この記事は、量的研究の源泉の理解のために ― フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部の簡単なまとめの記事の続きで、同書(以下、『危機』と略す)の第三部の中から「判断中止」(Epoché)についての記述を簡単にまとめたものです。これらの記事は、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のためのいわゆる「お勉強」ノートです。引用のページ数は、日本語引用は中央公論社のハードカバー版(下にある文庫本版ではありません)、ドイツ語引用はFelix Meiner Verlagのペーパーバック版です。私は哲学の正式な訓練を受けたことがないので、誤解を怖れます。もし以下の記述に間違いがあったら、どうぞご指摘ください。
■ 概要
この記事では、フッサールに従って、「客観性」ということを突き詰めて考えた場合、人間が自然科学において物体を「客観的」に記述するのと同じように、人間が自分自身である人間の心を「客観的」に記述できることの困難点を原理的に説明し、その困難点を克服するために、従来の客観性/主観性の枠組み(『危機』第一・二部)を編み変えて、新しい方法論として判断中止("Epoché" 「判断停止」や「エポケー」とも呼ばれる)が導入されたことを簡単にまとめます。さらに、この判断中止は、カウンセリングにおけるカウンセラーの態度や、ルーマン社会学における二次観察 (second-order observation) とつながっていることを示します。
■ 人間が人間の心を説明するということの背理
私たちが自然科学で物体を「客観的」に記述すると言う時、私たち、すなわち観察者のあり方は問題にされていません。観察者は無色透明で、身体も(ということは感情も)もたない、まさに「誰でもない人」(ことば遊びをするなら "no-body")であることが前提とされています。
しかし、観察対象が、人間の心となると問題が複雑になってきます。仮に人間の心は普遍的で共通なものだとしても ―カント的な言い方なら「超越論的主観性」になりましょうか― 、人間の心(超越論的主観性)が、自分自身である人間の心(超越論的主観性)を果たして「客観的」に記述できるのか、つまりさらに縮約して言うなら、自分が自分自身を「客観的」に記述できるのか、ということになります。通常、「客観的」な観察をする者は、観察対象の「外部」にいて、観察対象から何も影響を受けないし何の影響も与えないと想定されていますから、人間の心に関する「客観的」記述は、「客観性」に関するそういった考えに基づく限り、およそ矛盾をはらむことのようにも思えます。
「客観性」に関する伝統的な考えを堅持するなら、「内部で外部を観察する」といった矛盾を含んだ言い方をせざるを得ません。
あらゆる客観的な世界観察は、「外部」での観察であり、ただ「外側のもの」、客観的なものを把握するにすぎない。徹底した世界観察とは、自己自身を外に「外化する」主観性の、体系的で純粋な内部観察なのである。(157ページ、第29節)。
Alle objektive Weltbetrachtung ist Betrachtung im „Außen" und erfaßt nur „Äußerlichkeiten", Objektivitäten. Die radikale Weltbetrachtung ist systematische und reine Innenbetrachtung der sich selbst im Außen „äußernden" Subjektivität. 123.
ましてや人間の心が普遍的なものではなく、ユングが言うように(C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房)、観察者の人間も観察対象の人間も個性的な心を有しているものだとしたら、自然科学的な客観性はとても維持できないものとなるでしょう。
いや、観察対象が人間の心(主観)でなくて、(人間の心(主観)以外の)世界だとしても、その世界を、観察者の心(主観)によって意味づけられた世界とするなら、世界は、その一部であるはずの観察者の心(主観)によって作られたものとなります。ここでは心(主観)が世界を、ということはその一部としての自分自身を呑み込んでいるというパラドックスが生じます。
世界の構成分である主観が、いわば全世界を呑み込むことになるし、それとともに自己自身をも呑み込むことになってしまう。何という背理だろうか。(257ページ、53節)
Der Subjektbestand der Welt verschlingt sozusagen die gesamte Welt und damit sich selbst. Welch ein Widersinn. (195)
■ 主観性こそが「客観性」の基盤
もし、人の心や、人の心に現れた世界 ―カントなら、これを"Erscheinung" (現象(世界))と呼び、"Ding an sich"「物自体」と区別するところでしょう― を対象とした学問を行おうとするなら、客観性と主観性についての考え方の枠組みを変える必要がありそうです。唯一絶対の客観的対象があって、主観はそれを忠実に写し出すための(限りなく)無色透明なものであると考えるのではなく、主観があり、それにより客観が構成される、と考えるわけです。
われわれが関心をもたねばならないのは、与えられ方、現れ方、内在的な妥当様式というような、上述した主観的変化以外の何ものでもない。それこそが、たえず経過し、やむことなく流れてゆきながら、総合的に結合し、世界の端的な「存在」という統一的な意識を成立させるものなのである。(204-205ページ、第38節)
Nämlich nichts anderes soll uns interessieren als eben jener subjektive Wandel der Gegebeneitsweisen, der Erscheinungsweisen, der einwhonenden Geltungsmodi, welcher, ständig verlaufend, unaufhörlich im Dehinstoömen sich synthetisch verbindend, das einheitliche Bewußtsein des schlichten „Sens“ der Welt zustande bringt. (158)
