2013年4月22日月曜日

寺島隆吉先生を囲んでの懇談会の感想




先日行いました寺島隆吉先生(岐阜大学名誉教授)を囲んでの懇談会に参加した方の一部の感想をここに掲載します。読んでいただいたらわかりますように、寺島先生は参加者の学生および教員に大きな印象を与えました。ご体調が万全でないにもかかわらず、はるばる広島大学までお越しくださった寺島先生には、改めて深く御礼を申し上げます。


私としても改めて、
(1) 「自分の頭と手で考える」行動的な生活者としての寺島先生の根本姿勢、 
(2) 科学史・科学哲学専攻(東京大学教養学部)としての寺島先生の自然科学的態度、
の二つの要因が密接に絡みあって、寺島先生の著作に、なかなか他に見られない説得力を与えているように思えました。

また国語の大西忠治先生、西郷竹彦先生、無着成恭先生、数学の遠山啓先生、あるいは理科の板倉聖宣先生といった、英語教育以外の偉大なる実践的教育学者(あるいは教育学的実践者)のお名前が、寺島先生からどんどんと出てくることも印象的でした。「英語教育学」の業績稼ぎに研究者が振り回されている近年、私たちは大切なことをどんどん忘れ去ろうとしているのではないでしょうか。


岐阜大学を定年退職された寺島先生は現在、ブログなどで社会に対して鋭い批評を書かれておられます(ご体調がすぐれない中のご執筆には本当に頭が下がります)。


WEBLOG 「百々峰だより」



以下、寄せられた感想を掲載します。固有名を匿名化した以外は原文のままです。どうぞお読みいただき、寺島隆吉先生という存在を、現在の日本の英語教育界がきちんと評価しているかどうか、今一度お考えください。どうぞ寺島先生の御著作をお読みください。そして少なくとも寺島先生がご指摘された論点を、私たちなりに考えてゆきたいと思います。





Aさんの感想


寺島先生、
先日は、懇談会に参加させていただきありがとうございました。広島大学修士のA(教職経験者)でございます。また、途中で退席してしまい申し訳ございませんでした。
先生との懇談翌日、「英語にとって教師とは何か?」を注文購入し読ませて頂きました。そして、いろいろ考えました。結論として、寺島先生の生き方から、自分は多くのことを学びたいと思いました。この数日で、何か、勇気と元気の源にふれる実感を得たような気がします。
恥ずかしい話ですが、私は教師としての自信の無さから20年間務めた教師の仕事をやめることを考えていました(分掌では教務主任や進路指導主事など、いわゆる学校の中枢に近いところの仕事の経験も長かったのですが、益々虚しい日々が続いていました)。しかし、家族や兄(故人)の理解や励ましもあって、大学院で学び直し、それから結論を出すことにしました。これまできちんと勉強していなかった自分ですから、大学院での勉強は相当つらいものになることは覚悟していましたが、それでも、コツコツ勉強する中で、自分の心身が回復するのを感じています。
そんな中、寺島先生との懇談会の機会を得ました。先生のお人柄と当面読んだ2冊(「教育原論」「英語にとって教師とは何か?」)の図書から少なくとも以下の4つの事を学ぶことができました。如何に私自身に「見えない力」が育っていなかったかを晒すようですが、自分にとっては大きな前進であります。
1つめは、高度経済成長に無批判に加担し、子どもたちのための真の教育を顧みず、現代的教育課題を生み出してしまった大人としての罪悪感を中途半端にごまかしながら仕事をしていたことを恥ずかしく感じこのままではいけないと思えたことです。寺島先生のような姿勢(図太くも知的な行動力?すみません。)で問題に正面から向き合い、「地球市民」を育てるために奮闘されてきた教育実践者から少しでも学ばなければならないと思いました。言い訳をしている暇はありません。子どもたちが、益々、社会の「真実」から遠ざけられ、生きるための根源的エネルギーが弱くなっている気がするからです。
2つめは、自分のこれまでの、学歴や学力などに対するコンプレックスの無意味さを教えられたことです。まさか、東大の出身者にコンプレックスの必要以上のこだわりの虚しさに改めて気付かされるとは思いませんでした。ご自分の身体的な弱さ(屈強な生徒に対して)や、自分の無知に平然としている恩師に対する好意の視線は、寺島先生の洞察の深さを示すものだと思いました。私も、自分の無知さを隠そうとせず、堂々と振舞うことからスタートし、自分なりの、生き方を考え示し実行したいと思います。
3つめは、服装頭髪指導について現場目線で発言されている寺島先生の誠実な姿勢と考えに共感したことです。服装頭髪指導は正面から論じられることが少ない問題だと思いますが、寺島先生の教育実践者としての発言は、勇気がいると同時に、本気で子どもたち(日本)のことを考えている発言であると思いました。私自身も、服装頭髪指導で悩んできました(管理的にやってきました)が、短期的な管理主義よりも、長期的な自立を目指すならば、多少の混乱も必要悪であって、それを許す体力が日本の文化に育っていないのは大人の責任でもあるのではないかと考えました。
最後に、研究について、私は、勤務をしながらの両立はでき無かったことになりますが、泣き言を言っている場合ではないので、現場に戻っても続けられるよう、寺島先生などの研究者の理論や実践からしっかり学んでおきたいと思います。ただし、中身の無いただの頭でっかちに逆戻りしてしまわないよう、実践が理論の前を走るよう気をつけたいです。現在、私は、修士論文のテーマを、「英語の授業での対話活動を通して、『自信を持って生きるためのコミュニケーション能力』をどう育てるか -対話活動における「演劇性」からの考察-」にしたいと考えていますが、あまりはかどっていません。自分の研究能力の低さに呆れるばかりですが、挫けず、なんとか形にしたいと思っています。
ナイーブな事ばかりダラダラつづりまして申し訳ございませんでしたが、このような機会を得たことに感謝しながら、覚悟を決めて教育の仕事に関わって行きたいと思います。ありがとうございました。先生とご家族のご健康をお祈りいたしております。





