2014年5月5日月曜日

量的研究の源泉の理解のために ― フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部の簡単なまとめ



この記事は、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のための準備ノートの一つです。

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ここでは量的アプローチの源泉をさぐるため、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部を私なりにまとめてみます。原著にあたることもしていない、いわゆる「お勉強ノート」です。以下のページ数は、私が以前から有しているハードカバー版のものですが、現在入手できる版は、文庫本版ですので、文庫本版をご利用の方はご注意ください)。










フッサールは最晩年のこの著で、Wissenschaft ―この翻訳書では「科学」「学問」「学」と適宜訳し分けられていますが(後書き:424ページ)、この記事では(引用部を除いて)「科学」とすることにします。「科学研究費」といった用法に見られる広義の「科学」です― に対して根底的な批判を加えます。フッサールは、現在の科学は、一つの哲学から派生していることを指摘します。

現在、建設されつつにあるにせよ、すでに成立しているにせよ、複数形の科学はすべて、ただ一つの哲学の分枝にすぎない。普遍性の意味を大胆に、過度ともいえるほどに高揚することはすでにデカルトにはじまるが、そうすることによって、この新しい哲学は、一つの理論的体系の統一のうちに、およそ意味のあるすべての問題を、厳密に学的な仕方で包括しようと努力するのである。すなわち、必当然的に明瞭な方法論と、合理的に秩序づけられた研究の進行によって、すべての問題を包括しようとするのである。こうして、理論的に関連づけられた究極的な真理の唯一の体系 ―世代から世代へと無限に成長する唯一の体系― これこそが、事実の問題であろうと理性の問題であろうと、時間的な問題であろうと永遠の問題であろうと、およそ考えうるすべての問題に答えるものとされた。(20-21ページ)


この哲学は、古くは、実在的なものの基盤を理念的なものにもとめたプラトン主義に遡ることができますが、近代においては、やはり「自然の数学化」を行ったガリレイにその端を求めるべきだとフッサールは考えます(38ページ)。

自然の数学化によって次のような世界が構想されます。

合理的で無限な存在全体と、それを体系的に支配している合理的な学という理念の構想は、かつて見られなかった新たな試みである。無限の世界、それはこのばあいには理念的なものの世界なのであるが、そのなかの対象が個別的に、また不完全に、たまたまわれわれに認識されるというのではなく、合理的で体系的統一性をもった方法が到達しうるような世界として、また無限の進行において、結局はあらゆる対象がその完全な即自存在に従って認識されるような世界として、構想されているのである。(36-37ページ)


「合理的で体系的統一性をもった方法」を無限回適用するというのは、数学によって初めて思考されるようになった理念かと私は理解していますが、その理念に基づき、「考えうるかぎりの完全化の地平へと自由につき進むことによって、いたるところに極限形態が予示され、決して到達されることのない普遍の極」(41ページ)へと向かっていくのが科学の特徴というわけです(こういった理念の実証的な追求に関しては、カントがすでに『純粋理性批判』で批判を加えていますが(関連記事:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く)、フッサールももちろんその伝統に立脚し、この記事では扱わない本書の後半(第三部)で超越論的現象学を構想します)。

「自然の数学化」には次の二つの側面が含まれます。一つは、数学が、「物体世界をその空間時間的な形態に関して理念化することを通じて、理念的な客観性を創造した」(48-49ページ)ことです。この理念的な客観性に対しては、「それを絶対的な同一性において規定し、絶対に同一的で、方法的に一義性をもつものとして規定しうる諸性質の基体として認識する可能性が生ずる」ことになります。

私たちが子どもで野山を駆けずり回っていた頃、世界は次々に新しい様相を見せ、私たちは世界に魅惑されていたかもしれませんが、そこに絶対的な同一性を見出すことはなかったはずです。しかし私たちは数学や物理学などを学ぶにつけ、世界を「理念的な客観性」で見るようになります。やがては英語教育といった極めて人間的な営みに対しても、「第二言語獲得研究」の「量的アプローチ」といった枠組みを科学的な真理(への道)として教え込まれ、英語の学びにも「絶対的な同一性」があるはずだ (いや、なければならない -- Muß es sein? Es muß sein.--) と信じて疑わないようになります。

自然の数学化の第二の側面は、数学が実用的測定術と結合することによって、「人は、そのつど与えられ図られた形態的な出来事から出発して、知られていないし直接には決して測ることもできない出来事をも、異論の余地のない必然性をもって「計算」しうる」(50ページ)と信じるようになることです。かくして、「世界はあらゆる形式を包括する総体的形式であり、この相対的形式は、分析的な仕方で理念化されうるし、作図によって隈なく支配できるもの」として科学者に現れてくるようになります。

この科学者の理念化された世界は、虫取りに夢中になっている子どもに現れている「世界」はもとより、午後の様子が午前と一変している学級などに日常的に接している教師に現れている「世界」とも異なっているものですが、科学者の「世界」は、現代社会では特権化され、それは市井の人々の世界観を無教養なものとして侮蔑しかねないものになっています (とはいえ、厳密な自然科学を行っている科学者は、自らの世界観の限定性を十分自覚していますからそのような侮蔑とは無縁ですが、自然科学を模したような研究を中途半端に行っている人は、しばしばそのような侮蔑を陰に陽に示します)。

この世界の理念化とともに、「普遍的で精密な因果性」も自明なものとされるようになったとフッサールは指摘します。こうして世界の数学化から一般的数式を得ることができたら、その数式は他にも応用されて、一般的因果関連を表現する(60ページ)ものとされます。

