2013年8月7日水曜日

教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ



[この記事は8/10の全国英語教育学会シンポでの発表のための基礎資料です]



■ 概要

現在主流の英語教育研究は「工学的アプローチ」でもって英語教育実践を支援しようとしていると考えられる。しかし、教師・生徒・学級・学校のあり方をよく観察し、教師などの当事者の話をよく聞くならば、工学的アプローチで得られた知見から期待できる実践の改善は極めて表面的なものであり、むしろ教育研究は工学的アプローチ以外のアプローチで行うべきではないかと思える。ここでは、教師・生徒・学級・学校のあり方をより的確にとらえるアプローチを「生態学的アプローチ」として説明する。


■ 教育研究の工学的アプローチ

ここでいう「教育研究」とは、「教育実践を支援するための知見を提供するための研究」であるが、現在の英語教育界で主流の「量的研究」と呼ばれるアプローチは「工学的アプローチ」と称することができる。

「工学」 (engineering) を意味を、愚直に辞書で確認するなら、次のような意味がここでいう「工学」の意味である。

科学知識を応用して、大規模に物品を生産するための方法を研究する学問。広義には、ある物を作り出したり、ある事を実現させたりするための方法・システムなどを研究する学問の総称。
大辞林
http://www.weblio.jp/content/%E5%B7%A5%E5%AD%A6

engineering
the application of science and mathematics by which the properties of matter and the sources of energy in nature are made useful to people
the design and manufacture of complex products
calculated manipulation or direction (as of behavior)
Merriam-Webster
http://www.merriam-webster.com/dictionary/engineering


ここでは特に「大規模に物品を生産」や、"calculated manipulation or direction (as of behavior)"といった表現に注目したい。工学的アプローチによる知見は、科学知識の応用により、優れた教師を「大規模に」作り出すことを目指す。あるいは「社会工学」といった意味では、教師の行動を計算通りに操作して優れた教師を作り出すことを目指している。このアプローチでの「科学知識」とされるのは多くが言語学や心理学の知見であり、その応用により優れた教師が計算通り大量に産出できると、工学的アプローチは想定する。

大量生産を可能にする一つの要因は、原材料および生産物が標準化され、個体差がほとんどないので、同じ方法を適用することができることである。コンビニ弁当の卵焼きを例にとれば、多少の個体差がある生卵も、割って撹拌することで原材料として(例えば何グラムなどと)標準化され、それらに同じ調理法を機械で適用することにより卵焼きという生産物を大量(かつ高速)に生産することができる。

工業製品として生産される薬も同じことであり、原材料と生産物は共に標準化され薬は大量生産される。薬の場合、何を原材料とし、どのような加工をし、どのような生産物を生産するのかというのは、生理学研究を応用して作られた新薬をこれまでの薬と比較する★治験と言われる臨床試験により決定される。

治験では、多くの被験者を対象にランダム化比較試験 (randomized controlled trial: RCT) を行い、かつ二重盲検法 (double blind test) で、被験者と治療者の心理的要因(主観性)が混入しないようにした上で、新薬がこれまでの薬と比べて統計的に優位な差を出すかを検定する。

英語教育研究での工学的アプローチもこれに似た考えを取り、新しい教育方法と旧来の教育法の出す結果の差が統計的に優位なものかを見ようとする。もし優位だとしたら、その新しい教育方法を、他の教師に同じように適用したら、それらの教師も同じようによりよい結果を出すと望まれている。

しかし、医学・薬学の治験では、患者個人を対象とするため、数百人から数千人といった大量の被験者をランダムに分けて比較することができるが、学級集団を対象とする英語教育研究では通常二つの学級集団を対象とするぐらいであり、通常はランダム化がなされていない。

もちろん多くの英語教育研究では、予めの差がないことをプリテストで検定するが、そのプリテストは一種類の測定に過ぎない。他方、治験での多数の被験者のランダム化は、実験者が十分に想定していないかもしれない要因をもランダム配置により誤差変動として処理することができるので、英語教育研究の工学的アプローチがランダム化比較試験の形態をとっていないという差は大きい。

