2013年10月1日火曜日

全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について




■ 再び「合理性」 (rationality) について

前の記事(『数量化革命』・・・)で、西洋の「合理性」 (rationality)とは、まさに「比」 (ratio)で考えることに他ならないし、そのように「比」で考えるためには、「要素」と「単位」という観念の枠に、現実を振り分け、押し込めなければならない、と書いた。


そして、そういった「合理性」を、要素還元性・単位分割性・単位計測性・数量操作性・数量共有性ということばでまとめ直してみた。再掲する。

西洋近代の典型的な「合理性」 (rationality)


(a) 「要素」という観念で分解・分断し、その合計が全体だとする。 (要素還元性)

(b) 要素をさらに「単位」という観念に合わせるように、細かな違いは繰上げ・繰下げて、あるいは無いものとして、分割する。 (単位分割性)

(c) 近似値として得られた単位の量をさらに比較して、その比 (ratio) をもって計測となす。 (単位計測性)

(d) 現実を、要素の単位量の比の関係で考察することにより、現実を単純な数量モデルで表現することができる。その数量モデルに基いて、現実を切り分け対象化し操作する。 (数量操作性)

(e) 数量は、要素による分解と単位による近似化と計測化を共有する人々にとっては共通のものとみなされるので、数量モデルはそれらの人々に共有され利用される。 (数量共有性)


つまり、"rationality" とは、確かに「理」に「合」った「合理的」なものだが、他の言い方で表現すると、「比」 (ratio)に「合」った「合比的」なものである(ちなみに"rational number"は有理数と訳されているから、「合理性」という訳し方はそれなりに一貫しているし、「有理性」とも訳せたはずだし、「有比性」とも訳せたはずだ)。

さらにことば遊びを続けると"rationality"とは「比」(ratio)で表現するために、等量の要素単位に合った現実の切り取り方をしているのだから、「合要素性」「合単位性」とも言えないこともないし、「比量性」と表現できないこともない。要素も単位も観念だから「合観念性」とも呼べないだろうか。もちろん、その観念は要素単位で測られているから「実測的な合観念性」と言うべきだろうが・・・

あるいはもっと日常的なことばに翻訳すると、"rational"とは「割り切った」ということで、"rational argument"というのは、「割り切った議論」ということになる。もっと肯定的な語感の語を選ぶと「分別のある」となるのかもしれないが、やはり "ration" から考えるなら「割り切った」 という語の方が翻訳語としてはふさわしいと思う。

しかし、少なくとも日本語を使って考えていると、「物事は、そう簡単に割り切れない」と感じることも多い。だから「割り切れない話」を丁寧に語ろうとしたりするが、英語で言うならそれは 単に "irrational"となってしまうのかもしれない。

だが、"irrational"というのが、常に否定的な意味で使われるのかと言うと、必ずしもそうではないのではないか。少なくとも "irrational number" (無理数、あるいは無比数)というのは、 「分子・分母ともに整数である分数(比 = ratio)として表すことのできない実数」のことであって、あくまでも「様々な量の連続的な変化を表す」 "real"な数 (=実数 real number) の一種である。言い換えるなら、数の "real" さというものは、 "rational"さと "irrational" さから構成されている。

私は数学が得意でないので 数学的な言い方から大胆に離れて勝手に言い換えると、"reality" (現実)とは、"rationality" (割り切れること)と "irrationality" (割り切れないこと)から構成されている、となる。「割り切れること」だけでなく、「割り切れないこと」も含めないと、現実の連続性は破壊されてしまう。

しかし、ギリシャ文明ひいては西欧文明に大きな影響を与えたピタゴラスにとって、"irrational number" (無理数、無比数) とは、あってはならない数であり、彼はその存在を頑なに否定しようとしたという。 今から考えると、まさに "irrational"な態度だと言えるぐらいだが、かほどに"rational"つまりは「割り切れること」を崇拝した形而上学が、西欧文明の根底には潜んでいるのかもしれない。