「存在」は、主観と無縁の恒常的なものではなく、主観の変化とともに統合されてている意識によって与えられているものと言えましょうか。もちろん、このような見解は、人間とは独立した物体の実在を否定するものではありません。たとえ何らかの理由で、この宇宙から人類が絶滅したとしても、何らかの実在は残るでしょう。しかし、私たちが認めている「存在」とは、私たちが(人類として、あるいは共同体成員として、または個々人として)認識しているものであり、その存在認識を超えた実在―うまいことばがないので、とりあえず実在と呼んでおきます―は、定義上、私たちは知り得ないわけです(現代物理学は暗黒物質の存在は想定しても、それ以上の実在は想定できていません(ましてや証明もしていません))。人間が限られた脳細胞による限られた認知能力しかもたない生物である以上、いわば究極の実在は、私たちが理性の理念として想定することができるだけであり、私たちが感性の直観と結びつけることができる知性の概念で把握できる「客観的存在」は人間にとっての(あるいは共同体にとっての、もしくは私にとっての)「客観的存在」に過ぎないわけです。
このように客観性をいわば「人間化」(もしくは「主観化」)するなら、旧来のように、「学問的対象に主観性を入れてはならない!」と主張することは、自己否定であり、学問としては、「いかに主観的に構成された客観的対象を、別の主観(研究者)がいかに客観的に認識するか」ということに工夫をするべきだとなります ―このようにことばの使い方を変えると、もはや「主観-客観」ということばを使わない方がいいのではないかと思えてきます(実際、ルーマンは使いません)が、ここでは世間で通用している「客観的」に新しい意味(といっても『危機』書の出版年から考えるなら約80年前)を与えることを選びます。もっとも"Objektiv, objective"という語からすれば「客観的」ではなく「対象的」という訳語を使った方がいいのかとも思えますが・・・
いまや学問から「主観的世界」を追放するのではなく、主観的世界こそを学問の主題とし、理念的な究極の客観性を想定するにせよ、それは私たちの主観性から想定されることを自覚すべきだと思えます。
こうしていまやわれわれは世界を、あらゆるわれわれの関心、われわれの生の企図の基盤として一貫した主題とすることになる ―客観的科学の理論的関心や企図も、その中の特別な一群を形づくっているにすぎない―。以前は、客観的科学の理論的関心がわれわれの問題提起を動機付けていたのであるが、いまはそれだけに特権が与えられているわけではない。そのようなわけで、いまやわれわれの主題となるのは、世界そのものではなく、与えられ方は移り変わりながらも、われわれにたえずあらかじめ与えられているところの世界なのである。(217ページ、第43節 ―訳文の語順を一部変えています)
So machen wir sie jetzt konsequent thematisch, als Boden aller unserer Interessen, unserer Lebensvohaben, unter welchen die theoretischen der objektiven Wissenschaften nur eine besondere Gruppe bilden. Aber dies jetzt in keiner Weise bevorzugt, also nicht mehr so, wie sie früher unsere Fragenstellungen motivierte. In dieser Art sei jetzt also nicht Welt schlechtin, sondern ausschließlich Welt als im Wandel der Gegebenheitweisen uns ständig vorgegebene unser Thema. (167)
■ 判断中止
しかし、主観的世界を主題とするとしても、それを学問・研究の主題とするなら、「何でもあり」、「個人の勝手」、「言ったもの勝ち」とするわけにはいかないでしょう。もちろん、個々人がどのように考え・感じていようがそれは一切問わず、例えば5件法でそれぞれがそれぞれの意見を表明した世論調査を大規模に集計する研究はありえますし、その有効性は疑うべきものもありませんが、私たちは、それぞれの「意見」(主観的な見解)がどのように生じたかについて着目することができます。
われわれの眼を次の点に向けてみよう。すわなち、一般に、つまりわれわれすべてにとって、この世界ないし対象がその諸性質の基体として、単にあらかじめ与えられてあり、ただ所有されているというだけではなく、それらの対象(ならびにすべて存在者と思われているもの)が、さまざまな主観的な現われ方、与えられ方においてわれわれに意識されている、その点に眼を向けてみよう。本来、われわれはその点に注意を向けることもないし、大部分のものは、およそそのようなことを思いつきもしない。われわれはこのことを新しい普遍的関心の方向へと形成し、与えられ方のいかにということに対する首尾一貫にした普遍的関心をうち立ててみよう。われわれは存在者自身にも関心を向けるが、まっすぐにではなく、その与えられ方のいかにという点から見られた対象としての存在者に関心を向けるのである。詳しくいえば、相対的妥当性や主観的現象や思念の変化の中で、世界という統一的、普遍的妥当性、すなわちこの世界がわれわれにとっていかに成立してくるのか、という点にもっぱら恒常的な関心の方向を向けてみるわけである。(202ページ、第38節)
