短く述べたように、社会化には、まなざす他人の視線を取り込むということがあります。

人は皆、成長のある段階で、実際の他者にまなざされながら規範を覚えていく。やがて規範をほぼ習得し終えることになると、他者がいなくても自分で自分を監視するようになる。さらに規範が体の一部のように当たり前のものになれば、とりわけ自分や他者から注がれる監視のまなざしを意識しなくてもよくなり、いわば「心の欲するところにしたがいて矩を越えず」の状態になる。

これはつまり、自由意思に基いて主体的に動いているという感覚のままで、規範から逸脱しないという状態になれるということだ。「まなざし」や「規範」というものが、世界についての予期や行動原則を構成する内部モデルの別名だと考えれば、それは、他者の内部モデルを、自らの内部モデルとして取り込んだ状態ともいえるだろう。 (126ページ)


つまり私のからだは、自分自身のからだでありながらも、他者の規範を取り込んだからだとなるわけです。からだを、単に生理学的対象と見るのは明らかに限定された見方であり、からだを考える際に、私たちは規範といった社会性を考慮する必要があります。



3.2 からだの動き

規範を内部モデルと抽象化・一般化するなら、私たちは自分のからだが動く際に関与している対象(人間や物体)と内部モデルを共有していると、なめらかに動くことができるとなります(「物体との内部モデル共有」というのは少々奇妙な表現ですが、要は、物体の動きの物理法則を私たちが理解しているということです)。

運動を繰り出す側とそれを拾う側とのあいだに、あらかじめある程度「こう出れば、こう返ってくる」という了解事項を共有する必要がある。それは、応答するのがモノであっても人であっても、である。応答する側には、相手が大体どのような運動を繰り出すかについての予測があるからこそ運動を拾うことができるのだし、運動を繰り出す側についても、その予期を大きく裏切らない運動を繰り出す限りにおいてそれを拾ってもらうことができるからだ。 (164ページ)




この内部モデル共有と二者(私と他者・モノ)の関係については、二つの順番が考えられます。一つは、まなざし/まなざされる関係で見られる「内部モデルの習得→つながり」、もう一つは、ほどきつつ拾いあう関係で見られる「つながり→内部モデルの習得」の順番です。

「内部モデルの習得→つながり」の順番でからだの動きを考えれば、私は他者(典型的にはトレイナー)が示す「正しい動き」を学び、その規範を内面化しかつその規範通りに自分のからだを動かせるようになって、はじめて他者とつながることができると考えます。

しかし、「つながり→内部モデルの習得」の順番もあります。そこで私は、他者やモノといった環境とのほどきつつ拾い合う」関係に身をゆだねながら、他者やモノとの交渉によって、自らのオリジナルの動きと内部モデルを立ちあげます(161ページ)。そしてさらに交渉を重ね内部モデルを洗練してゆきます。これが「つながり→内部モデルの習得」です。



外国語学習においては、圧倒的に「つながり→内部モデルの習得」の順番で物事が考えられていると思います。しかし、外国語学習においても「つながり→内部モデルの習得」の順番で物事を考えることはできないか、というより実際にその順番で考える方が自然な現象は実際にあるのではないか。教師と生徒の関係も、「内部モデルの習得→つながり」だけで考えて、教師が生徒を馴致してはじめて教師と生徒の関係が築けるのか、それとも教師と生徒が互いにつながろうとしながら、内部モデルが立ち上がってくるのか -- 無論、現実世界には両方の順番があるのでしょうが、片方の順番でしか物事を考えないようにはなりたくないと思います。



いろいろと考えさせられる本でした。皆さんもご興味があれば、ぜひご一読を。



















関連記事 
石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html



2013年4月22日月曜日

寺島隆吉先生を囲んでの懇談会の感想




先日行いました寺島隆吉先生(岐阜大学名誉教授)を囲んでの懇談会に参加した方の一部の感想をここに掲載します。読んでいただいたらわかりますように、寺島先生は参加者の学生および教員に大きな印象を与えました。ご体調が万全でないにもかかわらず、はるばる広島大学までお越しくださった寺島先生には、改めて深く御礼を申し上げます。


私としても改めて、
(1) 「自分の頭と手で考える」行動的な生活者としての寺島先生の根本姿勢、 
(2) 科学史・科学哲学専攻(東京大学教養学部)としての寺島先生の自然科学的態度、
の二つの要因が密接に絡みあって、寺島先生の著作に、なかなか他に見られない説得力を与えているように思えました。

また国語の大西忠治先生、西郷竹彦先生、無着成恭先生、数学の遠山啓先生、あるいは理科の板倉聖宣先生といった、英語教育以外の偉大なる実践的教育学者(あるいは教育学的実践者)のお名前が、寺島先生からどんどんと出てくることも印象的でした。「英語教育学」の業績稼ぎに研究者が振り回されている近年、私たちは大切なことをどんどん忘れ去ろうとしているのではないでしょうか。


岐阜大学を定年退職された寺島先生は現在、ブログなどで社会に対して鋭い批評を書かれておられます(ご体調がすぐれない中のご執筆には本当に頭が下がります)。


WEBLOG 「百々峰だより」



以下、寄せられた感想を掲載します。固有名を匿名化した以外は原文のままです。どうぞお読みいただき、寺島隆吉先生という存在を、現在の日本の英語教育界がきちんと評価しているかどうか、今一度お考えください。どうぞ寺島先生の御著作をお読みください。そして少なくとも寺島先生がご指摘された論点を、私たちなりに考えてゆきたいと思います。





Aさんの感想


寺島先生、
先日は、懇談会に参加させていただきありがとうございました。広島大学修士のA(教職経験者)でございます。また、途中で退席してしまい申し訳ございませんでした。
先生との懇談翌日、「英語にとって教師とは何か?」を注文購入し読ませて頂きました。そして、いろいろ考えました。結論として、寺島先生の生き方から、自分は多くのことを学びたいと思いました。この数日で、何か、勇気と元気の源にふれる実感を得たような気がします。
恥ずかしい話ですが、私は教師としての自信の無さから20年間務めた教師の仕事をやめることを考えていました(分掌では教務主任や進路指導主事など、いわゆる学校の中枢に近いところの仕事の経験も長かったのですが、益々虚しい日々が続いていました)。しかし、家族や兄(故人)の理解や励ましもあって、大学院で学び直し、それから結論を出すことにしました。これまできちんと勉強していなかった自分ですから、大学院での勉強は相当つらいものになることは覚悟していましたが、それでも、コツコツ勉強する中で、自分の心身が回復するのを感じています。
そんな中、寺島先生との懇談会の機会を得ました。先生のお人柄と当面読んだ2冊(「教育原論」「英語にとって教師とは何か?」)の図書から少なくとも以下の4つの事を学ぶことができました。如何に私自身に「見えない力」が育っていなかったかを晒すようですが、自分にとっては大きな前進であります。
1つめは、高度経済成長に無批判に加担し、子どもたちのための真の教育を顧みず、現代的教育課題を生み出してしまった大人としての罪悪感を中途半端にごまかしながら仕事をしていたことを恥ずかしく感じこのままではいけないと思えたことです。寺島先生のような姿勢(図太くも知的な行動力?すみません。)で問題に正面から向き合い、「地球市民」を育てるために奮闘されてきた教育実践者から少しでも学ばなければならないと思いました。言い訳をしている暇はありません。子どもたちが、益々、社会の「真実」から遠ざけられ、生きるための根源的エネルギーが弱くなっている気がするからです。
2つめは、自分のこれまでの、学歴や学力などに対するコンプレックスの無意味さを教えられたことです。まさか、東大の出身者にコンプレックスの必要以上のこだわりの虚しさに改めて気付かされるとは思いませんでした。ご自分の身体的な弱さ(屈強な生徒に対して)や、自分の無知に平然としている恩師に対する好意の視線は、寺島先生の洞察の深さを示すものだと思いました。私も、自分の無知さを隠そうとせず、堂々と振舞うことからスタートし、自分なりの、生き方を考え示し実行したいと思います。
3つめは、服装頭髪指導について現場目線で発言されている寺島先生の誠実な姿勢と考えに共感したことです。服装頭髪指導は正面から論じられることが少ない問題だと思いますが、寺島先生の教育実践者としての発言は、勇気がいると同時に、本気で子どもたち(日本)のことを考えている発言であると思いました。私自身も、服装頭髪指導で悩んできました(管理的にやってきました)が、短期的な管理主義よりも、長期的な自立を目指すならば、多少の混乱も必要悪であって、それを許す体力が日本の文化に育っていないのは大人の責任でもあるのではないかと考えました。
最後に、研究について、私は、勤務をしながらの両立はでき無かったことになりますが、泣き言を言っている場合ではないので、現場に戻っても続けられるよう、寺島先生などの研究者の理論や実践からしっかり学んでおきたいと思います。ただし、中身の無いただの頭でっかちに逆戻りしてしまわないよう、実践が理論の前を走るよう気をつけたいです。現在、私は、修士論文のテーマを、「英語の授業での対話活動を通して、『自信を持って生きるためのコミュニケーション能力』をどう育てるか -対話活動における「演劇性」からの考察-」にしたいと考えていますが、あまりはかどっていません。自分の研究能力の低さに呆れるばかりですが、挫けず、なんとか形にしたいと思っています。
ナイーブな事ばかりダラダラつづりまして申し訳ございませんでしたが、このような機会を得たことに感謝しながら、覚悟を決めて教育の仕事に関わって行きたいと思います。ありがとうございました。先生とご家族のご健康をお祈りいたしております。





M君の感想

寺島先生

本日はお忙しい中広島大学にお越し頂き誠にありがとうございました。翻訳教育について質問をさせて頂きました、参加学生のMです。

以前から著書を拝読させて頂き、先生のお話をお伺いできるのをとても楽しみにしておりました。今日自分が感じたことは自分の拙い表現力で表せる自信は到底ありませんが、マクロな視点、翻訳教育、今後の自分の課題の3つに分けて述べたいと思います。