■ 「分析モデル」による近似値的・素描的理解と現実の構成・再現

閑話休題といきたいが、こうしてことば遊びをしていると、さらに中二病的思考が芽生えてたのでwここに書く。

上記の要素還元性・単位分割性・単位計測性・数量操作性・数量共有性に基いて作られたモデルを「数量化モデル」、要素還元性・単位分割性だけ(もしくは要素還元性だけ)で作られたモデルを「非常に単純化した分析モデル」と称することにする。そして、両者を同時に意味する時には「分析モデル」と称することにする。

そのように定義した上で述べるなら、今回私が言いたい基本的な考えは、次のようになる。



分析モデルは、現実の近似値的あるいは素描的理解のための手段としては優れているが、分析モデルにしたがって現実を構成・再現しようとするとしばしば失敗する。



たとえば、英語コミュニケーション能力を測るとされているテストについて考えてみよう。

たとえば(何でもいいのだが)TOEICは、「英語コミュニケーション能力」を、妥当性・信頼性・実用性のバランスの点から独自のやり方で要素分解している。現実生活で英語を巧みにコミュニケーションのために使いこなす人は、TOEICでもそれなりの高得点を取るはずだから、TOEICという(非常に単純化した)分析モデルは現実の近似値的あるいは素描的理解としては、まあそれなりのものだろう。

しかし、そのTOEICの分析モデルだけに従い、TOEICの構成要素だけに関して特訓をしても(根性が続けば)TOEICの点数は上がるが、そういった特訓だけでは現実世界でコミュニケーションが取れるようにならないことは周知のことだ。

もう少し抽象度を上げて、コミュニケーション能力についても考えてみよう。人間はさまざまにコミュニケーションを行っているが、その諸対応の根底にある「はず」の ―もしかしたらこの思い込みそのものこそが根底的な間違いなのかもしれないが、それはさておく― コミュニケーション能力とは何か、と私たちは問いを立てる。

その問いに対して、「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導くものに過ぎないとして、私たちは多元的にその時と場の「コミュニケーション」に即して能力を考えていくべきだというのが最近の私の考え方だが、それでも多くの場合、私たちは、「コミュニケーション能力」に対して一般的な解答を求める。

日本の英語教育界でしばしばそういった一般的解答として引用されるのは、約30年前の、Canale (1983) の考え方で、そこではcommunicative competence(コミュニケーション能力)が、grammatical competence(文法的能力), sociolinguisitc competence (社会言語学的能力), discourse competence (談話的能力), strategic competence (方略的能力)という要素に分解されている。(このあたりの具体的な話をまとめたのが、拙著ですが、私としてはこの本は残念ながら習作に過ぎないと考えています。お恥ずかしい話です)。

仮にBachman and Palmerなどをさておいて、Canaleにならって「コミュニケーション能力は、文法的能力・社会言語学的能力・談話的能力・方略的能力に分解される」と言われると、最初はそれなりにわかったような気になる。だから何度も言うけれど、この分析モデルも、現実の素描的理解としては悪くない。また「非常に単純化した」ものだから、何より覚えやすい(ある人は、「Bachman and Palmerのモデルは『複雑すぎる』から、自分はCanaleのモデルを使う」と言っていた。皮肉でなく、これは一つの現実的な態度と言えるだろう)。

しかしこの分析モデルをもとに、コミュニケーション能力を構成しようと授業を計画しても、そもそも「純粋な『○○能力』って、どうやって抽出し、訓練すればいいのだろう」と悩んでしまう。強引な割り切りでそんな悩みについてはあまり考えないことにして、任意の課題をその○○能力育成のための訓練法として授業を行い、他の能力訓練と合算しても、必ずしも学習者にはコミュニケーション能力は育っていない(コミュニケーション能力をもつに至った学習者は、必ずといっていいほど、授業以外に何らかの経験を積んでいる)。だからやはり現実の素描から現実をうまく再構成することはできない。



教師の力量形成についても同じことが言える。優れた教師の力量を、いくつかの要素に分析した上で考えるのは、とにかく「すごい」としか言えなかった教師の授業を、少しでも分かりやすくする ―まさに「わかるとは、分けること」だ― ためには非常に有益だ。

だが、その要素を一つずつ訓練して教師としての力量を上げようとしても、かえって訓練したばかりのこと(「技」)が授業全体の流れをぎこちないものにしてしまい、逆効果になることも珍しくない(こういった問題に関しては、『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』に書いた拙論を読んでいただければ幸いです)。



