2012年4月27日金曜日

TED EdとMIT+12: 「開かれた文化」ということ



[以下は、私が「英語動画で高度な英語説明力をつけよう!」に掲載した二つの記事です。重要度が高い情報だと考えましたので、このブログにも転載します。]


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TED Edの開始で、英語で教育を受ける者がさらに有利になるかもしれない






TEDが学習者用のサイトを開始しました。TED本体の動画を難しいと感じる人も、これなら簡単に見ることができるはずです。



TED Ed: Lessons Worth Sharing
  http://ed.ted.com/





教師によって作られた教育用動画に、Quick Quiz, Think, Dig Deeperなどの、理解や思考を促すページがついています。私たちは英語学習者として、これらの動画とページで学ぶことができます。

さらに私達が教師としてこのサイトを利用するならば、Flipで教材を自分の生徒用にうまく編集・修正することができます。

私は先程、Wiredの記事でこのサイトのことを知り、アクセスしたばかりです。

TED-Ed Launches Innovative Customized Learning Web Initiative http://www.wired.com/geekdad/2012/04/ted-ed-customized-learning/


今日現在ではまだベータ版ですが、今後の展開が楽しみです。多くの教師に活用されればされるほどこのサイトは強力になるでしょう。

と、同時に英語で教育を受ける者と、他言語で教育を受ける者との格差ができそうで、少々恐ろしくもあります。



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MITがKhan Academyと提携:MIT学生が小中学生用の教育動画を作成開始 (MIT+K12)




あのMIT(マサチューセッツ工科大学)が、Khan Academyと提携し、小中学生用の教育的動画を作り始めました。しかし作るのは、MITの教員ではなく学生です。







昨夜(というより数時間前)には、このブログでも「TED Edの開始で、英語で教育を受ける者がさらに有利になるかもしれない」という報告をしましたが、このMIT+12も、それに匹敵するインパクトをもつプロジェクトではないでしょうか。私はこのニュースを以下のサイトで知りました。

Edudemic: MIT + Khan Academy = We All Win.
http://edudemic.com/2012/04/mit-khan-academy-we-all-win/




間接的に聞いた話なので真偽のほどは定かではありませんが、日本で電子教科書の普及が非常に困難なのは、教科書が検定制度をとっているので、例えば電子教科書についているリンク先のすべてのページも検定しておかなければならないからだそうです。

馬鹿げている(上記が本当の話であれば、ということだけど)。



私が「英語教師のためのコンピュータ入門」の授業で強調していることの一つは、コンピュータ使用とは、技術の問題である以上に、新たな文化の問題であるということです。

この新しい文化を象徴することばといえば、例えばDavid Clarkの次のことばです。


We reject: kings, presidents and voting.

We believe in: rough consensus and running code



あるいはAlan Kayのあまりにも有名な次のことばです。


The best way to predict the future is to invent it.





私は教育という営みは、政府の(あるいは文部科学省)の専権事項でなく、公的な(Offentlich = open => public)な事柄だと思いますので、このMIT+K12やTED Edを素晴らしいプロジェクトだと思います。梅田望夫・飯吉透のお二人が2010年に『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書で書かれた流れは一層大きくなっているわけです。

私個人としてもこの流れを日本でももっと大きくしたいと思っています。ですから、ぜひ今一度「英語動画で高度な英語説明力をつけよう:はじめに」を読んで、このプロジェクトにも参画していただければ嬉しい限りです。コメントだけでも構いません。

私はワクワクしながら未来を創りたいです。


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追記:2012/05/03





ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学が、合同でこの秋から本格的なオンライン教育を始めるそうです。「きちんと勉強したいなら英語で」というのが、日本でも合言葉になるかもしれないという可能性を私は否定できません。

via Open Culture





2012年4月24日火曜日

「教養ゼミ」での学部一年生へのメッセージ





■最初に柳瀬の自己紹介
・授業:1年生にはコンピュータを使った自学の方法、2年生には実践的な学習英文法、3年生には語用論とコミュニケーション能力論、4年生にはグローバル英語論を題材としたスピーチ実践を教える。大学院ではCritical Applied Linguistics, Alternative Approaches to Second Language Acquisitionなどを教える。
・研究:コミュニケーション能力論、語り・ナラティブ、英語授業の質的分析、意識と身体、その他哲学的アプローチでの探究。
・影響を受けた学者:ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン、ハンナ・アレント、ニクラス・ルーマン。 
・尊敬する人物:山岡鉄舟、リチャード・ファインマン、ヨーゼフ・ハイドン。 
・趣味:武術、音楽鑑賞、読書、映画鑑賞、お笑い。 ・その他は私のMixiプロフィールを御覧ください(ただし、私は学生さんとはMixi, Facebook, Twitter, Google+などのSNSでは「友達」などにはなりませんのであしからず)。
・連絡方法:メール(yosuke@hiroshima-u.ac.jp)を歓迎します(スペルミスに注意!)。 
・面談方法:5分で済む用事ならいつでも研究室をノックしてください。ゆっくりお話を聞くべき用件に関しては、お互いにとって都合の良い時間帯を 予め決めさせてください。なお、携帯メールやTwitterなどの短文メディアで「大学の勉強ってどうすればいいんでしょう」などいう、じっくり話し合うべき事柄を質問することはやめてください。