■ マクロな視点(英語教育を英語教育という枠組みだけでとらえない)
今日の先生との対話の中で最も感じたことは、”英語教育”を自分は今まで単体で考えていて、他の分野とつなげて考えてこなかったということです。大学では、教室の中でいかに英語に興味づけさせるか、英語が書けるようになるにはどうしたら良いか、のように英語教育という枠組みから抜けた発想をすることができませんでした。もちろん教師見習いの自分にはこれも大切です。しかし少なくとも今日の懇親会を通して、(1)英語教育と政治、(2) 英語教育と学校全体の教育というつながりが見えてきました。
(1) 英語教育と政治
「英語教育原論」も「英語教育が亡びる時」も両方の第一章は英語教育と政治についての先生の論考で始まっていました。最初読み始めた時は、恥ずかしながら英語教育と政治の関係性が自分の中にははっきりとありませんでした。しかし、読み進める中で自分の考えの浅はかさに気づきました。
例えば小学校英語教育にしても、「早期外国語教育は音声面で有利」といった第二言語習得論の示唆で施行されたものだと思い込んでいましたが、経済界からの要請や政治的な思惑がそこにあるかもしれないという考えすら自分の頭にはよぎりませんでした。さらに、この政策は結果的にエリートを育ててもついていけない子は置いて行ったり、英語ができない子が「8年間(初等2年+中等6年)も英語を習ったのに。」という劣等感を抱かせたりします。ところが、このような面は英語教育専攻として学部に通っている自分も教わる機会がありませんでした。
自分が良かれと思ってCNNのニュースをリスニング教材として開発したとしても、その行為が持つ別の意味があることが分かりました。すなわちアメリカ発信の情報を与えるのみで、「英語教育が亡びる時」で以下に述べられているような側面を無視していることになります。
  「だとすれば、「ことばの教育」を専門に研究している私たちの責任は、他の一般のひとたちより、もっと大きいものがあるのではないだろうか。なぜならメディア・コントロールは私たちの想像を絶する規模で進行しているからである」。(p.61)
  「「英語教師はことばの教師」である。だとすれば、英語をコミュニケーションの手段として教えるだけではなく、その同じ手段が民衆をコントロールする手段としても使われることを教える義務があるのではないか」。(p.54)
せめて、自分が生徒に行う指導を英語指導という一義的側面のみならず、他の面ではどのような影響を与え得るかについても考えるようにしたいと強く感じました。
また、メディアコントロールに対する抵抗力(メディアリテラシー)を育てるための方法として、同トピックにおける複数社の英字新聞を集めて読ませることなどが指導法として思いつきました。情報量や表現の違いに気づかせることに加えて、筆者が読者に与える印象が異なっていることにも焦点を当てられると思います。しかしこのような単発の授業のみではなく、普段から意識していくことも必要不可欠だと思います。

(2) 英語教育と学校全体の教育 
さらに、英語教師は「英語の」授業のことだけを考えていても不十分であるという示唆もとても印象に残りました。「英語教育原論」でも冒頭に述べられていたように記憶していますが、どの教科の先生も自分の教科に命をかけられています。それ自体は素晴らしい心がけのように思えますが、生徒はすべての先生に同じだけ応えることはほぼ不可能です。そのため、自分の教科に命をかけるばかりでなく、学校教育のカリキュラム全体を視野にいれるべきだと思います。
具体的に言えば、日本語の力を伸ばしたいと英語教師が願っていても、英語の授業のみで両言語を育成するのは時間の関係で困難かもしれません。しかし、先生がおっしゃったようにホームルームの生徒に対しては日記をつけさせたり、”誰も担当したがらない”総合の時間を活用したりできます。これによって、母語を書く「量」を確保することが可能となり、思考力を深めることにもつながりうるはずです。
「英語にとって教師とは何か」で服装指導と英語教育に関する先生のご意見を読ませていただき、英語教育は学校教育全体の中でとらえる必要性を再実感しました。現場に出た時やこれから英語教育について研究を続けて行くにつれて、このような真実は忘れがちになってしまいがちだと思いますが、今日自分の感じた気持ちは忘れないように心がけたいです。 

■ 翻訳教育 
本日自分の質問として「翻訳教育を英語教育に取り入れること」を出させていただきました。真摯な対応をして頂き感謝しております。先生との対話を通して、改めて英語教育における翻訳教育の導入の可能性が見えてきました。
今日話題に上げさせていただきましたが、目標言語の自然さのみを重視してしまうと弊害が出てきます。すなわち、英語の構造が分かっていないのに、知っている単語を組み合わせたらたまたま名訳になってしまう場合です。これでは決して転移する学力には繋がりません。先生とお話させて頂くまでは「たまたま名訳になってしまう場合」と「英語の構造をとらえた上で日本語の自然さを重視して名訳をつくる場合」の区別は不可能だと思い込んでおりました。
ところが記号読みの実践についてお話をして頂き、必ずしも不可能ではないという考えに至りました。また、「不自然な日本語を挟むこと」の重要性も先生から教わりました。これらの過程をより重視すれば、目標言語の自然さを求めた日本語表現力を育成しながら翻訳教育を行うことも決して不可能ではないと思います。
「良い翻訳は、原文を構造にしたがって直し、目標言語でも音読をして自然に感じられること」という言葉を先生から頂きましたが、この2つを意識して、これからも翻訳について調べて行きたいと思います。

(追記)
もともと自分は翻訳批評を研究テーマに据えていたのですが、翻訳の練習(名ばかりのもので実際は英文解釈に近かったですが)を少々齧ってみて、自分の日本語表現力や語彙の乏しさ、さらに原文のニュアンスが伝えられないもどかしさも味わってきました。この体験を通して、翻訳教育は英語の精読のみならず、「母語を耕す」ことにもつながるのではないかという思いが近々強まり、英語教育への翻訳教育導入について丁度調べているところでした。そのような中で寺島先生とお話する機会が持てたことで、自分のこれまでの考えを整理することができ、これからの研究へのモチベーションにもなりました。本当に幸せだと思っております。改めてお礼申し上げます。

■ 今後の自分の課題
最後に、今後自分がすべきと感じたことをリスト化したいと思います。人様に見ていただくべき部分ではないと存じておりますが、自分の現段階の決意としてまとめさせて下さい。
○ アメリカについて理解を深めること
恥ずかしながら、今日の先生のお話の中で自分がついていけない部分もありました。その理由は世界情勢に関する自分の背景知識のなさにあります。特に英語教師として、「米」語が話されている国を知ることは不可欠だと思います。帰り道に先生から「肉声でつづるアメリカ史」は背景知識がなくても読める、と勇気づけられたので、この本にまずはチャレンジしたいと思います。読み終わった時には、自分の最も印象に残った部分とその理由、そして読んだ上での疑問点をまとめたいと思います。

○ 英語教師として骨のある文章でも翻訳する力をつけること
翻訳教育の可能性を感じるからには、自分自身も翻訳の練習を積みたいと思います。大修館書店の「英語教育」の英文解釈教室に最近投稿していますが、原文に対する敬意を持たないまま訳す練習しかしてきませんでした。これからはDemocracy Nowのような文章も英語を読めない人にもわかるような訳をする練習をしていきたいと思います。


先生と今日お話ができて本当に勉強になりました。これから今日感じたことを頼りに邁進したいと思います。
貴重な時間を割いて懇親会に来て頂き、誠にありがとうございました。






F君の感想

寺島先生
こんにちは。
広島大学教育学部 第3類英語文化系コースのFです。
昨日は遠方から広島までお越しいただき、ありがとうございました。
大変貴重で中身の濃いお話を聞くことができ、いたく感銘を受けたのと同時に、自分の勉強不足を痛感いたしました。
さて、私にとっては終始「衝撃的」な内容の懇談会でしたが、いつか英語教師に成る身として今後特に留意していかなければならないと感じたことを感想として3つにまとめさせていただきました。
これらに気付かせてくださった寺島先生には大変感謝しております。
まず一つ目は、「土台作り」に関してです。
先生の「知りたいことが無ければ英語は苦役でしかない」というお言葉が示す通り、英語の授業は時間が過ぎるのを待つだけの「作業」に陥りやすいのだと思います。
進学校ですら英語は「受験に必要だから」という理由だけで我慢して授業を受けている生徒も少なくないのかなと思いました。
先生のお話を聞いて、そんな状況で英語でディベートやスピーチを行う事は果たして適切なのだろうか、心にもない建前を意見として並べるだけで終わらないだろうか、という疑問が生じました。
「学習者の本音を引き出す」というのは生徒との信頼関係があってこそだとは思いますが、「そもそも日本語でできない事を英語でできるはずがない」というのはご指摘の通りだと思います。
「本音」を母語で書くことを徹底的にさせて、論理的な文章を書く「基礎・土台づくり」は必ず英語教育にも生きてくると感じました。
文章を書く土台作り以外にも、いかに「苦役と感じさせず、かつ簡潔に」音声や文法の土台作りを行うかは、教師として熟考していかなければならない課題であると感じます。
2つ目は、いわゆる「英語バカ」に関してです。
先生が、「英語教師のくせにアメリカを知らない「英語バカ」が多い」と仰った時に、まさに「自分のことだ」と恥ずかしくなりました。
個人的にアメリカという国家に対しては高圧的・傲慢といった印象を抱いており、以前から好きではありませんでした。
しかし、それは単なる「印象」に過ぎず、寺島先生に「客観的事実」として真のアメリカの姿をいくつか教えていただいた時には、あまりに衝撃的過ぎて絶句してしまいました。
また、英語を教える事で「無意識のうちにアメリカに肩入れ」していたり、ある教材を吟味しないまま使用することで「戦争を助長するような態度」を育成したりしてしまうとは、考えた事すらなく、自分の無知を恥じました。
自分は今まで受け身的にしかアメリカという国家や世界情勢を見てきませんでした。
海外のニュースを見ようにも、CNNなど、都合の良い視点で語られたものしか見ていませんでした。まさに「英語バカ」でした。
これはアメリカに限った事ではなく、日本国内のこともそうです。原発に関しても、恥ずかしながらほとんど知りませんでした。
これからは、より広い範囲で情報収集をし、様々な視点で情報を吟味しなければなりません。
吟味したうえで、英語や英語教育がそれらとどのように関わるのか、どのような影響をもたらすのかという点も考えていく必要があると思いました。
「知ること、伝えること、形にすること」を実践し、これ以上「英語バカ」にならないように、また増やさないように勉強し続けなければならないと強く思います。
3つ目は、「英語教育バカ」についてです。
先生とのお話を通じて、自分は「英語バカ」であると同時に「英語教育バカ」でもあると感じました。
教育学部の英語コースに在籍していると、いわゆる「英語授業の達人」の話は嫌でも耳に入ってきます。
そして、私たちはそれらを深く吟味することなしに、彼らの授業は「無条件に、全く優れた英語教育実践である」と受け取ってしまいがちです。
(先生の仰った「海外の英語教育実践の輸入」もこれと関連していると思います。)
どんな授業実践にも改善点はあるのにも関わらず、「授業全体」を良いものとして鵜呑みにしてしまうと、改善すべき部分も生徒に繰り返されることになります。
先のような「英語バカ」のように、「英語教育バカ」にならないように注意しなければならないと感じます。
もちろん、優れた達人英語教師達から学ぶべきことは非常に多くあります。
先日、田尻悟郎先生の講演会に参加した際には、「生徒の声を聞く」という点で非常に優れた教育者であるという感想を個人的に抱き、感銘を受けて帰ってきました。
しかし、今回寺島先生は「要求することは尊敬すること」であると仰いました。
単なる感想に留まらず、優れた実践であっても批判的に考察することで先達から学び、自らの教育論に繋げる必要があると強く感じました。
(達人に「要求する」のは、尤も自分がもっと勉強してからにすべきだと思いますが・・・)
寺島先生の著書もこれから新たに読ませていただきますが、今回の懇談会の内容も含め、それらを鵜呑みにせず、まずは自分なりに消化し批判的に読み解いていきたいと思います。
ここに書かせていただいたこと以外にも、翻訳や読解などについての深いお話を直接聞くことができ、大変有意義な半日でした。
英語教師になる前に寺島先生とお会いすることができ、本当に良かったです。ぶれていた部分が正されたような気がします。また機会があれば是非、お話しさせていただきたいです。
これからの数十年、「勉強」を怠らず、英語とどのように向き合うかを考えていきたいと思います。 
本当にありがとうございました。