武術についても同じだ。私はオタクとして武術を学んでいるので(苦笑)、ことさらに失敗がよくわかるので言ってしまうと、たとえば相手を崩す際には、人間の骨格と単純な力学にもとづいて分析すると、それなりに理解できる。

しかし分析モデルによるこのような単純な理解は、武術について皆目見当がつかない時にはそれなりにありがたく思えるが、この分析モデルに基いて武術の技をかけようとすると、たいていはろくな事にならない。「この方向に相手を崩す」ことばかりに気を取られていると、そればかりに懸命になり、身体は力み、微妙な感覚は失われ、全身は協調性を失い、それでも相手が倒れないので(というよりはそうだからこそ相手が倒れないので)もっと懸命になると、まったくの馬鹿力の発揮となり、武術の技とはかけ離れてしまう(しかも相手は倒れない)。

あるいは武術の技を時間軸に沿って「最初に右手をはね上げて、それに左手を添えて、次に右足を出して、最後に左足を送る」などと手順に分けることは、最初のうちこそ必要かもしれないが、それは必要悪と言うべきで、その手順に分けた動きばかりをしていると、動きの流れが完全に分断し、姿勢が崩れてしまって、隙だらけの死に体になってしまう。

分析モデルは必要最小限にして、むしろ「相手の中心を崩すために、『すーっ』と入りながら『さーっ』と捌く。決して、『がっ』と当たって、それから『ぐいっ』と押し込むようなことをしない」と、究極の目的を述べた上でおよそ非分析的な擬態語を使って説明してもらった方がいい。あるいは「あたかも剣を抜くように」といった比喩を使ってもらってもいい。さらには、「動くことより動ける感じを大切に」や「その瞬間瞬間でその人が自然であるかを大切にして」といった抽象的な説明の方がよくわかるし、その方がよく動ける場合も多々ある(私は相当に下手だけれど)。

そういった擬態語や比喩表現の方が、限定された意味だけに制限されず、限定された意味を中心に置きつつも一連のイメージを豊かに喚起し、中心的な意味に付随する意味を含意としてうまく伝えてくれる。(もちろん、これにはまず、技を見たり技を受けたりして、ある程度身体で武術の技を理解しているということが前提になる。本だけで擬態語や比喩表現を知り、それにしたがって武術技を行おうとすれば、それは上記の分析モデルにしたがった場合以上にひどい結果になる)。また、抽象的な説明(あるいは別次元の説明)は、これまた身体的理解とうまくつながれば、特定の身体の動きだけに意識を集中してしまうことを防ぎ、武術技の全体性をうまく保ってくれる。



■ 全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練のそれぞれの長所と短所

武術技の例を出して、擬態語・比喩表現や抽象的な説明の方が技能獲得のために有効と主張するとなんだか(よくある)神秘的なごまかしのように聞こえるかもしれない(注) ―実際、武術の世界にはそのようなごまかしがたくさんある―。その点、ルールで動きが限定されたまま、必ず目に見える結果(だけ)で勝敗を決められてしまう近代競技スポーツの方がよほど正直だ。

私がコミュニケーション能力の標準化されたテストについて極めて懐疑的でありながらも、それを一概に排除できず、ある程度認めざるを得ないと考えているのも、標準化されたテストには、近代競技スポーツと同じような透明性があるからだ。その透明性によって、誰も自分をごまかすことができなくなる。

だが、その透明性は、限定性でもあり、その点で、私は(限定性のない)武術やコミュニケーションの実態を尊重せざるを得ない。限定性の制限の中でばかり物事を行っていると、ナイフをもった悪漢に「刃物を使うのはルール違反だ」と警官が抗議したり、現実交渉の中で「それは英語の知識の有無の問題ではない」とビジネスマンが文句を言ったりといった冗談のようなことが起こりかねない。現実は無限定的であり、もし教育の(究極)目的を現実生活への対応におくならば、私たちは限定性ばかりにこだわった訓練を行っていてはならない。

私は武術やコミュニケーションの現実を主眼におく。しかし、近代競技スポーツやテストもある程度認めないと、武術やコミュニケーションといった名の下に、私たちは著しく自分をごまかしかねないと思っている。

