2010年10月2日土曜日

小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書

人間は物語を必要とする。作家の小川洋子もこう言う。


たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に会うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。
あるいは現実を記憶していくときでも、ありのままに記憶するわけでは決してなく、やはり自分にとって嬉しいことはうんと膨らませて、悲しいことはうんと小さくしてというように、自分の記憶の形に似合うようなものに変えて、現実を物語にして自分のなかに積み重ねていく。そういう意味でいえば、誰でも生きている限りは物語を必要としており、物語に助けられながら、どうにか現実との折り合いをつけているのです。(22ページ)


しかし、物語には良い物語も悪い物語もある。私たちは物語という形で、どんな自己記述を自分に贈るかで自らの人生の意味を大きく定めてしまっている偽りの自己万能感を与えるような物語だけを自分自身に語り続け、その物語に居着いてしまうなら、私たちはどんどん現実世界に適応できなくなり、確実に不幸になってゆくだけだろう。物語であればどんな物語でもいいというわけではない。

特に世間で通用している物語には注意した方がいいかもしれない。それは「世間の常識」でありながら、一方でそうであるがゆえ、人を過剰に追い詰めたりしてしまう。単純で頑なな物語を自分に植えつけてはいけない。

私たちは自らの物語を掘り起こさねばならない。自分と世界の深いところに埋れている物語を。


「書くこと、文章に姿をあらわさせること、それは特権的な知識を並べることではない。それは人皆が知っていながら、誰ひとり言えずにいることを発見しようとする試みだ」
まさにその通りです。数学者が、偉大な何者かが隠した世界の秘密、いろいろな数字のなかにこめられた、すでにある秘密を探そうとするのと同じように、作家も現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出し、鉱石を掘り起こすようにスコップで一所懸命掘り出して、それに言葉を与えるのです。(50ページ)


そうやって掘り出してきた物語は、科学的命題のように明晰で単純なものではない。安易な物語はそれを一言で要約することを可能にするが、優れた物語はそのような単純化を拒む。人文的知恵の表現は、科学的知識の表現と異なる。小説という物語を書くことについて小川は次のように述べる。


人間の孤独を書こうとか、家族の絆について書こうというような、非常にわかりやすい一行で書けてしまう主題を最初に意識してしまったら、それは小説にならないのです。言葉で一行で表現できてしまうならば、別に小説にする必要はない。ここが小説の背負っている難しい矛盾ですが、言葉にできないものを書いているのが小説ではないかと思うのです。一行で表現できないからこそ、人は百枚も二百枚も小説を書いてしまうのです。(65ページ)


だから私たちは安直な単純化を拒み、「現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出」す忍耐をもたなければならない。それは過去を見つめることであり、観察者になることである。(78ページ)

観察者になることは、よき観察者になることは、容易なことでない。人間的な成熟も必要だ。だが、よき観察者になり、よき物語を自分にそして他人に贈ることができるようになった時、人間は静かに幸福になれるのかもしれない。


私も若い時は、自分自身がいちばん重要な問題でした。自分が何者かということを知ろうとして小説を書いていました。二十年ほど書いてきて自分がそんなにこだわるほどの人間じゃないことがだんだんわかってきました。いったん自分から離れて、自分が想像も予想もしなかったような広い場所にたって世界を観察する。観察者になるという姿勢を持った時、生きている人も死んでいる人も、自分も他人も動物も草も花もみんな、あらゆるものが平等に見えてきた。自分自身に埋没しないという姿勢で、書いていこうと思うようになったのが、この一、二年ぐらいでしょうか。そのことに少しずつ気づきながら、小説を書くことが喜びでもあり、また苦しい作業でもあるということを学んでいる最中です。(82ページ)


よく見て、静かに語ろう。よき物語を。


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片田珠美(2010)『一億総ガキ社会 ―「成熟拒否」という病』光文社新書

[この記事は「英語教師のコンピュータ入門」で使う資料の一つとして書いたものです。]

