2008年4月30日水曜日

ヘラヘラして勉強しない若者へのおじさん的おせっかい

以下は、勉強しないどころか、勉強することに対してヘラヘラ笑い続け、テレビばかり見て読書もせず、ミクシィと携帯ばかりいじくっている一部の(あるいは多くの)若者へ向けての、あるおじさん(筆者)からのおせっかい的発言である。また、これは30分で書き上げた駄文でもあることを先に断っておく。この時点で以下の「字の多い」ブログを読む意欲を失ったなら、どうぞこの時点で他のサイトに行ってほしい。


■未来に関してはピーター・ドラッカーの至言が素晴らしい。「未来に関して私たちは二つのことしか知らない。第一に私たちは未来に関して何も知らない。第二に私たちが現在未来に関して予想していることはすべて外れる」。したがって、以下に書く私の未来予測は、愚者の戯言である。


■だが、未来のことを考える前に過去のことを少し振り返っておこう。

■日本から仕事を求めて海外に移民したのは、1893年のグアテマラ移民をきっかけにして始まり、アメリカ合衆国(特にカリフォルニア州)とブラジル(特にサン・パウロ州とパラナ州)が圧倒的に多かった。だが、戦後日本の経済復興に伴い1960年代に移民希望者は減り始め、1980年代にはほとんどわずかなものとなった。(参考:「日系人」 )

■だから今から約50年前には、日本で仕事がなければ海外に働きに行くという発想は日本にあった。

■だがこの戦後の高度経済成長は、世界市場でも特筆すべき発展であり、この経済成長は常態よりは例外的事態として考えられるべきかもしれない。(参考:「高度経済成長」)

■さて、日本人の多くは日清戦争以来、中国を何か一段と低い国のように捉えてきた。

■しかし、そもそも日本と中国の関係で、日本が優位に立っていたと多くの日本人が思っていたのは、日清戦争終了の1985年(明治28年)ぐらいからの一世紀ぐらいではないか。(付言するなら、この間も中国に対して敬意を払ってきた日本人は多くいるし、逆に現在、あるいは未来においても中国に対して否定的な感情を持つ日本人は少なくないだろう)。

■仮に過去一世紀ぐらいの間、日本の国力が中国の国力より勝っていたとしても(あくまでも仮の話だ)、長い歴史から考えれば、それは例外的事態であり、常態とみなすべきではないだろう。

■現在、日本で「移民」について語られるとき、それは主に「いかにしてこれからの日本が移民を受け入れるか(それとも受け入れないのか)」という論点で語られがちだ。

■しかし、そもそも今後の日本が、多くの労働者にとって魅力のある国であり続けるのかに関しては疑問がないわけでない。

■財政破綻から税金が上がり、教育程度の凋落から国力が落ち続け、貨幣価値が下がり続けるならば、日本は移民を受け入れる国というよりは、移民を出す国になるかもしれない。

■現在、日本で「海外に働きに行く」というなら、知的仕事で働きに行くということがしばしば意味されているが、これが「海外に出稼ぎに行く」という言葉に代わり、意味も単純労働の意味に変わるかもしれないことは十分ありうる。

■NHKの「クローズアップ現代」によれば、OECDの中で唯一日本だけが近年教育予算を減らしている(出典情報なし)。

■大学の現場でも学生の学ぶ意欲の減退、学力の低下は著しい。筆者の近辺で、これを最も痛切に感じている者の一人は、私の知る生協食堂の従業員である。彼女は「もう最近の学生さんはひどい。一から十まで言わないと何にもできない」、「漢字もまともに読めない子が増えてきた」と嘆く。私は彼女に反論すべき術を知らない。

■一方例えば英語圏では、USEFUL ONLINE RESOURCES FOR APPLIED LINGUISTS に示したような環境は当たり前であり、このような知的リソースをさらに相互作用で豊かにしながら勉強している。日本人の学生が「図書室に行ったんすけど、資料とか何にもないっすよ」とゼミで報告するようなことは少なくとも英語圏では考えがたい。

■上でも述べてきたように、最近の若者の多くはまともに日本語で読み書きができない。新聞は「取っていない」のではなく「読めない」。音読させれば音読できるかもしれないが、論説記事の趣旨などは理解できない。自分で本を選ぶこともできない。新書は「難しい本」であり、ケータイ小説などこそが心から共感できる本である。

■最近子どもが映画館に行かなくなったと言われているが、それは子どもが二時間あまりのストーリーに集中できなくなっているからではないかと筆者は愚考する(出典情報および証拠なし)。少なくとも現在の子どもがラジオドラマを聞いて長時間、音声言語だけから生き生きとした想像力でストーリーを楽しむということは考えがたい(もちろん例外的に頭のよい子はたくさんいるが)。

■映画ファンやドラマファンの多くが言うことであるが、日本の映画やドラマは、アメリカの映画やドラマ(完全に大衆向けのものは除く)に比べて、おそろしくストーリーが単純で、テンポが遅く、「ベタベタ」に筋が語られる。私の友人は、これは日本の観客が複雑でスピーディで含意に富んだ展開を消化できなくなっているからではないかと語る(これも反例はたくさんあるだろう。だが一般的傾向としてこのようなことはあたっているように私は思う)。