「武術の技は必殺であるから試合はできない」とか「武術の技はことばでは説明できない」とかいうのは、まったくその通りである。しかしそれらのことばばかりを繰り返して、相手との対峙を拒み、技の分析も拒むなら、下手な奴でも師匠のふりができる。そんな師匠につくと、弟子は師匠以上に妄想ばかり膨らまし、まったく武術の技を体得できなくなる。武術でさえ、限定的で分析的な訓練を必要最小限の範囲で導入しないとならない、とオタクながらに案じている(笑)。

「人間としての成長は、標準的な形で計測できるものではない」や「コミュニケーションとは関係性の中で成立する一回的なもので、再現はできない」というのはまったくその通りで、私はそういったことを訴えるために、これまでたくさんの駄文を書いてきた(苦笑)。しかし、それらのことばをいいことに、「人間的形成のためには、テストによる測定をすべて拒否しなければならない」や「生徒にはコミュニケーションだけをさせて、文法などの解説はしてはならない」などといった極端を言うなら、それはあまりにも非現実的な原理主義だと否定しなければならない。

私は、全体論的認識・統合的経験を重視する。しかしそこに近づくためには、分析的思考・部分的訓練も最小限導入しなければならないと考える。だが、現代はとかく分析的思考・部分的訓練を重視するので ―その背後に西洋近代の合理性の思考法があるのではないかというのが、私の考えだ―、分析的思考・部分的訓練、あるいは西洋近代的合理性の過剰な使用に対して警戒しておかなければならないと私は主張している。とはいえ ―このパラグラフで3つ目の逆接だ!―、その警戒のあまり、全体論的認識・統合的経験の重視が教条化してしまうと、人間はしばしば自他をごまかしてしまうとも私は懸念している。

要は、現実的でありたい。武術の言い方なら「効いてナンボ」だし、英語教育なら「生徒が英語が使えるようになってナンボ」だ。だが ―とまたもや逆接を使わざるを得ない。私たちは矛盾表現を使わないと現実を適切に語ることはできないのかもしれない―、「効く」ことや「英語が使える」こと、をルール化された試合や標準化されたテストに還元してしまって、現実が歪められてしまう。

そういえば羽藤由美先生も、『数量化革命』・・・の記事のコメントでこう言っていた。
「一人の人間のコミュニケーション能力なんて一生連れ添っても分からない(実感!)」というような「限界」を前提としなければならないのはもちろんですが,そこはやはり程度の問題。テストを学習者が必要とする「能力」にできるだけ近づけていく努力は必要だと思います。


だから、もう哀しいぐらいに当たり前のことを言うはめになったのだが、全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練の両方が必要だ。ただ、西洋近代の影響が強い現在は、東洋の伝統でもあったはずの全体論的認識・統合的経験がずいぶん旗色が悪くなっている。さらにコンピュータというきわめて「合理的」な機械の発達で、分析的思考・部分的訓練の傾向はますます勢いを増している。

たとえば、文章のコンピュータ採点に反対する下のエッセイも、コンピュータ採点が、結構人間による採点と高い相関を示していることは事実として認めざるを得ない。



このエッセイの最終段落の主張には、私も共感する。
The deepest reason to get rid of automated essay grading is not that the statistical correlations aren’t good enough yet (this is fixable) or that one can cleverly trick the computer (this is true, but not the root issue). The reason to get rid of automated essay grading is that the whole point of doing something like writing an essay is to learn to engage on a level that machines cannot participate in or really appreciate. It’s to use the other part of your mind in an effort to communicate with other people. That, the profound and joyous sense of recognition that comes from communication, is the thing worth teaching, and it is the thing worth learning. We should put aside the pretensions of objectivity and practicality and get back to the part that really matters. It is time for us to slacken our grip.