前の記事にも書いたように学校の機能の一つは、子どもを成熟させ大人にすることである。では大人になるとはどういうことだろう。この本の著者で精神科医の片田は次のようにまとめる。


大人になるということは、挫折に挫折を繰り返し、親の期待とも折り合いをつけながら、自らの卑小さを自覚していく過程である。言いかえれば、自己愛の傷つきを積み重ね、万能感を喪失していくことによって、はじめて等身大の自分と向き合えるようになる。こうして、自らの立ち位置を認識する、昔ながらの言葉で言えば「身の程を知る」ことによってしか、地に足のついた努力ができるようにはならないのだ。実にせつないことではあるが。
この万能感の喪失、つまり「断念」を受け入れられない若者が、ものすごく増えているように筆者には感じられる。これはとりもなおさず、大人になることの拒否、つまり「成熟拒否」である。(46ページ)



万能感を守ろうとする歪んだ自己愛は、しばしばひきこもりへと人を誘う。現実や他人との葛藤がなければ万能感を保てるからだ。さらにインターネットはひきこもりを居心地のいいものに錯覚させる。


ひきこもりの多くが、インターネットなどのバーチャル・リアリティーに没頭するのも、自己愛的な万能感を守るためであると思われる。多くの場合、現実の対人関係が苦手で、何かでつまずいたことをきっかけにしてひきこもってしまうのだが、インターネットの世界では、他人の視線を気にする必要がないので、対人恐怖的なストレスをそれほど感じずに交信することができる。また、自分の言いたいことを一方的に相手に送りつけて、いやになったらいつでもやめられるという気軽さもある。何よりも、自由に交信し、巨大な量の情報を操作することによっって、現実の枠組みも制約も超えた無限のパワーを手に入れた気分になれる。(47ページ)


現代の私たちが成熟を拒否しているとしても、それなら昔はどうだったのだろう。片田は昔は「子供組・若者組のような同年齢集団や親戚・隣人など周囲の人を含めた大きなネットワーク」(86ページ)が「しつけ」をしていたと述べる。昔は様々な人間関係が、多様な価値観を教え、人を自然に成熟に導いていたのだ。

しかし戦後の民主主義の理念を一言で表すとすれば、それは「規範からの解放」であった。かくして子どもも大人も他人からから自由になった。それは干渉からの解放であったが、他方、コミュニケーションという相互作用的自律システムの枠組みから外れてしまうことでもあった。現代日本人は、周りとのコミュニケーションの中で自らを律するのではなく、すべてを自己意識の中の自己決断で自己責任でもって決めるということを社会のタテマエとした(145ページ)。

だが人間は、あるいは個人の意識は、それほどに知恵あるものではない。コミュニケーションという文化を失った個人はしばしば迷走・暴走する。インターネットでの交信は、上記のような理由で深い意味でのコミュニケーションとはなりがたい。だから孤立する人間はしばしばインターネット上でさらに迷走・暴走する。

インターネット抜きの現代社会はもはや考えがたい。だが自らの「コミュニケーション」がほぼインターネット上のものだけだったら、私たちは警戒する必要がある。インターネットは現実生活のコミュニケーションを補完するものであっても、それを代替するものではない。インターネットに依存した生活を送るとき、インターネットは偽りの万能感を育み、成熟を妨げ、ますます人を孤立させる道具となりうる。インターネットの怖さの一つはここにある。現実世界の、葛藤に満ちたコミュニケーションを大切にしよう。現実世界の労苦こそが私たちを正気に保ってくれる。


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ジョーゼフ・キャンベル/ビル・モイヤーズ著、飛田茂雄訳(2010)『神話の力』早川書房

これだけ科学と技術が発達しても、人は神話あるいは物語を欲している。自らの神話・物語を求め、古今東西の神話・物語に惹かれる。なぜなら私たちの「人間の条件」は本質的に変りないからだ。キャンベル(Joseph Campbell)はこう言う。