■しかるにこれまで「発展途上国」と言われていた国では、グローバリゼーションをチャンスと見なそうとして、多くの若者が貪欲に学ぼうとしている。

■したがってこのまま単純に未来予測するなら、日本の若者の知的競争力は、他の多くの国の若者の知的競争力に比べてどんどん劣るものとなるだろう。知的競争力に大敗するなら、後は肉体労働で生きるしかなくなる。

■現在、例えばメキシコからアメリカに多くの人が移民として住み着き、カタコトの英語で肉体労働に励んでいるが、それと同じように将来多くの日本人が、中国あるいは他の外国に渡り、カタコトでそこの国にとけ込もうとしながら肉体労働に励むようになったとしても私は驚かない(繰り返すが、これは50年前までは日本にあった発想である)。

■話が未来に飛びすぎたので、現在に戻る。第一生命研究所のレポート「子育て負担と経済格差」によると、非正社員の男性の生涯平均賃金は6176万円。一方、正社員の男性の生涯平均賃金は2億4221万円。(毎日新聞2006年8月25日)

■上のことをわかりやすく言い換える。議論のためにあなたが育った家庭を正社員男性によって支えられていたもの(2億4千万)だとしよう。あなたの家の収入が半分になったことを想像してほしい。あなたの家族はどんな家に住むだろうか。その家の広さや壁の厚さなどはどのようになるだろうか。家の周りの環境はどうなるだろうか。夕食のおかずはどうなるだろうか。外食に行く度合いはどうなるだろうか。旅行に行く度合いはどうなるだろうか。乗る車はどんなものだろうか(というより車はあるだろうか)。

■十分想像できたら、その収入がさらに半減したと考えてほしい。それが四分の一の収入(6000万円)しか得られないということだ。

■だがこれは現在の話である。未来に、日本の中産階級が復活し、また「一億総中流」になる可能性はもちろんある(私たちは未来について何も知らない)。

■だが現在の傾向が続くならば、日本の中産階級は(アメリカがそうであったように)どんどん没落し、社会の格差は広がる。日本は一握りの金持ちと、後は生活がやっとか、明らかな貧困に苦しむ層に分けられる。古今東西、「富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる」と言われる。

■このように日本人の多くはこれから少なくとも肉体的には辛い人生を送らなければならないかもしれないが、これは世界的に見れば南北の富の格差が是正されることだとも考えられる。今まで日本に生まれたというだけの理由で豊かな暮らしをしていた者の富が、今まで発展途上国と言われてきた国に生まれたが、真面目に勉強し働く人のもとに移る。これは正義とさえいえるかもしれない。

■以上のような悲観論を取るならば、現代日本の若者が第一になすべきことは、自ら自律的に学び続けることができるように、自分の知的能力を徹底的に鍛えること、つまり勉強することのように思える。

■だが、一方で上記のことは、錯乱しかけたおじさんの戯言に過ぎない。はずれる可能性は高い。それに勉強は辛いものだ。また勉強すると周りから浮いてしまう。

■一方、君の前にあるテレビは次々に無料で娯楽を与えてくれる。その代償はCMを見るだけであるが、そのCMも君に魅力的な商品があることを(というよりは、君はその商品を持っていないということを)教えてくれるだけである。まあ、CM自体も結構面白いし、商品も、きれいなお姉さんが勧めてくれる(しかしなぜか「ご利用はご計画的に」と言う)ローンを使えばきっと購入できる。それにテレビを長時間見ていればKYと呼ばれなくてもすむ。

■またミクシィや携帯は、君にとって安全で温かい世界をいつも提供してくれる(嫌なことを言う人からは離れればいいだけだ)。君の前に小さな幸せは確実にある。目の前に確実に存在するものを、未来の不確実なことのために犠牲にすることは愚かなことなのかもしれない。外れるかもしれない未来予測など無視しよう。

■まあ、いざとなったら親にもう少し金を出してもらえばすむことだ。親は自分たちの年金が不安というが、責任与党が年金についてはきちんと約束してくれている。人の言葉を疑ってはいけないじゃないか。

■おじさんはとりあえず言いたいことを言った。嫌な気持ちにさせたらすまなかった。申し訳ない。おじさん的には改行を多くして読みやすくしたつもりだが、字が多くて頭が痛くなったかもしれない。すまん。さっぱり忘れてくれ。君の人生は君のものだ。好きに生きてくれ。


*****


追記(2008/05/07):コメント欄に以下のようなレスポンスを書きました(一カ所字句修正)。うちの学生の名誉もありますので、念のため、ここにも掲載しておきます。