また、治験では二重盲検法が容易であるが、英語教育研究の工学的アプローチでは通常教師は比較する教育方法について相当の知識・先入見を有している。また被験者についても、治験では外見だけではわかりにくい薬剤により被験者は治療法についての知識・先入見をもちにくいが、英語教育研究の場合、生徒は隣クラスとの情報交換もするため教育方法についての何らかの知識・先入見をもつことが容易に考えられる。またそもそも教育という営みが、教師が生徒を信じ、生徒も教師を信じるという関係性を基盤にしていることから、英語教育研究の工学的アプローチでは、二重盲検法はほぼ不可能である。

さらに治験の治療法は、工業的に標準化された薬であり、その同一性は極めて高いが、英語教育の場合、例えばシャドーイングとリピーティングなど、教師の力量や判断によっていかようにも異なりうるものであり、その実験から得られた知見を、他の多くの教師が実行した場合でも(例、シャドーイング)、その「シャドーイング」の同一性ははなはだ疑わしい(逆に言うなら、ある教育方法を、生徒・教材・学習時期などの諸要因を配慮して柔軟に変化させるのが教員の力量であろう)。

こうしてみると、英語教育研究の工学的アプローチが科学的に厳密な実験を行い、科学的に妥当な想定でその汎用性を期待できるのかといえば、それははなはだ疑わしい。

研究者はしばしば自ら「実験的に証明した」教育方法を万人に勧めるべきものとして称揚するし、政策実行者は少数の実験結果をもって「実験的に証明された」教育方法(=政策が勧める教育方法)を万人に強いるが、その態度は厳密な意味で科学的なものとはとても言えない。(この論点についての詳しくは「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」を参照されたい。また「Exptoratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察」も英語教育研究における「科学的研究」について考察している)。



■ 教育研究の生態学的アプローチ

そうなると教育研究において「科学的」であろうとすれば、「工業実験や治験と同じような方法をとり、統計検定をしているから『科学的』であるはずだ」といった思い込み・教条から自由になり、教育の営みの事実を丁寧に観察し、その観察結果から慎重に考察を進めるべきだと思える。そのような科学のあり方は、生態学に求めることができるだろう。

生態学 (ecology) の意味を、ここでも愚直に確認しておくと、以下のような意味が確認できる。


生物とそれをとりまく環境の相互関係を研究し、生態系の構造と機能を明らかにする学問
大辞林
http://www.weblio.jp/content/%E7%94%9F%E6%85%8B%E5%AD%A6
ecology
the totality or pattern of relations between organisms and their environment
an often delicate or intricate system or complex
Merriam-Webster
http://www.merriam-webster.com/dictionary/ecology
human ecology
a branch of sociology dealing especially with the spatial and temporal interrelationships between humans and their economic, social, and political organization
Merriam-Webster
http://www.merriam-webster.com/dictionary/human+ecology

ここでは「相互関係」、"totality ... of relations", "delicate or intricate"といった表現に注目したい。工学的アプローチでは、「実施する教育方法→生徒が出す結果」といった一方向の因果性が想定されていたが、教室では生徒の反応が教師を動かし教育方法も変化させるなど、相互関係が常態である。また、関係性は関係者・関係事項すべてが絡むシステム全体に及ぶから、相互関係も複雑で複合的である。このように多数の要因が複合的に絡み合っているので、そのシステムのふるまいは"often delicate or intricate"である(だが稀にはバタフライ効果のように、些細な変化がシステム全体に大きな変化を引き起こす場合もある)。

仮に教育実践を考える際の大きな分析単位として、教師、生徒、学級、学校を考えるとしても、それら四つは相互に影響を与え合っているだけでなく、それら一つひとつの単位においてもその内部でさらに細かな分析単位が考えられ、それらの分析単位は相互に影響を与え合っている。四つの分析単位の間と中の相互関係は極めて複雑で複合的なものとなる。