***以下、学部一年生へのメッセージ***





■稚心を去れ

・稚心の例1:周りに依存し期待ばかりして、自らは動けない。 
・稚心の例2: 周りのことをないがしろにし、自分の野心にばかり拘る。 
・稚心でない例1:自ら動き、周りを活性化する。 
・稚心でない例2:自らを信じ、他を敬する。その結果、他にも敬せられる。 
・要は「お子ちゃま」になるな、ということ。 
・新卒教員のいくつかの例:「自分が育った文化と全く異なる学校に赴任して戸惑う」。「授業がまったく成立しない」。「生徒とどう関わっていいかわからない」。「保護者とのコミュニケーションに苦労する」。「同年代同僚が少ない職場でコミュニケーションが取れない」。「職場でのつきあいを断り一人で物事を抱え込むようになる」。「マニュアルがないとどうやって仕事をしていいかわからない」。「失敗したり注意されるとすぐめげる」。「褒めてもらえないのでヤル気をなくす」。「仕事を終えられず毎日睡眠不足で心身ともに追い込まれる」。
参考: 埼玉県立越ヶ谷高校長の日誌 http://www.koshigaya-h.spec.ed.jp/index.php?active_action=journal_view_main_detail&post_id=287&block_id=449&comment_flag=1#_449

■主体性を取り戻せ
・自分の人生は自分で責任をもて。(変えられない「宿命」の機縁を活かして「運命」を定める) 
・自分の心身で納得することを怠るな。「先生~、これでいいんですかぁ~」という間の抜けた声で他人に判断を委ねるな。抽象的な理解も究極のところは冷暖自知である。 
・他人の評価ばかり気にするな。まず、自らのからだで納得できるかどうか吟味せよ。 
・単位と成績を学びの指標とするな。心身の感性を働かせよ。成績がいいから、学びが深いというわけでは必ずしもない(どんな試験にも小手先のテクニックというものはある)。 
・カリキュラムを過信するな。自ら学びたいことはどんどん学べ。ただしカリキュラムを無視するな。 
・まずは身体を整えろ。文字通りのからだの姿勢が駄目なら、心の姿勢も衰える。あるいはからだが歪めば、心も歪む。 
・浮き足立つな。地に足をつけろ。ただし地面にへたり込み横着を構えるな。 
・"Always make a new mistake. But try not to repeat an old one."
関連記事: ヘラヘラして勉強しない若者へのおじさん的おせっかい  
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/04/blog-post_30.html 
優秀な成績で卒業しながら・・・  
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/05/blog-post_5095.html 
欠陥商品としての「考える」こと 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/05/blog-post_16.html 
身体を整えて、心の苛立ちや不安を鎮めましょう 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_16.html 
椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・ 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/01/blog-post.html

■師を尊ぶも、頼るべからず。
・親切な教師がやってきて、手取り足取り、一から十まで教えてくれることを待つな。学びの主人は自分だ。 
・教師に言われたことだけをやって、ほめてもらうことが学ぶことだなどと思うな。 
・単位にならないこと、評価されないことは学ばないという愚かな「受験テクニック」を捨てよ。 
・「師が月を指すとき、愚者は師の指を見る」。 
・教わり上手、教え上手になり、学びの場を自ら作れ。 
・尋ねる前に調べろ。調べる前に考えろ。からだを動かして考えろ。
関連記事: 考える・調べる・尋ねる 
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/04/blog-post_13.html 
岡野雅行さん:自分の頭と手で考える 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/blog-post_07.html

■大学での学びは、あなた一人が買った「商品」ではない。
・学校はディズニーランドではない。
関連記事: 授業に対して国立大学教員が有している金銭的責任 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/blog-post.html 
参考: クローズアップ現代「奨学金が返せない」レビュー 
http://blog.goo.ne.jp/posse_blog/e/53331dcfa486873ab62101d629fff229

■英語学習に関しては、昔と今では環境が、全く変わった。大学生にとって、英語は基本的に自ら使いこなし、その結果学ぶものである。 

・大学生であれば基礎的な英語力はある。基本姿勢としては「英語を勉強する」のではなく「英語を使う」こと。そうすれば結果的に英語も学べて身につくし、知識も深くなり、人脈も広がる。Don't study English. Use it!

 英語を「使う」ためには、以下の項目をうまく活かせ。


(1) 「楽しい」を活かす
・「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」--まずは圧倒的に「楽しい」という感覚から入ろう。
関連記事: 映画を繰り返して見て、ついでに英語を身につけよう 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_09.html


(2) 「好き」を活かす
・自分の趣味に関しては徹底的にマニアックに英語で読み・聞こう。例えばただ"X is not just elegant but exquisite."と、何の思い入れもないXについてこのような例文を聞いても、"elegant"や"exquisite"の語感は感じられない。しかしクラッシック音楽好きにとっては"Haydn is perfectly elegant, and I love his works so much. But Mozart is more than that; he is exquisite."といった例文は本当に心に響いてくる。心に響いた表現しか身につかない。 
・時々、映画を見ても面白くないし、自分で好きなことも特にない、といったパサパサの心身しかもたない学生さんがいる。小手先だけの暗記ばかりの学校教育で瑞々しい感性を失ってしまったのであろうか。そんな人は、まずは心身の感性を取り戻して欲しい。というより、感性の基礎がなければ何事も身につかない。