*****

匿名さま、

コメントをありがとうございます。コメントの掲載が遅れて申し訳ありませんでした。

まず私の勤務する地方国立大学の「客観的な」現状で言いますと、上記のような学生はまだ少数です。

実際、私が今朝一コマ目に授業をした四年生などはどの学生の学力も態度も優秀なものだと思っています。

私は彼/彼女らのためなら、どんな組織に対しても自信を持って推薦状を書けます。

ただ私が懸念する「少数」の学生の存在は、もはや「例外」として無視できるような数ではなくなったと私は認識しています。

数年前からこの懸念はあったのですが、今はもはや直視しなければならないと思い始めました。

「火は小さいうちに消せ」とも言います。
私は今、小さな火から大火が生じてしまうことを怖れ、行動する必要を感じています。

実は私は、現在の勤務校が母校なのですが、自分たちのの20数年前をついつい思い起こしてしまいます。

もちろんそのような主観的な想起は、たいていの場合、自己美化に終わってしまうので、警戒が必要です。

それでも、まだ昔は大学の勉強をサボる人間も、きちんと自分で自分のための読書をしていましたし、また自分の考えを持っていたようにも思います。

「学びからの逃走」の分析に関しては、私は例えば
諏訪 哲二著『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)
などに共感したりしています。

あるいは先日、たまたま
阿川弘之著『大人の見識』(新潮選書)
を読みましたが、戦後は(私を筆頭に)このような「大人」が本当に少なくなったのだろうな、とも思いました。


ですが、私の今の関心は、分析よりもむしろ対応にあります。

妙に澄ました用語を使うつもりもないのですが、上記の「若者」たちに「近代」の(あるいはもっと身近な言い方をすれば「昭和」の)枠組みで語りかけても駄目なような気が最近しています。

言葉の深い意味で「ポスト近代」、つまり、近代を見極め、客体化し、その限界を熟知した上で、いったんそれをバラバラにし、しかしその破片を、古来から続く人間の知恵で新たに集めてアプローチし、またそのアプローチを壊しては新たなアプローチへと変幻自在にやっていく必要があるかと思います。

話が大きくなりましたが、旧来のアプローチでは駄目だろうという気持ちにはなっております。

私なりにこのトピックについて考え直すことができました。今一度、コメントに感謝します。

追追記(2008/05/08)
内田樹先生のエッセイに共感したので、リンクをはります。
http://blog.tatsuru.com/2008/05/08_1200.php

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

この「戯言」の趣旨に賛成と言いますか共感します。が、この「駄文」の筆者が日ごろ接している青年たちはそれでもこの地方においては一応有名な国立大学と言われる某大学の学生たちであろうから、若者の「学びからの逃走」の実態はより深刻と言わざるを得ない。筆者はこの「学びからの逃走」の原因がどこにあると分析しておられるのであろうか、、、。

柳瀬陽介 さんのコメント...

匿名さま、
コメントをありがとうございます。コメントの掲載が遅れて申し訳ありませんでした。

まず私の勤務する地方国立大学の「客観的な」現状で言いますと、上記のような学生はまだ少数です。

実際、私が今朝一コマ目に授業をした四年生などはどの学生の学力も態度も優秀なものだと思っています。

私は彼/彼女らのためなら、どんな組織に対しても自信を持って推薦状を書けます。

ただ私が懸念する「少数」の学生の存在は、もはや「例外」として無視できるような数ではなくなったと私は認識しています。

数年前からこの懸念はあったのですが、今はもはや直視しなければならないと思い始めました。

「火は小さいうちに消せ」とも言います。
私は今、小さな火から大火が生じてしまうことを怖れ、行動する必要を感じています。

実は私は、現在の勤務校が母校なのですが、自分たちのの20数年前をついつい思い起こしてしまいます。

もちろんそのような主観的な想起は、たいていの場合、自己美化に終わってしまうので、警戒が必要です。

それでも、まだ昔は大学の勉強をサボる人間も、きちんと自分で自分のための読書をしていましたし、また自分の考えを持っていたようにも思います。

「学びからの逃走」の分析に関しては、私は例えば
諏訪 哲二著『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)
などに共感したりしています。

あるいは先日、たまたま
阿川弘之著『大人の見識』(新潮選書)
を読みましたが、戦後は(私を筆頭に)このような「大人」が本当に少なくなったのだろうな、とも思いました。


ですが、私の今の関心は、分析よりもむしろ対応にあります。

妙に澄ました用語を使うつもりもないのですが、上記の「若者」たちに「近代」の(あるいはもっと身近な言い方をすれば「昭和」の)枠組みで語りかけても駄目なような気が最近しています。

言葉の深い意味で「ポスト近代」、つまり、近代を見極め、客体化し、その限界を周知した上で、いったんそれをバラバラにし、しかしその破片を、古来から続く人間の知恵で新たに集めてアプローチし、またそのアプローチを壊しては新たなアプローチへと変幻自在にやっていく必要があるかと思います。

話が大きくなりましたが、旧来のアプローチでは駄目だろうという気持ちにはなっております。

私なりにこのトピックについて考え直すことができました。今一度、コメントに感謝します。

柳瀬陽介 さんのコメント...

ごめんなさい、上の「周知」は「熟知」の間違いです。他人の学力低下は言えませんね。恥ずかしながら訂正します。