S君の感想

寺島先生、お忙しい中広島までお越しいただきありがとうございました。たくさんのことを教授していただき、今後の院生活、教師生活に多大な影響を受けました。以下、懇親会の感想です。拙いもので申し訳ありませんが、ご一読お願い致します。ここでは、先生の言葉を抜粋して、そこから学んだことを述べていきます。

「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」

これは私が「生徒にどういう英語力を最優先としてつけてあげるのですか?その最優先で教える内容を教えて下さい」という質問に答えていただいたものです。まず私がこの質問をした背景を改めて説明します(寺島先生のご著書から学んだことです)。
  英語教師は大変な状況におかれながら生徒の英語力を伸ばそうと努力しています。
まずは40人学級という状況。海外では外国語学習に関して、20人クラスで「多人数クラス」10人クラスで「少人数クラス」と呼ばれています。それを考慮すると、いかに日本人英語教師1人がみる生徒の数が多いでしょうか。こんな状況では特にスピーキング、ライティング指導などまともに出来るはずがないです。
 次に、言語間距離です。英語と日本語というのはかなり言語的に遠く、例えばヨーロッパ人が英語を学習するのは、私たち日本人が沖縄弁や東北弁を勉強するようなもの、と似ています。しかし日本語母語話者が英語を学ぶのは、容易なことではありません。文科省のいうような、「ディスカッションを行う」「概要や要点をとらえたりする」、そして「これらはすべて英語で行う」を6年間で達成しろ、というのを困難校の先生が真面目に受け止めたらどうなるでしょうか。
 
 そして最後に、受験です。今のような激しい競争社会となった日本において、受験というのは生徒にとって最大の課題となっています。また、教師も「私のクラスは○人○○大学に受かりました」「テストの平均点はこれだけとれました」という風に、やはり競争社会で生きています。そのような状況で教師自らが生徒に「これだけはつけてあげたい」「こういうことを子どもたちに伝えたい」という思いをどう達成するのでしょか。
 上の3点に加え、校務分掌、部活指導、生徒の服装指導。そのような状況において、そして泣き言など言っていられない立場を踏まえて、生徒に英語力としてどのようなことを最優先に教えるべきか、寺島先生のお考えを尋ねたのが上記の質問です。
 
 その質問に対する寺島先生のご解答が「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」でした(簡潔にしたつもりですが、間違いだったらご指摘お願いします)。以下に、英文法指導に限定して、懇親会で学んだことを挙げます。
 
・ 英文法を並べられて覚えることができるのは、大学受験で英語を必須とする生徒、忍耐力がある生徒、英語が大好きな生徒。しかし並列的に文法を教えられてもつまらない(羅列主義は退屈)。
・ そこで教師は文法の「これさえ教えれば全てに共通していく」という“幹”を見つける(知っておく)必要がある。
・ 英文法指導は、なぜそのような形態でそのような意味になるのか、という根本的な原理を教師が分かっておかなくてはならない。根本を知っているのと知らずに教えるとでは大違い。
・ 原理がわかった上で学習と指導を。
・ “幹”さえ生徒がつかめれば、あとはそこから(生徒自身が)広げていくだけ。
・ 詳しくは『英語にとって文法とは何か』(あすなろ社)参照。
英文法の“幹”というものを考えたことがなく、なんだかんだ言いつつ覚えるしかないのかなあと思っていた所だったので、この概念を教えていただいて助かりました。早速先生に送付していただいた『英語にとって文法とは何か』を拝読いたします。また、文法以外についても、“幹”というものを探して生きたいと思います。

「外国のSLAの研究を勉強してばかりいるけど、そろそろ日本人による日本人のための英語習得法を積み重ねていかないといけない」

 私はそれほどSLAを勉強してきたわけでなく、それを日本人が懸命に勉強することに対して私が批判するのは数億年早いですし、国内だけをみていては何も見えてこないことは承知ですが、この寺島先生のお言葉にはハッとさせられました。
 まず日本と外国では英語学習の環境が違います。日本人は英語を学習言語としてEFLの環境で勉強しています。教室から一歩でれば英語をしゃべることなど正直言って皆無であり、寺島先生の立場ですら日本で英語を話す機会などほとんどないとお聞きして、実態を再認識しました。それに対して、アメリカやイギリスなどの国では生活言語としてESLの環境で英語学習を行います。そのような国が発達させてきたSLA研究を環境の違う日本の英語教育に導入して果たして効率的だろうか、と先生はおっしゃっいました。 
 確かに、日本人が(外国語で書いてある)外国の理論や研究を取り入れながら(江戸時代から)発展させてきた英語教育よりも、日本人が日本語で積み重ねてきた国語教育のほうが進んでいると言ってもなんら不思議はありません。先生いわく、国内には様々な優れた実践があり、それらにもっと注目して「日本人による日本人のための英語教育」を積み重ねていかなければならない、とのことでした。先生が高校教師時代、大西忠治や西郷竹彦など国語教育者の実践を大いに参考にし、読み漁ったとお聞きして、私もその必要性を強く感じました。
 
個人的な体験ですが、昨年度国語教育の授業を受けたときに、国語教育が英語教育よりも進んでいるなあと(あくまで、)感じました。今後、国語教育の膨大な研究を少しずつ勉強して、英語教育に応用していきたいとも考えています。言語教育というカテゴリでは同じ分野ですから。まずは寺島先生が大西忠治の影響を受けて作られたという「3読法」を勉強したいと考えております。

「教師として生徒にこれだけは伝えたい、というものを持っておくこと」

 先生が高校教師時代、生徒に集中力、計画力、持続力は最低限つけてやるという方針をお持ちだったとお聞きして、そういうものを私も今から、また教師になってからも考えていかなければならないと思いました。困難校と呼ばれる学校で生徒を持ったときには、先生に教わった上の3つの力をつけるということになりそうですが、そのプロセスは自分で築き上げていかなければならないと思っております。
 
しかし、進学校の生徒は集中力、計画力、持続力は比較的もっているので、それらのウエイトは軽くなります。そこで私は、よくメディア・リテラシーとも言われていますが、彼らに「情報力」をつけてやるべきだと今は感じています。英語を学習する意義の一つとして、海外の情報を入手し、あるいは発信する能力を身につけるということがあります。日本語で得られる情報量に満足せず、また騙されず振り回されず、世界で起きていることを知って、それを元に自分で世の中を考える力がこれからの時代では必要ではないでしょうか。政治というものに対して自分があまりにも無知で、世の中を知らなすぎる自分に日々失望していることが、そう考える理由かもしれません。
以上、主に3点感想として書きましたが、他にも貴重な勉強をさせていただきました。例えばアメリカの日本(の英語教育会)への影響の話など、おそらくこの懇親会に参加していなければそれほど重要視していなかったかもしれません。英語教師としてアメリカが世界に対して持つ影響力を知りたいです。先生のご著書を読ませていただきます。
先生にはホテルでも貴重なお話しをいただき、今回の懇親会はすごく自分の身になりました。ありがとうございました。
いつまでも健康でいらしてください。
今後とも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。



Tさんの感想

寺島先生、
先日は広島大学での懇談会に参加させていただき、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。会の中で参加者の名前に言及されつつ一つ一つ丁寧に質問に応えていかれる先生の姿勢に感銘を受け、一瞬たりとも気を抜かれない気迫に圧倒されていました。
また御著作『英語にとって「教師」とは何か』を賜り本当にありがとうございました。拝読させて頂きながら、知らず自分の実践の背景や来し方と対照しておりました。恥ずかしながら大西忠治先生の著作は読んだことがなく、先生の御実践を十分に理解しているとはとても言えないのですが、入口やルートは異なりつつも私も先生と同じ山の頂きを目指している感じがいたしました。
現在の私の実践は、カール・ロジャーズのPerson-centered approach、ジョン・デューイの経験主義、ガテーニョのThe Silent Wayに影響を受けています。「学習者が学びの主導権を持つのであって教師が持つのではないこと、豊かな学習資源としての経験からの意味の取出し、学びのプロセスを支援する人としての教師、個の選択権と個と個を結ぶ考え方としての民主主義」というような点です。こういった考え方をベースに教師教育、文法指導や作文指導を考えるワークショップ等も行っています。「テキストからルール発見を学習者にさせるワークショップ:過去形と完了形、前置詞、態」と「二つの英作文指導:プロセス重視の英作文指導(プロセス・ライティング)と社会的機能重視の英作文指導(ジャンル・アプローチ)」はこの2,3年高校現場、教員研修でやらせていただいている実践です。文法発見は規則ではなく語用論的な使用法の視点からの指導法開発で、プロセス・ライティングは如何に学習者に自身の中にある意味を探し言語化しそれを膨らませてゆくか、ジャンルアプローチは、どのような社会的な目的のためにテキストを書くのかを意識させる実践です。プロセス・ライティングは、先生が生徒指導で10枚学校の悪口を書かせられた実践と通底するところがあります。学習者が自分自身の中にある言語化されていないものを取り出すプロセスを援助するという意味で。実践内容や形態、拠って立つ理念が異なり、ご批判の対象になるかもしれませんが、先生の関心領域と重なるところがあるように思いました。リフレクティブ・プラクティスについては十分にお話する時間がなく残念でしたが、またいずれゆっくりお話ができればと思います。貴重な機会と御教示ありがとうございました。 


Hさんの感想



寺島先生
 先日は、広島大学で懇談会に参加させていただきまして、ありがとうございました。
私は遅刻してしまいまして、申し訳ございませんでした。
 オーラル・インタープリテーションについてお教え賜りましたことも、ありがとうございました。
ご紹介いただきました数々の本は、これから読んでまいりたいと思っております。日本人にとっての外国語としての英語について、考えていかないといけないのだと、思考が多方面に広がりました。
 また、英語教育のお話も、大変興味深かったです。英語を教えたことで学生がアメリカに行きたいと言い出したら、というお話も、とても考えさせられました。
 寺島先生に教えていただいたお話を踏まえ、勉強を頑張ってまいります。
誠にありがとうございました。














関連記事

寺島隆吉『英語教育原論』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/09/blog-post_9698.html

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/10/2009.html

寺島隆吉先生からの追記 + 備忘録
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/10/blog-post_20.html

寺島隆吉 (2002) 『英語にとって「評価」とは何か?』あすなろ社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/03/2002.html

Howard Zinn & Anthony Arnove著、寺島隆吉・寺島美紀子訳『肉声でつづる民衆のアメリカ史』(明石書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/07/howard-zinn-anthony-arnove.html

寺島隆吉先生(岐阜大学名誉教授)を囲んでの懇談会を3/29(金)に広島大学で開催します。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/03/329.html


2013年4月11日木曜日

第85回日本英文学学会シンポジウム・「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感 ― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか (5/26(日)東北大学)



この度、ご縁をいただいて、第85回日本英文学学会全国大会(5/25-26 東北大学)のシンポジウム(第11部門)で司会兼講師として発表させていただくこととなりました(5/26(日)10:00-13:00 B103教室)。


発表タイトル

「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感

― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか ―



登壇者

司会・講師(1) 柳瀬 陽介(広島大学教授)

講師(2) 佐藤 綾子(山口大学教育学部附属山口中学校教諭)

講師(3) 和田 玲(順天中学校・高等学校教諭)

講師(4) 組田 幸一郎(千葉県立成田国際高等学校教諭)

講師(5) 鈴木 章能(甲南女子大学教授)