(3)背景知識を活かす 

・日本語で既に知っているニュース、あるいは読んだことがある小説・物語を英語で読んでみよう。 
参考記事: 安い・早い・うまいの吉野家風英語上達術
http://getnews.jp/archives/189557   
・また教英図書室にはPenguin Readersのように英語初学者向けに書かれた本がたくさんあり、借り出すことができる。簡単な英語を多読することは有効な学習法である(難しい英語を多読しようとしても、結局、きちんと読めず量も進まないので自己満足に終わる。多読は、自分では簡単過ぎるぐらいに思えるレベルから始めるべし。) 
参考記事: 多読で英語に親しみませんか?
http://www.seg.co.jp/sss/learning/index.html 
・正直、自分で本や新聞を読む習慣のない学生さんは、背景知識がおそろしく乏しい(そしてその背景には知的感性が枯渇しているという心身の貧困がある)。遠回りのように見えても、まずは日本語で広く深く読書しよう。 
・その意味でお勧めしたい習慣形成は、毎週決まった時間に必ず図書館に行き、そこで本を自分で選び読みかつ借りて帰ること。たとえ完読できなくてもよい。書架のたくさんの本の中から自分で一冊を選ぶという行為によって、あなたの知的アンテナが形成される。


 (4)自動システムを活かす
 ・ICT (Information Communication Technology)によって、情報は「自分で収集する」ものというより、むしろ「勝手に集まってくるものを自分で捨てて本当にいいものだけを選ぶ」ものになったと言える。自動情報システムを自分用に作り上げよう。
関連記事: ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html
Google Reader + Twitter + Evernote + Chromeの相乗効果が創り出す新しい知の生態系
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/google-reader-twitter-evernote-chrome.html


(5)人を活かす

 ・「あなたにとってよい友人の友人は、やはりあなたにとってもよい友人となる」ことが多いように、「あなたにとってよい情報源である人が信頼する情報源である人は、やはりあなたにとっても新たなよい情報源となる」ことが多い。 
これは本の著者やブログのライターにおいても同じである。よい情報源を見つけたら、その情報源がいいとする情報にはとりあえず注目せよ。そのうちにその情報源の癖やあなたとの相性がわかってきて、情報が効果的に得られる。 
この点で、柳瀬が発する情報源を、あなたにとってのよい情報源と私から言うのは、いくらなんでもおこがましいが、TwitterやGoogle+といったSNSを、仲間内のつぶやきでなく、情報発信源として使う例もあるということで、よかったら以下を参照されたい。そして、あなたにとって有益な情報源を見つけてフォローしてほしい。
柳瀬のTwitter(日本語と英語での情報発信)
https://twitter.com/#!/yosukeyanase
柳瀬のTwitter List: Essentials (厳選した柳瀬にとっての英語情報源)
https://twitter.com/#!/yosukeyanase/essentials
柳瀬のGoogle+ (英語での情報発信。Twitterよりもさらに精選)
https://plus.google.com/u/0/111182176762120375601/posts

・他人から有益な情報を提供してもらうための有効な方法の一つは、自分自身ができるだけ他人に親切な形で良質の情報を提供し続けること。そのために自分でブログやSNSを運営してもいいだろう。また、ぜひ次のプロジェクトに参加してもらいたい。
英語動画で高度な英語説明力をつけよう!
http://greatpresentationvideos.blogspot.jp/
 このブログの目的説明と読者の皆さんへのお願い
http://greatpresentationvideos.blogspot.jp/2011/04/blog-post.html



(6)自分が知っている英語を活かす 

・日本人英語学習者の多くは、英単語と日本語訳語を対にして丸暗記することを語彙学習だと勘違いしている。そんな学習法ではなかなか記憶が定着せず、また仮に記憶に残ったとしても、自分の心身の変化に応じて自由に使いこなせない、つまりは「身についていない」ことがわかっているはずなのだが、丸暗記法に固執する。(時に、「いや、先生、オレにはこれしかないっす!」と断言する学生さんがいるが、私からすればこれこそ「稚心」の一例である)。 
 ・英語の単語を孤立した点の集合としてではなく、相互が緊密に結ばれたネットワークとして学べ。「単語は例文で覚えろ」ぐらいはよく言われたはずが、それだけでなく「単語は英英辞典で調べる」ことを鉄則にせよ。最初の数カ月は、なかなか使いこなせないかもしれないが、使いこなすうちに、英語の単語と単語が線や網になって結びついてゆき、やがては自分で一つ英単語を口にすると、それにつられて自然に他の英単語が出てくるようになる。それが「英語で考える」ことであり、「英語で話す」こと。高い英会話スクールや留学プログラムに憧れるよりも、地道に英英辞典を引き続ける習慣を身につけよ。

・なお英英辞典は、最初は学習者用のものを勧める。だがだんだん英語力が上がってくると、学習者用では語義の説明や掲載語数の点で満足がゆかなくなり、一般向けの英英辞典を使いたくなり、また使い始めるとそちらの方が心地よくなってくる。そのように英語で英語を学べるようになったら、おめでとう。免許皆伝です。あなたはどんどん英語を使えるようになり、かつその英語使用が相乗効果を引き起こし、英語力、知識、人脈が飛躍的に拡大するでしょう。その日を目指して、まずは学習者英英辞典を引き続けてほしい。継続は力なり。自分に才能がないと思うのなら、努力を継続せよ。

