2011年9月21日水曜日

道面和枝先生の授業 -- フツーに頭がよく、フツーに愛情深い・・・って凄いことだと思う



9月18日の達セミin広島に参加しました。といいましても午前中には用事がありましたので --これでも一応クリスチャンなんで、ハイ-- 午後だけの参加でしたが、それでも実り豊かだったので、ここに午後の道面和枝先生の発表について簡単にまとめておきます。



■ パワーポイントでクイズ番組Jeopardyを

道面先生は、最近はIBMによる人工知能のWatsonが勝利を収めたことでも有名になっているクイズ番組Jeopardyをパワーポイントで行います。このパワーポイント技術は、この前の達セミで学んですぐに習得したそうです。道面先生は先日お孫さんが生まれた年代ですが、このように急速に技術を習得します。私が中高の先生と接していている限り、パソコン技術を恐れずに操ろうとすることに関しては、年齢や性別はあまり関係ありません。授業や部活での必要性を感じた人はどんどん使いこなしていますし、それを感じない人(あるいは感じても、その感情を抑圧してしまう人)はまったく習得しないままです。

とはいえ道面先生は、単に中学生相手をパワーポイントで遊ばせているだけではありません。問いも答えも、中学生がわかりかつ興味を抱くようなクイズ問題を考え、それに適うイラストや写真などもパワーポイントに組み込んでゆきます。実践面でも、解答の英単語をただ言わせるだけでなく、答えの文字を1つずつ読み上げさせ、空中でその単語を綴らせたりと、最近の中学英語の重要課題である「書くこと」につなげてゆきます。

さらに解答を口で言うだけでしたら、反応の速い生徒だけのゲームになりがちなので、道面先生は時にフリップ(白い板)に解答を書かせるようにします。フリップはA3のコピー用紙をラミネートでくるんだものです(職員室にラミネート加工の器具があるところだったらすぐに作れるでしょう)。解答はそれにペンで書かせますが、解答を消すのはメラミンフォーム 激落ちくんといったスポンジです(道面先生によるとこのスポンジはスグレモノですが、欠点はその名前。受験期には使いにくいそうです(笑))。

パソコンを使いこなす授業はたくさんありますが、その際にやはり大切なのは上記のような配慮かと思います。



■ アルファベットのディクテーション

上にも簡単に書きましたが、道面先生も今の中学英語の課題は書くことだと考えています。小学校での楽しい歌・ゲームは、口頭だけで行われていますので、書くこととは中学生にとっての大きなチャレンジとなります。

道面先生は、そのチャレンジを始める一つの方法として、単語を一文字ずつ読み上げ、生徒にそれを書かせることをさせます。やってみるとこれは案外に難しく、集中力が必要です。さらにその発展編として、ウェブサイトのURLを読み上げたりもします。ご承知のようにURLはラジオ番組などで時折読み上げられますから、アルファベットの名前を正確に聞き取り、それをすばやく書き取る技術は日常生活でも重要です。アルファベットのディクテーションといった基礎的訓練もうまく実生活につながるものにしようという道面先生の姿勢がここにも見えます。



■ パターンを活かしての段階的英借文

「書くこと」はさらに文レベルに行きます。「書くこと」を道面先生は、次のように段階分けしています。


(1) 視写

(2) 英借文

(3) 自己表現文


(1)の視写に関しては、黒板の英文をきちんと書き写すことができない生徒が多いことから、これまでも重要性が認識されていましたが、最近は英語だけでなく、国語・数学・社会・理科などの他教科でも視写の大切さが認識されているそうです。日本語ですらも、きちんと(=すばやく・正確に)書き写すことができない生徒が増えているからです。英語での重要性はますます増大しているといえましょう(ちなみに私はドイツ語になると、急に視写の能力が落ちます。視写も多要因が絡んだ複雑な認知行動です)。

(2)の英借文は、口頭でのパターン・プラクティスを、書かせてやるような形で行います。例えば最初の英文を次のように設定します。


Koji uses English when he talks with Ben.