M君の感想

寺島先生

本日はお忙しい中広島大学にお越し頂き誠にありがとうございました。翻訳教育について質問をさせて頂きました、参加学生のMです。

以前から著書を拝読させて頂き、先生のお話をお伺いできるのをとても楽しみにしておりました。今日自分が感じたことは自分の拙い表現力で表せる自信は到底ありませんが、マクロな視点、翻訳教育、今後の自分の課題の3つに分けて述べたいと思います。

■ マクロな視点(英語教育を英語教育という枠組みだけでとらえない)
今日の先生との対話の中で最も感じたことは、”英語教育”を自分は今まで単体で考えていて、他の分野とつなげて考えてこなかったということです。大学では、教室の中でいかに英語に興味づけさせるか、英語が書けるようになるにはどうしたら良いか、のように英語教育という枠組みから抜けた発想をすることができませんでした。もちろん教師見習いの自分にはこれも大切です。しかし少なくとも今日の懇親会を通して、(1)英語教育と政治、(2) 英語教育と学校全体の教育というつながりが見えてきました。
(1) 英語教育と政治
「英語教育原論」も「英語教育が亡びる時」も両方の第一章は英語教育と政治についての先生の論考で始まっていました。最初読み始めた時は、恥ずかしながら英語教育と政治の関係性が自分の中にははっきりとありませんでした。しかし、読み進める中で自分の考えの浅はかさに気づきました。
例えば小学校英語教育にしても、「早期外国語教育は音声面で有利」といった第二言語習得論の示唆で施行されたものだと思い込んでいましたが、経済界からの要請や政治的な思惑がそこにあるかもしれないという考えすら自分の頭にはよぎりませんでした。さらに、この政策は結果的にエリートを育ててもついていけない子は置いて行ったり、英語ができない子が「8年間(初等2年+中等6年)も英語を習ったのに。」という劣等感を抱かせたりします。ところが、このような面は英語教育専攻として学部に通っている自分も教わる機会がありませんでした。
自分が良かれと思ってCNNのニュースをリスニング教材として開発したとしても、その行為が持つ別の意味があることが分かりました。すなわちアメリカ発信の情報を与えるのみで、「英語教育が亡びる時」で以下に述べられているような側面を無視していることになります。
  「だとすれば、「ことばの教育」を専門に研究している私たちの責任は、他の一般のひとたちより、もっと大きいものがあるのではないだろうか。なぜならメディア・コントロールは私たちの想像を絶する規模で進行しているからである」。(p.61)
  「「英語教師はことばの教師」である。だとすれば、英語をコミュニケーションの手段として教えるだけではなく、その同じ手段が民衆をコントロールする手段としても使われることを教える義務があるのではないか」。(p.54)
せめて、自分が生徒に行う指導を英語指導という一義的側面のみならず、他の面ではどのような影響を与え得るかについても考えるようにしたいと強く感じました。
また、メディアコントロールに対する抵抗力(メディアリテラシー)を育てるための方法として、同トピックにおける複数社の英字新聞を集めて読ませることなどが指導法として思いつきました。情報量や表現の違いに気づかせることに加えて、筆者が読者に与える印象が異なっていることにも焦点を当てられると思います。しかしこのような単発の授業のみではなく、普段から意識していくことも必要不可欠だと思います。