 ・以下はある学生さんの感想。
授業の中で触れられた単語の話や英英辞書の大切さについて振り返りたいと思います。まず単語帳で覚えたら、英語そのものじゃなくて訳された日本語を覚えてるという感覚に最近気づきました。対訳された日本語でしか覚えてないために、日本語の表現が変わるとその単語がどちらも表していると認識できないという現象が起こるのです。つまり日本語と英語の単語帳の中の一対の関係しか得られないと思うのです。言語はその言語でしか得られないニュアンスがあると思います。だから、アウトプットしようとした時にその日本語の訳でしか覚えてないから自分が表現したいことが出てこず、浮かぶのは日本語のまま。すっごく悩むくせに解答例を見て、こんな簡単な単語でいいの?と思うこともあります。その点英英辞書は英語で説明されているから日本語で覚えてまたその説明を英語に訳すという過程抜きで直接その言葉を理解できるものだと思います。


■私からすれば不思議でしょうがない学生さんの言葉と、それに対する私の考え
・「ワタシは、本当は○○大学に入りたかった。本当のワタシはこんなところにいるような人間ではない。」 
⇒でもあなたは今のところ広大にいる。手始めに広大/教育学部/教英でトップに立ったらどうですか。10年に一度の逸材と言われたらどうですか。(ただし、もし例えば本当は医者になりたいなどと、決意が固く、広大教英とその進路希望のミスマッチが甚だしいなら、チューターなどと相談してください。) 
・「自分としては広大に来られて満足している。」 
⇒広大に入学しただけでは何の証明にもなりません。せいぜい受験学力が多少あったぐらいのことです。ある程度の受験学力は本質的な学力の必要条件かもしれませんが、十分条件でも必要十分条件でもありません。 
・「周りは英語をペラペラ話せるのに、自分は話せない。今まで英語の成績はよかったのだが、これでは、これまでの学校の英語の勉強はすべて無駄であったと結論せざるをえない。」 
⇒よくある思い違いです。ペーパー上の学力がある人は、きちんと英語の基礎訓練(ディクテーション、レシテーション、多読など)を地道に重ねていれば、大学時代の後半からたいていの場合、きちんと話せるようになります。しかもそのような人の発話は、文法的にも内容的にもしっかりしている場合が多いです。 
逆に怖いのが、高校時代まで会話の訓練ばかりしていた人です。この人達は入学当初は「話せる=英語ができる」と思われがちですが、その後、日本語と英語での読書を怠っていると、だんだんと自分の英語には深みがないことが周りにも明らかになってきます。さらに重要なことに、就職のためなどの各種試験においても、読書力不足から点が取れず、思うように就職できなかったりします。「英語力=ペラペラ話せること」という通俗概念は今すぐ捨ててください。 
・「ボクは英語でなく、人間性で勝負する教師になりたい。」 
⇒人間性を売り物にするというあなたは、自分を釈迦かイエス級の人物だと思っているのですか。人間性を高めるというのは、人間が人間である限り誰もが行わなければならないことです。英語教師だろうが、ビジネスパーソンであろうが、主婦であろうが、公務員であろうが、誰もが人間性を謙虚に高めなければなりません。   
人間性は売り物にはできません。人間性はあって当たり前、そして逆に不完全であるのが人間です。あなたの人間性が、売り物になるほど高いものと考えたら、それは逆に危険ではありませんか? 
英語教師だったら、まず英語ができるようになってください。「自分がよくわかっていないこと・よくできないことは、教えない」という当たり前のことを守るためには、まずは英語ができるようになることが必要になります。
関連記事:入学式挨拶:「『学ぶ』ということを学ぶ」、「自分がよくわかっていないこと・よくできないことは、教えない」 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_04.html
・「暇で暇でたまらない。誰か遊んで下さい。」 
⇒自分自身で自分を退屈に思うような人は、他人からも退屈に思われるのではないでしょうか。まずは自分で自分の生活を面白くすることを考えてみてはどうでしょう。ちなみに面白く遊ぶためには、相当深く学んでおくことです。そうすれば将来忙しい社会人になったときにでも、短時間で友だちができます。 
・「新書は難しくてわかりません。さっぱりわかりません。」 
⇒新書なんて入門書です。知的職業についている社会人に、そんな台詞は許されません。 
・「先生が薦めてくれた本は1,200円もするから高いです。」 
⇒・・・・(絶句) 
・「何の本を読んだらいいのかわかりません。教えてください。」 
⇒日本は情報のない国ですか?広大入学式の時に何の本をもらいましたか?大型書店や図書館には様々な情報があります。ネット上にもかなりの情報があります(アマゾンのカスタマーレビューも便利です)。また私のブログ・ホームページの「読書」も参考にしてください。 
・「いろいろな情報がありすぎて、私は何を読めばいいのかわかりません。どの本を読めばいいのかきちんと教えてください。」 
⇒あなたは自分の恋愛対象も他人に教えてもらいたいと思うタイプですか? 
・「これ一冊だけ読めばOKという本を教えてください。」 
