2013年4月3日水曜日

石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院



「当事者研究」というのを、私はべてるの家の実践や綾屋紗月さんなどから学びましたが、この研究方法は教育研究にとって大きなインパクトをもつと感じてきました。この本は、哲学を専攻する複数の研究者が、当事者研究の意味合いについて論考し、また当事者研究をこれまでやってきた方々も改めて当事者研究とは何なのかを振り返り、またそれらの哲学者と当事者が話し合った本です。以下、敬称はすべて「さん」で統一して、この本を私なりにまとめてみます。



■当事者研究とは何か

当事者研究が何であるのかについては、べてるの家や綾屋紗月さんあるいは熊谷晋一郎さんの本でも語られていますが、この本でも改めて当事者研究について論じられています。

石原孝二さんは、当事者研究を「苦悩を抱える当事者が、苦悩や問題に対して『研究』という態度において向き合うことを意味」し、これまでの「専門知の成果を一応は受け入れながらも、その意味を当事者の視点から捉え直していく」研究であり、「専門知と対立するのではなく、しかし、その意味をずらしていく」もの(石原 2013a, p.5)であると規定しています。さら、当事者が「自らの問題に向き合い、仲間と共に、『研究』」し、「当事者が語りを取り戻すことによって、自己を再定義し、人とのつながりを回復することを促すという機能をもつ」(石原 2013b, p.12)としています。

ここで注意を払っておきたいことばの一つが「研究」で、石原さんは浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)を引用しつつ、「自分を見つめるとか、反省する」といった当事者が自分を追い込んでしまうようなことばではなく、まさに「研究」するということばを使うことに、当事者の「冒険心をくすぐる」何かがある、という点に注意を喚起しています(石原 2013b, p.16)。(「研究」についてはさらに後述)。

また当事者研究が「仲間と共に」行うものであることにも注意が必要です。当事者研究は、当事者が自分の問題に向き合うものでありながら、(決して冷徹な第三者ではない)「仲間」を必要としていることは、「自分自身で、共に」というべてるの家の当事者研究のキャッチフレーズでも表現されています(石原 2013b, p.22)。

熊谷晋一郎さんは、この「自分自身で、共に」という理念を次のように短く表現しています。


私は、私のことをよく知らない。

私が何者であるか、私が何を行うかを、仲間と共に探る。 (熊谷 2013a, p.219)



脳性まひの当事者である熊谷さん(東京都人権啓発センターによるインタビューはこちら、読売新聞によるインタビューはこちら)は、さらに、ことばを仲間(=無関心な第三者ではないが、だからといって当事者の特異性をよく理解できるわけではない、しかし関心はもってくれている他者)に向けて、自分の経験を語ることについて分析します。ことばは自分自身から出てきただけではまだ十全な力はもたず、目の前の他者に受け入れられたときにはじめて自己理解が明瞭になると語っています(ここを熊谷さんは「輪郭が与えられる」、「表現を与えられた」と受動態で表現していることにも注目したいと思います)。


他者に向けて、これまで一度も表現してこなかった自分自身の経験を語り始める。上げるでもなく、下げるでもなく、ただ、知りたいという関心を寄せ続けてくれる他者のたたずまいに促されるようにして、私は、言葉を探る。

否定されれば痛い。共感されれば嘘くさい。

どうせ私のことなんか誰もわかってくれない、というおびえの中で、恐る恐る不定形だった経験に形を当てはめてみる。ある表現は、他者に受け止められず素通りする。言いよどみながらも、いろいろな言葉や動きを試してみるうちに、その表現のいくつかが目の前の他者に、はっきりと、強く受け止められる。その瞬間、あるのかどうかもはっきりしなかった体験に、輪郭が与えられる。そして、表現を与えられたことによって、私は、私の体験が何であったのか、ひいては私が何だったのかを、以前よりもいっそう明確に知ることになる。 (熊谷 2013b, p.302)


こうなりますと、当事者研究の重要な特徴としては、(1)当事者自身が、(2)仲間の力を借りながら、(3)自分自身の問題を対象にして、(4)「研究」してゆくものともまとめられそうです。しかし「研究」ということばに違和感を覚える方も多いかもしれません。ここでいう「研究」は、自然科学研究とは異なるように思えるからです。この問題を次節でまとめます。