(2) 英語教育と学校全体の教育 
さらに、英語教師は「英語の」授業のことだけを考えていても不十分であるという示唆もとても印象に残りました。「英語教育原論」でも冒頭に述べられていたように記憶していますが、どの教科の先生も自分の教科に命をかけられています。それ自体は素晴らしい心がけのように思えますが、生徒はすべての先生に同じだけ応えることはほぼ不可能です。そのため、自分の教科に命をかけるばかりでなく、学校教育のカリキュラム全体を視野にいれるべきだと思います。
具体的に言えば、日本語の力を伸ばしたいと英語教師が願っていても、英語の授業のみで両言語を育成するのは時間の関係で困難かもしれません。しかし、先生がおっしゃったようにホームルームの生徒に対しては日記をつけさせたり、”誰も担当したがらない”総合の時間を活用したりできます。これによって、母語を書く「量」を確保することが可能となり、思考力を深めることにもつながりうるはずです。
「英語にとって教師とは何か」で服装指導と英語教育に関する先生のご意見を読ませていただき、英語教育は学校教育全体の中でとらえる必要性を再実感しました。現場に出た時やこれから英語教育について研究を続けて行くにつれて、このような真実は忘れがちになってしまいがちだと思いますが、今日自分の感じた気持ちは忘れないように心がけたいです。 

■ 翻訳教育 
本日自分の質問として「翻訳教育を英語教育に取り入れること」を出させていただきました。真摯な対応をして頂き感謝しております。先生との対話を通して、改めて英語教育における翻訳教育の導入の可能性が見えてきました。
今日話題に上げさせていただきましたが、目標言語の自然さのみを重視してしまうと弊害が出てきます。すなわち、英語の構造が分かっていないのに、知っている単語を組み合わせたらたまたま名訳になってしまう場合です。これでは決して転移する学力には繋がりません。先生とお話させて頂くまでは「たまたま名訳になってしまう場合」と「英語の構造をとらえた上で日本語の自然さを重視して名訳をつくる場合」の区別は不可能だと思い込んでおりました。
ところが記号読みの実践についてお話をして頂き、必ずしも不可能ではないという考えに至りました。また、「不自然な日本語を挟むこと」の重要性も先生から教わりました。これらの過程をより重視すれば、目標言語の自然さを求めた日本語表現力を育成しながら翻訳教育を行うことも決して不可能ではないと思います。
「良い翻訳は、原文を構造にしたがって直し、目標言語でも音読をして自然に感じられること」という言葉を先生から頂きましたが、この2つを意識して、これからも翻訳について調べて行きたいと思います。

(追記)
もともと自分は翻訳批評を研究テーマに据えていたのですが、翻訳の練習(名ばかりのもので実際は英文解釈に近かったですが)を少々齧ってみて、自分の日本語表現力や語彙の乏しさ、さらに原文のニュアンスが伝えられないもどかしさも味わってきました。この体験を通して、翻訳教育は英語の精読のみならず、「母語を耕す」ことにもつながるのではないかという思いが近々強まり、英語教育への翻訳教育導入について丁度調べているところでした。そのような中で寺島先生とお話する機会が持てたことで、自分のこれまでの考えを整理することができ、これからの研究へのモチベーションにもなりました。本当に幸せだと思っております。改めてお礼申し上げます。