企画意図

日本の英語教育は、教育内容と指導法を標準化し、教育全体を数値目標で管理することを促し、教師は生徒の成長過程よりも、制度化された学力結果を考慮することに仕向けられているように思えます。

しかしこの近代的流れは、資本主義的社会(=人間の行為の商品化と、商品交換による貨幣の獲得を促進する社会)への過剰適応ではないでしょうか。私たちは数値化・標準化・制度化からこぼれおちる人間の営みをあまりに切り捨てていないでしょうか。

仮に文学を「標準化・制度化・数値化できない個を見つめ、それをあらゆる言語表現を駆使して描き出すこと」と定義するなら、今こそ英語教育には「文学的」な態度の復権が必要と考えます。資本主義社会への適応だけに収束できない人間の生そして幸せを目指す英語教育が必要ではないでしょうか。

本シンポは会場の参加者からも積極的に意見を求め、会場全体で実り豊かな対話を生み出すことを目指します。




この話を最初にもちかけられたとき、格式ある学会に、学会員でもなく英文学専攻でもない私がやるのなら、思い切ってやるしかないと思いました。格式のない私がにわかに格式を取り繕うことなど不可能だからです。

ですから人選も(この学会としては異例だそうですが)中高で実際に教える(そして私が信頼する)教師を選び、日本英文学会会員からも、日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイト(e-job-100)を立ち上げた、私が敬愛する英文学者を選びました。私自身は、この大変に権威ある学会に対するトリックスター(もしくはジョーカー)という役割で発表し、英語教育などで「正統」とされている考えを(調子に乗りすぎて悪ふざけすることなく)ゆり動かしてゆこうと考えています。

ちなみに、発表者の実践について私が過去に書いた主な記事は以下のとおりです。


佐藤綾子先生と萩原一郎先生のお話を聞いて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/11/blog-post_23.html
和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html
組田幸一郎先生の講演を聞いて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/11/blog-post_22.html
日本で生活する様々な職業人が自らの仕事と英語の関わりについて語る肉声を聞けるサイト(e-job-100)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/e-job-100.html



以下は、プログラムに掲載された各発表者の発表予定要旨です(私も含めて、内容が若干変更になる場合もあるかもしれません。私自身は前日まで、できるだけ納得のいく内容にするため修正をかなり重ねるつもりです)。



各発表の要旨


第一発表

英文学関係者は時代の流れに抗するべきではないのか


柳瀬陽介(やなせ・ようすけ)
広島大学教授


これまでの英語教育は日本の西洋近代化の一環でもあった。西洋近代は「客観主義」(Lakoff & Johnson, 1999)の認識論をもち、言語についても「デカルト派言語学」を好んできた。この認識論・言語観は、知識を客体化する教育観(Freire, 1970)、時間を標準化・抽象化する資本主義的前提(Postone, 1993)などとも通底している。さらに、教育全般において多肢選択法テスト・数値目標管理・Can-do listなどを、英語教育において文学教材排斥・単一言語主義らを、時代の流れとして無批判的に受容する状況を生み出している。この流れに対して「英文学」は何をなすべきなのか。発表では、Jakobson(1960)によるコミュニケーションの6つの要因-機能の再解釈、plurilingualism理念の検討などを行い、「身体」を基盤に英語教育概念を再構築することを試みる。



第二発表

中学校における読む授業について


佐藤綾子(さとう・りょうこ)
山口大学教育学部附属山口中学校教諭


「コミュニケーション能力の基礎を養う」という目標に掲げられてから、英語が単なる道具とみなされ、授業はその道具を使いこなすための技術を身につける場と化している。練習方法や多種多様な活動といった方法論が飛び交う。しかし、練習や活動をすること自体が目的になっているような学びのない授業は、コミュニケーション能力の基礎を養うことも、生涯にわたって英語を学び続けようとする生徒を育てることもできないと考える。
そこで、生涯にわたって英語を学び続けようとする生徒を育てるために、中学校の「読む」授業にできることを提案したい。生徒に読みたいと思わせ、そして、読むことをおもしろがる生徒を育てるために、「何を」読ませるか、何が読めたら「読めた」ことになるのか、読ませるためにはどう発問するかという点について考えていきたい。



第三発表

文学教材を用いた高校英語教育の発展可能性について

和田玲(わだ・れい)
順天中学校・高等学校教諭


「実践的コミュニケーション能力の育成」が現場で叫ばれるようになって久しい。教室はいま、急速に英語の技能訓練の場と化し、その成否で授業の良し悪しを測るような風潮さえ目立ち始めている。しかし、生徒たちは機械的訓練を中心とした指導から言葉を学ぶ喜びを享受し、自立的学習者へと成長を遂げることは出来たのだろうか。話すための基礎である思索力と積極的発話力、提案力はさほど意識的に育てられていないように思える。
テキストをいかに読み、生徒に何を伝えるかを抽出する感性が言語の教師には求められなければならない。高校生が何を思考対象とするべきかに関しても再度検討する必要があるだろう。また、そのために良い教材を提示することも重要だ。英語の授業が、単なる技能訓練の場としてだけでなく、生徒の自己拡大や内発的動機づけを促す場となるために必要な観点を、文学作品の主題や文学テキストへの取り組み方をヒントに考えてみたい。



第四発表

内面性を育てる文学


組田幸一郎(くみた・こういちろう)
千葉県立成田国際高等学校教諭


他者と共感し、他者に共感される。それが協力し合うための前提になる。自分は一人で生きているのではなく、周囲とつながっているのだという安心感はとくに若者には必要となる。お金や名誉、学歴が人間を幸せにするとは限らない世の中で、自分の内面からわき出てくる「つながり感」は精神的な安定感とつながってくる。その共感をサポートしてくれるものが文学にはある。日本語であれば素直には受け入れづらい、少し「恥ずかしい」内容だとしても、英語であれば、それを受け入れ、共感し、さらに音読まで生徒はしてくれる。「星の王子様」のセリフに引っかかりを持ってくれることもあるし、「ゲド戦記」の主人公の成長に自分を重ね合わせることもある。とくに英語教育は実用的なものを求められているが、どの生徒にもプラスとなる精神的深まりに文学は大きく寄与する。閉塞感のある時代だからこそ、文学的要素が教育には必要なのではないだろうか。



第五発表

中庸の英語教育:教育学、仕事現場の声、世界文学の視座から


鈴木章能(すずき・あきよし)
甲南女子大学教授


 石井(2012)によれば、近年の学力論争は経済界や受験評論家たちの声とともに学校の競争主義と成果主義を蔓延させ、いまや教師の仕事は外部で決定された「目標」の達成を遂行し、数値的に示す作業に矮小化されている。その「目標」は、社会統合機能、選別分配機能、自律化機能の三つの学校教育機能の内、進歩主義のビジネスモデルに基づく選別分配機能に専ら結びついている。この単線的目標は動機づけ問題の克服やグローバル経済の競争社会での生に繋がっているようだ。この中で英語教育はコミュニケーション力に力点が置かれ重視されてきた。それは一面、正しい。だが、実際に仕事現場の声を調査すれば、いまや選別分配機能や数値的成果の余白となった「文学的」な力も求めている。つまり、グローバル経済社会を生きるために英語教育が強調されればされるほど、文学の学びが必要となる。世界に目を向ければ現在、世界文学という研究・教育が盛んになりつつある。ただし、欧米や、日本以外のアジア圏で。仕事現場の声や世界文学の動向などとともに、現行の英語教育について考えてみたい。



***


先日は、自民党の教育再生会議から、国公立大学受験資格や卒業要件としてTOEFLを義務化する案が発表されました。一部の大学(ありていに言ってしまえば一部のエリート)に高度な英語力が必要なのはその通りですが、しかし、それをすべての国公立大学に求めるのは暴論だと私は考えています(たいていの大学生はTOEICにすら対応できないのですから、学術的な内容を扱うTOEFLに歯が立つわけはありません)。もしTOEFL導入を短兵急に行えば、高校や大学(あるいは教育産業)に「TOEFL対策講座」が雨後の竹の子のように出現し、そこで対策問題集を中心とした短視眼的な訓練が行われるだけになると私は予想します。


と言いますのも、昨今は新自由主義的発想があまりにもはびこり、教育の領域を臆面もなく侵食しているからです。新自由主義的発想が、教育に適用されるときには、次のような思考回路に陥り、それ以外の方法が考えられなくなってしまいがちです。

1 数値目標の設定

2 その目標への最短路の確定

3 その最短路での一斉競争

4 一元的な「勝ち組」と「負け組」の決定


「TOEFL導入⇒TOEFL対策講座の乱立」となると私が予想するのは、こういった思考回路の無批判的な受容がいたるところで見られるように思えるからです。見識があるはずの校長や教頭が「上から結果を出せと言われているので」といって、教員に短期的な結果を強要します。教員は「上から言われているので仕方がない」とばかりに、生徒・学生に短期的な結果を求めます。結局、しわ寄せがくるのが現状の権力構造で一番下にいる生徒・学生です。学ぶ喜びや意義を自ら見出す機会を奪われ、「グローバル時代に必要だから」というスローガンだけで、問題集対策に追い込まれます(参考記事:学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど))。

問うべきは、このような一時代前の工場の生産管理のようなやり方で、

(1) 一部の「勝ち組」にさえ、これからの世界を切り拓くような英語力が身につけられるのか 
(2) 大多数の「負け組」とされる者にとっての学びがどれだけ損なわれかねないか(特に意欲や潜在力の点において)

ということです。

しかし新自由主義的な言説はますます単純化し、批判精神を失ったメディアもそれに迎合し、こういった単純すぎる計画は現実に実行されかねません(この4月から実施されている高校の指導要領の「授業は英語で行なうことを基本とする」も、単純すぎる計画だと私は考えます。長期的には正しいことも、短期的に権力で強行すれば、さまざまな問題が生じます(参考記事:高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出)。

政治家は、そういった問題も織り込み知り尽くした上で、敢えて単純すぎる案を強行するというのなら、それは冷酷なリアリストの政治家としての一つのあり方かもしれませんが、少なくとも今回のTOEFL提案を行った自民党の教育再生実行本部の遠藤利明本部長は、そのような見識の持ち主とは思えません。下記ブログに書き起こされた遠藤氏のインタビューを読めば、彼がインタビュアーと「日本語でコミュニケーションが通じてない」ことがわかります。


bluelines: 日本人はスピーキングが苦手

http://d.hatena.ne.jp/gorotaku/20130404/1365066300


また、The Japan Timesの4月5日の記事(To communicate in English, TOEFL is vital: LDP panel -- Focus urged on speaking, not the written word) での遠藤氏の発言も単純極まりないものでした(私としては、遠藤氏および自民党の見解をただ伝えただけのような、このスタッフライターの見識を疑います。もっともKrashenのブログで読める3/31の社説は極めてまともでしたが)。

シンポでの私の発表は、このように新自由主義的発想で、「数値目標設定⇒競争」こそが教育においても正しいことであるという考えに対して、批判的精神を失いはじめた時代に抗するために、できるだけ論点を整理して、冷静に「近代的英語教育」の姿を明らかにし、英文学と英語教育の間の関係を私なりに考えたく思っています。



多くの方の参加、そして多くの方のご発言をお待ちする次第です。





関連記事

日本英文学会シンポジウム 「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感:報告と資料掲載
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/526-1-2-3-canon-jakobsonlinguistics-and.html




2013年4月7日日曜日

4/21(日)広島大学教育セミナーに菊池省三先生がこられます(申込は4/13まで)





私も先日セミナーに参加して非常に多くのことを学ばせていただいたあの菊池省三先生(NHK プロフェッショナル仕事の流儀 出演)が、4月21日(日)に広島大学教育セミナーに講師として来られます。菊池先生とセミナー事務局の許可を得て、このブログでもご紹介します。

詳細と申込は以下のURLのどちらかをクリックしてください。締切が4/13(土)ですので申込はお早めに!