■当事者研究と科学

石原さんは哲学者として、「科学」は「研究」の下位概念であり、「科学」は「研究」の一種に過ぎないことを指摘します。


「研究」とは事象や実践に対して、そこに没入することなく、観察的・認識的な態度をとることである。この態度には、事象に対して能動的に働きかけ(実験を行い)、その結果を観察することによって認識を得るということも含まれる。

他方、「科学」は「研究」のそうした側面も共有しながらも、そのプロセスと結果に普遍性と再現性が求められるという点や、定量的な評価を行うことに特徴がある(そのため、個別的なものに関しては、「研究」の対象とはなり得ても、科学的探究の対象となることは難しい。なお当事者研究と個別性の関係については、第2章を参照されたい)。その意味では「科学的研究」としての「科学」は、「研究」の下位概念であるといえる。(石原 2013b, p.59)


つまり、自然科学といった「科学」とは、(1)普遍性、(2)再現性、(3)定量性(数値化)を要求するいわば特殊な研究だというわけです。

ギブソンについての著作も多々ある哲学者の河野哲也さんは、上にも言及された第2章で、当事者研究(そして後に述べるように教育研究なども含めた人間研究)に普遍性や再現性を求めることがそもそもおかしいのではないかと論じます。

人間を扱う科学は、普遍的であることを目指す必要は特にない。

発達する歴史的過程を持つ存在は、反復しないユニークな存在である。生命現象のような成長・発展するシステムにおいては、反復する現象は全体の文脈から人工的に切り離された部分的過程においてしか見出されない。たとえば、生命全体の反応としての病理は、厳密には一回的である。それゆえに、同じ薬剤や治療法が、患者により、患者の状態により、病の進行の度合いにより、有効であったりなかったりする。(河野 2013, p.101)


もちろんたとえば治験のように、ある医薬品の効果を見るために大量の患者を対象にして、その結果を統計的に分析する方法もあります(ちなみに、英語教育研究で「科学的」と言われる研究のほとんどは、治験レベルの厳密な方法論を採択していないものにすぎないことは「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」で論じたとおりです)。ですが、治験でわかることはあくまでも「マクロ的に考えればこの医薬品が効果的である確率が高い」ということであり、「この私という医者(あるいは私たちの場合でしたら教師)が、この患者(児童・生徒・学生)にいつ何をどのように行うべきか」ということに具体的には答えてくれません。治験などの研究が示してくれるのは、あくまでも一般的な指針です。

私見ですが、教師の多くはそういった一般的な指針を超えたレベルの、他ならぬ自分という人間がその力量において、目の前のこの学習者という個性に対して、学級・学校や家庭や地域社会といった個性的な状況を背景にして、今、どのように振る舞うべきか、そして自分がどう変化(成長)するべきか、という点で悩んでいるのではないかと思います。もし教育研究がそんな教師を支援することを重要な任務とするのなら、教育研究者は一般的な指針に過ぎない研究結果を鉄則のように実践者に押し付けてはならず、むしろ実践者と共に(そう、まさにこの当事者研究のように)語り合い、考えることではないでしょうか。

しかし英語教育の少なくとも一部の研究者は、文部科学省の教育政策に適った研究結果を、これ幸いとばかりに水戸黄門の印籠のように示し、さまざまな状況で努力している実践者を一元的に管理(というより抑圧)する手助けばかりしているように思えます。私が当事者研究に興味を持ち続けているのも、英語教育界のこういった実践者軽視の傾向に我慢がならないからです。

と、この話題になるとどうしても熱くなり脱線しました。話を元に戻しましょう。

人間や生命といった複雑な現象において普遍的な知見を求めることは、人間あるいは生命をその文脈から人工的に切り取ってしまうことを招き、そうやって得られた知見を応用しても、皮肉なことにそれが「普遍的」に正しいわけではないというのが上の論点でした。

このことはそのまま、人間に関する研究が再現性を要求することへの疑問につながってきます。現象の再現性は、単純な因果法則(線形的な法則性)によって(のみ)現象が引き起こされることを前提としています。しかし、人間の営みにおいては(少なくとも、私たちが日常的に認識しているような大きなレベルでの営みにおいては)、単純な因果法則(線形的な法則性)が要求する初期条件と周辺条件の厳密な同一性など存在しません。

線形的な法則性が当てはまるためには、初期条件と周辺(境界)条件がすべて同じでなければならない。だが、厳密に同一の条件など実験室の中ですら存在しないし、現実の事例には数えきれないほどの複雑な要因が絡み合っている。複数の法則が絡み合って絡み合って成立している事態には、単純な線形的な因果性は成立しなくなる。(河野 2013, p. 102)