■ 今後の自分の課題
最後に、今後自分がすべきと感じたことをリスト化したいと思います。人様に見ていただくべき部分ではないと存じておりますが、自分の現段階の決意としてまとめさせて下さい。
○ アメリカについて理解を深めること
恥ずかしながら、今日の先生のお話の中で自分がついていけない部分もありました。その理由は世界情勢に関する自分の背景知識のなさにあります。特に英語教師として、「米」語が話されている国を知ることは不可欠だと思います。帰り道に先生から「肉声でつづるアメリカ史」は背景知識がなくても読める、と勇気づけられたので、この本にまずはチャレンジしたいと思います。読み終わった時には、自分の最も印象に残った部分とその理由、そして読んだ上での疑問点をまとめたいと思います。

○ 英語教師として骨のある文章でも翻訳する力をつけること
翻訳教育の可能性を感じるからには、自分自身も翻訳の練習を積みたいと思います。大修館書店の「英語教育」の英文解釈教室に最近投稿していますが、原文に対する敬意を持たないまま訳す練習しかしてきませんでした。これからはDemocracy Nowのような文章も英語を読めない人にもわかるような訳をする練習をしていきたいと思います。


先生と今日お話ができて本当に勉強になりました。これから今日感じたことを頼りに邁進したいと思います。
貴重な時間を割いて懇親会に来て頂き、誠にありがとうございました。






F君の感想

寺島先生
こんにちは。
広島大学教育学部 第3類英語文化系コースのFです。
昨日は遠方から広島までお越しいただき、ありがとうございました。
大変貴重で中身の濃いお話を聞くことができ、いたく感銘を受けたのと同時に、自分の勉強不足を痛感いたしました。
さて、私にとっては終始「衝撃的」な内容の懇談会でしたが、いつか英語教師に成る身として今後特に留意していかなければならないと感じたことを感想として3つにまとめさせていただきました。
これらに気付かせてくださった寺島先生には大変感謝しております。
まず一つ目は、「土台作り」に関してです。
先生の「知りたいことが無ければ英語は苦役でしかない」というお言葉が示す通り、英語の授業は時間が過ぎるのを待つだけの「作業」に陥りやすいのだと思います。
進学校ですら英語は「受験に必要だから」という理由だけで我慢して授業を受けている生徒も少なくないのかなと思いました。
先生のお話を聞いて、そんな状況で英語でディベートやスピーチを行う事は果たして適切なのだろうか、心にもない建前を意見として並べるだけで終わらないだろうか、という疑問が生じました。
「学習者の本音を引き出す」というのは生徒との信頼関係があってこそだとは思いますが、「そもそも日本語でできない事を英語でできるはずがない」というのはご指摘の通りだと思います。
「本音」を母語で書くことを徹底的にさせて、論理的な文章を書く「基礎・土台づくり」は必ず英語教育にも生きてくると感じました。
文章を書く土台作り以外にも、いかに「苦役と感じさせず、かつ簡潔に」音声や文法の土台作りを行うかは、教師として熟考していかなければならない課題であると感じます。
2つ目は、いわゆる「英語バカ」に関してです。
先生が、「英語教師のくせにアメリカを知らない「英語バカ」が多い」と仰った時に、まさに「自分のことだ」と恥ずかしくなりました。
個人的にアメリカという国家に対しては高圧的・傲慢といった印象を抱いており、以前から好きではありませんでした。
しかし、それは単なる「印象」に過ぎず、寺島先生に「客観的事実」として真のアメリカの姿をいくつか教えていただいた時には、あまりに衝撃的過ぎて絶句してしまいました。
また、英語を教える事で「無意識のうちにアメリカに肩入れ」していたり、ある教材を吟味しないまま使用することで「戦争を助長するような態度」を育成したりしてしまうとは、考えた事すらなく、自分の無知を恥じました。
自分は今まで受け身的にしかアメリカという国家や世界情勢を見てきませんでした。
海外のニュースを見ようにも、CNNなど、都合の良い視点で語られたものしか見ていませんでした。まさに「英語バカ」でした。
これはアメリカに限った事ではなく、日本国内のこともそうです。原発に関しても、恥ずかしながらほとんど知りませんでした。
これからは、より広い範囲で情報収集をし、様々な視点で情報を吟味しなければなりません。
吟味したうえで、英語や英語教育がそれらとどのように関わるのか、どのような影響をもたらすのかという点も考えていく必要があると思いました。
「知ること、伝えること、形にすること」を実践し、これ以上「英語バカ」にならないように、また増やさないように勉強し続けなければならないと強く思います。
3つ目は、「英語教育バカ」についてです。
先生とのお話を通じて、自分は「英語バカ」であると同時に「英語教育バカ」でもあると感じました。
教育学部の英語コースに在籍していると、いわゆる「英語授業の達人」の話は嫌でも耳に入ってきます。
そして、私たちはそれらを深く吟味することなしに、彼らの授業は「無条件に、全く優れた英語教育実践である」と受け取ってしまいがちです。
(先生の仰った「海外の英語教育実践の輸入」もこれと関連していると思います。)
どんな授業実践にも改善点はあるのにも関わらず、「授業全体」を良いものとして鵜呑みにしてしまうと、改善すべき部分も生徒に繰り返されることになります。
先のような「英語バカ」のように、「英語教育バカ」にならないように注意しなければならないと感じます。
もちろん、優れた達人英語教師達から学ぶべきことは非常に多くあります。
先日、田尻悟郎先生の講演会に参加した際には、「生徒の声を聞く」という点で非常に優れた教育者であるという感想を個人的に抱き、感銘を受けて帰ってきました。
しかし、今回寺島先生は「要求することは尊敬すること」であると仰いました。
単なる感想に留まらず、優れた実践であっても批判的に考察することで先達から学び、自らの教育論に繋げる必要があると強く感じました。
(達人に「要求する」のは、尤も自分がもっと勉強してからにすべきだと思いますが・・・)
寺島先生の著書もこれから新たに読ませていただきますが、今回の懇談会の内容も含め、それらを鵜呑みにせず、まずは自分なりに消化し批判的に読み解いていきたいと思います。
ここに書かせていただいたこと以外にも、翻訳や読解などについての深いお話を直接聞くことができ、大変有意義な半日でした。
英語教師になる前に寺島先生とお会いすることができ、本当に良かったです。ぶれていた部分が正されたような気がします。また機会があれば是非、お話しさせていただきたいです。
これからの数十年、「勉強」を怠らず、英語とどのように向き合うかを考えていきたいと思います。 
本当にありがとうございました。