Lenken wir unsern Blick darauf, daß allgemeinen, daß uns allen die Welt bzw. die Objekte nicht überhaupt vorgegeben sind, in einer bloßen Habe als Substrate ihrer Eigenschaften, sondern daß sie (und alles ontisch Vermeinte) in subjectiven Erscheinungsweisen, Gegebenheitsweisen uns bewußt werden, ohne daß wir eigens darauf achten und während wir zum größten Tein überhaupt nicts davon ahnen. Gestalten wir nun dies zu einer neuen universalen Interessenrichtung, etablieren wir ein konsequentes universales Interesse für das Wie der Gegebenheitsweisen und für die Onta selbst, aber nicht geradehin, sondern als Objecte in ihrem Wie, eben in der ausschließlchen und ständigen Interessenrichtung darauf, wie im Wandel relativer Geltungen, subjektiver Erscheinungen, Meinungen die einheitliche, universale Gltung Welt, die Welt für uns zustande kommt. (156-157)
主観的な意見や見解が「何」であるか (what) よりも、それが「いかに」 (how) 形成されたのかに注目するためには、一旦、「何」(what) に対する「それが本当は何であり、本来どんな価値をもっており」といった関心から離れて、ただ虚心坦懐に、それが「いかにして」そのように思われているのかに注目する必要があります。「何」(what)に関する判断を停止することを、フッサールは判断中止 (Epoché) と呼びます。
われわれは、上述した判断中止の意味で、完全に「関心を離れた」観察者として,世界、つまり、単に主観的-相対的世界である世界(われわれすべての日常的な協働生活、努力、配慮、作業がそこで行われる世界)をまず素朴に見まわしてみよう。それは、その世界の存在や、世界がしかじかであるといったことの研究をめざすものではなくて、つねに存在するものとして、またしかじかであるものとして妥当していたし、いまもわれわれにとって妥当しつづけているものを、いかにそれが主観的に妥当しているか、どのように見えるか、などといった観点から考察することをめざすものである。(222ページ、第45節)。
Als im angegebenen Sinne jener Epoché völlig „uninteressierter“ Betrachter der Welt, rein als der subjektiv-relativen Welt (derjenigen, in der unser gesamtes alltägliches Gemeinschaftsleben, Sich-Mühen, Sorgen, Leisten sich abspielt), halten wir nun eine erste naive Umschau, immer darauf asu, nicht ihr Sein und Sosein zu erforschen, sondern, was immer als seiend und soeiend galt und uns fortgilt, unter dem Gesichtspunkt zu betrachten, wie es subjectiv gilt, in welchem Aussehen usw. (170)
私たちに立ち現れた世界を研究の対象とするには、客観的科学 (objectiven Wissenshaft) の知見さえ一旦脇において、立ち現れた主観的世界に関して「それは正しい・正しくない」といった判断を差し控え、いかにしてそのような主観的世界が妥当なものとして立ち現れたかに注目する必要があります(第35節)。
しかし、科学的判断をしばし停止するからといって、知覚者の主観的判断を全面肯定し、研究者も共にその主観的判断に従うことわけではありません。研究者は、知覚者の判断からも一旦離れて、それを正しい・良いと判断せず(また間違い・悪いとも判断せず)、ただその主観形成の過程に注目します(第69節)。
ということは、研究者は自分自身の判断も停止し、関心を離れた観察者として振る舞う必要があります。いわば、自分自身に対しても他人のように冷静に観察しなければなりません。物体についての普遍的科学 (universale Wissenschaft von den Körpern) に従事する科学者が、人間的な意味などについて判断停止しなければならないことを踏まえて、フッサールは心理学者は、自分自身の判断を一旦棚上げしなければならないことを説きます。
したがって、心理学もその習慣的な「抽象的」態度を要求する。その判断中止はすべての心に、したがって、心理学者自身の心にもまた向けられる。自然的-日常的な生活の流儀で客観的世界の実在物に関して行われる自分自身の妥当のはたらきを ―心理学者として― 一緒に遂行することを差し控えるということも、そこには含まれている。心理学者は、自己自身のうちに「関心を離れた傍観者」、つまり他者についてと同様、自分自身についての研究者を、しかも決定的なかたちで― ということは、心理的研究に従事する職業的時間の全体にわたって― 設定するのである。(339ページ、第69節)
Danach fordert auch sie ihre habituelle „abstraktive“ Einstellung. Ihre Epoché betrift alle Seelen, also auch die eigene des Psycholgen selbst: darin liegt Enthaltung vom Mitvollzug seiner eigenen in Beziehung auf Reales der objectiven Welt in der Weise des natürlich-alltäpglichen Lebens geübten Geltungen -- als Psychologe. Der Psychologe etabliert in sich selbst den „uninteressierten Zuschauer“ und Erforscher seiner selbst wie aller Anderen, und das ein für allemal, das heißt für alle „Berufszeiten“ der psychologischen Arbeit. (258)