「専門化」の弊害はどんどん視野が狭くなることです。英語教育といった実践の知恵を得るためには、広く人間についての理解を深める必要があります。「この先生は、別に英語を教えているわけじゃないよね」と、そこで思考を止めてしまったら、授業実践はますますやせ細ってしまうのではないでしょうか(それは英語教育学者や指導主事にはほめられても、大半の生徒の心にもからだにも残らない授業になるかもしれません)。

皆さんにこのセミナーへの参加、および菊池先生のような優れた実践者への高い関心をお願いする次第です。こと人と人の間の実践に関しては、優れた実践者は、現代の科学的方法ではとても説明できない知恵を示してくださるものですから。











2013年4月4日木曜日

教英生のリクエストで書籍を購入し講座図書室に配備します





今年度より、年間5~10万円の英語教育関係図書を、教英生(学部生・大学院生)の皆さんからのリクエストに基づき購入し、英語文化教育学講座図書室に配備します。

リクエストは、定められた用紙に記入して、図書室の専用箱に入れてください。(このウェブ上のフォームから記入しても結構です)。

毎月の講座会議で教員がそのリクエストを読んで、適切と思われる書籍(和書・洋書)を購入し、すみやかに配備します。

リクエストは、できるだけ多くの教英生にとって有用である書籍を歓迎します(特定個人しか読まないような高度な研究書は別途相談ください)。

皆さんの積極的な学びを期待します。










学部・大学院の新入生への挨拶


以下は講座のオリエンテーションで私が行った学部・大学院の新入生への挨拶です。



学部新入生へ: 失敗から学ぶことを学んでください 
みなさん、ご入学おめでとうございます。 
でも、なぜ入学がそんなにめでたいのですか? 
私の考えは、大学というのは、挑戦をして失敗をすることが社会的に一番許されている場所だからです。みなさんはこれから大学で、社会で働く人たちよりも、たくさんの挑戦と失敗を経験できるから私は「おめでとう」と言います。 
ではなぜ挑戦と失敗、とりわけ失敗を経験できることがめでたいことなのでしょう。 
それは、人間は失敗から学ぶことができるからです。少なくとも失敗から学ぶことを選ぶことができるからです。 
みなさんの中には、失敗することを怖がっている人もいるかもしれません。 
失敗を避けるためのもっとも効果的な方法は、人から言われたこと以外何もしないことです。挑戦から逃げ続けることです。 
何もしなければ、何にも挑戦しなければ、失敗のしようがありません。 
しかし、自分で何もしないことは、自分の人生の否定です。 
何かをすれば、一定の確率で必ず失敗します。打率10割のバッターはいません。 
しかし失敗をするたびに、そこから学べば、人間はそれだけ賢くなれます。 
もちろん失敗から学ぶことを拒絶すれば、賢くもなれず、惨めな思いばかり募ります。 
しかし失敗から学ぶことを選べば、皆さんは必ず賢明になれます。 
賢明になれば幸福になります(偶然の運・不運にかかわらず幸福になります)。 
賢明になれば他人を幸福にすることもできます(そして他人を幸福にすることこそ、自分の幸福だということに気づくこともできます)。 
ですから、どうぞ大学時代で賢くなってください。いや、賢くなる方法、すなわち学びを学んでください。 
だから、どんどん失敗してください。いや、失敗から学ぶことを学んでください。 
そのために、人から何か言われないとやらないという悪い癖を払拭してください。 
どんどん新しいことに挑戦してください。自ら自主的に行動することを身につけてください。それが幸福への途だと私は信じています。
みなさん、ご入学おめでとうございます。





大学院新入生へ:量より質を大切に
皆さん、大学院へようこそ。 
どうぞ豊かに学んでください。 
本日は時間が限られていますので、一つのことだけを言います。 
それは、Quality of Life、うまい訳語がありませんが、敢えて訳すなら「人生の充実感」を大切にしてください、ということです。 
私が大学院生だったころ、私は他人の二倍の時間勉強しようと努力しました。しかし、それは今思えば間違いでした。それは自分のからだと心に過剰な負担をかける方法だからです。短期的にはうまくいっても、長期的にはいろいろな問題が生じがちです。 
ですから、他人や単なる数値を自分の人生の物差しにしないでください。他人との比較や、質感を無視した単なる数量に支配されないでください。 
自分自身のからだで間違いなく実感できる Quality of Life (人生の充実感)を基準にしてください。そして自分の人生がいちばん充実するような学びのスタイルを身につけてください。生活においても学びにおいても、量より質を大切にしてください。 
そして充実感をからだで実感している限りにおいては、どんどん学んでください。 
その学びにより、この世界を少しでもよい世界にすること、それが大学院の使命です。 
一緒に豊かに学びましょう。




北川智子 (2013) 『世界基準で夢をかなえる私の勉強法』幻冬舎



向学心のある学生さんにぜひ読んでほしい本です。私は個人的にこの本を、院生控え室と学部生控え室に置くことにしました。特にプレッシャーの多い院生さんは必ず読んでほしいと老婆心ながら思います。



■「世界基準」は「無理をしないこと。自分らしくあること」

「世界基準で夢をかなえる」などと言えば、また「根性!努力!競争!勝利!」のオンパレードかと思われる方もいるかもしれませんが、それはまったくの早計というものです。

著者の北川智子先生は、九州の高校からカナダへの一ヶ月のホームステイをきっかけに、カナダの大学への進学を決め、ブリティッシュ・コロンビア大学で数学と生命科学を専攻、同大学院でアジア研究の修士号を取得、その後プリンストン大学で博士号を取得し、ハーバード大学で3年間教えた後、現在は英国ケンブリッジ・ニーダム大学を拠点に世界をめぐっています。そんな北川先生のアプローチは、自分の感性と感情を大切にして毎日の暮らしを充実させること。無理なことはあきらめ、自分ができることを平常心で行い続けるというものです。

たしかにこのアプローチこそ「世界基準」ではないかと思います。「根性!努力!競争!勝利!」が世界基準なら、この世はごく一握りの勝ち組がほくそ笑み、圧倒的大多数の負け組が困窮する世界になってしまうでしょう。そうではなく、各人が自分らしさを追求しながら、のびのびと暮らしながら働き続け、自分に一番適した場所を見つけていくことこそが、(大げさな言い方になりますが)世界のあり方なのかもしれません。



■TOEFLの点数が圧倒的に足りない!その時あなたは?

北川先生のアプローチについてはもちろんこの本を実際に読んでほしいので、ここではいくつかのエピソードだけ書きます。最初のエピソードは、九州の高校を卒業し、いったんカナダの語学学校に行った時のことです。カナダに行ってみると、想像以上に英語がわからず、かつ大学入学のためのTOEFL得点は絶望的に高かったそうです。なにせ、学校から家まで自力でたどり着くことができないだろうと心配したホームステイ・ファミリーに家の住所を書いた名札を、幼子やペットよろしくつけさせられたぐらいですから、語学学校でいくら勉強しても、大学入学のために必要なTOEFL得点基準は、はるかかなたにありました。

これは留学に行かない人にもあてはまるエピソードではないでしょうか。最近は就職をするにもTOEICの点数が要求される場合が多くあります(特に理系での採用で)。最近は、自民党案として大学の入学と卒業時にTOEFLを要求する改革案がでました(クラッシェンの意見と(きわめてまともな)The Japan Timesの社説はこちらを御覧ください)。

この改革案が実現されるかどうかはわかりませんが、仮に実現された場合、またTOEIC狂想曲と同じような騒ぎが大学でTOEFL狂想曲として繰り返されるだけでしょう(しかもTOEIC狂想曲の検討抜きに)。つまり多くの大学がTOEFL対策授業を立ち上げ、TOEFL対策問題集を教科書とし、TOEFL受験を学生に強制するでしょう。

その場合予想されるのは、大多数の学生の英語に対する挫折感・屈折感・無能感です。ビジネスパーソン用のTOEICでさえ歯が立たない学生さんが多かったわけですから、北米の大学で学術研究をするためのTOEFLでは、もっともっと多くの学生さんが、問題集を解き模擬試験を受けるたびに、自らの能力不足を嘆くことになるでしょう。

もちろんごく一部の学生さんはきっとTOEFLでも高得点を上げるでしょう。才能と意欲と運に恵まれた人というのは、いつの世にも少数ですが必ず存在するわけですから。ですが、大学を含めた学校教育の目的は何かということです。一部のエリートを選抜すればそれでいいのか、それとも一人ひとりの才能を伸ばすべきなのか、国公立や私立を問わず、何のために大学を含めた学校に多額の税金が使われているのかということです。

話が脱線しましたが、英語の資格試験で高得点が必要なのだが、自分の得点はそれに圧倒的に足りない場合、あなたならどうします?資格試験のための問題集を買い、対策講座を数多く受講する?

若き北川さんの場合は違いました。テストのための勉強をやめました。語学学校で受講するのは文法と会話のコースだけにしました。。その時の北川さんの実力でTOEFLの問題を解いても打ちひしがれることは目に見えていたからです。そんなことより「とりあえず毎日楽しく暮らす方がよいだろうという、自然な結論」(23ページ)に落ち着き、ホームステイ先の子どもと一緒に子ども用のテレビ番組を見て、その子に(英語の)絵本の読み聞かせをやっていました。そして英語ができなくても、他の人の雰囲気を壊さないようにしながら会話の仲間に入ってゆきました。

「急がば回れ」 ― 北川さんは結局この方法で、わずか半年でTOEFLの基準点に到達しました。

もちろんここには北川先生の底力もあるでしょう。本の記述によれば、中高時代の、北川さんには見たものをそのまま記憶してしまうような力もありましたし(49ページ)、後の博士課程在学中には、気がついたら5日間ずっと勉強していた(「途中で、冷蔵庫にあるものを食べたような気もするが、何回食べたかはわからない。寝てはいなかったと思う」(131ページ)といった驚くべき集中力も体力もあります。

ですがそういった底力を発揮させるためにも、北川さんが、自分の感性と感情に忠実に、自分がもっとものびのびと力を発揮できる環境を選び、その中で毎日を大切にしていったということは強調されるべきかと思います。

現在は、教育の世界においても、

「数値目標の設定⇒その目標への最短路の確定⇒その最短路での一斉競争」


という単純極まりない(おそらくは、短期的な結果しか出せず長期的には自らの力を損ねてしまう、ビジネス経営や戦争の作戦としても愚かな)思考がもてはやされています。新自由主義が誰もが疑わないイデオロギーとなり、教育者までもが「競争こそすべて」と思い込んでいるかのようです。

もちろん私とて、親や国の庇護ではじめて可能になっている状況を当然視し、それがいつまでも続くように思っている若者への批判はあります(参考記事:「教養ゼミ」での学部一年生へのメッセージヘラヘラして勉強しない若者へのおじさん的おせっかい)。しかし一方で、新自由主義を無批判に受け入れたような社会体制が、若者に対して数値目標への競争の枠組みしか提示せず、そこから一部の者が勝ち抜けば、後の若者に対しては知らんぷりしているようにも思える現状にも批判の目を向ける必要があると思っています(特に教育者として)。

北川さんの上記のエピソードは、この意味でも重要かと思います。年長者がやるべきことは、若者を脅して閉ざされた競争の枠組みに追い込むことでも、「助長」よろしく短期的結果を求めて長期的潜在性を枯らしてしまうことではありません。かといって、もちろん、若者を甘言でごまかし、若い世代を成長させる年長者としての責任を責任を放棄することでもありません。

年長者が若者に対して行うべきこと、いや人が互いに行うべきことは、一人ひとりの人間にできるだけ最適の環境を提供し、そして一人ひとりが成長して、お互いを支える世界を創りあげることでしょう。私自身、自分を追い込んで成果を上げる昭和・巨人の星・空手バカ一代的ど根性主義に親しんでいただけに、自分の感性と感情を大切にするこの北川先生のアプローチから大きく学びたいと思っています。



■大学の授業が相当にハードだった。あなたならどうする?