人はだれでも3万年前にクロマニョン人が持っていたのと同じ器官やエネルギーを備えた、同じ肉体を持っています。ニューヨーク市で生活を送ろうと、洞窟のなかで生活を送ろうと、同じ幼少期の諸段階を過ごし、性的な成熟期を迎え、少年期の依存から大人の責任への変身を経て、結婚し、肉体的な変調を来たし、体力が次第に衰え、死に至る。同じ肉体を持ち、同じ肉体的な経験をしますから、同じイメージに同じような反応を示すのです。(102-103ページ)


そのように古代人と同じ「人間の条件」を持つ現代人に神話や物語は何を教えてくれるというのだろう。キャンベルは彼の神話学講義を熱心に聞く若者についてこう語る。


神話学は文学や芸術の背後にあるものを教えてくれますし、自分自身の生活についても教えてくれます。それは実に興味深い、生命に栄養を与えてくれる、偉大な学問です。神話は幼少期からおとなの責任の世界に入っていくときに経験する、あるいは、独身の状態から結婚生活に入るときに経験する加入儀礼など、人生のさまざまな段階と深い関係を持っています。そういう儀礼的な行事のすべてが神話的な儀式なのです。それは、あなたがこれから引き受ける役割の自覚と―言い換えれば、古い役割を捨てて新しい役割を演じる、責任のある立場を取るという過程と―深く関わっているのです。(57ページ)


幼児は同じ絵本を何度も読んでとせがむ。子どもはお気に入りのアニメを繰り返し見る。大人もお気に入りの映画を何度も見たりする。幼児から大人にいたるまで人間は、自分にとって必要な神話・物語を無意識に察知し、それに繰り返し浸り入ることで自らの成熟を安定させようとしているのだろうか。

宗教は、無神論者からすれば荒唐無稽な科学の否定だろうが、神話や物語としては現代でも意義を失っていないだろう。「宗教的な真実」についてキャンベルはこう語る。


あらゆる宗教はなんらかの意味で真実です。隠喩として理解した場合には真実なのです。ところがそれ自体の隠喩にこだわりすぎて、隠喩を事実として解釈してしまいますと動きが取れなくなってしまいます。(136ページ)



宗教的であろうがなかろうが、神話・物語は定義上、実証的裏付けを欠く。だが神話・物語はその象徴性により私たちの心に深く何かを訴えてくる。意識的な理性では説明しがたい深い何かを私たちに示す。

私たちは神話・物語という象徴を必要とする動物なのだろう。動物と異なり言語を持ち、来し方行く末を考えざるを得ない。だからといっていまだ、来し方行く末を予測する知識は持ち得ていない(世界の複合性と人間知性の生理学的限界からしてそのような完全な知識を人間はおそらく持ち得ないだろう)。だから神話・物語による知恵を必要とする。知識ほどに明証的ではないが、この世の無限の可能性の中に有限でしかない自分を安定させてくれる知恵を。

だとしたら私たちはよい神話、よい物語を持つ必要がある。悪しき神話・物語は、宗教や「世間の常識」という名のもとに、私たちの心身を歪ませる。明確に証拠づけられた科学的命題のみを知識と呼ぶなら、私たちが語る多くの事柄は神話や物語にすぎない。科学者は科学的命題の良し悪しを見分ける訓練を私たちに提供しているが、人文学者は神話・物語の良し悪しを見極める訓練を私たちに提供しているだろうか。科学的命題ほどに明快で一義的な判断基準ではないが、神話・物語にも判断基準というものはあるだろう。音楽の良し悪しを判断する基準が、誰にも説明できないけれどあるように。

あるいは子どもが大人になる過程の最中にあるという学校という機関は、人間が人間の条件から逃れられない限り、子どもを成熟させ大人にするという機能を担わざるを得ない。知識社会で知識獲得の重要性がどんどん増していても、この基本的な機能をおろそかにするわけにはいかないだろう。人間的に成熟していない子どもが高度な知識を駆使するほど恐ろしいことはない。

私たちはどんな神話・物語をもっているのだろう(たとえそれを神話・物語として自覚していないにせよ)。私たちはどんな神話・物語を子どもに与えているのだろう。こういった人文的考察を私たちは怠ってはいけないと私は考える。


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