だが、それでもコンピュータによる「合理的」な採点は、現在の世の中ではますます力を得そうであることは否定しがたいことは、エッセイ全体から伝わってくる。

しかし、認識の全体論的性質と経験の統合性をきちんと理解しないと、人間の営みが著しく平板化され、やがては合理的な分析モデルの妥当性を判断する人間の技の質自体が劣化してしまうということは十分ありえる。



全体論的認識・統合的経験は、しばしば神秘化され教条化され、乱用される。また、全体論的認識・統合的経験を、多くの初心者に一気に求めることは非現実的だ。

だが、分析的思考・部分的訓練の傾向があまりに強くなり、言語コミュニケーションにせよ、教師の授業にせよ、格闘技にせよ、歪められた現実 ―現実とはもはや呼べない「現実」― がどんどんと構成され「再現」されているように思える私にとっては、やはり全体論的認識・統合的経験の重要性を訴え、分析的思考・部分的訓練に対して批判の目を忘れないことを主張したくなる。

元々は、この議論に、最近読んだE.O.ウィルソンの『人間の本性について 』の引用を絡ませて、「非常に単純化された分析モデル」ではない高度な「数量化モデル」の限界についても語るつもりだったけれど、もう議論は十分に錯綜してしまったので、本日はこれまで。誠にお粗末でした。最後まで読んでくださった、皆さん、ごめんなさい。





(注)

「擬態語・比喩表現や抽象的な説明の方が技能獲得のために有効」というのは、教師教育でも言えるだろう。教師としての力量を上げようといろいろ工夫しながら苦労を経験している教師に、先輩教師が「いつもまっすぐ生徒と視線がつながっているかい?」とか「要は、子どもを信じることだ」と言うと教師の力量がぐっと上がることがある。だが、これは普遍的に有効なことばではなく、若手教師をよく知る先輩教師が「口伝」の形で絶妙の時(卒啄の機)に伝えてこそ有効であろう。私は擬態語・比喩表現や抽象的な説明 ―マイケル・ポラニー(Michael Polanyi, 1891-1976)の表現なら「格率」 (maxim) の真実性を信じているが、同時にそれがしばしば誤用・乱用されることも知っている。

関連記事

インタビュー研究における技能と言語の関係について
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517




追記 (2013/10/02)

以下はたまたま先ほど知ったTED動画だが、スタンフォード大学医学部のAbraham Verghese氏は、あくまでも西洋医学の枠組の中でだが、分割されたデータばかりを見る現代医療の限界を痛感し、五感を総動員して患者に接するアプローチの復権を訴えている。







しかし、東洋医学からすれば、医者と患者がお互いに五感を澄ませて相対することなど、基本中の基本だ。







これも言い古された言い方になってしまうが、西洋医学だけが医学ではない。西洋近代化された東洋の国、日本に住む私たちは、もっと東洋的な伝統を尊重するべきではないのか。



関連記事

科学者の見識と科学の限界の可能性について ―E. O. ウィルソンの『人間の本性について』から考える―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/e-o.html






追記 (2013/10/17)

 以下は、上の記事を読んでくれた大学院生が、技能獲得における部分/全体、分析/統合について書いてくれた文章です。さまざまな技能の獲得においても、やはりこれらの問題は重要であるように思えます。



UJ

ここからはいつもの如く完全に趣味の話になります(笑) 以前所属していたフォークソング部にOBとして顔を出すと、よくギターをしている後輩たちから「メタルさんっていつもピッキングはどうやってるんですか????」と聞かれます(※ちなみにピッキングとは右手でピックを持って弦をはじく行為のことを指します)。

私はこの類の質問に答えるのが非常に苦手で「うーん…こんな感じ」と言って実践して見せるしかできません。つまり「えっとまず右手はリラックスした状態、右手の第二関節は90°くらいに曲がった状態が調度よくて、ギターに触れる右手の部分は先から薬指の先端・手羽の部分・第二間接から3分の1くらいの部分の3つ、ピッキングの際に可動させる部分は…」などといって、後輩に私とすべて同じようにさせたとしてもおそらく彼らは私と同じピッキングをすることはできないでしょう。

それは逆もしかりで後輩にどうやってピッキングしてるのかと聞いて教えてもらったとしても後輩と同じピッキングをすることはできないでしょう。なぜなら私はいつもピッキングする際に先ほど述べたような素描を一つ一つ考えるのではなく、ひとつの全体的な動きとしてピッキングをとらえているからです。全体的な動きを要素要素に分解しようとしたら絶対に分解できていない部分が出てくるように思えます。自分ではすべての要素を正しく分解したと思うかもしれませんが、もし実際そうだとしたら、分解した要素をすべて他のギタリストに伝え、そのギタリストが正しくそれを実践したら私とほぼ同じピッキングができるようになるはずです。