最初の指示としては、"Koji"の箇所(および"Ben"の箇所)だけを換えることなどが考えられます。これだけでも正確に書き写すことは中学生にとって必ずしも容易ではありませんし、主語を"I"などに換えると三単現のsが脱落することも学習事項です。

次には"English"の箇所を換えてもいいことにします(私はこの時点で"John uses music when he talks with us."などを考えていました -- 達セミ終了後は、皆でオノ・ヨーコ展を見に行くことにしていたのでJohnが話題の一つでした)。

さらには"talks with"の箇所も換えていいことにします。そうなると骨組みとしては"X uses Y when Z"ぐらいになります。このパターンの中で生徒に創造的に英語を書かせるわけです(言うまでもなく"use ... when ..."というのは実生活でもよく使われるパターンです)。

さらに課題文としては次のような対話を取り上げ、つながりのある英文の学びにつなげることもできます。


A: Do you want to go abroad?
B: Yes, going abroad is my dream.


この課題文でも部分部分を換えさせて自己表現につなげてゆくわけですが、文法的には不定詞、動名詞が学習できますし、「私の夢」というところで生徒の想像力(あるいは遊び心)を刺激することもできます。言うまでも課題文提示は、英語学習と生徒心理を踏まえたものでなくてはなりません。

このようにしていくと(2)の英借文は、(3)の自己表現文に自然につながってゆきます。道面先生は、古くからのパターン・プラクティスの発想を、書くことで展開して、生徒に少しずつ確実に力をつけながら、自由度を増やしていっていました。



■ 英語のポスターを創ろう

New Horizonの教科書には英語のポスターを扱った課があります。道面先生はこのポスターを生徒に視写させます。しかし与える指示は、「ポスターとしてわかりやすいものになるように、文字の大きさや色を工夫して下さい[ここで美術部などの生徒の目が輝く]。ただし制限時間は7分です」といったものです。

ただ視写するだけでしたら作業は単純になりがちですが、こうすると生徒は自然と内容理解を深めなければなりません。どこを強調するべきかを理解しておかなければならないからです。さらには制限時間が加えられているので、いたずらに美術的装飾に時間はかけられず、すばやく正確に英文を視写しなければなりません。ですから生徒としては「友達にも『おおっ』と言ってもらえるようなきれいなポスターを作ろう」という意識なのかもしれませんが、実は生徒は、(a)英語の深い内容理解と(b)英語のすばやく正確な視写を行っているわけです。もちろんこれが道面先生の狙いです。ベテランの知恵を感じさせます。

くわえてこのポスターを他の生徒に見せる活動もありえます。その際には「このポスターで私が工夫したのは○○です。○○によって△△を狙いました」などのパターンを与えます。このような言語活動は教科を超えて行い、生徒の言葉の力をつけさせる必要があると道面先生も強調していました。



■ 「書くこと」とは

ここから蛇足の私の感想になりますが、道面先生は、無理に背伸びすることなく、自然に生徒にぴったりの学習を導いているなと思わされます。その地に足のついた思考は、当然のことながら、理論的に考えても非常に合理的です。

例えば「書くこと」ですが、私などはメディア論などから啓発を受けて「書くこと」について考えなおそうとしていますが(例えば「メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性」など)、そこから浮かび上がってくる「書くこと」の特性には


(ア) 思考促進性

(イ) 永続性

(ウ) 可搬性


などがあります。

道面先生の実践は、一見すると伝統的なパターン・プラクティスを書くことに変形させただけのように思えますが、口頭でのパターン・プラクティスがともすれば心理的プレッシャーの強い訓練になりかねないことに対して、道面先生の実践では書かせていますので、生徒がじっくりと文法の点でも発想の点でも考え・振り返る時間が与えられています。(ア)の思考促進性がうまく使われています。

さらに(イ)の永続性も活かして、生徒が書いたものは作品として残し、上記のポスター発表のように展開することができます。(ウ)の可搬性については、今回の実践ではありませんでしたが、例えば生徒の書いた「私の夢」に関する英文の紙切れを教室で回して、感想を書いていったり、「いいね!」の印をつけていくなど、いろいろと発展的な活動は考えられます。