以下、四つの分析単位と、それら内部の下位分析単位を列挙する。だが、これらは相互に重なり合うものであり、また、これらで教育実践の分析単位が枚挙できているとはとても言えない。これらの分析単位はウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や「親族的類似性」で使われるような分析単位と考えるべきである。

● 教師生態学
・個体的要因:性別、身体、知識、技能、才能、意欲、気質、個性、等など
・歴史的要因:家庭、生活、学校内学習、学校外学習、職業、人生経験、時代、等など
・時間的要因:年齢、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:教室内生徒、教室外生徒、同僚、上司、友人、家族、等など
・環境的要因:教室内、学校内設備、学校外施設、町、家庭内、天候、等など

● 生徒生態学
・個体的要因:性別、身体、知識、技能、才能、意欲、気質、個性、等など
・歴史的要因:家庭、生活、学校内学習、学校外学習、職業、人生経験、時代、等など
・時間的要因:年齢、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:保護者、兄弟姉妹、学級内、学級外、学校外、等など
・環境的要因:家庭内、教室内、学校内設備、学校外施設、町、天候、等など

● 学級生態学
・個体的要因:学級規模、学級形態、集団構成、等など
・歴史的要因:学習経験、行事経験、学級内経験、時代、等など
・時間的要因:学年、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:担任、教科担当教員、生徒指導教員、他学級、他学年、等など
・環境的要因:教室内、学校内設備、学校外施設、町、天候、等など

● 学校生態学
・個体的要因:学校規模、学校形態、住民構成、等など
・歴史的要因:学習経験、行事経験、学校内経験、時代、等など
・時間的要因:学校種、学期、月、曜日、時刻、等など
・関係的要因:卒業生、地域関係者、地域住民、地域外市民、他学年、等など
・環境的要因:地理環境、社会環境、経済環境、学習環境、文化環境、天候、等など


これらの分析単位についてはいちいち具体例を挙げないが、教育の営みを私たちが十分に思い起こすことができれば、「同じ『教師』だといっても、A先生ができることと、B先生ができることは異なりうる」ということは言うまでもない。「同じ『教師』」とはいえ、A先生とB先生の個体的・歴史的・時間的・関係的・環境的要因が異なる以上、同じように努力して同じ教育方法Xを用いたとしても、その結果は異なりうる(またそもそも教育実践の場合、教育方法Xの同一性も疑わしいことは私たちが上で確認したことであった)。

それどころか「同じA先生でも他の要因次第では同じことができたりできなかったりする」ことも明らかである。A先生の個体的・歴史的要因は短期的に変化しないにせよ、時間的・関係的・環境的要因の変化によって、A先生のパフォーマンスが変わることはいくらでもある(例、学期末の繁忙時、上司との関係の悪化、使用機器の不調など)。

同じことは生徒、学級、学校についても言えて、「生徒Aができるからといって、生徒Bができるわけでもない(それは必ずしも生徒Bの努力不足ではない)」し、「学年始めは学力差がなかったはずの学級Aと学級Bが、同じ教師が同じように教えているのに大きな差が出た」ことなど珍しくもないし、「学校Aでの最適な教育方法が学校Bでは悪い選択である」ことも不思議でもなんでもない。加えて「これまでの生徒Aと保護者の離婚後の生徒Aが違う」ことも、「4月当初の学級Aとクラスマッチ後の学級Aがまったく異なってしまう」ことも、「落ち着いていた学校Aが地域の不況により荒れてしまう」ことも教師にとっては不思議でもあり得ないことでもない。

むしろ不思議で、あり得ないと思えるのは、このような変化を想定しない教育研究の工学的アプローチである。

教育実践を支援する教育研究においては、工学的アプローチを忘れ、生態学的アプローチを採択するべきではないだろうか。(私からすれば、工学的アプローチは、生態学的観察抜きの事例研究を、「一般化」できる科学として標榜している自己欺瞞のように思える)。