少し例えを変えて、よく書店などの背表紙で目にする「ピッキングがうまくなる人、ならない人」とか「速弾きピッキングをするには」のようなな教本を考えてみます。その類の本はギターを初めてすぐのころに何冊か購入してみました。しかしながら本に紹介されている方法でやっても全然うまくならず、すぐにやめてしまいました(もちろん私の努力不足もあります…)。本の中には上で述べたように「右手はあーしてこーして」という説明が丁寧にされていました、しかし今となって考えるとその説明はあくまでもその本を書いた著者のスタイルの「一部」、つまり「著者が意識的に気づける範囲に絞って」自分のピッキングを分析した結果にすぎません。したがって著者の解説をすべてつなぎあわせたからといって著者のピッキングが完成するはずがありません。意識にのぼらないところで著者なりのスタイルがあったり、少し人と違ったやり方があってこそもしかしたら著者のスタイルが確立されているのかもしれません。

  完全に趣味の話でしたが、現実を要素に分解していって分析することは確かに良い手段かもしれませんが、分解のしかたを間違えると、さらには分解しきれていないものを残してしまうと折角の分析も無意味なものになるかもしれません。



FT

例えば「守備が上手い」を考えてみると、「グラブさばきが柔らかい」や「足さばきが滑らか」、「一歩目が早い」などの要素に分析できる。さらに「グラブさばきが柔らかい」を分析してみると、「ショートバウンドに対するグラブが地面に垂直で前に伸ばせている」だったり「手首が固くなりすぎず打球の衝撃を吸収している」という要素が見えてくる。このように「野球が上手い」という概念はさらに下位の概念から構成されており、「野球が上手くなる」という目標に達するためには、下位の概念を鍛えていく必要があるというのが「分析的思考」であり、それらを実際に鍛えることが部分的訓練であると考えられる。

 自らの経験を省みると、部活動で費やした時間の大半はこの部分的訓練であったように思う。例えばゴロをさばく際には、まず腰を浮かさずボールへ向かっていき近づいたら基本の姿勢を取り、右足から地面に着き捕球したらリズムよく左足を着き、上体を起こしつつ右足をさきほどの左足の位置より前に着きながら送球の姿勢を作り、左足を踏み込みながら送球する(体では容易に理解しているのだが言葉で説明するとこんなに長い)。部分的訓練にあたる練習の際は足さばきを滑らかにするために一つ一つの動作をゆっくり試み、時には動作の途中で止めながら各部位の位置を意識するのだが、少しでも意識が薄れると監督から叱責されたものである。
 
 こうやって少しずつ体を矯正していきノックの際に体全体の扱い方と足さばきの連動の感覚を掴んでいくのだが、正直なところある程度慣れてくると部分的訓練に多くの時間を費やすより、もっと体全体の統合を実感する方が上手くなれるような気がしていた。しかし当時監督に提言できるほど部内で力を持っていたわけではないため、ただひたすらに部分的訓練に打ち込んでいた。
 
 そんな中ある日の練習でノックを受けていたら、同じポジションの先輩から「お前守備上手くなったな。足さばきが早くなった。」と言われ、実感がなかった私は「本当か?」と疑問に思ったことがある。ただがむしゃらに部分的訓練に取り組んで、たまにノックで体全体の統合を実感するというサイクルの中で、無意識のうちに体が連動する感覚を身につけていたようであった。その言葉を聞いてから体全体に集中してみると、以前とは全然違う感覚、部分的訓練によって培われたものが体全体との動きと連動し統合される感覚があった。これが私の統合的経験だったように思う。
 
