2013年10月5日土曜日

ゼミ生の皆さんに感謝します




大学院ゼミ生のS君が今年の2月ぐらいから企画してくれていながら、私の体調不良や多忙もあってずっと引き伸ばしにしてしまっていた、大学院ゼミ生と学部ゼミ生合同の懇親会を昨夜初めて開催しました(これまで懇親会は、大学院と学部ではバラバラに開催していました)。

で、行ってみたらサプライズが用意されていて、私の「生誕50周年祭」(笑)も兼ねており、ゼミ生の皆さんから心のこもったビデオ動画メッセージなどを頂戴しました。ありがとうございます。

私は、どうも自分の肯定的な感情を素直に表現するのが得意でなく、これまでも多くのゼミ生にさまざまな機会で本当にもてなしていただいたのに、その御礼をウェブ上などで述べることはしていなかったのですが、これだけ身に余ることをしていただくと、その場での御礼だけでなく、こうして改めて感謝のことばを述べることが必要かと思い、今こうして文章を連ねています。

私はずいぶん自分勝手な人間(あるいは自分が興味あることに夢中になっているだけの年老いた坊や)ですので、ゼミ生の皆さんに対しては十分な指導はできていませんが、それでもこうしてもてなしてくれることに対しては、感謝しかありません。

教師を長年やっている人なら頷いてくれると思いますが、教師を育ててくれるのは学生(あるいは生徒・児童)です。疲れた心身で授業準備をしている時に、学生さんが(私が授業で多用している)WebCTシステムに書いてくれた「はっ」とさせられるコメントに、私はどれだけ力をもらったでしょう。授業中に学生さんが注いでくれる真っ直ぐな視線に、私はどれだけ自分の汚れた志を洗ってもらえたでしょう。ゼミ中の私の厳しいことばをきちんと受け止めてくれる学生さんの度量に、私はどれだけ自分の小ささを反省できたでしょう。授業期間が始まると、教師の生活は本当に時間との戦いになり、私は心身の疲れからしばしば妥協をしてしまいますが、それでも決定的に堕落せずにすんでいるのは、ひとえに私の学生さんのおかげです。ありがとうございます。



昨晩の席では、「50歳になっての抱負」を尋ねられましたので、この秋学期初めにいろいろな授業で言っていたLearning to learn: Slideshow at the beginning of a new semesterで言いたかったことを述べました。私は20代の頃、50歳になった自分というものを想像すらできませんでしたが、皆さんの中にも50歳になるということが想像できない若い方もいらっしゃると思いますので、ここに(変なおっさんの)一例として私の思いを補筆しながら書きます。

私も50歳になりましたが、おそらくハッタリや虚勢でなく正直に思えるのは、だんだんと幸せになってきているということです。私の場合、20代よりも30代の方が幸せになれましたし、30代よりも40代、40代よりも今の方が幸せになっていると思います。これから生きていくと、これまでと同じようにいろいろな波に一喜一憂することはあれ、おそらくはもう少しずつ幸せになれるのではないかと思っています。もちろんこれからの年代は、年老い、病を得たりして死に少しずつ近くなってゆく日々ですが、(なってみなければわからないものの)おそらくは死も、若い時代に比べるとはるかに従容と迎えられるのではないかと思っています。人間は年を重ねるにつれ、幸せになれるのではないかと、正直思っています。

もちろん、これは私が素晴らしい人生を生きているからではなく、私の昔がひどかったから、年々少しずつマシになってきているというのが実情です。あるいは昔の私は自分でも恥ずかしく嫌になるぐらいの生き方しかできていなかったが、少しずつそんな思いをすることも減ってきているといったところでしょうか。いや、正確に言えば、昔は周りの人を不幸にすることが多くそれよって自分も不幸になっていたが、年を重ねるにつれ、他人を不幸にする度合いが少しずつ減ってきているので、そのおかげで自分も不幸の度合いが減っているといったところでしょう。私の生き方に誇れるものはありません。

ただ、もしこのような幸福感を得ることができた理由を一つあげるとすれば、それは、私が学ぶことができるからだと思います。ウェブという媒体で詳細を述べることは避けますが、私も私なりに小さな困難や試練にいろいろあってきましたが、幸いなことにどの機会からも学ぶことができました。その学びによる自己変化で私は多少はまともな人間に近づいているのではないかと思います。

「学ぶ」というと、最近は対象を限定して、「Aを学ぶ」、「Bを学ぶ」・・・と学びを分断し、分断された学習を、ひたすら効率よくすることばかり考えられているようですが、私の場合、なぜか自分の人生から分断された学びには興味がもてませんでした。Aを学んでもBを学んでも何を学んでも、それは学ぶことを学んでいる ―対象がAであれBであれ何であれ、どんなことでも学べるようにと、自らの学ぶ技術を高めることを学んでいる― であったような気がします。というより、私が興味をいだく学びは、私の人生(life, ということは心身)と不可分に結びついていますから、Aを学ぼうがBを学ぼうが何を学ぼうが、それらの学びはすべて私の心身の中でつながり統合され、結局私は「学ぶことを学ぶ」ようになったのかと思います。

「学ぶことを学んだそうだが、それでその程度か?」と言われれば一言も返せませんし、世の中にはいくらでも才能があり努力もなさっている人がいるのに、私が現在のような社会的肩書を得ていることに対しては忸怩たる思いがありますが、それでも私は昔の自分よりはましになってきているのではないかと思っています。この確信に「客観的な証拠」を提示することはできませんが、少なくとも私の心 ―スピノザ風に言えば私の身体の状態の反映― はそう告げています。もちろん私の身体自体が錆付き澱み、それに応じて私の心が歪んでいるから私はこういった確信を得ているだけなのかもしれませんが、そこまで疑うと私としては何の反駁もできませんので、反問はここで打ち切ることとします。

私は教師という仕事につき、皆さんに学ぶことを勧めていますが(というより時には強制すらしていますが)、その根本的理由は、学ぶことはまさに生きること ―幸福に生きること― であるという私の確信です。これはデューイが『民主主義と教育』で言っていることですが、生きるということは、環境の中で自己を再創造し続けることです。私の意味する「学ぶ」とは、この、「環境の中での自己再創造の連続」ととらえてくださっても構いません。

ですから皆さんより年上の人間として何か言うことが許されるなら、生きることは学ぶことであり、学ぶことは生きることだ、そして、よりよく学ぶことはよりよく生きることだということです。

これが50歳になっての私の実感です。




と、いつもの癖で私の語りばかりが増えてしまいましたが、この記事の趣旨は私にとってはできすぎたゼミ生(それなのに私が叱責ばかりしているゼミ生)への感謝の念を述べることでした。ゼミ生の皆さん、ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いします。





追記 (2013/10/06)

上の文章を読んでくれたゼミ生の一人が、「毎日何かしらのことを学ぶ私たちは、毎日が自分の誕生日なのかもしれないな、と不思議な思いになりました」と感想を書いてくれました。「毎日が誕生日」というのは素敵な表現だと思いましたので、ここに記しておきます。



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