「書くこと」が重要とは、多くの教師、学校、教育委員会が言う事ですが、その反面、「書くこと」に関する分析的な思考がなく、とりあえず鉛筆と紙を使う作業・活動を、やみくもに、順序の道理も考えずに詰め込んだだけの授業も散見されます。道面先生のようなベテランの実践を、分析的に言語化することにより、私たちは進むべき途を明らかにできると私は考えます。



■ 生徒の力を借りる

道面先生の実践について私の言いたいもう一つの点は、道面先生がうまく生徒の力を借りて活用しているということです。この生徒の力を借りて活用することについては、以前「武術的授業?」でも少し触れましたが、これは簡単なようでなかなかできません。一つには私たち教師の発想が固定化されているからであり、一つには私たちの力量が十分ではないからです。

例えば上のアルファベットのディクテーションなどの活動で、道面先生は中学生(あるいは訪問授業をした小学校の児童)に、日頃見聞きする英語の略号を上げさせます。そうしますと


ET, PC, IQ, UFO, CIA, LED, ATM, MVP, etc


といった教師でもすぐに思いつくものだけでなく、


FC, MF, PK, PSP, DS, USJ


といった子どもの興味に即したものが出てきて、さらには次のようなものも出てくるそうです。


AKB, TNP





日常生活で観察できるアルファベット略語(あるいは単語)を片っ端から列挙する授業というのは、もし私が教育困難校に配属されたらまっさきにやってみたい活動で、私は長年「街を歩いて写真撮影をしよう」と思いながらも果たせないままでいました。

でも考えてみれば、教師だけが集める必要はないわけです。児童・生徒に集めさせればいいわけです。もちろんその中には教師が知らないFCやTKなどもあるでしょうが、それは教師が「知らない。教えて」と言えばいいだけ。AKBやTNPといった(確信犯的・あるいは無自覚の)「間違い」については(笑顔と共に)そこから学びを展開してゆけばいいわけです。

また英借文から自己表現文への展開においても、生徒にどんどんと想像力をはばたかせたらいろいろな発想が出てくるでしょう。そうして生徒に「書きたい・表現したい」という欲求が出てきたら、そこから学びを誘導し、ヒントを出したり、未習事項を先取り的に導入したりすればいいわけです。教師もわからなければ「わからない。一緒に考えよう」や「和英辞典で調べてみようか」と言えばいいだけです。

ところがこれがなかなかできない。「教師は教える存在」と信じ込んでいるから、教師として「私もわからない」となかなか言えない。教師が自らの力量の限界を生徒の前で認めるためには、その教師が力量ある教師であることを、生徒が日頃から相当に認めていなくてはいけません。多くの教師は、定められた教科書の項目を教える以外の力量がないため、あるいは本当はあるのにその力量を試すのが怖くて、生徒に即興的な学習活動をさせません。

先日、The New York Timesの"Rock Is Not the Enemy"という音楽教育に関する記事を読み、私も@hira_uさんのような感想を抱きましたが、同時に「子どもは即興演奏をけっこう楽しむのに、音楽教師は存外に即興演奏ができない」といった記述を面白く読みました。英語教師も定められたことを教えることは得意でも、自ら即興で英語を語り、書くことは得意でないのかもしれません。それならば得意になれるように、感性・考え方を変え、試み、その中の間違いから学ぶべきでしょう。

生徒の即興的思考を活かせるだけの器量と力量のある教師になりたいと思います。



■ フツーに頭がよく、フツーに愛情深い

最後に「英語教育学」を専門とする研究者が聞けば不愉快に思うかもしれないことを書きます。

今回の道面先生の英借文・自己表現文実践がFocus on Formの実践にあたるのかどうかよく知りません。道面先生もこの概念をよくご存知なのかどうか、私も尋ねていないのでよく知りません(注)。しかし、この実践を離れて、一般論として述べれば、優れた実践者は、言語教育の「理論家」が仰々しく言い立てることを軽く越えるようなことをのびのびと実践しています。

優れた英語教師になるためには仰々しい「英語教育学」や「応用言語学」の専門知識は必要でなく、フツーに頭がよく、フツーに愛情深い人間でありさえすれば、いいのかもしれません。