 この経験だけ見れば、部分的訓練に時間を費やすべき、という考えに行き着きそうだが、私は一概にそう考えてはいない。部分的訓練とは非常に不自然な動きであり、ものによっては、筋肉の発達の関係などの理由から、部分ごとに静止することができないということが起こりうる。例えばピッチングの際は肘を肩より高い位置に持ってくるべきと言われており(肘の位置が低いと肘に負荷がかかりすぎて肘を痛めるため)、ピッチングフォームを作る際は投球の一連の動作をゆっくり確認していくのだが、野球未経験の人がこの部分的訓練を行おうとするとほとんどの場合肘が肩より上がることがない(これは投球動作のための筋力の不足と肩肘の柔軟性が関係している)。しかし一連の動作で投げさせてみると未経験者でも肘が肩より上がる人がいる(これは遠心力と体の使い方が影響している)。つまり、部分的訓練をしようとするとできないが、統合的な動作はできているということも起こりうるということである。このような場合は投球練習(統合的訓練)を多く行わせることで、ピッチングフォームをゆっくり確認する(部分的訓練)のに必要な筋肉を養うことができ、結果として統合的経験を通して部分的訓練が可能になるのである。
 
  これらの経験を省みて、部分的訓練と統合的訓練どちらに重きを置くべきか、私は現段階では決めかねる。野球の中でも違った比重の置き方が適切な場合があったように、おそらく分野が違えばどちらを大切にするべきかは変わってくるだろう。また時期や個人差なども考慮すると、必ずこっちに重きを置くべきという必勝法的なものは存在しえないのかもしれない。しかしそんな中でも生態学的アプローチのように対象を丁寧に観察し自分の中に経験を内在化していく中で、傾向性を見つけることは可能であると思う。答えのない問いに向かっていく時は、考えることを放棄せず、場合によってどちらにも傾くことができる位置を模索してく必要があるのではないだろうか。



KR

  人類は経験を継承し発達させることで高度な文明を築き上げた。そしてより高度な文明になればなるほど、後世に伝えなければならない情報は増加する。この情報量の増加に伴い、より効率のいい情報形式が求められ、制度化されたformalな教育が誕生した。
formalな教育では、情報効率を求めることにより、一般化された抽象的な形式へと陥ってしまう。

 例えば、トランペットの演奏の熟達には「音を後ろに出す感覚でロングトーンの基礎練をひたすらにやりなさい」と指導されることは常である。この言葉は経験者にとっては理解できるエッセンスが含まれており、演奏上の一つの理想の形態を伝達する為の効率的で、極めて制度化された練習である。しかし、1.実際の曲中ではこのロングトーン練習で訓練される長音はめったに見られない、2.未経験者や初心者にはあまりこの練習形態の意義を理解することができない、という2点の理由から単なる機械的で非現実的な練習に陥ってしまう可能性が考えられる。情報効率を求めた結果に行き着くformalな教育体制は、現実との結びつきが弱くなってしまう恐れがある。そのため、教育を実施する際にはformalな教育の形態を批判的に捉え、日常生活に関連を持たせなくてはならなければいけない。「型」にはまった教育は効率的であるために、(数学において解の公式を教えることは非常に容易であるように、)情報を発信する側にとっては最善であっても、受け手の生徒にとってはその型が現実世界とかけ離れて見える可能性が十分あることを懸念しておかなくてはいけない。

  formalな教育の形を批判的に捉えると同時に、「部分的訓練」と「統合的訓練」にも目を向け、双方の重要性を押さえておかなくてはならない。

  部分的訓練は、限られた人間のワーキングメモリの中では扱いきれないほど巨大な概念構造を、パーツに分解することで習得可能にする。この際に配慮しなくてはならないことは、全体の見通しである。しばしば、教育では指導者が経験則に従って(全体像の説明を省いた上で)部分的訓練を押し付けることが多いように思われる。この指導者の部分的訓練の押し付けの結果、多くの学習者は目の前の訓練に対して全体像を持ち合わせないことが多々見られる。吹奏楽部時代、先輩は私に「ロングトーンを練習しなさい」と繰り返し部分的訓練を強要した。確かにその結果、私はロングトーン練習ではきれいな音を出すことができるようになったのだが、曲の中での能力はあまり伸びることはなかった。私は確かに部分的訓練により前進はしたものの、全体像を持っていなかったために、その成果を全体に還元できることができていなかったのである。部分的訓練には、常に全体への見通しという目的意識が求められる。