⇒あなたは世界がそれだけ単純だと思っているのですか? 
・「英語を使った華やかな仕事に就きたい。」 
⇒仕事はあなたの好きなことをすることではありません(職場はディズニーランドではありません)。第一、あなたの英語力はどんなものですか?私の経験では、英語を勉強しない学生に限ってこのようなことを言い出します。まずは最低英検一級、TOEFL-ITP600を取ってください。
関連記事: 英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/toefl-itp.html
・「頑張ってネイティブ発音を身につけたい。」 
⇒たとえあなたが10年間必死に努力してもせいぜい「英語国に数年いたのかな?」と思われる発音を身につけるだけです。そんな人は世界中に山ほどいます。人々はあなたの発音には興味ありません。あなたが話す話の内容に興味があります。「英語ペラペラ」は別にかまいませんが、「頭の中身もペラペラ」にならないようにしてください。 
・「大学生活の目標は英検一級合格です。」 
⇒それはせいぜい「英語バカ」になるぐらいです。「専門バカ」ですらもありません。大学生は「専門バカ」から脱皮して卒業する必要があります(もちろん「英語バカ」でも「専門バカ」でも、単なる「バカ」よりはいいのですが・・・)。英検一級合格などは単なる一つの通過点と考えてください。 
・「この授業は英語教師になるためには難しすぎて不必要なことを教えている。」 
⇒教員は二十年、三十年と英語教育について考え、研究し続けてきました。その結果のごく一部を精選して授業で教えています。二、三十年考え研究してきた者の判断を、英語教育について学び始めたばかりの者が裁断できるという理屈を私は理解することができません。 
・「ボクはもともと理系なので、本を読むのはやっぱり苦手です。数学なら得意なんですけど・・・」 
⇒高校生時代のあなたの成績は、文系科目より理系科目の方がよかったのかもしれませんが、あなたは大学で理系科目をほとんど勉強していないのですから、今のあなたは理系でもなんでもありません(第一、統計学や実験計画ですら理解していないではないですか)。それでいて本も読めないなら、理系でも文系でもない単なる○○です。 それに間違えないでください。多くの理系の人間は、文系の人間よりはるかに多くの英語論文を正確に読んでいます。見映えだけの「英会話力」以外の英語力では、理系の人間の方があなたよりはるかに高いことも時にあります。 
・「バイト先での責任があるから勉強できない。」 
⇒経済的必要性以上のバイトを、ただNoと言えないから続けていませんか?バイトでいい社会経験を積んでいると思っていませんか?集中して勉強できる若い日々という貴重な財産を、一時間あたり数百円で売り飛ばしているだけではありませんか? あるいは自分できちんと断ることができない主体性の無さを、「私って結構イイ人」とごまかしているのかではないですか? 経済的必要性以上のバイトは私はあまり勧めません(深夜のバイトや、風俗賭博関係のバイトは別の理由で、学生はやるべきではないと私は強く思っています)。 なお経済的必要性からバイトをやっている人、私も学生時代はそうでした。応援します。短時間で質の高い勉強をしてください。 
・「大学時代は適当に遊んで、大学院で勉強したい。」 
⇒大学院のレベルは、大学以上のものです。勉強していない人が大学院に来ると、お互い大変に苦しい思いをしなければなりません。勉強したいなら今してください。というより学生の責務は勉強です。 
・「親もいいって言っているから、しばらくは進路を決めません。」 
⇒あなたは自分で自分の人生から逃れようとしており、それを親のせいにしていませんか? 現代社会の厳しい側面も知っておいて下さい。 
・「今は勉強とかしていないけど、将来は留学とかして、国際関係論とか勉強して、ジャーナリストとかになりたい。」 
⇒あなたは日本語の新聞や書籍を読んでいますか?というより読めますか? ついでながら聞きますと、なぜあなたは「とか」という表現を多用するのですか? 
・「・・・・・」(私が問いかけた「大学で取得した単位のうち、本当に自分のためになった単位は何単位?」の問いに対しての多くの学生さんの反応) 
⇒あなたは「楽勝」単位ばかり選んで、得をしましたか 
・「職場では誰も何も教えてくれないんです。」(ある卒業生の言葉) 
⇒当たり前です。職場では必要最小限の研修以外は基本的に誰も積極的かつ親切にあなたに仕事のやり方を教えてはくれません。学校ではあなたは授業料を払っているという意味で「お客さん」でしたから潤沢な教育サービスを受けることできましたが、職場ではあなたは(逆に)給料をもらって働いている「労働者」です。給料ももらって教育サービスも受けられるなどといった贅沢は世間では期待できません。だからこそ学校時代に、社会人としても自立できるだけの基礎学力・勉強の仕方を学んでおくのです。   
もちろん新人は職場の先輩に質問をすることは許されます。しかし二度も三度も同じようなことを聞く新人はいい顔はされません。尋ねる前にまずは自分で考え、調べること。それでどうしてもわからなかったら丁寧かつ簡潔に尋ねることが社会人には要求されています。