S君の感想

寺島先生、お忙しい中広島までお越しいただきありがとうございました。たくさんのことを教授していただき、今後の院生活、教師生活に多大な影響を受けました。以下、懇親会の感想です。拙いもので申し訳ありませんが、ご一読お願い致します。ここでは、先生の言葉を抜粋して、そこから学んだことを述べていきます。

「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」

これは私が「生徒にどういう英語力を最優先としてつけてあげるのですか?その最優先で教える内容を教えて下さい」という質問に答えていただいたものです。まず私がこの質問をした背景を改めて説明します(寺島先生のご著書から学んだことです)。
  英語教師は大変な状況におかれながら生徒の英語力を伸ばそうと努力しています。
まずは40人学級という状況。海外では外国語学習に関して、20人クラスで「多人数クラス」10人クラスで「少人数クラス」と呼ばれています。それを考慮すると、いかに日本人英語教師1人がみる生徒の数が多いでしょうか。こんな状況では特にスピーキング、ライティング指導などまともに出来るはずがないです。
 次に、言語間距離です。英語と日本語というのはかなり言語的に遠く、例えばヨーロッパ人が英語を学習するのは、私たち日本人が沖縄弁や東北弁を勉強するようなもの、と似ています。しかし日本語母語話者が英語を学ぶのは、容易なことではありません。文科省のいうような、「ディスカッションを行う」「概要や要点をとらえたりする」、そして「これらはすべて英語で行う」を6年間で達成しろ、というのを困難校の先生が真面目に受け止めたらどうなるでしょうか。
 
 そして最後に、受験です。今のような激しい競争社会となった日本において、受験というのは生徒にとって最大の課題となっています。また、教師も「私のクラスは○人○○大学に受かりました」「テストの平均点はこれだけとれました」という風に、やはり競争社会で生きています。そのような状況で教師自らが生徒に「これだけはつけてあげたい」「こういうことを子どもたちに伝えたい」という思いをどう達成するのでしょか。
 上の3点に加え、校務分掌、部活指導、生徒の服装指導。そのような状況において、そして泣き言など言っていられない立場を踏まえて、生徒に英語力としてどのようなことを最優先に教えるべきか、寺島先生のお考えを尋ねたのが上記の質問です。
 