 部分的訓練は分解することで巨大な概念を習得していくのに対し、統合的訓練は全体の外観から習得していく側面を持つ。この際に配慮しなくてはならないことは、自らを分析する意識である。統合的訓練では、扱う概念が学習者にとっては多すぎるために常にパンク状態であることが多い。これを繰り返していく中で、人間は慣れを引き起こし訓練を形式的なものへと陥れてしまい、自身の欠点に気付けなくなってしまう。英語の授業を例に挙げると、発音の演習の際には自身の間違いに気づくことができるが、活動がディスカッション等になるとより大きな概念を取り扱う中で発音に関しては気付くことができなくなってしまうだろう。日常的にディスカッションを授業の中に取り込むと学習者は形式的にディスカッションをこなすようになる恐れがあり、結果的には発音の問題に気付けなくなってしまう可能性がある。統合的訓練には、常に自身を分析する注意が求められる。

 以上のような「formalな教育体制に批判的になり続けること」や「部分的訓練・統合的訓練の特性を意識する」というだけではなく、教師は常に生態学的なアプローチも求められてることを忘れてはならない。上記で挙げられた内容は、それらしい内容を述べているように聞こえるが多くは個人の中でとどまっている実体験である。実際の教育には様々な相互関係、個性、環境が影響を及ぼしてくるために、従来の最善な教育手法が明日も同じように最善となる保証はあり得ない。我々は上記の内容を踏まえたうえで、目の前の生徒・環境に適応させながら教育を実践していかなくてはならないのである。



UK

先日の授業では、甲野先生の記事に強く興味を惹かれたので、それについて書こうと思います。甲野先生はスポーツ界の暴力を無くすための対策において、「指導者が現役選手にも驚かれるような技術を身につけるべく、何よりも指導者自身が技の向上を目指さねばならない。」と書かれていましたが、これは残念ながらラグビーに関してはほぼ不可能なことです(批判するつもりは全くありません)。世界で最もフィジカルなスポーツと言われるラグビーで、現役を退いた指導者が、少なくとも大学ラグビー以上のレベルで選手よりも高いスキル・ストレングスを維持することはよほどの才が無い限りできるものではありません。

では、どうやって甲野先生が言われるような実践に近づけていくのか?私はその答えは、ラグビーに限って言えば、明確な役割分担にあると考えています。すなわち、「現役選手が驚くようなプレーを見せる役割」は当該選手の上のレベルに属する選手に担ってもらい、「現役選手が驚くような他の選手のプレーを紐ほどいて体系化して伝える役割」を指導者が担うことで、競技に取り組む選手に強い興味を湧かせることにつながるのではないかと思います。ラグビーのように、①ボールを持って②トップスピードで走りながら③ラン・パス・ヒット・キックの中から1つを選択する等、複雑な要因が絡み合って行われるスポーツの場合、いいプレーをした選手は何故そのプレーができたのかを説明できない場合がほとんどです。ラグビーの指導者はそれを要素に分解し、選手に伝え、最終的に選手がその要素を統合していいプレーをできるように育てる役割を担うことができます。(この「紐ほどき・体系化して伝える」ことの正反対のところに暴力があるのではないかと思います。)

甲野先生の実践のように指導者が競技者を兼任できる場合、指導者自身が(統合された)プレーを行いつつ要素を説明できるというメリットはありますが、自分の動き自体を最終的にうまく説明できないというデメリットもあるのではないかと思います。逆にラグビーには、指導者が競技者を兼任しないことで、「要素に分解・体系化して伝える」役割に専念できるというメリットがあると考えます。授業中にUJ君と、「どうやってピッキングしてますか?とか、どうやってキック蹴ってますか?っていう質問てうまく答えれんよね」という話題で盛り上がったのですが、後から考えてみると、それは私たち自身がまだ競技者に近い目線で自分のプレーを教えようとしているからで、優れたラグビー、ギターの指導者というのは、いいプレーを「要素に分解・体系化して伝える能力」に長けているのではないかと考えます。(ギターはどちらかというと柔道に近く、指導者が競技者を兼任できるものかもしれませんが)

このように、競技間の特性の違いによって指導者が担うべき役割は少しずつ変わってくるのかもしれません。しかし、最後の最後で大事なのは、あるトップリーグのチームの監督がインタビューで発した言葉「「コーチは学ぶことを辞めた時、教えることも辞めなければならない」に集約されているのかと思います。








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