■その他、気をつけるべきこと
・20歳の誕生会での一気飲み。 
・学生同士の付き合いにNoが言えず、体調を壊す。 
・サークル活動への逃避。 ・深夜の帰宅やバイト。 
・賭博・風俗関係などのバイト。 
・借金。奨学金返済についての無理解。 
・うつ状態などの精神的トラブル。 
・「何気ない」軽犯罪、カンニングなど。 
・クレジットカード情報などを軽率に他人に知らせる。 
・とにかく打たれ弱い(あるいはプライドが異様に高い)ので、ストレスを避ける事ばかり考える。 
・困ったこと、自分の失敗などを他人に相談できず「大丈夫です」と言い続けているうちに破綻する。



■とにかく「お子ちゃま」のままでいないこと。お子ちゃま的内弁慶世界は、卒業と同時に暗転するだけである。 




■その他、お勧め記事



・まとまった文書の作成法 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/01/blog-post_21.html 
・オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/10/blog-post_21.html 
・英語子音の発音法のわかりやすい表記 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/12/blog-post_09.html 
・英語教育系大学院生のための私家版リンク集 
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_07.html


2012年4月18日水曜日

竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想




学部4年生を対象とした『地球的言語としての英語』の授業の第一回目に、導入も兼ねて、竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫のお話をしたら、予想以上に学生さんがいろいろと考えてくれて、WebCTシステムに面白い感想を多く残してくれました。以下は、その一部です。



■教師の声を届かせる前に、生徒自身の声を教師が受容する(S君)


今回の授業の中で学校教育における声を届かせることの重要性についての話が印象に残った。授業でもあったように新任教師がまず苦労することが声を生徒に届かせることである。

この声を生徒に届かせるというのはただ単に声を張り上げて、生徒が聞こえるようなボリュームに調整するという意味ではなく、例えば生徒との間合いであったり、発問のタイミングなど様々な要因を含めて生徒が聞いて理解することを指す。

ではどのようにして教師は生徒に自分の声を届かせているのだろうか?一つ考えられる答えは経験を積み上げていくことである。生徒と何年も接していく中で生徒とのインタラクションの取り方を自然と把握することができるかもしれないし、何度も授業をする中で発問のタイミングや声を届かせる術を身につけていくことができると考えられる。

では私たちが新任教師として現場に出たばかりのころには生徒に声を届かせることはできないのだろうか?確かに現場に出たばかりのころには経験はなく、声を届かせる術を知らないかもしれない。

ただ生徒に自分の声を届かせようと努力することはできるはずである。生徒に声を届かせるということは、同時に生徒が声を受容してくれるはずだという想定がある。そのときにまず声を受容してくれる生徒自身のことを知らなければならない。誰が何に最近興味を持っているのか、何について悩んだり、考えたりしているのかなどを知ることは、教師の声を届かせるための第一歩であると考える。さらに生徒自身も教師に対して興味を持たせることでより教師の声が届きやすくなるかもしれない。

いずれにしても教師と生徒の間に良い人間関係が成り立っていなければ、教師の声は絶対に届かない。

そのためにも教師の声を届かせる前に、生徒自身の声を教師が受容していく必要があるのではないかと私は感じた。




■生徒を注意する時の教師の声(N君)


 今日の講義の中では、竹内敏晴さんの声に関するお話が最も印象に残ったのでこのことについて書こうと思う。
 
 まず「声」の質の重要さについてだが、自分の小学校からの経験からもこのことは明らかだと思う。今日の話でもあったが、大きい声を出せばそれでいいというわけではない。相手に伝えようとしている人の声は、なぜか吸い込まれるように聞き入ってしまう。逆に自信なさそうに話しているとそれは伝わってしまう。
 
 これはどの職業でも、どの場面でもいえることだと思うが、とりわけ教師に焦点を当てて考えると、一番分かりやすいのは生徒に注意をする時だと思う。今日の例でもあったが、授業中に教室がうるさくなって注意をする場面でどのような声を使うのかに、教師の性格や指導技術が垣間見ることができる気がする(もちろんそのような状況を作らないことが大切なのだろうが)。これまで受けてきた先生の中には、大きな声で叫ぶ(キレるような)人や、何も言わずに待つ人、黒板をドンドンとたたく人、静かに怒る人など様々なタイプがあったように感じる。どれが正しいとか間違っているとか一概に言えないだろうと思う。
 
 このことを考えているとイギリス留学先のC先生が話していたことを思い出した。彼女はかつてこのような状況になった時に「うるさい」と叫んだことがある。その場では、彼女の学生は静かになったのだが、それ以来その学生らとの信頼関係が崩れていったと話していた。
 
 この話を聞いて私が思うのは、目の前の状況をコントロールしようとする余り自分の声が「相手のため」ではなく、「自分のため」に使われてしまったので、学生は見切りをつけてしまったのではないかということだ。「声」は相手に届かせるものだとよく言われるが、それは量的なものではなく、質的なものであるということを私たちは再確認する必要があると思った。





■借り物でない自分のことばで伝える(Nさん)


声・ことばを届けるというのは、意外に難しいことだと思う。小学校から高校までを思い出してみれば、声は大きかったが言っている内容は印象に残っていない先生、たいして大きな声だったわけではないが言われた言葉は覚えている先生、そもそもどんな声かも思い出せない先生など、さまざまである。

印象に残ることばというのは、わたしの場合、内容だけでなくそのひとの声もそのまま印象に残る。そのため、頭の中で、そのひとの声で、繰り返し再生される。それを例えばわたしの声で再生しても、きっと印象は半減すると思う。だれかのことばを代弁するというのは、前回のセメスターの授業であった身体論でいえば、その内容が100パーセント再現されるものではないと思うからである。100パーセント理解することは実際問題不可能であるなら、それを100パーセント再現することも不可能なはずである。

私は中学時代放送部に所属しており、実は朗読で全国大会入賞経験がある。たいした専門知識も持っていなかったが、人が書いた文章を読むのだから書いた人が残念だと思わない程度にはきちんと読まなければならないという使命感だけは持っていた。実際そのように朗読できていたのかどうかは分からないし、きっと作者の意図を完全に再現はできていなかったはずだが、聞いている人に伝わるように、ということは意識していた。