いや、やはりこれは言いすぎでしょうか。と言いますのも、優れた英語教師の多くが、大学院などで一度ゆっくり理論的に考えたいという希望を持っているからです。

ですから(言い古されたことですが)「理論から実践へ(theory to practice)」という一方向でなく、「実践の中に理論が見出され、理論の中からさらなる実践が生まれる」といったPraxis(= the syntesis of theory and philosophy, without presuming the primacy of either)という態度が必要だと考えます。

その点で、私の狭く偏った見聞から言いますと、学会に参加する小中高教師よりも、達セミのような小中高教師の集いに参加する研究者の方が少ないように思えます。少なくとも小中高の現場を知らず、そして知ろうとせずに(あるいは自らの過去の自分の現場経験だけを頼りに)現場にあれこれ細かく指示をする研究者を私は信頼しません。私はそんな方々より、小中高そして大学の現場で、フツーに頭がよく、フツーに愛情深く実践を重ねて、他人に指図することより他人に耳を傾けることに熱心な人を尊敬しています -- あ、そうか、だから私は自分をあまり好きになれないんだ(苦笑)。



■ 最後に自己宣伝

私は現場の知恵を言語化することを自らの使命の一つとして、このブログの上部にも常に掲載していますが、ご案内の通り、この度ひつじ書房さまから、『成長する英語教師をめざして -- 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』という本を刊行させていただきました。





今回取り上げた道面和枝先生も、「第1部 「英語教育」の現実と可能性」「第2章 変化めまぐるしい中学生を教える」の「1年生とどう出会う?」の章を執筆しています(その他の執筆者については目次をご覧ください)。

多くの方にぜひ読んで欲しい本として編集しました。同時に、私としては、学術的な研究だけでなく、このような現場の声が出版になるという文化も醸成したく考えております。よかったらぜひお買い上げください。


⇒アマゾンへ


(注)
このブログ記事の内容をチェックしていただくために道面先生にメールをしたら、道面先生はFocus on Formについては、現在『「フォーカス・オン・フォーム」を取り入れた新しい英語教育』を読んで勉強中だそうです。








追記 (2011/09/21)

上記の記事の「フツー」という言葉は現在俗語での「フツー」(あるいは私が理解している限りでの俗語的意味)です。

現在俗語での「フツー」は、例えば男の子が自分の彼女のことを「フツーにかわいい」と肯定的に使ったりします(と私は理解しています -- 以下、この注釈は省略)。つまりこの場合の「フツー」とは、「順位などの意味で平均的な」(=標準偏差でいうなら50付近)といった意味というよりは、「肩肘はった意味でなく、素直な意味合いで」といった意味ではないでしょうか。

ですから自分の彼女を「フツーにかわいい」と言った場合、それは「モデル並みの綺麗さとか、演出上手な愛くるしさといった意味ではなく、素直に女の子としてかわいい」とか「自分の彼女だから、ことさらにかわいいとか、ことさらにブスだとか言うような意識過剰とは無縁に、本当にかわいいと思っている」とかいった肩の力が抜けた表現になっていると、この中高年は思っているのであります(←あ、注釈入った)。

というわけで上記の文章は、そういった素直で飾らない意味での褒め言葉として「フツー」という言葉を使っています。誇示するような頭の良さや、思い入れ過剰の愛情深さではない、「フツーに頭が良く」「フツーに愛情深い」というのは凄いことだと私は思ってます。


と書いたけど、この俗語理解は妥当なのかなぁ・・・若い方で俗語に詳しい方、よかったらご教示ください。


追追記

と、書いていたらTwitterで「おー!GoogleAppsのスプレッドシート、横セルの結合しかできなかったのが縦セルの結合もできるようになってる。この進化は地味に嬉しい!!」という文章が流れてきましたが、この「地味に」という表現も「フツーに」と似たものではないでしょうか(←と、若者に迎合しているわけではないのだけれど、中高年になっても若者言葉に興味をもっているオジサンの痛々しさwww)


追追追記 (2011/09/24)

その後、Twitterで「フツーに」の意味として、「『周囲からは低く見積もられてたけどそれほど低くはなく意外と』という意味」、さらには「意外じゃない状況でも『聞き手にor一般的に低く見積もられてる』という仮定をこしらえて、それより僅かに上だと言う感じ」ではないかという語義の教示がありました。ご教示に感謝。

0 件のコメント: