2011年2月24日木曜日

ゼミ活動で何をどう学ぶのか(ゼミ生のまとめから)

本日、第一回目の学部ゼミを行いました。私の講座では3年生の1月末にようやくゼミ決定が行われるので、実質的なゼミ活動はどうしても2月からになってしまいます。本当はもう一年前(せめて半年前)からゼミ活動を行いたいのですが、まあとりあえず現制度ではこれから約一年間学部ゼミ活動を充実させてゆきたいと思っています。

第一回のゼミは、大学・大学院での専門研究に関する記事を予め読んで自分なりに理解できたことを文章化しておくことを予習とし、本日の実際のゼミ活動ではその予習をもとにゼミ生にこれらの記事を説明してもらったり、その説明の内容や仕方について討議してもらいました。充実したゼミになったと思っています。

以下は二人のゼミ生の予習(自らの理解の文章化)です。それぞれに大学生活最後の年のゼミ活動で何を学ぶべきかをまとめていますので、このブログの読者の皆さんの中にも興味をもってくださる方もいらっしゃるかと思い、ここに掲載します。



ゼミでの活動を通じて学びたいこと


1 知的仕事のABC

1.1 A - Analyze

1.1.1 A - Analyzeとは

Analyzeは文字通りこれから自分が行うべきことを分析することです。そして分析結果を用いてタスクをどのようにこなすかを計画することです。

1.1.2 計画

1.1.2.1 なぜ計画が重要か

「エクセルで行うタスク管理」の記事でも計画の重要性が説かれていましたが、この項ではなぜ計画を立てることが重要なのかについて自分の経験を基に考えていきたいと思います。

1.1.2.2 タスクは無尽蔵に増えてゆく

タスクを「自分が読みたい本」に例えて論じます。

これは自分が本を読むようになってわかったことですが、本を読むと自分が読みたい本というのが数限りなく増えていきます。ある本の中で紹介されていた本、ある本の思想の基になっている本または人物、入門書を読んだ後に原書を読む等様々なパターンが考えられます。

また、上記の例は「本と自分」だけですが、実際には本屋さんをぶらついていて偶然面白そうな本を発見する、先生や友人に面白そうな本を紹介されるなどの「他者と自分」という偶有性に関わる部分もあります。が、間違いないのは読みたい本の数は増えることはあっても減ることは無いということです。

しかし、際限なく増え続ける「読みたい本」を全て読みつくすことは不可能です。なぜなら私たちには限られた時間しか与えられていません。そしてただ本を読んでおけば良いという生活は非現実的な贅沢の極みでしょう。

したがって私たちは「読みたい本」を管理する必要があります。優先順位をつけ、直接的に研究に関係するもの、直接的には関係しないが関係するかもしれないもの、個人的な趣向のために読むもの等カテゴリーに分類し、計画的に読書を行うことでより効率的に楽しく読書を進められます。

1.1.2.3 各タスクの独立性

私たちは数多くの異なるコミュニティに属して生活を送っています。それらのコミュニティは大抵の場合互いに関係がありません。そして各コミュニティはそれぞれに私たちにタスクを課します。

例えば一般的に大学生は大学(授業や研究)・サークル・アルバイトという3つのコミュニティに属しています。通常、授業の課題をこなし、サークルの活動や話し合いに参加し、アルバイトをする、という3つのタスクを同時並行でこなしています。各々が各々に重要なのでアルバイトがあるから課題ができないというのは「言い訳」として捉えられます。

このように多数のタスクを同時にこなしながら、どれもが別のタスクの事情を勘案してくれないという事態は日常的な光景です。その中でタスクを達成するために計画を立て、それらを調整するのはやはり自分しかいません。


1.2 B - Begin

1.2.1 B - Beginとは

Beginは取りも直さず「始める」ことが大事だということです。記事は、計画を立てても心理的にぐずぐずしてその仕事に取り掛かることができない場合が多いため、「始める」ことが重要であると説いていました。

しかし、私は別の視点をもってBeginが本当に重要だと感じたので以下で論じます。

1.2.2 AnalyzeをBeginする

私にとって仕事に取り掛かることよりも仕事をAnalyzeすることの方が億劫に感じられます。なぜなら分析し、計画すること自体は仕事自体の進捗には何の影響も与えないからです。計画しても仕事は始まりませんし、計画しなくてもなんとなくやっていれば仕事はその質は最低ながらも形式的には終了します。

また、恥ずかしいことながら私には計画を立てて何かを実行するという経験が圧倒的に乏しいです。今まで、あらかじめ誰かが決めた計画に沿って仕事をこなす。または計画などなくてもとりあえず納得できるレベルにはこなせるような容易な仕事しか行ってきませんでした。

しかし、卒業論文や研究などは誰かが計画を立ててくれるものではありませんし、計画無しに達成できるような容易ものではありません(容易なものにするつもりもありません)。

なので私にとって分析・計画を「始める」というのは何よりも重要なポイントです。分析・計画を「始める」ということをこの春休みの課題とします。


1.3 C - Check&Change=Control

1.3.1 C - Check&Changeとは

CにはCheckとChangeそしてControlの3つの意味があります。まず計画を立て、そしてそれを実行する。その中で私たちは計画の進捗状況をCheckする必要があります。必要があれば、チェックした結果に対して計画をChangeします。このように計画をControlするのがCです。

1.3.2 私たちは計画の奴隷になる必要はない

私たちは計画を立てる時、それが常に万全の状態の自分によって遂行されるものとして計画してしまいがちです。しかし、実際には仕事が思ったより困難であったり、自分の身体・精神の状態が芳しくなかったりと様々な要素によって干渉されます。そして計画に追われ、精神的余裕をなくしてしまいします。このような場合にはいくら頑張っても全てがうまくいきません。私にもそんな経験がたくさんあります。

したがって、計画の進捗状況や自分の状態などを冷静に見極め、計画をその状態に見合ったものに修正すべきでしょう。
私たちは計画の奴隷になる必要はない。


2  学術論文の他者志向

2.1 他者(読者)の目を意識する

今回の課題であった一連の記事の中で繰り返し述べられていたのが、「他者(読者)を意識する」ということです。そしてこれには二つの側面があります。
一つは読者にとって読みやすい、理解できる文章であるという、作文技術的な面。そしてもう一つはできるだけ多くの読者が納得できる客観性をもつ、という内容的な面です。

2.1.1 他者(読者)を意識した文章

2.1.1.1 「難しい=賢い」ではない

私たちは学術的な、一般に言う「難しい」文章を書こうとする際、ともすれば難解な語句や言い回しをしていればいいと考えてしまいがちです。なぜならそういった表現を駆使していれば、内容に関係なく「難しい」ことを書いているように見せかけることができるからです。本当はどうでもいいようなことしか言っていなくても難解で冗長な表現を駆使すれば、複雑なことを言っているように見せかけることができます。

電話帳のような分厚さで重厚な装丁の本のページをゆっくり繰っているだけでも、はたから見れば賢そうに見えます。これと同じことです。これはただの権威主義です。

2.1.1.2 「わかりやすい=簡単」ではない

そうかといって読者にとってわかりやすい、理解しやすい文章を書くことは漢字をひらがなにしたり、その文脈の中で特別な表現を簡単な表現に直したりすることではありません。

2.1.1.3.1 わかりやすい、理解しやすい文章

では、「わかりやすい、理解しやすい文章」とは何なのかというと「読者の視点を意識して執筆」されているということです。

私たちの書いた論文を「是非とも読みたい」という人は限りなくゼロに近いと思います。しかし、曲がりなりにも論文を書くのであれば、読者を獲得することを目指して書くべきです。今回の記事にもありましたが、公共の利益を意識しない研究はただの趣味です。なので私たちはどうにかして潜在的読者の皆様方に振り向いてもらえる様、努力をする必要がると思います。それが「読者の視点を意識して執筆」するということではないでしょうか。

2.1.1.3.2 内田樹の研究室 「リーダビリティについて」

このことについて内田樹先生が「リーダビリティについて」というブログ記事で論じています。ゼミの中でこの記事についても是非取り上げていただければと思います。

2.1.2 作文技術について

2.1.2.1 高度な学術言語運用能力

そして「読者の視点を意識して執筆」するためには高度な言語運用能力が必要です。そして私たちの言語運用能力は日本語においても英語においてもまだまだ十分ではありません。したがってゼミの活動を通じて言語運用能力を可能な限り引き上げる努力が必要です。

私たちがこれから扱うのは日本語・英語に限らず学術言語です。学術言語は日常の言語使用とは異なるものです。なので私たちは母語である日本語においてもその運用の仕方を学ぶ必要があると強く感じています。

2.1.2.2 日本語の訓練

私は特に日本語の訓練が必要ではないかと感じています。なぜなら私たちが日本で教職につく場合、日本語で何らかの文章を書くことが圧倒的に多いからです。また、私たちは英語に関しては分析的に注意深く書き、学習します。しかし、日本語に関しては母語ということもあり、ほとんど無自覚に直感的に書いたり、話したりしてしまいがちです。


2.2 客観性のある論文

論文を書く際にはより多くの読者に納得してもらえる内容を書く、つまり客観性のある論考をする必要があります。どんなに素晴らしい言説でも自分勝手な意見や考えをぶちまけているだけのものには誰も納得してくれません。これもただの趣味です。では、「客観性をもつ」とはどういうことなのでしょうか。

2.2.1 「客観性」とは

鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門 実践と質的研究のために』(東京大学出版会) (2006/3/18c)で述べられているように「客観的」という言葉は多くの場合、「実証主義的」を指します。

より日常的な感覚で言い換えると「客観的」=数字ではないしょうか。そして数値化できないもの関しては「ただの主観だ」と言って排除しているように思います。

上記の記事では、「事象の客観的側面(あるがまま)に忠実であることと、事象を客観主義的=実証主義的に捉えることとは別のことである」(20 ページ)とされています。

しかし、質的研究における高次の客観性とただの主観との間には圧倒的な違いがありますが、両者を隔てているものは本当にごくわずかです。そして私たちはそのわずかな境界線をいとも簡単に見失ってしまいます。私たちは両者の違いをしっかりと学ぶ必要があります。


3 書評

このゼミにおける一年間の個人的な目標の一つとして書評をきちんと書くことができるようになるというものがあります。

3.1 なぜ「書評」なのか

ある本について評論やまとめをするためにはその本を本当に理解している必要があります。そして逆に言うと評論やまとめができないということは論文が書けないということです。なぜなら論文を書くプロセスでは数多の参考文献を読み、それらを体系的にまとめるということが絶対に必要だからです。

ですから「書評やまとめができる」=本当の意味で「本が読める」と言っても過言ではないと思います。

3.2 「本の読み方」を知らない

私も自身のブログで書評の真似事のようなことをしていますが、知性の無さを見せびらかせているようで恥ずかしいばかりです。私の「書評」には自分の主観しかありません。ただ自分勝手に思いのたけをぶちまけているだけです。本を読んだというアナウンスがなくてもブログとして成り立ちます。
私は「本の読み方」がわかっていないのでこのような状況に陥るのだと思います。なので、本の内容に依拠しながらそこで述べられている事実や自分が感じたこと・考えたことなどを言語化する術を学びたいと考えています。


4 真摯に学ぶ

4.1 最も重要なものは「真摯さ」である

大学の授業や卒業論文を書くことを通じて得るものは無限にあると思います。高等教育では学ぼうと思えば、いくらでも学べます。しかし、そこに絶対に必須なのは「真摯さ」です。ドラッカーも才能より重要なのは「真摯さ」だと言っています。

4.2 最小リソースで最大効率を

大学の授業や卒業論文は卒業するために必要だからやる、と決めてしまえば簡単です。必要最低限のリソースを持って、最大限の効率を目指して中途半端にやればいいのです。しかし、そこから学ぶものは何もありません。最低限の力で体裁を保っただけのタスクをこなすノウハウが身につくだけです。そこからは何も生まれません。なぜなら何かを学びとることや創出することは非常にパワーを使いますし、最低限の体裁を保つだけ程度の取り組みというのはそもそもそんなものを目指しませんから。

4.3 決意

私はこれまでの人生で自分で勝手に価値を決めつけ、自分に無駄だとして上記のような態度で臨んだ物事がいくつもあります。そうして失ったものは測りしれないでしょう。

なのでこのゼミまたはそれに関係するでの活動は自分の全力を尽くして真摯に取り組みたいと考えています。










第一回ゼミ課題



本課題は、柳瀬先生のブログ『英語教育の哲学的』中の記事集「大学・大学院での専門研究」に関する項目を読み、考察した内容をまとめたものです。

1. 主体的に学ぶということ
 
1.1. 「これまで」と「これから」の学習

 学部1年次から3年次までの学習と、ゼミや卒業研究を通じての4年次からの学習は、どのような点で異なり、どういった点で共通しているのでしょうか。また、「これから」の学習で求められてくること、つまり、「これまで」と「これから」の学習の決定的な差となりうるものは、一体どういったことなのでしょうか。

1.1.1. ブログ記事「知的仕事のABC」より

1.1.1.1 Analyzeするということ

 これまでの学習では、Analyzeするための一つの目安として、自分で学習、あるいは達成した成果を自主的に確認するということ以外にも、指導担当の教員から返却されるテストやレポート、そして学期末に与えられる単位などがその役割を担ってきました。しかし、一体どれだけの学部生が、それらのAnalyzeされた結果から、自分が今置かれている状況や、必要とされている力や能力を省みて、今なすべき事を認識し、これからの計画に役立てるような努力をしようとしているでしょうか。

1.1.1.2 Beginするということ

 前項「Analyzeするということ」とも関連しますが、何かを学ぼうとする際には、まず問題の意識化や、顕在化といったプロセスが必要です。自らの目に見える、あるいは意識に置かれる形で、問題に対する意識を持つことは、簡単なようで実は最も見落とされがちなことではないでしょうか。その証拠に、前項のAnalyzeに到達出来ていない人は、このBeginのプロセスが始動しにくいように思えてなりません。

1.1.1.3 Control するということ

 Analyzeとフィードバックという言葉は、常に表裏一体の関係です。達成状況を監視し、自らの活動や計画を再構成していくことは、長期的なプロジェクトや学術論文を書く際だけに求められる技能であるとは断言できません。例えば、上手いテニスプレイヤーは、技術だけに頼ることなく、自分と相手の消耗度や天候、風向き、試合時間などの情報を同時に処理し、最適な力加減、コース、ステップの踏み方をはじき出し、試合の展開を組み立てます。もちろん、更に超一流のプレイヤーともなれば、その選手人生までをも計算に入れるような、より長い設計の元に試合を組み立てているかも知れません。

1.1.2 ブログ記事「Backward Designはなぜ失敗しうるのか」より

1.1.2.1 ものごとにリンク(Link)を張るということ

 これまで、学部での講義は大きく分けて、私たち学生が呼ぶところの「教養」科目と「専門」科目の二種類に分類することが出来ました。しかしながら、いずれの種類にせよ、私たちがこれまで学んできたことは、ひとつひとつの講義、あるいは授業の中で完結してしまっているように思えてなりません。今回のブログ記事中のBackward Designにおける実践前の問題点に着眼した項目には「2.2 複数の手段をつなげる過程を構想できない。単一の手段によって目的を達成するという発想ぐらいしかないので、複数の手段を一貫して整合的に、かつ効果的に並べることができない。」という記述があります。これを私たちが受けてきた講義に焦点を当て、私自身の言葉で言い換えるとすればこうなります。「それらの講義内容は、長期的なスパンで見た場合に、教育現場や社会に出て大変有益なものであったかも知れないのに、良い評価や単位の獲得といった一時的なものに縛られた結果、内容の枠を超えて繋がるはずであったものを孤立化させてしまった。」また、更にたちが悪いのは、孤立化の中で本来の価値、すなわち、知的な収穫を得ることから外れ、単なる暗記や単位集めに走った結果、学びから得られる喜びを放棄してしまう場合があるということです。

1.1.2.2 目的と目標を混同しない

 加えて、前述した記事中の、実践後の問題点に着眼した項目では「7 小規模用・短期的・具体的な「目的」(end, objective, Zweck)の概念しか持たず、大規模用・長期的・抽象的な「目標(あるいは方針)」(goal, aim, Ziel)の点から実践を振り返ることができない。「目的」達成のためのbackward Designは実現されても、「目標」という大局観を見失ってしまう。」と、述べられています。単位が取れても、3日後に忘れているようでは元も子もありません。学習や集中的なテスト勉強で得た知識を活用させるためには、視野を広く持って、自分の目標とする論文や研究にどう適用させていくのかを、常に頭の隅で考えておく必要があります。目的が目標化してしまうと、空虚な成功への努力に溺れ、後には残るのは「頑張った」という意識と、書いた内容が思い出せないノートだけという、最悪の結果に陥ることも考えられます。

1.1.3 より良いスケジュール管理のために

 前述した項目では、問題意識の視覚化の重要性や、目標に準拠した学習内容を関連付けて学ぶことの有意義さを述べましたが、単に手帳やノートに書き並べるだけでは非効率極まりません。ブログの中ではExcelを用いたタスク管理の方法が挙げられていましたが、その他にも、Google カレンダーやEvernoteなどに代表される、ウェブ上で管理が可能な諸サービスを活用することによって、生産性は何倍にも高められるように思えます。手や頭を使って考えたことを、いつでもアクセス可能、検索可能な状態に置いておくことは、新たなアイディアを生み出すことへの大きな手助けになるでしょう。
 
1.1.4 学ぶ姿勢の違いに気付くために

 私たちの英語文化系コースでは、3年次の終わりにかけてゼミの希望を出し、配属されることになっています。その是非は置いておくにしても、いざゼミが決まり、卒業論文計画書を提出することを伝えられ、どう悩んでいいかすらも分からない、研究の仕方、テーマの決め方ひとつにつけても不安で一杯になってしまう人が多く見受けられます。私もその内の一人であり、今も悶々と悩み続けている最中です。個人的な理由付けになってしまうかもしれませんが、私たちは今いちど、「学ぶこと」を捉えなおすことが必要ではないのではないでしょうか。受動的な態度で学びに臨み続ければ、学びとることが出来たはずの内容は、きっと限定的なものになってしまいます。また、人間は、自分の知的リソースに無いもの、あるいは関連付けられないものは、自然と視野の外、思考の外に追いやろうとしてしまう傾向があります。より良く学ぶための土台は、決して知識の集約のみに端を発するものではありません。

1.1.5 学びの本来の目的を見据えるために

 良くも悪くも他者の目を気にするような「客観的」な学びは卒業する必要があります。成績や単位に縛られない、自分の興味がある分野の学習のためには、まずは自分が何をしたいのか、そのためには何が欠けているのか、欠けたものを埋めるにはどうすれば良いか、それにかかる時間はどれくらいか、現在のスケジュールに当てはめて考えることは出来るか、それを随時変えていく勇気はあるか、最低でもこれらをはっきりとさせておく必要があります。こうして並べて見ると、明らかにこれまでの学びとは異なった手順を踏むのだということが分かります。一朝一夕に完成するものではありませんが、少しでも理想と実態を近づけていく努力が求められています。


2. 学術論文を書くために意識しておくべきこと

2.1 デザインに見る他者への思いやり
 学術論文は、一見すると小難しい内容を更に小難しく書き綴った研究結果のように思えますが、実は正反対の性質を持っています。ですから、難しい内容は噛み砕いて分かりやすく、分かりやすい内容なら少しだけウィットが効いた切り口から、まったくその分野に関心が無い人でも、面白い読み物として興味を持って読んでもらえるよう、幾つか工夫をしなくてはなりません。

2.1.1 ユニバーサルデザインとの類似性

 私が学術論文を捉える上でイメージしたのは、ユニバーサルデザインと呼ばれる事物です。例えば、世界中の公共施設で見られる「ピクトグラム」はその代表例でしょう。大規模商業施設や駅、空港など、大勢の人が利用する場所では必ずと言っていいほど浸透しています。では、以下のピクトグラムを見て見ると、どのようなことが見て取れるでしょうか。




http://www.waza.jp/ud/activity/example/22.html より


 まず、車椅子のマークから、障碍者用のトイレが備え付けられていることが分かります。次に、母親であろう女性と小さな子供が手をつないでいるマークから、母子が共に使用できる(排泄の手助けが出来る)トイレ設備があることが分かります。そして、よく見慣れたピクトグラムですが、赤ん坊のオムツを交換できる設備も備え付けられています。これらの情報を口頭や文章で伝達しようと試みた場合と、以上のピクトグラムを目の前に提示されるのとでは、伝達効率に大きな差が発生するのは自明のことでしょう。さて、右上にはあまり見慣れないピクトグラムが存在しています。これは、オストメイト=人口膀胱(肛門)を装着した人でも利用可能である、といったサインなのですが、もし”オストメイト”の表示が一切無かったとしたら、このピクトグラムから得るこことの出来る情報は非常に限定的になります。解釈が難しいところは注釈を、それ以外の部分はなるべく簡潔に、簡略して、分かり易く。意外なところに共通性を見出すことが出来ました。

2.1.2 閉じられた環境であることを自覚する

 学術論文という媒体を考えてみると、話すように書くと良いのではないか、という思考に陥ったことがあります。しかし、本多勝一「日本語の作文技術」のp.11に於いて、真っ向から否定されている考えこそ、まさに「話すように書く」ことなのです。ここで本多さんは、ある例文を高等表現から文章表現へと変化させる中で9項目もの相違点について言及しています。本そのものの内容は、今後ゼミの中で扱うと思われますので省略しますが、考えを文字媒体に起こすという行為は、普段我々が無意識の内に生活しているNon-Verbalな要素がたっぷりと詰まった世界から脱却しなくてはならない、ということなのです。表情も、トーンの上下も、身振り手振りも一切無い状態で、ただ紙上の文字のみで相手に考えを伝えることは、実はそう簡単なことではないということなのです。

2.2 内容へと踏み込む前に

 今回のブログ中では「知的エンタメ」と称されていましたが、論文の大前提として、分りやすく、読みやすく、面白いものでなくてはなりません。しかしながら、分かり易い、ということは簡単な内容であるということには繋がりません。ピクトグラムの項でも述べたように、高度で複雑な内容を噛み砕いたものであるべきです。また、読みやすい(reader-friendly)ということは、読者を念頭においた構成である、という意味の他にも、読者を巻き込んで論文に没頭させる位、読み手と書き手に時間と空間を越えたコミュニケーションが発生しなくてはならないということでもあります。

2.2.1 「贈り物」を大切に

 学術論文を書こうとするならば、先行研究を行わなければなりません。テーマが決まってから、あるいは、テーマを決めるための先行研究もあるかも知れませんが、いずれにしても、これまでの先人の知識・研究の成果を読むことに他なりません。新しい知識を生み出すのに、自分だけの世界に閉じこもっていてばかりでは前に進むこともないでしょう。研究を引き継ぐということは、学士なら1年間、修士なら2年間分の、その人の情熱と時間とお金を受け継ぐことになります。そういった責任が伴う以上、先行研究は腰を据えてじっくりと行うべきことだと言えます。


2.2.2 異なる分野に学べ

 論文のテーマに関連したことばかりに接していたのでは、行き詰まった時の精神的な逃げ場が無くなってしまうこともあるでしょう。異なる分野の話題や資料、論文やデータなどに目を通すことは、そういった飽きを防ぐ以外にも多くの効力があります。たとえば、データ処理に必須の知識である統計処理も、基本的な高校数学レベルの理解力が要求されます。論文などでそういった能力を活用するかどうかは人によりけりですが、身につけておいて無駄にはならないと言えます。


3. この1年間でよりよく学ぶために

3.1 一人の時間を持つ

 研究とは基本的に一人で行うものですが、時には友人と語り合うことももちろん必要です。バランスをよく考え、どのタスクは一人で行うべきかを見極める必要があります。一人の時間を持てるということは、深く思考を咀嚼するためのエネルギーの供給に繋がるのではないでしょうか。

3.2 本気で議論をする

 私自身は、あまり議論が得意なほうではありません。事なかれ主義ではないのですが、批判されるのが実は怖かったり、人を批判することに躊躇してしまいがちになってしまうことがよくあります。しかし、意見と意見のぶつかり合いは、より洗練された言葉や思考に直結することもしばしばあります。経験上、3時間を越えるような会議より、わずか10分足らずのシャープな意見交換の方が、結果的に充実した内容をもたらしてくれる事があることを知っています。内容が伴わない議論は精神と肉体に多大な付加をかけるだけに終始してしまいます。本気で議論することは、ある意味では大変「エコ」な思考法ではないのでしょうか。

3.3 わかりませんと言う勇気

 聞かぬは一生の恥、聞くは一時の恥、という言葉があるように、分らないことは分らないと率直に言える人間でありたく思います。これから扱っていく内容は、知的に洗練されている反面、高度な背景知識や読解に必要な英語の力を求めてきます。ある議論の中で分らないタームがあったとして、見て見ぬ振りをして30分過ごすのと、5分時間を取ってもらって、解説の後に25分過ごすのとでは、大きな差があるように思えます。

3.4 謙虚に学ぶ

 学術論文に限った話ではないように思いますが、謙虚さは社会で生きてゆくために必要な要素であることには間違いありません。たとえ気に入らない事であっても、自分の糧になるように接してしまえばこちらのものですし、新たな世界が開ける事もあるかもしれません。まだ未知の物事に対して、敬意を払って接すること、まだ見ぬ未来の読者や指導教員、同級生、学費を払ってくれている家族にも感謝することが、謙虚に学ぶ姿勢を形作る第一歩ではないでしょうか。






お互いに緩やかな笑顔を保ちながら、深いレベルの学びができるゼミにしたいと思います。










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【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2011年2月21日月曜日

OY君:英語教育界にはびこる「美しい言葉」

(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)

OY君は、英語教育界にはびこる「美しい言葉」の弊害を指摘します。以下の一節など傾聴に値します。


私は昨年の夏に全国英語教育学会に参加しましたが、その議論や質疑応答には驚きを禁じえませんでした。その場面では質問者は質問をするのではなく、ただ持論を展開しているというだけで した。そこには意見をすり合わせたり、発表者を理解しようという雰囲気は皆無でした。彼らは同じ言葉に対してまったく違う前提や認識をもって臨んでいました。


以下に、個人的なことを書いた部分以外の全文を紹介します。




「言語コミュニケーション力論と英語授業」レポート



OY




本レポートでは「言語コミュニケーション力論と英語授業」の中で私が考え、感じたことについて述べたいと思います。

 まず、Chomsky, Hymes, Canale, Bachman, Palmer, ら言語学者の言説を学習する上で感じたのが「コミュニケーション」(または”communication”)や”competence”という言葉に関して各人がそれぞれにそれぞれの解釈や理論を同じ言葉で述べようとしているということです。これは大きな混乱を引き起こしてしまいます。実際に授業の中で自 分も何度か整理をつけながら理解していかなければ、混乱してしまいそうでした。
 
 そしてこの言語使用の混乱というのは英語教育に限らず、様々な議論の場で深刻な問題となっているのではないでしょうか。
 
 私は昨年の夏に全国英語教育学会に参加しましたが、その議論や質疑応答には驚きを禁じえませんでした。その場面では質問者は質問をするのではなく、ただ持論を展開しているというだけで した。そこには意見をすり合わせたり、発表者を理解しようという雰囲気は皆無でした。彼らは同じ言葉に対してまったく違う前提や認識をもって臨んでいました。このような不毛な議論が繰り返されるというのは英語教育界、ひいては日本にとって大きな損失です。
 
 こういった失われてしまった知的リソースをもっと有効活用するためには一定の共通認識や「目指すべきもの」が必要ではないのか、と考えました。
 
 また、現在では教育現場限らず、就活の場面や企業内でも「コミュニケーション」・「学び」・「気づき」といった言葉が乱用されています。これらの「美しい言葉」たちはもともと私たち の生活に深く根ざしていたものや外国語から借入され、いつの間にか日本語に定着していまっていたものが多数です。どちらにせよ、私たちの日常の言語感覚では もはや曖昧にしかその明確な「意味」が意識されることはない言葉です。多くの人たちがこれらの言葉の「意味」を問われると答えに窮してしまうか、同語反復 を繰り返してしまうしかないでしょう。
 
 したがって、これら「美しい言葉」は誰でもが容易に使うことが可能です。そしてだからこそ今のような混乱した状態が生み出されてしまったのではないかと思います。もともとこれらの言葉を使い始めた人たちには明確な意図や「意味」が存在していたと思います(「学び」という言葉では「学びの協同体」で有名な佐藤学先生などがいます)。しかし、それらが一般大衆の目に触れ始めると同時にこれらの言葉を使い始めた人たちが込めた「特殊な意味」から「言葉」自体が乖離し始めてしまいました。誰もが身体感覚として体得している言葉だからこそ、誰もが これらの言葉に自身のイメージや経験を付与してしまいます。まさにルーマンの社会システム理論のようにそれぞれのシステムがそれぞれのシステムの仕方で言葉を理解してしまいます。また、もともと実生活の中で明確な「意味」が意識されることが少ない語であるため、各システムの「理解」の受容の幅も広く、相互 作用の中で支障をきたすことも少ないため、本来どのような「特殊な意味」が込められていてどのように使われていたのかを意識することがなくなってしまいます。
 
 その結果、誰もが自分の経験やシステムに準拠した「自分の美しい言葉」を使い始めます。実に都合が良く、便利な言葉です。誰もが簡単に使用するけれど、その意味するところは各人によって微妙に時は驚くほど大きく異なる、という事態に至ってしまいます。
 
 そういった「何を指しているのかよくわからないのにみんなが重要に思っている」という状態は非常 に危険です。求めるものがどこにも存在しないのにいつまでもそれを求め続けねばならない。それはいつか疲弊してしまいます。そして一心不乱に何もないものを目指し続けるというのは気持ち悪い状況ではないでしょうか。
 
 日常生活の場面ではそれでよいのかもしれませ ん。しかし、教育的・学術的場面でこのような状況が繰り返されているのは本当に危機的事態ではないかと思います。
 
 今回の授業を通して切実に思ったのが、こういった状況には何か打開策が必要なのではないかということです。このような不毛な状況に貴重な知的リソースが浪費されているというのは悲しむべき事態です。そのために手っ取り早い解決策とうはやはり共通認識を作り、また定着させるということでしょうが、考え方の多様性や実現性といったことを考 えるとこれは難しいとしか言えません。
 
 現実的な案としては少なくとも現状を知って意識しつつ行動すべきである、ということではないでしょうか。
 
 本授業「言語コミュニケーション力論と英語授業」では繰り返し、身体性の重要さが強調されていました。
 
 私たちは言語教育に携わる人間なのでやはり「言葉」という側面に注目してしまいがちです。です が、言語を操るのも、教育を行うのも生身の人間です。人間が生物である限り、身体という側面を無視することはできません。
 
 また、教育という営みは種々雑多な要因が複雑に混ざり合ったものです。そこには教師自身の経験や子供たちそれぞれの経験、集団としての経験など様々な「経験」が大きな割合を占めていま す。それらについて理論や分析を用いて一般化していくというのは非常に困難を極める作業であると思います。
 
 教育現場にはそういった「経験」によって醸成された「直感」といったものが溢れています。私たちはこういったものを無視すべきではないでしょう。このような身体感覚というものは既存の理論の枠組みにはまるものではありません(だからこそ面白いのだと思います)。なので、この身体感覚に関してできる限り記述し、そして新しいできる限りこの身体感覚について説明し得るような枠組みを形成することができれば、新たな展望が開けるのではないかと思います。
 
 上記のようにこの授業では一見 記述することが不可能なものである「コミュニケーション」というものを中心に扱ってきました。
 
 実際に「コミュニケーション」 というものが何なのかを記述するは本当に困難を極めるものだと思います。今回の授業のなかで取り扱われた様々な理論のどれもが「コミュニケーション」という城の一部を表してはいるものの全体像やそのすべてを記述しているものはないように感じました。
 
 Chomskyは”A study of communication is a study of everything.”といったその難しさや複雑さを揶揄しましたが、私はむしろその難しさこそが面白いと感じました。「コミュニケーション」というも のを記述しようと考えた場合、そこには様々なアプローチが存在します。言語学、哲学、心理学、経済学、神経科学、脳科学などなど一般的言う理系と文系の別 もなくアプローチを行うことが可能です。これだけ多くのアプローチが存在する研究対象というのはなかなかないのではないでしょうか。だからこそ面白い。
 
 私はまず、言語学・哲学という面からこの「コミュニケーション」に立ち向かいたいと考えています。
 
 現在の日本社会ではひたすらに「コミュニケーション」の重要性が叫ばれています。そして「コミュニケーション」を「評価」しようとさえしています。
 私は「コミュニケーション」が 何なのかもわかっていない(少なくとも何なのかという合意形成がなされていない)中でそれに関して「評価」を下すというのは傲慢なで無謀な考えであると 思います。何でもかんでも数値化しなければならないという考え方は改めるべきでしょう。
 
 確かに人類はこれまで仕組みはわからないけれども使えるというものを利用してイノベーションを成し遂げてきまして(とりわけ自然科学の分野で)、しかしその後にはその「仕組み」を解明しようという試みがあってしかるべきではないでしょうか。
 
 「コミュニケーション」はこれまで立派に実践されてきたし、今現在も実践されています。どこまでを「コミュニケーション」と定義するかにもよりますが、「コミュニケーション」の成し遂げてきた、またはそれなしには考えられなかったいのべーションというのは星の数ほどにものぼるでしょう。
 なので、そろそろ腰を据えて「コミュニケーション」とはいったい何なのかという問いに挑んでいってもよいと思います(だいぶ昔から行われているとは思いますが)。



現在、授業の中で田尻悟郎先生 らの授業ビデオを見るなどしています。こういった授業実践に近づく場面があるたびに考えることがあります。

 それは自分にとってルーマンの 理論や様々な哲学などを実践に繋げて考えるというのが難しい、ということです。授業の中では他の学生の振り返りや予習などが紹介されます。それらは本当に見事です。ポイントを押さえていたり、「授業」との関連を突いたりと感心するばかりです。その中で「授業」とそれらを結びつけることがどうしても難しい自分がいます。
 
 それはそれでいいのではないかという気持ちもありますが、それでいいのかという気持ちもありま す。なぜなら授業実践というのが英語教育の肝であり、これなくして英語教育は成り立たないもいえます。しかし、これまでの英語教育は現場を意識しすぎていたために研究の分野も中途半端に終わってしまっていたのではないかと思います。
 
 この問題とどう付き合っていくのかというのも今後の私の課題ではないかと思います。




(このシリーズはまだ続きます)










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IYさん: テンプレートからの脱却

(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)

IYさんは、「テンプレート」というキーワードを使って自らの実践を分析しました。まとまりのよいエッセイなので全文を紹介します。



テンプレートからの脱却



IY



○Introduction テンプレート

 私が今「言語コミュニケーション力論と英語授業」の講義を振りかえろうとした際に、最初に浮かんだ言葉が「テンプレート」であった。それは私が教育実習中に生徒に投げかけた言葉や態度を指して担当の先生が私によくおっしゃった一言で、それ以降頭の片隅にずっと残り続けている言葉である。自分の発問に生徒が予想通りの反応を返してきたら”Great!”と、答えに行き詰ってしまったらある程度待ったあとで「大丈夫」と、この場合はこう答えるなどの小技をそろえたマニュアルが頭の中にあり、授業でそれをただ口にしていただけで何の実感も感情も伴っていなかった、ただの「テンプレート」では生徒に響かない、と先生はよく私に指摘して下さった。
 
 英語授業に関してのマニュアル、例えば一つの授業はIntroduction、Comprehension、Consolidationで成り立っていることや文法の導入は音声から文字へ移ることが望ましいとされることなどに関しては大学で学んだ理論を背景に自分の脳内にインプットしている自覚はもちろんあったし、教育実習はその大学で学んだことを実践してみる場であることは理解していたので、たった2週間というマイナスの点もあり、そういったマニュアルから外れた生徒の実態に即した英語授業はなかなか出来ないと割り切っていた。しかし、英語を教える以前の問題として生徒一人ひとりと向き合うことが出来ていないと指摘されたことは相当ショックなことであったし、自分の中で無意識のうちに生徒への対応に関するマニュアルが出来上がっており、それに即して授業をしていたという事実は驚きだった。
 
 この「テンプレート」という言葉を聞いた友人の一人が私は普段から言葉に感情が伴わないような話し方をする癖があると笑いながら忠告してきたことからも、私には教師としてどのような技術よりも何より大切な「心を伝える姿勢」が備わっていないことに気付くことができた。教育実習を終えて、私の大きな課題の一つとなったのがこの「テンプレートからの脱却」であり、そのためには何が必要なのか常にアンテナを張るように努力しているつもりなのだが、まさにこの授業で学んだことや感じたことは「テンプレートからの脱却」への大きな手掛かりになったように思う。
 
 したがってこのエッセイでは私が得た「テンプレートからの脱却」への手がかりとこれから目指していきたい英語教師像へのヒントを述べることにする。


○Chapter 1 脱却への手がかり

 この授業では、様々な言語学者などの考え方を学び、それを私なりに解釈して「テンプレートからの脱却」への手がかりや英語教師像へのヒントをつかむことが出来た。日ごろから言語に対して敏感になり、一つの文法導入にしても生徒がその文法を使う場面を明確にし、その文法が使えるからこそ伝えることが出来る気持ちをのせることが重要であると分かった。例えば先生が例文として提示された、関係代名詞を導入する際の例文:Did you steal this? ? No, this is a CD I bought.などはただ単に”This is a CD I bought.”をリピートするよりも場面が明確で自分は盗んではいないと主張する気持ちを例文に乗せやすく、生徒の心に響きやすいだろう。脳に直接的に働き掛けることが不可能であるからこそいかに生徒のその脳内をゆさぶることが出来るかが重要であり、もし教師が生徒の脳へ直接働きかけることが出来るのであれば私のもつ「テンプレート」とやらの成功率は100%であるだろう。それに一味もふた味も工夫を加え生徒の脳にスパイスを与える必要があるのである。
 
 またルーマンも主張している「脳への直接的働きかけは不可能」という考えは英語教育が現在目標としているコミュニケーション能力の育成とも深くかかわっている。許可をもらうときにはこの表現、褒めるときはこの表現、など教師がいくらその規則を教えても、話し手が聞き手の脳内に直接働きかけることはできないためコミュニケーションにおける誤解は生じてしまうものであり、その変化に対応する力を養うことも英語教育の一つの目標である。つまり英語教師は、相手の脳内にスパイスを与えゆさぶることが出来る力を、生徒の脳内に上手く働きかけゆさぶることによって指導しなければならないのである。
 
 内田・片山の「カラダ」に対する考え方やハンナ・アレントの「活動(action)」という言葉からもヒントを得ることができた。物語を読んだり人の話を聴いたりすることによって生まれる感動というものは、ただの話から、その話し手や登場人物の身体的体験に同調し他人の人生を内側から生きるからこそ生まれるものである。Wittgensteinの主張にもあったように言語は生活とは切っても切り離せない関係で、つまりは人間の言語活動すべてにはある種の感情がこもっており、その言葉を発した人に同調して感情を感じとれてこそ初めてコミュニケーションが成立するのである。英語の授業は機械的練習を積み重ねたあとの感情表現がメインであるといえるだろうし、それを促す教師側の感情が言葉に乗らず生徒に響かないとは元も子もない話である。英語というただの言語に大きな価値を見出してもらうためにも、まずは生徒が教師の言うことや教科書の内容に、それが英語で書かれているからこそ身体的に同調して感動を覚え、そして今度はそれを伝えることが出来るように指導することが英語教師の大きな役目であるだろう。
 
 また言語獲得訓練は「意識」を「無意識」に導くことであるという考え方は、よく考えたら当然のことであるのに強烈に印象に残った。どの段階で意識付けを目標とした活動を行い、どの段階で無意識化を目標とした活動を行うのか、その見極めが所謂ALL ENGLISHな授業を目指す上で欠かせないものになるであろうし、その無意識化を意識した活動の中で教師があまりに意識しすぎた、つまり発問の意図が明確すぎ、その場にそぐわないくらい浮いてしまった指示や発問をしてしまっては、自らその空気を壊してしまうことになるだろう。また意識化を目標とした活動においては、生徒の飽きを防ぐべく教師の活動の意図するところに価値を見出させることが重要であり、そのためにはやはり生徒の心をゆさぶるような発問や指示が必要不可欠であると言える。どちらの段階でもその目的は異なるものの、より生徒の反応に即した教師の動きが重要であるのである。


○Chapter2 テンプレートが隠された授業

 このように授業を受けて「テンプレート」がかかえる弊害の多さに改めて驚いたのだが、それを理解したのちに見た「テンプレート」がない授業、つまり見事生徒の実態に即したナチュラルな授業より得たものは大きかった。正確には田尻先生や蒔田先生の授業実践では決してテンプレートがないというわけではなく、見事にそのテンプレートが生徒に隠されていたという点でとても驚いた。例えば蒔田先生の実践であれば、リンキングから教科書の持ち方まで細かい点に気を配っているにも関わらずそれらが全て自然であるのは、何より先生が一番よいモデルとなり生徒の心をゆさぶっているからだろう。ただ淡々と指導するのではなく生徒に自ら語りかけることによって教室の雰囲気作りをし、最終的には自らが感動を生みだすことのできる人へ育てあげておられたその過程は何度も先生の中で試行錯誤されたのちに見つけた、隠された「テンプレート」であるに違いない。
 
 また、田尻先生の実践では生徒の心をゆさぶるタイミングは常にベストの判断を見極める努力をする重要性に改めて気づき、テンプレートと付随すべき、あるいはそれ以上になるべきものは生徒に応じてベストの判断を見極める力であることを知った。いつ答えを与えず、いつ声かけをして、いつ生徒が気づき始めたと判断するのか、それは生徒と一瞬一瞬向かい合わなければ見極められないものでまさに「テンプレート」が無意味になる瞬間であった。それは今日明日で身につくものではなく生徒との日ごろのコミュニケーションで成り立っているものであり、それを通じて教師自ら生徒の生活を知り生徒の心に身体的に同調するからこそ、より磨かれるものである。また田尻先生の表情や仕草も、生徒の心をゆさぶる大きな点であった。この練習を欠かさなかったと述べられているのはまさに、そうやって感情をオープンにすることによって生徒が教師に身体的に同調し活動に何かしらの価値を見出す手助けをしているからだろう。


○Chapter3 テンプレートからの脱却へ

 以上のように、この授業では、様々な学者の考え方や素晴らしい先生方の授業実践から「テンプレートからの脱却」への様々なヒントを得ることが出来た。英語授業の方法や持ち合わせるべきテクニック、生徒への発問や指導への技術的ポイントなどはもちろん重要でありこれからの大学生活においてより学んでいきたいことであるが、その土台となるべき、生徒と向き合い心と心を通わせる姿勢はこの授業をきっかけとして見失わないようにしたい。実際に生徒と向き合うことはこの大学生活においてもうチャンスはないし、実際に教師になってからも自分自身で満足いくまで数年かかると思うが、その基礎は大学にいるうちにしっかり固めておけるだろう。友人との付き合いにおいて、小さな変化を見逃さずその友人にきちんと同調してベストの判断を見極めて声をかけるという本当に小さなことから始めて、たくさんの映画や本に触れて自らが身体的同調する感覚を忘れないこと、自分が英語に対して価値を見出した瞬間とはどのようなときか思い返すこと、生徒が英語に価値を見出してくれるために必要なしかけとはどのようなものか、今から四方にアンテナを張り巡らせて言語に対する感覚を鈍らせないことなど、大学にいる時間だからこそ可能であることをしっかりこなすことを「テンプレートからの脱却」を目指す上での自分自身への課題としたい。そしてそれらをこなして、身体的に同調して英語に価値を見出し自ら感動を創造することが出来るような生徒を育てることが出来る教師が私の英語教師の理想像である。

 

(このシリーズはまだ続きます)
 
 







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