もちろん統計的な知見を求める研究では、厳密に統制できない諸条件を、ランダム要因として処理します。しかしその処理をするためには、サンプリングがきちんとしていなければなりません(一番の理想はもちろんランダムサンプリングです)。しかし少なくとも英語教育研究の「科学的」と言われる実験研究で、きちんとしたサンプリングがなされているものはほとんどありません。ですからそういった研究の結果が示しているのは、例えばある教育方法の有効性の「普遍的」な「再現性」ではなく、その教育方法が特定の対象・時期・環境などにおいて、危険率5%以下で有効であることが示されたという事例研究に過ぎません。

それなのに英語教育の学会誌の匿名査読者の少なからずが、未だに量的研究の体裁をとっていない研究を見れば、ほぼ反射的に「普遍性・一般性がない」と断定し否定的な裁定を下してしまいがちです。このことは、その査読者が実は量的研究についてもよく理解していないことを示しています。こういった査読者の無理解が、「研究は数値化が絶対に必要」という無思考的な態度を蔓延させ、日本の英語教育研究を停滞・堕落させ、それでなくても少なかった実践者からの英語教育研究への信頼をますます小さくしています。

さらに、人間の日常的な営み(端的には歴史)においては、多様な要因が偶発的に絡み合うため、再現性や普遍性が得られないことは、複雑性の研究からも明確に論じられています。欧米の応用言語学界では複雑性もはや常識になっていますが、日本の英語教育界では、不勉強からか意図的な無視からか、複雑性の論考についてはほとんど聞かれません。複雑性に関する理解の欠如が、ますます日本の英語教育研究の頑なさを強めています。

これで英語教育研究界と英語教育実践界とがきれいに断絶してくれていればまだ救われるのですが、フーコーもいうように、近代では「科学的であること」がしばしば権力の源泉として利用されます。かくして、実践に対して十分な理解をしていない英語教育研究界が、時々の権力者の意向にしたがって、実践者を不当に支配することは珍しくありません。これらのことは、数々のすぐれた実践者を知り敬愛している私としてはどうあっても肯定できません。

いけね、また熱くなっちゃった(←またハゲるぞ)。

話は、人間を対象とし、問題状況の中にいる当事者を支援する研究において、普遍性や再現性を要求することは筋違いだということでした。そういった研究において、例えば「3」は(たとえ「2+1」と分解されることがあっても)どこにいっても「3」であり、個性的な質を有しない(あるいはまったく考慮しない)という定量性を厳密に求めることもおかしなことでしょう(例えば、5件法のアンケートの数量化は、自然科学からすれば認められないような杜撰さです。さらに順序尺度に過ぎないその数値を四則計算することも、統計学的には認められない(だが心理学研究などでは慣行として認められている)だけのことに過ぎません)。

こうなると、厳密な意味での科学で要求される、普遍性・再現性・定量性を、当事者研究といった研究に求めることは間違っていると結論せざるをえません。求めることは、研究や科学に対する理解(=科学哲学)を欠いた者が、当事者が研究する権利を社会的に奪うという、正義にもとることです。

石原さんは当事者研究についてこう言いいます。

当事者研究は、病気に関する語り、研究する権利を専門家の手から取り戻そうとするのである。そのような当事者研究に対して、それは科学的研究の作法を踏まえていないからやるべきではないと主張することは、当事者の語りを抑圧し、「研究」する権利を奪うことになる。 (石原 2013b, p.58)


上の引用では「病気に関する語り」とありますが、病気に限らない問題を抱える当事者もいるわけですから、この引用は、実践者が自分が抱える問題に対して、必ずしも専門家に依存しなくても、自ら(仲間と共に)「研究」する権利を、浅薄な科学理解によって奪ってはならない宣言ともいえます。

誤解してほしくないのは、この当事者研究の宣言は、第三者的な自然科学を否定するものではないということです。自然科学的にアプローチすることによってのみ判明する知見もたくさんあります。しかしそれは、「当事者だからこそできる体験理解と言語化があることをいささかも否定するものではない」(池田 2013, p.126)わけです。それにもかかわらず当事者による解明を否定することに、現象学のフッサールやハイデガーが「学問の危機」を感じたわけです。



■当事者研究と教育研究

こうして考えると、教育研究を自然科学に似せようとすること、あるいは教育研究を自然科学の判断基準で裁定してしまうことの間違いが明らかになってきます。

第2章を執筆した哲学者の河野さんは、特別支援教育(特に運動障害や自閉症スペクトラムをもった子どもたちへの支援)に関心をもちかかわってきました。そこで河野さんが学んできたことは、「いわゆる『客観的』な理論知が実践の現場でしばしばいかに無力であるかということ」(河野 2013, p.75)でした。

それらの科学では当事者を、死物と同じような客体として扱い、操作する対象と見なす傾向がある。人間の生活を断片化して、そこに外側から線型的 [ママ] な変化を引き起こそうとする。こうした考え方に欠けているのは、当事者が一人の主体であり、自発的行為者であり、生活をより良いものへと改善するのは彼ら自身をおいて他にないのだという発想である。

本来、教育やリハビリテーションは、自己教育を推進し、自律的な生活を獲得するためにある。したがって、それらにかかわる知は、人間を行為者として捉え、当人の立場から当人の活動を支援するようなものでない限り、最終的に有効なものになりえない。(河野 2013, p. 75)

デューイも背景にしながら、河野さんは、生命の自己規定、さらに意識をもった生命の自覚的自己規定を確認して、医療や教育が当事者に対してできること(逆に言うとそこを踏み越えてはならない範囲)を明確にします。

生命は自ら規範を設定する。さらに、意識を持った生命は自覚的に規範を設定する。意識をもった生命である人間は、目的を自分で設定・再設定することによって発達していくのである。

したがって、医療や教育といった分野は、本人の規範設定、すなわち、当事者による目的設定をないがしろにして行える学問ではありえない。医療や教育は、当事者を成長「させる」ことなどできはしない。当事者が自ら発達する過程を、側面から支援し、促進するものでしかありえない。自律性の要求は、権利や正義のような倫理的レベルでの要請である以前に、意識をもった生命の根源的な欲求である。したがって、医療や教育の本質は、生命の内在する力を引き出し支援するという意味でのファシリテーションであるべきであり、実際、この力に寄り添う以外の介入法はありえないのである。(河野 2013, p.86)


デューイの『民主主義と教育』も生命という観点から論考を始め、今読んでも新鮮な教育哲学(およびコミュニケーション論)を提示しています。私は恥ずかしながらこれまでデューイを本格的に読んだことがなく、最近(レイコフとジョンソンによるたびたびの言及に促されて)ようやく読んだのですが、実に啓発的な論考を展開しています。ちょっと前までの私も含めて多くの人はデューイについて一知半解で「ああ、あれね」と打ち捨ててしまっているのではないでしょうか。幸い"Democracy and Education"は著作権が切れていくらでも引用ができますので、私は今年度後半に修士課程の授業で"Democracy and Education"を用い、その講義ノートはできるだけこのブログに掲載する予定です。

話を教育研究のあり方に戻しますと、もちろん教育や学習を対象とした自然科学はありえますが(例えば神経科学)、だからといって研究教育研究を自然科学研究と同一視することはおかしなことであり、むしろ当事者を支援するという教師の立場からすれば、当事者研究といった研究のあり方の方が適切ではないかということでした。

河野さんは当事者研究には「独自の客観性」があると言います。

ここでの [=当事者研究での] 客観性とは、没価値的な「客観性」ではない。そうではなく、べてるの家で行われているのは、自己客観化・自己対象化である。当事者研究において目指されているのは、一人称的立場を絶対的権威として打ち立て、他者を無用の存在にすることではない。当事者研究における自己学習は、自己対象化の過程にほかならず、自己の状態を知るための適切な基準を設定することである。そのためには、当事者同士で話し合い、互いの問題やそれに関する情報やそれに対する対処法を共有し、比較し合うことが必要とされる。(河野 2013, p.106)


しばしば「客観的」であることは、三人称的立場に徹して、さらにその三人称たる研究者の主観も一切消してしまうことだと信じられていますが、そんなことは無理なことです(どんな研究者も自分の興味・関心そして価値観の枠組みでしか物事を認識していません。たとえそれが無自覚的に継承されたものであるにせよ)。そういった俗信はさらに拡大し、一人称的立場からの発言は「主観的」に過ぎないものであり、すべからく研究のエビデンスとしては認められない、となりがちです。