 その質問に対する寺島先生のご解答が「大切なのは、本当に必要になったときに役立つ英語力、つまり “幹” を教えることです。」でした(簡潔にしたつもりですが、間違いだったらご指摘お願いします)。以下に、英文法指導に限定して、懇親会で学んだことを挙げます。
 
・ 英文法を並べられて覚えることができるのは、大学受験で英語を必須とする生徒、忍耐力がある生徒、英語が大好きな生徒。しかし並列的に文法を教えられてもつまらない(羅列主義は退屈)。
・ そこで教師は文法の「これさえ教えれば全てに共通していく」という“幹”を見つける(知っておく)必要がある。
・ 英文法指導は、なぜそのような形態でそのような意味になるのか、という根本的な原理を教師が分かっておかなくてはならない。根本を知っているのと知らずに教えるとでは大違い。
・ 原理がわかった上で学習と指導を。
・ “幹”さえ生徒がつかめれば、あとはそこから(生徒自身が)広げていくだけ。
・ 詳しくは『英語にとって文法とは何か』(あすなろ社)参照。
英文法の“幹”というものを考えたことがなく、なんだかんだ言いつつ覚えるしかないのかなあと思っていた所だったので、この概念を教えていただいて助かりました。早速先生に送付していただいた『英語にとって文法とは何か』を拝読いたします。また、文法以外についても、“幹”というものを探して生きたいと思います。

「外国のSLAの研究を勉強してばかりいるけど、そろそろ日本人による日本人のための英語習得法を積み重ねていかないといけない」

 私はそれほどSLAを勉強してきたわけでなく、それを日本人が懸命に勉強することに対して私が批判するのは数億年早いですし、国内だけをみていては何も見えてこないことは承知ですが、この寺島先生のお言葉にはハッとさせられました。
 まず日本と外国では英語学習の環境が違います。日本人は英語を学習言語としてEFLの環境で勉強しています。教室から一歩でれば英語をしゃべることなど正直言って皆無であり、寺島先生の立場ですら日本で英語を話す機会などほとんどないとお聞きして、実態を再認識しました。それに対して、アメリカやイギリスなどの国では生活言語としてESLの環境で英語学習を行います。そのような国が発達させてきたSLA研究を環境の違う日本の英語教育に導入して果たして効率的だろうか、と先生はおっしゃっいました。 
 確かに、日本人が(外国語で書いてある)外国の理論や研究を取り入れながら(江戸時代から)発展させてきた英語教育よりも、日本人が日本語で積み重ねてきた国語教育のほうが進んでいると言ってもなんら不思議はありません。先生いわく、国内には様々な優れた実践があり、それらにもっと注目して「日本人による日本人のための英語教育」を積み重ねていかなければならない、とのことでした。先生が高校教師時代、大西忠治や西郷竹彦など国語教育者の実践を大いに参考にし、読み漁ったとお聞きして、私もその必要性を強く感じました。
 
個人的な体験ですが、昨年度国語教育の授業を受けたときに、国語教育が英語教育よりも進んでいるなあと(あくまで、)感じました。今後、国語教育の膨大な研究を少しずつ勉強して、英語教育に応用していきたいとも考えています。言語教育というカテゴリでは同じ分野ですから。まずは寺島先生が大西忠治の影響を受けて作られたという「3読法」を勉強したいと考えております。

「教師として生徒にこれだけは伝えたい、というものを持っておくこと」

 先生が高校教師時代、生徒に集中力、計画力、持続力は最低限つけてやるという方針をお持ちだったとお聞きして、そういうものを私も今から、また教師になってからも考えていかなければならないと思いました。困難校と呼ばれる学校で生徒を持ったときには、先生に教わった上の3つの力をつけるということになりそうですが、そのプロセスは自分で築き上げていかなければならないと思っております。
 