■ カウンセリングとの関連
判断中止で、科学的判断もとりあえず差し控えるということは、例えばお伽話や神話のような話が出たとしても、それを否定せずに受け止め、かといってそれを信じきってしまうわけでもなく、なぜ・いかにしてそのような話がでてきたのかに注目するということです。また、話し手の判断についても判断中止するということは、話し手が例えば、「すごいでしょう」や「ひどい話ですよね」と言っても、「ああ、すごいと思っていらっしゃるわけですね」や「ひどいと感じられたのですね」と反応し、その判断の次元で争わず、話し手と共にどうして・どのようにしてその判断が形成されたかの方に興味を注ぐということです。自分自身の判断も脇に置くということは、話し手の話に対して自分の感情や考えが湧いてきたとしても、その感情や考えに同化してしまうのではなく、なぜそのような感情や考えが出てきたのだろうと冷静に自分を観察するということです。
こうやって判断停止の特徴をまとめてみると、私はこれはまるでカウンセラーの態度ではないかと思えてきました。カウンセリングは、科学や世間の常識にとらわれず、クライアントの訴えをまず受け入れ、それを否定せず(かといって増幅的に肯定もせず)、「もう少し詳しく教えて下さい」や「いつ頃から・どういう機会からそのように思うようになったのですか」と解明的に聞いてゆき、問題を抱えたクライアントが自分と自分の周りの世界に関する洞察を深め、考えを柔軟にして、その結果、しばしば問題解決・解消をもたらす方法とまとめられるかと思いますが、そんなカウンセラーの聴き方はある意味、「判断中止」によるものと言っていいかとも思えました。
参考までに、私がこれまで書いたカウンセリング関係の記事のリストを掲載しておきます。
C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19631972.html
C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19681976.html
C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1996.html
C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1995.html
小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_3321.html
河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009.html
河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2010.html
河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009_25.html
河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/04/2009.html
村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2010_31.html
小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2007.html
J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html
フッサールは、無意識が私たちの判断に影響することは、最近の「深層心理学」(„Tiefenpsychologie“)が指摘する通りだと言いつつも、「だからといって、われわれがこの理論とわれわれの理論を同一視しようというわけではない」(336ページ、第69節、ドイツ語ペーパーバック256ページ)と言っていますから、ドイツ語圏のフッサール (1859-1938)と「深層心理学」のユング(1875-1961)の考えにつながるところがあるというのは、それほど荒唐無稽な考えではないと私は思っています。
また、上記にあげた、カウンセラーの態度は、当事者研究で、当事者の語りを受け止める相手(私の言い方なら「第二者」)にも通じるところがあります。厳密な同一性・区別をお好みの方は、このように類例を並べてゆくことを快く思わないでしょうが、私は類例やアナロジーやメタファーで関連性を見出しながら考えをまとめることが好きな人間なので、ここでも指摘し、私の記事のリストをあげておきます。
浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html
浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html
当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html
「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html
綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html
熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html
石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html
■ ルーマンとの関連
さらに類例は続きます(笑)。ある観察によって何(what)が結論として出されたかよりは、どのようにして(how)その観察がなされたのかに着目し、元々の観察(一次観察)をさらに観察する(二次観察)というのは、ルーマンの論でもあります。