かくして私たちが日常的に経験している生活世界には、数学的な衣が被せられ、私たちはその衣こそが真実だと思うようになります。

「数学と数学的自然科学」という理念の衣 ―あるいはその代わりに、シンボルの衣、シンボル的、数学的理論の衣といってもよいが― は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実で真の」自然として、生活世界の代理をし、それをおおい隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。つまり、生活世界で現実に経験されるものや経験可能なものの内部ではもともとそれしか可能ではない粗雑な予見を、無限に進行する「学的」予見によって修正するための方法を、真の存在だと思い込ませるのである。(73ページ)
ガリレイは、「発見する天才であると同時に隠蔽する天才」 (74ページ) でもあるわけです。

もちろん、「数学と数学的自然科学」という理念の衣をまとった世界に私たちが十分な真実性を見出すことも多々あります。例えばテクノロジーですが、私自身も多くの(精密)機械が正確に稼働することを日頃は疑っていません。その意味では科学の計算による世界把握を認め享受しています。

しかし、テクノロジーも、巨大化し複雑になっていくと、例えば震災時の原発のように、絶対安全なはずのものが事故を起こしたりすることは周知のことです。また、薬品といったテクノロジーも、人によっては効かずに副作用でかえって苦しむようになることもよく知られていることです。「数学と数学的自然科学」という理念の衣にもとづく計算は、私たちの日常世界の「粗雑な予見」に過ぎないことは、日常生活者にとっては何度も何度も痛感していることですが、それでも「SLA研究によるとこうだから」と、現場教師に特定の教授法を強要するSLA研究者も残念ながら一部存在します(もっともそういったSLA研究者は、権力を得るために自らの知識を利用・乱用している人というべきで、そういった人ばかりがSLA研究者だとは私も思っていません)。

しかしガリレオ的世界観はここで止まることなく、「特殊な感性的性質は単に主観的なものにすぎない」(76ページ)という学説によって、「人格的生活を営む人格としての主体を、またあらゆる意味での精神的なものを、さらに人間の実践によって事物に生じてくる文化的な諸性質を、すべて捨象する」(85ページ)事態を招きます。世界を「自然と心的世界という、いわば二つの世界に分裂する」(85ページ)二元論を導入し、さらに心的世界を科学から排除する、あるいはそれを自然とまったく同じものとして無人格的に扱うことを科学者と教養人に強要するにいたりました。

かくして、科学を行う者あるいは信じる者は、科学による支配を信じるようになりました。フッサールはこう言います。

いっさいのものについての認識力をたえず増大し、たえず完全にすることによって、人間はまた、その実践的な環境に対しても、つまり無限の進行において拡張される世界に対しても、その支配をますます完全なものにしてゆく。そこには、実在的環境の一部である人類に対する支配、したがって自分自身、ならびに仲間の人間に対する支配、自己の運命に対する力の増大、人間一般にとって合理的に考えうるような「至福」の完成、というようなことも含まれている。なぜなら人間は、価値や財に関しても、それ自体において真なるものを認識しうるからである。これらすべてのことは、合理主義にとっては自明な帰結としてその地平に存している。かくて人間は、真に神の似姿なのである。数学が、無限に遠い点とか直線とかについて語るのと類比的な意味で、このばあい比喩的に、神は「無限に遠い人間」であるということができる。(93ページ)
一部の科学者や教養人にとって「宗教」というのは侮蔑語で、「それは宗教のようだ」という表現は、相手にとどめを刺す時に使うことばですが、私から言わせれば、英語教育などというきわめて人間的で、自然科学的な意味で言えば莫大な複雑性に影響されている日常世界に対して、科学的方法を無限に適用することにより、真実に辿りつけ、学習者や教師も含めた世界を支配できると信じこむことこそは「宗教のようだ」と思えます。



フッサールは、このように「数千年来のすべてのこれまでの哲学の客観主義」の性質を整理した上で、「超越論的哲学」という用語を最も広い意味(=デカルトを通じてあらゆる近代哲学に意味を与えるもの)(137ページ)で使い、「超越論的哲学こそは、前学問的ならびに学問的な客観主義に対して、あらゆる客観的意味形成と存在妥当の根源的な場としての認識する主観性へと立ち帰り、存在する世界を意味形成体ならびに妥当形成体として理解し、こうして本質的に新たな種類の学問性と哲学とに途を開こうと試みる哲学」(139ページ)と規定します。この主題は第三部で展開されますが、そのまとめは後日に行いたいと思います。この第一部と第二部のまとめだけでも、いわゆる「量的アプローチ」が前提としている哲学(あるいは挑発的な言い方をするなら「信仰」)が少しは明らかになるのではないかと思います。



まったくの余談になりますが、私は最近とみに事務仕事が多くなり、なかなか本を読む時間がとれないので、この本をある武術の講習会にもっていって、昼休みに一人になった時に読んでいました。そこを通りかかった友人がこの本を見つけて「これは一体、何ですか?」と尋ねてきました。私は「授業をどうやって行うかというきわめて日常的な営みに、高度な科学的研究が必要だという理屈を信じてやまない人たちがいるので、その人たちを批判するために読んでいる本です」と答えました。それでも友人は得心しない顔をしているので、「つまり、屁理屈を批判するために、私はさらなる屁理屈で武装しているのです」と説明したら、友人も笑い出し、二人で大笑いしました。

この記事を書いているのは、午前中の雨も晴れた子どもの日の午後です。連休にこんな文章を書いているなんて、我ながらバカだねぇ(苦笑)。






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フッサール『危機』書(第三部)における「判断停止」についてのまとめ ― 質的研究の「客観性」を考えるために ―
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