こうして大学に入った北川さんでしたが、単なる語学と、語学は手段に過ぎない学問は、もちろん異なり、大学の授業は相当にハードでした。そんな場合、あなたならどう考えるでしょうか。

北川さんの場合、最初の2日で「この世に頼れる人は自分しかいない!」と実感、確信しました。

しかしそこから悲観の坂を転がり落ちるのではなくて、いわば開き直って自分の人生を肯定するところが北川さんの素晴らしいところです。

その覚悟がいったん決まると、後はあまり辛くなかった。自分しかいないというのは、裏を返せば、自分が自分の責任でできる範囲のことをやればいい、自分が試験で悪い点を取ろうが、誰にも迷惑はかけない、ということだ。なので、自分で学びたい科目を、自分のキャパシティの限界までMAXの力で勉強することを目標にした。そうすると、テストも怖くなくなった。たとえ悪い結果が戻ってきても納得できるからだ。大学の勉強は自分のため。そう思って、自分の勉強したいことを、のんびりのびのび、思う存分するよう徹底した。(48ページ)


つまり「これは自分の人生であり、自分の行動は自分で決める。そしてそれに全力を尽くし、その責任はすべて取る」と、肩をいからせることなく、自然体で決意したのです。

北川さんのその時の事情を知らず、日本の大学で多くの学生さんを見てきた私としては、「授業料は誰が払ったのだろう」とも思ってしまいます。保護者が払ったのであれば、一切の結果や見返りを期待せずに払ったのだろうか、奨学金という名前の教育ローンを借りて払ったのであれば、その返済責任も具体的に自覚した上での決意だったのだろうかと思います。残念ながら大学にはごく少数ですが、金銭の大切さを自覚せず、安易な方向に自分を甘やかすだけとなり、大学に払った授業料を無駄にし、奨学金(教育ローン)の借金を抱えてしまう学生さんもいます。私としては、この北川さんの決意を「あっ、オレもそうっす。オレもマイペースでやらせてもらうんで」と軽々しく捉えてほしくないと思っています。北川さんの決意は軽々しいものではなく、リスクをすべて自分に受け止めるスリルを感じながらの決意であり、その決意はその後の毎日の充実で裏づけられていたと私は考えます。



■まずはストレス・マネジメントとメンタル・マネジメント

北川さんの大学・大学院時代の過ごし方は、学生の皆さんにとって、もっとも知りたいところでしょうが、そこは省略します。繰り返しますが、どうぞ本書を実際に味わいながら、自分のライフスタイルと重ねあわせながら読んでください。

ここでは北川さんが博士号を取得し、厳しい競争を北川さんらしく勝ち抜いてハーバード大で教えることになった時のことを短く紹介します。

ハーバードで教鞭をとるためには、圧倒的な勉強量だけでは足りず、教師としてのにじみ出るような自信が必要です。ならば、どうするか。睡眠時間を削っても猛勉強するのか?

北川さんはこう語っています。

先生としてレクチャーしていくための自信は、急にはつくれない。日常のあらゆる面をコントロールしてベストの状態を保つことから、すべては始まった。ふだんの生活ぶりを整えて、きれいな服を着て、毎日を楽しむ。それを実践して、成功している教授が、実際、周りに二人いたので、参考になった。(151)


かくして北川さんは、フィギュアスケートやピアノの時間をスケジュールに組み込みます。そして月曜から木曜は朝7時から夜2時までびっしりと、授業・勉強・フィギュアスケートやピアノに集中します(月から木までは全力を尽くし、金から日はフレキシブルにやるという「4:3の黄金比率」が北川さんが学生時代から採択しているライフスタイルです)。

北川さんは「生活のあらゆる面を改善し、ハッピーなムードを保つルーティーンをつくって、効率よく仕事をこなすことに力をそそいだ」(155ページ)とも言っています。

このあたりが、私としてはもっとも啓発されたところです。

私としては、スケジュール管理だけでないタスク・マネジメントが重要であること、そして同時にタイム・マネジメントもタスクに支配されたものでなく「生きる」ためのタイム・マネジメントでなくてはならないと、経験から学んできましたが、まだまだメンタル・マネジメント、そしてメンタル・マネジメントを行うためにやっておかなければならないストレス・マネジメントの重要性をきちんと理解していませんでした。(北川さんの場合でしたら、生活を整えることがメンタル・マネジメント、大好きなピアノを2時間連続して弾くことやフィギュアスケートでからだを動かすことがストレス・マネジメントだったように思えます)。

こうしてみますと、きちんと仕事をして生活を充実させるために大切なのは、重要な順番に並べますと、(1)ストレス・マネジメント(特に身体からのアプローチ)、(2)メンタル・マネジメント、(3)タスク・マネジメント、(4)(スケジュール管理という意味での)タイム・マネジメント、となるかもしれません。







■KEEP CALM AND CARRY ON, or BE YOURSELF AND CARRY ON

北川先生のアプローチは次のことばにまとめられるかもしれません。

私の場合は、いつも「あきらめ」に救われてきた。TOEFLの時も、GREの時も、自分にできないことを素直に認めて、極力気にしないようにした。また、悩むかわりに、自分ができることに力を込めた。「頑張る」とか「背伸びする」とかせず、実力以上のキセキが起こる確率に賭けずに、着実に、できる分野のことに力を入れるようにした。 (112ページ)


自分の前に壁がそびえたとき、そこに体当たりをして自分のからだと心を傷つけてしまうのではなく、何か他に自分ができることを探し、毎日というより毎時間を充実させながら、淡々と努力を重ねてゆく。それを毎日、毎週、毎月と何年も続けてゆく、これこそ世界中の人が参照すべき「世界基準」ではないでしょうか。



皆さんのご一読を心からお薦めします。











2013年4月3日水曜日

石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院



「当事者研究」というのを、私はべてるの家の実践や綾屋紗月さんなどから学びましたが、この研究方法は教育研究にとって大きなインパクトをもつと感じてきました。この本は、哲学を専攻する複数の研究者が、当事者研究の意味合いについて論考し、また当事者研究をこれまでやってきた方々も改めて当事者研究とは何なのかを振り返り、またそれらの哲学者と当事者が話し合った本です。以下、敬称はすべて「さん」で統一して、この本を私なりにまとめてみます。



■当事者研究とは何か

当事者研究が何であるのかについては、べてるの家や綾屋紗月さんあるいは熊谷晋一郎さんの本でも語られていますが、この本でも改めて当事者研究について論じられています。

石原孝二さんは、当事者研究を「苦悩を抱える当事者が、苦悩や問題に対して『研究』という態度において向き合うことを意味」し、これまでの「専門知の成果を一応は受け入れながらも、その意味を当事者の視点から捉え直していく」研究であり、「専門知と対立するのではなく、しかし、その意味をずらしていく」もの(石原 2013a, p.5)であると規定しています。さら、当事者が「自らの問題に向き合い、仲間と共に、『研究』」し、「当事者が語りを取り戻すことによって、自己を再定義し、人とのつながりを回復することを促すという機能をもつ」(石原 2013b, p.12)としています。

ここで注意を払っておきたいことばの一つが「研究」で、石原さんは浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)を引用しつつ、「自分を見つめるとか、反省する」といった当事者が自分を追い込んでしまうようなことばではなく、まさに「研究」するということばを使うことに、当事者の「冒険心をくすぐる」何かがある、という点に注意を喚起しています(石原 2013b, p.16)。(「研究」についてはさらに後述)。

また当事者研究が「仲間と共に」行うものであることにも注意が必要です。当事者研究は、当事者が自分の問題に向き合うものでありながら、(決して冷徹な第三者ではない)「仲間」を必要としていることは、「自分自身で、共に」というべてるの家の当事者研究のキャッチフレーズでも表現されています(石原 2013b, p.22)。

熊谷晋一郎さんは、この「自分自身で、共に」という理念を次のように短く表現しています。


私は、私のことをよく知らない。

私が何者であるか、私が何を行うかを、仲間と共に探る。 (熊谷 2013a, p.219)



脳性まひの当事者である熊谷さん(東京都人権啓発センターによるインタビューはこちら、読売新聞によるインタビューはこちら)は、さらに、ことばを仲間(=無関心な第三者ではないが、だからといって当事者の特異性をよく理解できるわけではない、しかし関心はもってくれている他者)に向けて、自分の経験を語ることについて分析します。ことばは自分自身から出てきただけではまだ十全な力はもたず、目の前の他者に受け入れられたときにはじめて自己理解が明瞭になると語っています(ここを熊谷さんは「輪郭が与えられる」、「表現を与えられた」と受動態で表現していることにも注目したいと思います)。


他者に向けて、これまで一度も表現してこなかった自分自身の経験を語り始める。上げるでもなく、下げるでもなく、ただ、知りたいという関心を寄せ続けてくれる他者のたたずまいに促されるようにして、私は、言葉を探る。

否定されれば痛い。共感されれば嘘くさい。

どうせ私のことなんか誰もわかってくれない、というおびえの中で、恐る恐る不定形だった経験に形を当てはめてみる。ある表現は、他者に受け止められず素通りする。言いよどみながらも、いろいろな言葉や動きを試してみるうちに、その表現のいくつかが目の前の他者に、はっきりと、強く受け止められる。その瞬間、あるのかどうかもはっきりしなかった体験に、輪郭が与えられる。そして、表現を与えられたことによって、私は、私の体験が何であったのか、ひいては私が何だったのかを、以前よりもいっそう明確に知ることになる。 (熊谷 2013b, p.302)


こうなりますと、当事者研究の重要な特徴としては、(1)当事者自身が、(2)仲間の力を借りながら、(3)自分自身の問題を対象にして、(4)「研究」してゆくものともまとめられそうです。しかし「研究」ということばに違和感を覚える方も多いかもしれません。ここでいう「研究」は、自然科学研究とは異なるように思えるからです。この問題を次節でまとめます。