たとえば教育現場において、印象に残ることばというのは、その内容も然ることながら、「声」も大切なのではないかと思う。聞き手にことばを届けるためには、どこかから借りてきたことばではなく、自分のことばで伝える必要があると思う。それは教師にもあてはまるものであり、たとえば教科書や文法書の説明文をそのまま読む(わたしはこれは「無機能な声」の一種だと思う)のではなく、自分のことばで、よりわかりやすい表現で、生徒に届けることができたなら、その理解も深まるのではないだろうか。そして教師は、ことばを届けるだけでなく、生徒からことばを引き出さなければならない。ほかの生徒に届くような声を生徒から引き出すことはきっと難しいことではあるが、姿勢を正し、声を届け、信頼関係を築いていけば、誰にとっても不可能なことではないと考える。



■バトミントン部での体験から(S君)


子供をコントロールしようとして、物理的な指示(例:もっと大きい声で!)をしてみたり、教師が無理やり声を張り上げたり甲高い声を上げたりするが、それでは授業はうまくゆかず、教師は自分が本来持っていた声の繊細さや豊かさを失ってゆく。私たちが目指すような言語教師は、声というものをもっと意識して、自らも生徒にも豊かな声を持たせなければならない。また体と声(話し言葉)は一つであるから、切り離せば、発言は生き生きしたものにならない。

これについて、私は部活動での経験を思い出した。私はバドミントン部に所属しているが、ある大会で、試合前にうまく集中できないままにコートに入った。その試合には負け対戦相手にアドバイスを聞きに行くと、その選手から「気合の入っているような声は出ていたけど、どこか、無理やり出していたね。」と言われた。その試合では、確かに声(相手コートに打ち込めれば「よっしゃ!」など)は出していた。しかし振り返ってみると、それは“出ていた”声ではなく、“出していた”声だった。一心不乱にゲームに入り込んでいれば、気合に入った声は自然に、無意識に出るものだが、その試合では体(俊敏性、反応速度など)と声が一体になっておらず、それが相手選手にも伝わったのだろう。声の物理的な大きさや高さは普段と違いはなかったはずだが、どうして「無理やりだしていた」と相手選手に気づかれたのか、当時は驚いたし、不思議であった。

声は出すものでなく、体からにじみ出るものであって、それは授業においても同じはずである。準備不足だったり、熱意のない授業をすれば、それは声にもあらわれてすぐに生徒は気づく(先ほどの例の相手選手のように)。それでは生徒に“いい声”を出してはもらえず、自分の声も届かなくなってくる。生徒に声を届かせるためには、まず教師自身が授業に従事し、そのうえで声に敏感でいなければならない。



■「身体・声・言葉」でなく「からだ・こえ・ことば」(F君)


今回の授業では多くの人が「声」というものに注目したようだったが、僕はそれよりも「からだ」というものに注目したい。

まず「からだ」の定義として、身体に心が通ったものであるというとらえ方をした。それは単なる物質としての肉体のことを表すのではなく、そこに思考や精神などが通った状態の身体をいうことである。この「からだ」は人間の本質であり、人間を人間たらしめている状態ともいえる。

ここで今回の授業で注目されていた「声」というものに注目してみる。生徒に「声」が届かない教師の例が挙げられていたが、これは教師自身が「声」を物質的、物理的な道具としかとらえていないからではないかと思う。

ここで僕が提言したいのが、それを「声」ではなく「こえ」としてとらえたらどうか、ということである。物理的な「声」に心を通わせた「こえ」ならば人に伝わるのである。なぜならば「こえ」には物理的、表面的な音声としての「声」の裏側ににある、もっと根本的な「伝えたい」という想いがそこには込められているからである。また「こえ」が発せられる土台となるのは「身体」ではなく「からだ」であり、「からだ」ならばその一挙一動に意味を感じられるのである。

これは単に漢字をひらがなにしただけだとも言われそうだが、要は伝えたい、聞いてほしいという根本的な想いがあれば、必然と身体はそれを伝えようとするのではないだろうか、という考察である。

この考えにたって言語というものについても少し考えてみた。今回行き着いた答えが、言語を「言葉」でなく「ことば」でとらえようという考えである。

まず言語というのは単なる記号ではなく言葉である。言葉であるからには人間の何かを伝えよう、という意思がその裏側にあるべきである。人間がこの必然性をもって英語を発することで、「言葉」に心が通って「ことば」になるのである。これは物理的ということ以上の意味を持つという点で、動物のコミュニケーション手段よりさらに高次のものである。言語を専攻する身として、この人間独自の「ことば」というものの考察をさらに深めていく必要があるな、と考えた。




■英語教師の音読(K君)


 今回の授業を受けて一番印象的だった内容は竹内敏晴先生についてのお話である。教師の声と姿勢によって生徒の態度が変わるという話は本当にその通りだと思った。自分はまだ経験もないので塾で生徒に指示を出すときについつい声を張り上げてしまう。実際そうしなければ伝わらないと思っていたが、自分が生徒だったときの記憶を思い返してみると、声を張り上げる先生の言うことはあまり耳に入ってこなかったと思う。なんか大声を出しているなという程度にしか受け取っていなかったので今回このことを思い出すことができて良かったと思う。
 