■ 生態学的アプローチが含意すること

生態学的アプローチはいくつかのことを含意する。その一つは、「一元的な優劣」をつけることを拒むことである。工学的アプローチでは、「教育方法Aは教育方法Bより優れている」などといった(評価Xにおける)一元的な優劣をしばしばつけたがるが、生態学的アプローチで考える限り、「教育方法Aがうまくいく場合もあれば、教育方法Bがうまくいく場合もある。大切なのはどのような関係性の時に、どのような結果がでるのかを丁寧に観察し慎重に考察し、個々の事例を『一般化』しようとせずに、『洞察』を得る源として扱うことである」となる。

さらには評価Xだけでなく、評価Y、評価Z・・・と評価を多元化することも生態学的アプローチは私たちに要求するであろう。生態学的アプローチは、教育実践の複雑性・複合性を強調し、単純な一般化を警戒するからである。

私は現職教師の営みを観察し、彼・彼女の声に耳を傾けることを重視して、昨年度・今年度の全国英語教育学会課題研究フォーラムなどで、特定の教師を対象とすることがあるが、その場合「A先生はB先生より優秀」や「教育方法Xは教育方法Yより優れている」などとは決して意味していない。

教師にとって大切なのは、与えられた条件(自分、担当する生徒・学級、赴任校など)で、どれだけ相互に適した関係性を作り上げることができるか、ということである。

植物にたとえれば、同じ種であっても、肥沃な土地に舞い降りた種Aは、不毛な土地に舞い降りた種Bよりも大きな花を咲かせるだろう。だがそれは「種Aが種Bより優れている」ことを必ずしも意味しない。私たちは「種Aは舞い降りた土地で十分に開花したか」、「種Bはどう不毛な土地で生き延びたか」という個別的な観察をしなければならない。

教育環境の整った学級・学校に赴任すれば教師Aの成果は、そうでない学級・学校に赴任した教師Bの成果よりもまさる。だが、それは教師Aが教師Bより優秀であることを意味しない。

私たちは、教師、生徒個々人、学級、学校の営み・相互関係をきめ細かく丁寧に観察し、そこからゆっくりと洞察を得るべきであろう。

私には工学的アプローチしか知らない英語教育研究者が、自らの「科学性」を誇らんがばかりに、生態学的アプローチを取る質的研究を蔑視・軽視することが悲劇的にしか思えない。

それは慎ましい質的研究の発展を封殺するという点で悲劇であり、自らの誇りが自らの無知を示していることに他ならないという意味でも悲劇である。(私もこの文章で自ら自覚しない悲劇を演じていないだろうか)。

せめて教育研究の生態学的アプローチを否定することはやめていただきたい。

そして工学的アプローチの限界について、真剣に考えてほしい。たとえ、工学的アプローチをが論文を大量に執筆し査読するには最適の方法であるにせよ。






追記 (2013/08/13)

私の敬愛する実践者のお二人も、このテーマについてについてエッセイを書かれました。



英語教育(学)への2つのアプローチ

研究と実践のあいだ



以下、そこからの引用です。

たとえば、月曜日の1限と金曜の3限では、同じクラスでも生徒の授業に対する姿勢が全然違います。前の時間が数学か体育かでも生徒の雰囲気は違います。生徒から大人気のあの先生の授業の後か、生徒から総スカンのあの先生の授業の後かでも違います。生徒と和やかに朝の挨拶を交わすことができた後の授業か、生活指導でキツい叱責をして生徒との間に緊張が高まっている状態での授業かでも違います。
「現場」とはそういうものです。そして現場の教員は、日々、当たり前のこととして、こういう諸条件を頭に入れながら授業を作ります。一度作った授業でも、その場の生徒の雰囲気を見てアドリブで大胆に変えてしまったりします。
そして、そういう操作は、必ずしも、というか、多くの場合、言語化するのが難しいものです。
「今日の3組は、なんか重いよね。」「うん、重かった。どうしたんだろうね。」
みたいな会話は、職員室では全然珍しくないものだと思います。
しかし、「それ、よくわかんない。『重い』ってどういうこと?」
と問われてもなかなかスッキリとは説明できないことが多いのではないでしょうか。
生徒の表情が暗い、とか、活動を指示して動き出すまでの時間がほんの少し長い、とか、いつも積極的なAさんが教員と視線を合わせてくれなかった、とか、細かく見ていけばいろいろと細々とした要素に還元することができなくもないし、そうすることで問題の所在が明確になる場合もあるのですが、しかし、そういう要素の和が「重い」という感じの説明になるかといえば、必ずしもそうではないのです。
生徒の前に立って授業をする者としては、「重い」としか表現しようのない「何か」を感じているから「重い」と表現するわけだし、文脈を共有する同業者にはそれで「わかって」もらえるわけです。
しかし、学会では、口頭発表をする中で「このクラスは雰囲気が重いんです」などとは言いにくい雰囲気があります。そんなことを言おうものなら、「賢しらな」(失礼!)研究者から「『雰囲気』の定義は何ですか。『重い』とはどういうことですか。」などと質問、いやツッコミが入りそうです。(というか、実際は、そんな質問すらも出ずに、「ああ、現場の先生が研究もどきをやってるな・・・」ぐらいに冷たくスルーされて終わるような気もします。)