しかし、当事者研究は、当事者が自分自身の問題を研究するという一人称の立場からの研究でありながら、仲間という二人称の人物を「自己の状態を知るための適切な基準」の一つとして求め、自己対象化という客観化を目指します。日本語ですと「対象」と「客観的」は別のことばに思えますが、英語でしたら"object"と"objective"で同根のことばです。当事者研究は、理念として自己客観化・自己対象化という客観性を有し、方法論としても仲間との語り合いの中で「受け止められる」ことばを探すという方法を有している、「客観的」な「研究」です(私の「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」は、この「語り合い」に関する私なりのまとめです)。

何度も繰り返しますが、この当事者研究の客観性を、自然科学の客観性で判断することは間違いです。カテゴリー錯誤(category mistake)であるとも言えましょう。



書く時間がなかなか見つけられず報告できていませんが、先日のAAAL 2013のInvited Colloquiaの一つBridging the Gap: Cognitive and Social Approaches in Applied Linguistics では、欧米の応用言語学界の言い方にしたがえば"cognitivist"(日本の言い方なら「量的研究者」)の独善性はもはやとうてい認められず、"epistemological diversity"が学会の常識となった感がありました。このことは昨年のAddressing the Multilingual Turn: Implications for SLA, TESOL and Bilingual Educationでも十分に感じられていたことです。David BlockのThe Social Turn in Second Language Acquisitionや、Dwight AtkinsonのAlternative Apporoaches to Second Language Acquisitionなどで示されている研究の多様性は、欧米の応用言語学界では完全に浸透したといえますが、日本の英語教育学界ではほとんど話題にすらなりません(というより「認識論」といったことばを使った途端、「ここは哲学を話す場所ではない!」とプリプリ怒り出す御仁さえいかねません)。

日本の英語教育界が、はやく独善的で浅薄な量的研究至上主義を脱して、教師と学習者の支援という社会的要請に忠実な研究が促進される体制になりますように。

そのためにも、この本(および関連図書)の一読を私としては願う次第です。




















参照文献(すべて本書所収の章)

池田喬 (2013) 研究とは何か、当事者とは誰か pp.113-149.
石原孝二 (2013a) 「はじめに」 pp.3-10.
石原孝二 (2013b) 「当事者研究とは何か その理念と展開」 pp.11-72.
河野哲也 (2013) 当事者研究の優位性  pp.73-112.
熊谷晋一郎 (2013a) 痛みから始める当事者研究  pp.217-291.
熊谷晋一郎 (2013b) エピローグ 当事者研究が語り始める pp.302-307.




関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

Social Turn in Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/04/david-block-2003-social-turn-in-second.html

Alternative Apporoaches to Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/search/label/Index












追記

この記事を掲載した直後、ツイッターで以下のような講演会があることを知りました。日本の英語教育学界でも、このように量的研究に偏らずにきちんと研究なさっていらっしゃる方もいらっしゃいます。上で、私が「英語教育の少なくとも一部の研究者」や「匿名査読者の少なからず」と書いて批判したような研究者ばかりが、日本の英語教育学界を構成しているわけではないことを、付け加えておかねばならないと思い、ここに追記します。

やっぱ、熱くなっちゃいけないなぁ。(←もっとハゲるぞ)



「英語教育における質的研究の理論と実践」

講演者 : 高木 亜希子 (青山学院大学 准教授)

日 時 : 2013年4月13日(土) 15:00-16:30

場 所 : 青山学院大学 総研ビル9階第16会議室 
・交通アクセス:
 http://www.aoyama.ac.jp/other/access/index.html
・キャンパスマップ:
 http://www.aoyama.ac.jp/other/map/aoyama.html

参加費 : 無料

問合せ先 : JACET関東支部事務局
jacet-kanto-office@cl.aoyama.ac.jp

講演要旨 : 本発表では、英語教育における質的研究の理論と方法について理解を深めることを目的とする。研究を行う際、研究者は、理論的立ち位置を明確にした上で、研究計画を立て、目的に合った研究手法を選択する必要がある。具体的には、3つの理論的枠組みのうち、解釈的 (interpretive)、および批判的 (critical) 視点に立ち、どのように質的研究をデザインするか、(1)研究課題の設定、(2)データ収集の方法、(3)データ分析の方法、(4)研究の評価の観点から論じる。また、量的研究と質的研究の混合研究のあり方や質的研究と実践研究の関係についても言及する。

講演者略歴 : 高木亜希子(青山学院大学准教授) エクセター大学大学院博士課程修了。大阪教育大学准教授等を経て現職。専門は英語教育学。 現在関心のある研究テーマは、教師と学習者の成長。





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