 また、本当に話しかける、語りかけるということは自分の本当に思っていることを相手に誤解なく、かつ自然に胸にしみこむ、腑に落ちることが特に教育の場で重要であると思った。とりわけ英語は言語教育なので自分の思っていることを自由に過不足なく相手に伝えるコミュニケーションが求められているとわたしは思うので、教師自身もただ英文を発音に注意しながら読むのではなく、自分の体にまず自分が言おうと思っている内容をおとしてから体全体で自分自身の表情のこもった自然な英語を話さなければ生徒に英語を機械的に音読させてしまうだけになってしまうと思うので、自分自身がまずその点に注意して英文に触れて生きたいと思った。私自身、人々が表現しようと思っている感情、表情というものは個人個人必ず思っているニュアンスなどが違うので、できることならモデル提示をせずに生徒が自分自身で本分を解釈し、それを自分なりに表現することができるようになることができれば理想的であると考えているので、今回の分野は非常に興味深かった。
 
 これからの生活の中で今日の授業の中にあった”姿勢”というものをまずは見つめなおして、自分の生き方を4年生になったのでもっと真剣に考えたいと思う。



■生徒がゾクゾクするような英語朗読を目指して(T君)


私は近頃『Harry Potter and the chamber of seacrets』の英語版朗読CDを聞いています。朗読者のStephen Fryさんの表現力には毎回驚かされるばかりです。朗読はStephenさん一人で行われており、BGMや効果音等は一切ない状況で、個性豊かな登場人物を声だけで完璧に演じています。目を閉じて聞くと、頭の中でその場面の状況や登場人物の表情まで浮かんでくるほどの、圧倒的な表現力です。声の強弱やピッチ、イントネーションに加えて、各セリフのスピードや間の取り方など、本当に参考になります。

 生徒の知的好奇心を掻き立て、自律した学習者を育てていかなければならない英語教師には「知のエンターテイナー」としての側面が求められます。教科書付属のCDを流して終わるのではなく、教師自身が作品の内容を声と体で体現して朗読することにより、生徒のより深い理解を促したり、生徒が英語を体現する上での見本を示していく必要があると思いました。

 私自身まだまだ十分な朗読ができずにいて、自分の勉強・努力不足を実感しているところです。生徒をゾクゾクさせるような、生徒にいきいきとした英語を感じてもらえるような朗読ができるようになることが、私の現在の課題です。





■ある剣道家の英語スピーチ(Mさん)


 今回の授業を受けて「伝わる言葉」について印象的な出来事を思い出すことができました。
イギリスへ留学していた時、私はある剣道大会に参加することができました。その大会の主催者の方は
以前にイギリスにビジネスで海外赴任していた際にイギリスの剣道の普及に努め、現在は毎年、大会の時期になると日本から1週間渡英して大会を運営するそうでした。
 わたしはこの方の、大会での開会式の言葉が今でもとても印象に残っています。英語自体はいわゆるカタカナ英語に近いものであり、流暢さという面ではもしかしたら日本の中学生のほうがもっと“良い”英語を話すかもしれません。
 しかし、その方がメモを見ながらも必死に ルールの説明をしたり、 祝辞を読んだり、 スコットランドの剣道普及に対する自分の想いを熱く語る姿から、多くの伝わる何か、があるように思いました。
イギリスの剣友がわたしにこそっと教えてくれたのは"He's a great kendoka of Scotland."という言葉でした。
 感覚的な話しになりますが伝わる言葉には、やはり何かしらの力がある気がします。
それはきっと内面から湧き出るものでなければいけない、とも思います。そして行動が伴う人の言葉には説得力があると感じます。「話術」「面接術」など、聞かせるためのテクニック的なものが有効な場合ももちろんあると思いますが、そこに話している人のspiritがなければ、表面的な言葉に留まってしまうのではないでしょうか。
 私は上手く話すのが苦手、という意識をずっと抱いてきましたが、それでも下手なりに心のこもった言葉で伝えられるように努力したいと思っています。



■記号としての英語授業への違和感(Fさん)


授業で発言したことと繰り返しになりますが、私はある公立中学校で3ヶ月間、学習支援や学校業務のお手伝いをさせて頂く機会がありました。そこでみた英語の授業では、言葉(英語)が単なる記号のように扱われているように私は感じました。

ターゲットの言語材料のプラクティス、教科書の音読練習、授業初めのあいさつやルーティーン活動など、あらゆるスピーキング活動において、教師はいかに噛まずに速く英語(記号)を読めるかということにこだわっているようでした。言葉に込められた話者の意図や考えなどは無視され、そこでの「言葉」は「声」ではなく、「心」から分離された単なる記号・音として用いられていました。教師だけでなく生徒までもが、いかに速く間違えずに読めるかという言葉の本質とはズレている部分で英語の楽しみを感じているのです。

私自身、英語を声に出したり、朗読したり、話したりすることが大好きで、(主観ですが)日本語以上に声色のを変えることによってemotionallyに自分の気持ちや心を表現できるというところに特に英語の魅力を感じている者なので、そのような状況をみてかなりショックを受けました。生徒たちは本質的な言葉(英語)の楽しさを感じないまま卒業し、先生の「正しい」やり方を「正しい」と信じてこれからも英語と接していくのかと思うととても悲しかったです。

教師自身が思う「正しい」やり方は、生徒の考え方にも影響を与えるものです。英語の教師になる者として、言葉の本質や楽しさとは何かということをもう一度捉え直し、授業を通して本当の英語の楽しみ方や言葉の面白さを生徒に伝えていける教師になりたいです。