■当事者研究と科学

石原さんは哲学者として、「科学」は「研究」の下位概念であり、「科学」は「研究」の一種に過ぎないことを指摘します。


「研究」とは事象や実践に対して、そこに没入することなく、観察的・認識的な態度をとることである。この態度には、事象に対して能動的に働きかけ(実験を行い)、その結果を観察することによって認識を得るということも含まれる。

他方、「科学」は「研究」のそうした側面も共有しながらも、そのプロセスと結果に普遍性と再現性が求められるという点や、定量的な評価を行うことに特徴がある(そのため、個別的なものに関しては、「研究」の対象とはなり得ても、科学的探究の対象となることは難しい。なお当事者研究と個別性の関係については、第2章を参照されたい)。その意味では「科学的研究」としての「科学」は、「研究」の下位概念であるといえる。(石原 2013b, p.59)


つまり、自然科学といった「科学」とは、(1)普遍性、(2)再現性、(3)定量性(数値化)を要求するいわば特殊な研究だというわけです。

ギブソンについての著作も多々ある哲学者の河野哲也さんは、上にも言及された第2章で、当事者研究(そして後に述べるように教育研究なども含めた人間研究)に普遍性や再現性を求めることがそもそもおかしいのではないかと論じます。

人間を扱う科学は、普遍的であることを目指す必要は特にない。

発達する歴史的過程を持つ存在は、反復しないユニークな存在である。生命現象のような成長・発展するシステムにおいては、反復する現象は全体の文脈から人工的に切り離された部分的過程においてしか見出されない。たとえば、生命全体の反応としての病理は、厳密には一回的である。それゆえに、同じ薬剤や治療法が、患者により、患者の状態により、病の進行の度合いにより、有効であったりなかったりする。(河野 2013, p.101)


もちろんたとえば治験のように、ある医薬品の効果を見るために大量の患者を対象にして、その結果を統計的に分析する方法もあります(ちなみに、英語教育研究で「科学的」と言われる研究のほとんどは、治験レベルの厳密な方法論を採択していないものにすぎないことは「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」で論じたとおりです)。ですが、治験でわかることはあくまでも「マクロ的に考えればこの医薬品が効果的である確率が高い」ということであり、「この私という医者(あるいは私たちの場合でしたら教師)が、この患者(児童・生徒・学生)にいつ何をどのように行うべきか」ということに具体的には答えてくれません。治験などの研究が示してくれるのは、あくまでも一般的な指針です。

私見ですが、教師の多くはそういった一般的な指針を超えたレベルの、他ならぬ自分という人間がその力量において、目の前のこの学習者という個性に対して、学級・学校や家庭や地域社会といった個性的な状況を背景にして、今、どのように振る舞うべきか、そして自分がどう変化(成長)するべきか、という点で悩んでいるのではないかと思います。もし教育研究がそんな教師を支援することを重要な任務とするのなら、教育研究者は一般的な指針に過ぎない研究結果を鉄則のように実践者に押し付けてはならず、むしろ実践者と共に(そう、まさにこの当事者研究のように)語り合い、考えることではないでしょうか。

しかし英語教育の少なくとも一部の研究者は、文部科学省の教育政策に適った研究結果を、これ幸いとばかりに水戸黄門の印籠のように示し、さまざまな状況で努力している実践者を一元的に管理(というより抑圧)する手助けばかりしているように思えます。私が当事者研究に興味を持ち続けているのも、英語教育界のこういった実践者軽視の傾向に我慢がならないからです。

と、この話題になるとどうしても熱くなり脱線しました。話を元に戻しましょう。

人間や生命といった複雑な現象において普遍的な知見を求めることは、人間あるいは生命をその文脈から人工的に切り取ってしまうことを招き、そうやって得られた知見を応用しても、皮肉なことにそれが「普遍的」に正しいわけではないというのが上の論点でした。

このことはそのまま、人間に関する研究が再現性を要求することへの疑問につながってきます。現象の再現性は、単純な因果法則(線形的な法則性)によって(のみ)現象が引き起こされることを前提としています。しかし、人間の営みにおいては(少なくとも、私たちが日常的に認識しているような大きなレベルでの営みにおいては)、単純な因果法則(線形的な法則性)が要求する初期条件と周辺条件の厳密な同一性など存在しません。

線形的な法則性が当てはまるためには、初期条件と周辺(境界)条件がすべて同じでなければならない。だが、厳密に同一の条件など実験室の中ですら存在しないし、現実の事例には数えきれないほどの複雑な要因が絡み合っている。複数の法則が絡み合って絡み合って成立している事態には、単純な線形的な因果性は成立しなくなる。(河野 2013, p. 102)


もちろん統計的な知見を求める研究では、厳密に統制できない諸条件を、ランダム要因として処理します。しかしその処理をするためには、サンプリングがきちんとしていなければなりません(一番の理想はもちろんランダムサンプリングです)。しかし少なくとも英語教育研究の「科学的」と言われる実験研究で、きちんとしたサンプリングがなされているものはほとんどありません。ですからそういった研究の結果が示しているのは、例えばある教育方法の有効性の「普遍的」な「再現性」ではなく、その教育方法が特定の対象・時期・環境などにおいて、危険率5%以下で有効であることが示されたという事例研究に過ぎません。

それなのに英語教育の学会誌の匿名査読者の少なからずが、未だに量的研究の体裁をとっていない研究を見れば、ほぼ反射的に「普遍性・一般性がない」と断定し否定的な裁定を下してしまいがちです。このことは、その査読者が実は量的研究についてもよく理解していないことを示しています。こういった査読者の無理解が、「研究は数値化が絶対に必要」という無思考的な態度を蔓延させ、日本の英語教育研究を停滞・堕落させ、それでなくても少なかった実践者からの英語教育研究への信頼をますます小さくしています。

さらに、人間の日常的な営み(端的には歴史)においては、多様な要因が偶発的に絡み合うため、再現性や普遍性が得られないことは、複雑性の研究からも明確に論じられています。欧米の応用言語学界では複雑性もはや常識になっていますが、日本の英語教育界では、不勉強からか意図的な無視からか、複雑性の論考についてはほとんど聞かれません。複雑性に関する理解の欠如が、ますます日本の英語教育研究の頑なさを強めています。

これで英語教育研究界と英語教育実践界とがきれいに断絶してくれていればまだ救われるのですが、フーコーもいうように、近代では「科学的であること」がしばしば権力の源泉として利用されます。かくして、実践に対して十分な理解をしていない英語教育研究界が、時々の権力者の意向にしたがって、実践者を不当に支配することは珍しくありません。これらのことは、数々のすぐれた実践者を知り敬愛している私としてはどうあっても肯定できません。

いけね、また熱くなっちゃった(←またハゲるぞ)。

話は、人間を対象とし、問題状況の中にいる当事者を支援する研究において、普遍性や再現性を要求することは筋違いだということでした。そういった研究において、例えば「3」は(たとえ「2+1」と分解されることがあっても)どこにいっても「3」であり、個性的な質を有しない(あるいはまったく考慮しない)という定量性を厳密に求めることもおかしなことでしょう(例えば、5件法のアンケートの数量化は、自然科学からすれば認められないような杜撰さです。さらに順序尺度に過ぎないその数値を四則計算することも、統計学的には認められない(だが心理学研究などでは慣行として認められている)だけのことに過ぎません)。

こうなると、厳密な意味での科学で要求される、普遍性・再現性・定量性を、当事者研究といった研究に求めることは間違っていると結論せざるをえません。求めることは、研究や科学に対する理解(=科学哲学)を欠いた者が、当事者が研究する権利を社会的に奪うという、正義にもとることです。

石原さんは当事者研究についてこう言いいます。

当事者研究は、病気に関する語り、研究する権利を専門家の手から取り戻そうとするのである。そのような当事者研究に対して、それは科学的研究の作法を踏まえていないからやるべきではないと主張することは、当事者の語りを抑圧し、「研究」する権利を奪うことになる。 (石原 2013b, p.58)


上の引用では「病気に関する語り」とありますが、病気に限らない問題を抱える当事者もいるわけですから、この引用は、実践者が自分が抱える問題に対して、必ずしも専門家に依存しなくても、自ら(仲間と共に)「研究」する権利を、浅薄な科学理解によって奪ってはならない宣言ともいえます。

誤解してほしくないのは、この当事者研究の宣言は、第三者的な自然科学を否定するものではないということです。自然科学的にアプローチすることによってのみ判明する知見もたくさんあります。しかしそれは、「当事者だからこそできる体験理解と言語化があることをいささかも否定するものではない」(池田 2013, p.126)わけです。それにもかかわらず当事者による解明を否定することに、現象学のフッサールやハイデガーが「学問の危機」を感じたわけです。



■当事者研究と教育研究

こうして考えると、教育研究を自然科学に似せようとすること、あるいは教育研究を自然科学の判断基準で裁定してしまうことの間違いが明らかになってきます。

第2章を執筆した哲学者の河野さんは、特別支援教育(特に運動障害や自閉症スペクトラムをもった子どもたちへの支援)に関心をもちかかわってきました。そこで河野さんが学んできたことは、「いわゆる『客観的』な理論知が実践の現場でしばしばいかに無力であるかということ」(河野 2013, p.75)でした。

それらの科学では当事者を、死物と同じような客体として扱い、操作する対象と見なす傾向がある。人間の生活を断片化して、そこに外側から線型的 [ママ] な変化を引き起こそうとする。こうした考え方に欠けているのは、当事者が一人の主体であり、自発的行為者であり、生活をより良いものへと改善するのは彼ら自身をおいて他にないのだという発想である。

本来、教育やリハビリテーションは、自己教育を推進し、自律的な生活を獲得するためにある。したがって、それらにかかわる知は、人間を行為者として捉え、当人の立場から当人の活動を支援するようなものでない限り、最終的に有効なものになりえない。(河野 2013, p. 75)

デューイも背景にしながら、河野さんは、生命の自己規定、さらに意識をもった生命の自覚的自己規定を確認して、医療や教育が当事者に対してできること(逆に言うとそこを踏み越えてはならない範囲)を明確にします。

生命は自ら規範を設定する。さらに、意識を持った生命は自覚的に規範を設定する。意識をもった生命である人間は、目的を自分で設定・再設定することによって発達していくのである。

したがって、医療や教育といった分野は、本人の規範設定、すなわち、当事者による目的設定をないがしろにして行える学問ではありえない。医療や教育は、当事者を成長「させる」ことなどできはしない。当事者が自ら発達する過程を、側面から支援し、促進するものでしかありえない。自律性の要求は、権利や正義のような倫理的レベルでの要請である以前に、意識をもった生命の根源的な欲求である。したがって、医療や教育の本質は、生命の内在する力を引き出し支援するという意味でのファシリテーションであるべきであり、実際、この力に寄り添う以外の介入法はありえないのである。(河野 2013, p.86)


デューイの『民主主義と教育』も生命という観点から論考を始め、今読んでも新鮮な教育哲学(およびコミュニケーション論)を提示しています。私は恥ずかしながらこれまでデューイを本格的に読んだことがなく、最近(レイコフとジョンソンによるたびたびの言及に促されて)ようやく読んだのですが、実に啓発的な論考を展開しています。ちょっと前までの私も含めて多くの人はデューイについて一知半解で「ああ、あれね」と打ち捨ててしまっているのではないでしょうか。幸い"Democracy and Education"は著作権が切れていくらでも引用ができますので、私は今年度後半に修士課程の授業で"Democracy and Education"を用い、その講義ノートはできるだけこのブログに掲載する予定です。