ルーマン関係の記事
フッサールとルーマンの関係について、ルーマン研究者のHans-Georg Moeller (2006)は、フッサールの現象学は数々の哲学の中でももっとも直接的な影響をルーマンのシステム理論に与えた (Among all the philosophies discussed in this section, Husserl's phenomenology probably had the most immediate infulence on Luhmann's systems theory)と評しています(ですが、彼は判断中止と二次観察のことについては触れていません)
検索語を"Epoché"と"second-order observation"にしてグーグル検索してみますと、 Andreas Philippopoulos-MihalopoulosのNiklas Luhmann: Law, Justice, Societyが出てきましたが、その18ページで、彼は「ルーマンの一次観察と二次観察の区分は、用語法の齟齬を除くならば、過去の哲学や精神分析の図式にも見られるものであり、その中でもフッサールの判断中止の図式がもっとも関連性の高いものだろう」("Terminological incompatibilities aside, the distinction between first- and second-order observation reproduces several philosophical and psychoanalytical schemata, but perhaps more relevantly that of Husserlian epoche.")と述べています。
ですから、フッサールの判断停止とルーマンの二次観察がつながっているという私の考えもそう突飛なものではないと私は思っております。
■ リフレクティブ・ライティングがなぜ有効なのか
判断停止が一種の二次観察ならば、私は実践者が自分の実践に関して振り返り(=リフレクションを行い)、さらにそれを書くこと(=ジャーナル・ライティング)によって丁寧に二次観察を行うことができると考えていますから、ジャーナル・ライティングは、判断停止による「客観性」へ向けての探究だと論じることも可能になるかと思います。
また、リフレクションにおいても、助言や批判や価値判断をせずに、解明的に聞いてくれる相手の重要性がわかっていますが、これも(カウンセリングや当事者研究につながる)判断の一次停止による自らの実践の客観化(あるいは対象化)と表現することも可能かと思います。
関連記事
言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述 (草稿:HTML版)
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[草稿] 英語教師が自らの実践を書くということ (1) ―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―
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[草稿]英語教師が自らの実践を書くということ (2)―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/2.html
■ ナラティブ研究
英語教育研究ではナラティブをどう扱うかについて、まだ議論が落ち着いていないかと思いますが、この記事での論考からすれば、ナラティブでいかに「真実が反映されたか」というナラティブの「何」(what)に着目するよりも、なぜ・いかにしてそのナラティブ(の内容)が語られるようになったのかというhowに着目すべきとなるかと思います。
客観性を主観性とは独立して存在するものと考える立場からすれば、主観的なナラティブなど研究で取り上げるべきものではない、せいぜい取り上げるにせよ、複数の観点からそのナラティブが「真実」を語っているか検証せよということになるかと思います。
そのような試みがまったく無意味だとはいいませんが、そのような試み、というよりそのような試みの背後にある客観性の形而上学 ―レイコフとジョンソンに倣って、「客観主義」(objectivism)と呼んでいいかと思います― は、私たちの主観性を否定し、私たちの日常生活 ―フッサールの用語なら「生活世界」(Lebenswelt, lifeworld― のあり様を忘れさせてしまいます。主観性と生活世界を否定した上での情報ばかりが、実践者に与えられることは有益なことではないと考えます。
ですから、「客観性」について考えなおすことなく、これ以上、量的研究以外は認めないといった専横的な態度を学会が貫き通すなら、学会は、実践者に対してむしろ害をなすとすら言えるかもしれません。
他方、量的研究でなければ何でもよいとばかりに、質的研究の(新たな)客観性についての考察を怠っても、学会は「何でもあり」の場になり、その結果、妙な権力闘争の場に堕してしまうかもしれません。
原理的な考察は必要だと私は考えています。
関連記事:
英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033703
身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html
ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html
マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html
追記
アダム・スミスも「公平な観察者」について語り、その公平な観察者を自らの中に取り入れることの重要性を説いています。
アダム・スミス著、高哲男訳 (1790/2013) 『道徳感情論』 講談社学術文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/17902013.html
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