しかし、進学校の生徒は集中力、計画力、持続力は比較的もっているので、それらのウエイトは軽くなります。そこで私は、よくメディア・リテラシーとも言われていますが、彼らに「情報力」をつけてやるべきだと今は感じています。英語を学習する意義の一つとして、海外の情報を入手し、あるいは発信する能力を身につけるということがあります。日本語で得られる情報量に満足せず、また騙されず振り回されず、世界で起きていることを知って、それを元に自分で世の中を考える力がこれからの時代では必要ではないでしょうか。政治というものに対して自分があまりにも無知で、世の中を知らなすぎる自分に日々失望していることが、そう考える理由かもしれません。
以上、主に3点感想として書きましたが、他にも貴重な勉強をさせていただきました。例えばアメリカの日本(の英語教育会)への影響の話など、おそらくこの懇親会に参加していなければそれほど重要視していなかったかもしれません。英語教師としてアメリカが世界に対して持つ影響力を知りたいです。先生のご著書を読ませていただきます。
先生にはホテルでも貴重なお話しをいただき、今回の懇親会はすごく自分の身になりました。ありがとうございました。
いつまでも健康でいらしてください。
今後とも、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。



Tさんの感想

寺島先生、
先日は広島大学での懇談会に参加させていただき、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。会の中で参加者の名前に言及されつつ一つ一つ丁寧に質問に応えていかれる先生の姿勢に感銘を受け、一瞬たりとも気を抜かれない気迫に圧倒されていました。
また御著作『英語にとって「教師」とは何か』を賜り本当にありがとうございました。拝読させて頂きながら、知らず自分の実践の背景や来し方と対照しておりました。恥ずかしながら大西忠治先生の著作は読んだことがなく、先生の御実践を十分に理解しているとはとても言えないのですが、入口やルートは異なりつつも私も先生と同じ山の頂きを目指している感じがいたしました。
現在の私の実践は、カール・ロジャーズのPerson-centered approach、ジョン・デューイの経験主義、ガテーニョのThe Silent Wayに影響を受けています。「学習者が学びの主導権を持つのであって教師が持つのではないこと、豊かな学習資源としての経験からの意味の取出し、学びのプロセスを支援する人としての教師、個の選択権と個と個を結ぶ考え方としての民主主義」というような点です。こういった考え方をベースに教師教育、文法指導や作文指導を考えるワークショップ等も行っています。「テキストからルール発見を学習者にさせるワークショップ:過去形と完了形、前置詞、態」と「二つの英作文指導:プロセス重視の英作文指導(プロセス・ライティング)と社会的機能重視の英作文指導(ジャンル・アプローチ)」はこの2,3年高校現場、教員研修でやらせていただいている実践です。文法発見は規則ではなく語用論的な使用法の視点からの指導法開発で、プロセス・ライティングは如何に学習者に自身の中にある意味を探し言語化しそれを膨らませてゆくか、ジャンルアプローチは、どのような社会的な目的のためにテキストを書くのかを意識させる実践です。プロセス・ライティングは、先生が生徒指導で10枚学校の悪口を書かせられた実践と通底するところがあります。学習者が自分自身の中にある言語化されていないものを取り出すプロセスを援助するという意味で。実践内容や形態、拠って立つ理念が異なり、ご批判の対象になるかもしれませんが、先生の関心領域と重なるところがあるように思いました。リフレクティブ・プラクティスについては十分にお話する時間がなく残念でしたが、またいずれゆっくりお話ができればと思います。貴重な機会と御教示ありがとうございました。 


Hさんの感想



寺島先生
 先日は、広島大学で懇談会に参加させていただきまして、ありがとうございました。
私は遅刻してしまいまして、申し訳ございませんでした。
 オーラル・インタープリテーションについてお教え賜りましたことも、ありがとうございました。
ご紹介いただきました数々の本は、これから読んでまいりたいと思っております。日本人にとっての外国語としての英語について、考えていかないといけないのだと、思考が多方面に広がりました。
 また、英語教育のお話も、大変興味深かったです。英語を教えたことで学生がアメリカに行きたいと言い出したら、というお話も、とても考えさせられました。
 寺島先生に教えていただいたお話を踏まえ、勉強を頑張ってまいります。
誠にありがとうございました。














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寺島隆吉 (2002) 『英語にとって「評価」とは何か?』あすなろ社
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Howard Zinn & Anthony Arnove著、寺島隆吉・寺島美紀子訳『肉声でつづる民衆のアメリカ史』(明石書店)
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