話を教育研究のあり方に戻しますと、もちろん教育や学習を対象とした自然科学はありえますが(例えば神経科学)、だからといって研究教育研究を自然科学研究と同一視することはおかしなことであり、むしろ当事者を支援するという教師の立場からすれば、当事者研究といった研究のあり方の方が適切ではないかということでした。

河野さんは当事者研究には「独自の客観性」があると言います。

ここでの [=当事者研究での] 客観性とは、没価値的な「客観性」ではない。そうではなく、べてるの家で行われているのは、自己客観化・自己対象化である。当事者研究において目指されているのは、一人称的立場を絶対的権威として打ち立て、他者を無用の存在にすることではない。当事者研究における自己学習は、自己対象化の過程にほかならず、自己の状態を知るための適切な基準を設定することである。そのためには、当事者同士で話し合い、互いの問題やそれに関する情報やそれに対する対処法を共有し、比較し合うことが必要とされる。(河野 2013, p.106)


しばしば「客観的」であることは、三人称的立場に徹して、さらにその三人称たる研究者の主観も一切消してしまうことだと信じられていますが、そんなことは無理なことです(どんな研究者も自分の興味・関心そして価値観の枠組みでしか物事を認識していません。たとえそれが無自覚的に継承されたものであるにせよ)。そういった俗信はさらに拡大し、一人称的立場からの発言は「主観的」に過ぎないものであり、すべからく研究のエビデンスとしては認められない、となりがちです。

しかし、当事者研究は、当事者が自分自身の問題を研究するという一人称の立場からの研究でありながら、仲間という二人称の人物を「自己の状態を知るための適切な基準」の一つとして求め、自己対象化という客観化を目指します。日本語ですと「対象」と「客観的」は別のことばに思えますが、英語でしたら"object"と"objective"で同根のことばです。当事者研究は、理念として自己客観化・自己対象化という客観性を有し、方法論としても仲間との語り合いの中で「受け止められる」ことばを探すという方法を有している、「客観的」な「研究」です(私の「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」は、この「語り合い」に関する私なりのまとめです)。

何度も繰り返しますが、この当事者研究の客観性を、自然科学の客観性で判断することは間違いです。カテゴリー錯誤(category mistake)であるとも言えましょう。



書く時間がなかなか見つけられず報告できていませんが、先日のAAAL 2013のInvited Colloquiaの一つBridging the Gap: Cognitive and Social Approaches in Applied Linguistics では、欧米の応用言語学界の言い方にしたがえば"cognitivist"(日本の言い方なら「量的研究者」)の独善性はもはやとうてい認められず、"epistemological diversity"が学会の常識となった感がありました。このことは昨年のAddressing the Multilingual Turn: Implications for SLA, TESOL and Bilingual Educationでも十分に感じられていたことです。David BlockのThe Social Turn in Second Language Acquisitionや、Dwight AtkinsonのAlternative Apporoaches to Second Language Acquisitionなどで示されている研究の多様性は、欧米の応用言語学界では完全に浸透したといえますが、日本の英語教育学界ではほとんど話題にすらなりません(というより「認識論」といったことばを使った途端、「ここは哲学を話す場所ではない!」とプリプリ怒り出す御仁さえいかねません)。

日本の英語教育界が、はやく独善的で浅薄な量的研究至上主義を脱して、教師と学習者の支援という社会的要請に忠実な研究が促進される体制になりますように。

そのためにも、この本(および関連図書)の一読を私としては願う次第です。




















参照文献(すべて本書所収の章)

池田喬 (2013) 研究とは何か、当事者とは誰か pp.113-149.
石原孝二 (2013a) 「はじめに」 pp.3-10.
石原孝二 (2013b) 「当事者研究とは何か その理念と展開」 pp.11-72.
河野哲也 (2013) 当事者研究の優位性  pp.73-112.
熊谷晋一郎 (2013a) 痛みから始める当事者研究  pp.217-291.
熊谷晋一郎 (2013b) エピローグ 当事者研究が語り始める pp.302-307.




関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

Social Turn in Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/04/david-block-2003-social-turn-in-second.html

Alternative Apporoaches to Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/search/label/Index












追記

この記事を掲載した直後、ツイッターで以下のような講演会があることを知りました。日本の英語教育学界でも、このように量的研究に偏らずにきちんと研究なさっていらっしゃる方もいらっしゃいます。上で、私が「英語教育の少なくとも一部の研究者」や「匿名査読者の少なからず」と書いて批判したような研究者ばかりが、日本の英語教育学界を構成しているわけではないことを、付け加えておかねばならないと思い、ここに追記します。

やっぱ、熱くなっちゃいけないなぁ。(←もっとハゲるぞ)



「英語教育における質的研究の理論と実践」

講演者 : 高木 亜希子 (青山学院大学 准教授)

日 時 : 2013年4月13日(土) 15:00-16:30

場 所 : 青山学院大学 総研ビル9階第16会議室 
・交通アクセス:
 http://www.aoyama.ac.jp/other/access/index.html
・キャンパスマップ:
 http://www.aoyama.ac.jp/other/map/aoyama.html

参加費 : 無料

問合せ先 : JACET関東支部事務局
jacet-kanto-office@cl.aoyama.ac.jp

講演要旨 : 本発表では、英語教育における質的研究の理論と方法について理解を深めることを目的とする。研究を行う際、研究者は、理論的立ち位置を明確にした上で、研究計画を立て、目的に合った研究手法を選択する必要がある。具体的には、3つの理論的枠組みのうち、解釈的 (interpretive)、および批判的 (critical) 視点に立ち、どのように質的研究をデザインするか、(1)研究課題の設定、(2)データ収集の方法、(3)データ分析の方法、(4)研究の評価の観点から論じる。また、量的研究と質的研究の混合研究のあり方や質的研究と実践研究の関係についても言及する。

講演者略歴 : 高木亜希子(青山学院大学准教授) エクセター大学大学院博士課程修了。大阪教育大学准教授等を経て現職。専門は英語教育学。 現在関心のある研究テーマは、教師と学習者の成長。





2013年4月1日月曜日

東広島大学英語狂育学狂授 在家出家へ



『英語狂育通信』2013年4月1日号


東広島大学で英語狂育学を教える柳瀬陽介狂授(49)が、昨日、記者会見場に剃髪姿で現れ、在家出家をしたと発表した。在家での出家であるので、大学での勤務は続けるとのこと。

氏によれば、3.11以降に、被災者のことを巧みに忘れようとする世間の無情さ、および何もなかったように原発を再推進しようとする人びとの業の深さに心を痛めていたが、実は、世間よりも無情で業が深いのは、学問といいながら己の知的好奇心だけを満たそうとしている自分自身であることを痛覚したという。そこで、我欲・我執の一つの象徴ともいえる髪の毛をすべて剃り、在家出家者として、生命の本質に即した暮らしをするしかないと決意したそうである。今年度、齢50になることも決意の後押しになったとも氏は語った。

現在の氏は、毎朝40分のヨガで心身を清めた後に仕事にとりかかり、「今や地球上のすべての生命のために働いている」と記者会見で語った。また、多飲していたコーヒーやダイエット・コークなどのカフェイン類は一切絶ち、アルコールや白砂糖を使った菓子類なども摂取せず、社交も一次会だけで、二次会などはすべて辞退しているとのこと。「俗世の権益や欲望のために、もはやこの身を捧げたくない」とも氏は語った。



だが過去も数々の奇行で知られる氏だけに、今回の言動もどこか胡散臭さがぬぐい去れない。

記者からの「そもそもクリスチャンが出家できるのか?」という質問には、「儂ぐらいのレベルになると、そんなことなど構わぬのぢゃ」と語気を荒げ、「いきなり完全に剃髪して出家しなくてもよかったのでは?」との質問には「部分剃髪の部分出家では駄目だったのぢゃ」と意味不明の答えを返し、「誰も儂の宗教的決意を理解できぬ」と顔を紅潮させながら記者会見場を後にした。


しかし取材を重ねるにつれ、「宗教的決意」以外の要因が少しずつ見えてきた。

一つはスキンヘッドにして周囲の人を狼狽させ、これ以上仕事を依頼されることを避けるためだというもの。氏は昨年度職位が上がったのに伴い、出席する会議や出張が格段に増え、かつ実務プロジェクトの取りまとめ役も多く引き受け、「勉強したいが時間がないのが辛くてたまらない。お願いだから勉強させてくれ」とこぼしていたという。だが、氏をよく知る人によれば、氏は「ザ・ペンギンズ from マダカスカル」の「隊長 (Skipper)」のように、すべての物事にパラノイア的に対応し、自ら仕事を増やしているだけだという。「今回のスキンヘッドも、『隊長』ばりの過剰反応ではないでしょうか」と同僚の無難一徹さん(44)は解説した。

他方、健康不安説もある。複数の証言によると、氏は昨年3月にストレスで右の眉毛の3分の1程度を失い(今でも右眉毛は薄いままで、一部は無毛状態のまま)、5月には膝の痛みが悪化し立ち上がれなくなり、11月下旬にはおたふく風邪を罹患しその後一ヶ月以上にわたって体力が回復しなかったりなど、かなり健康を崩している様子。「歩いている姿にあまりに生気がなかったので、大丈夫ですかと声をかけたほどです」とは事務職員の締切守さん(31)。この他、事務仕事の締切に追われているうちにフラッシュバックが起こったや、いざ勉強をしようとしたら頭が白紙状態になり何もできず早退したや、簡単なメールの返事さえできず軽度のうつ状態にあったのではないかなど、氏の健康状態の悪化を懸念する声が相次いだ。これらの健康不安から氏は自らの生命の限界を自覚し、剃髪出家したのではないかというのが健康不安説である。

そんな中で、氏を間近に知るゼミ生の単位望君(22)は、実は円形脱毛症が真相だと考えている。「先生のこの秋と冬の疲れ具合は尋常ではなく、通り過ぎた時に『バットマン・ダークナイト』のジョーカーではないかと思ってしまったぐらいです。1月末には、左後頭部に大きな円形脱毛症ができていました。『大丈夫ですか』とボクが尋ねると、『馬鹿者、これは儂が自分で部分的に剃髪したのぢゃ』と強弁していました。ですが、2月からは各方面のお仕事でさらにお忙しくなったらしく、頭部左前方にも大きな円形脱毛症ができていました。今回のスキンヘッドは、それらをカモフラージュするためのものではないでしょうか」と単位君は語った。

もしこの推測が正しいとすれば、今回の氏のスキンヘッドは、氏の言う「部分剃髪」を隠すためのものである可能性が高い。だが、いくらスキンヘッドにしても毛根は見えるもので、毛根が完全に失われた無毛部分は明らかのままのはずである。だとすれば、氏は「頭隠して尻隠さず」ならぬ、「頭剃ってもハゲ隠せず」の茶番を演じていることになる。

氏は幸い、ヨガを始めて以来、少しずつ健康を取り戻し始めているともいう。氏が今後精進にみ、輝く未来を明るく切り拓くことに期待したい。