そうやって、「学会」では、教室で起こっていることを応用言語学的な言葉づかいに「回収」してしまって、その言葉づかいで語れないことは、研究として一等レベルの低いものであるかのように扱う雰囲気があるように思うのです。
「応用言語学」の研究ならばそれでよいでしょう。しかし、仮にも「英語教育」の「改善」を志向するならば、むしろ、そういう定義の難しい現場教員の言葉づかいをこそ大事にするべきなのではないでしょうか。



一方で、教室で中学生と日々格闘している中で、中学生が理論通りに本当に学んでいるだろうか、という疑問も感じています。それは、物理の時間にお勉強したように、重力に従って物体が坂道を滑り落ちていく時に、何かしらの「摩擦」がそこには本来あって、必ずしも理論値通りの動きをするとは限らない、というのと同じです。
この場合の「摩擦係数」は「L1とL2の距離」や「EFLかESLか」みたいな言語的な特徴によるものもあるでしょうけど、「生徒のやる気」、「生徒の体調や気分」、「教師と生徒の人間関係」のように、教室を取り巻く様々な環境要因であることも多く、その数値も(仮に同じ生徒であっても)日々様々に変化します。
 10年以上教師をしてきて日々実感しているのは、「理論」で語られるべき「指導法を変えたことによる学習効果の差異」よりも、「摩擦」と呼んでいる「教師と生徒/教材と生徒etc.のあいだにある抵抗値」の方が、変化量が大きいというか、生徒の学びに大きな影響を与えているように思える、ということです。
 つまり、一般的に残念といわれる指導法であっても力のある教師が実践すれば、優れた指導法を実践している教師よりも成果を上げてしまうこともありえるのではないか、と思います。それは反対にいえば、摩擦のうち「教室を取り巻く環境」の部分については、授業をする教師が「どうにかできるもの」だということです。
「カリスマ」と呼ばれるような熟達した教師には、もちろん「理論」に沿った指導方法を考えだし成果を上げている先生もいるでしょうが、少なくともどのカリスマも「摩擦」をできるだけ取り除いて、指導法が機能するような環境を(自覚的か無自覚的にかは別にして)作り上げているのは確かです。
 そっちの方が効果量が大きいのですから、「現場」の教員が「摩擦取り除き」に関心を寄せがちなのは当然と言えます。ですから、巷のワークショップ等にて英語教師間で共有されているのは、そういった「知恵」であることが多いように思います。
 ただそういった作業が「理論」とは別世界なわけではありません。理論を「現場」に当てはめる際には摩擦の計算が絶対に必要なわけで、こういった摩擦を取り除く知恵を「質的」に研究する試みも、十分に「科学的」でありえるはずです。ここで何度も宣伝させてもらっている拙著にて「教師の語り」を集めて共有しようとしているのも、そういう試みのひとつだと思っています。







追記  (2013/08/13)

ちなみに本日、岡倉由三郎(1911,M11)『英語教育』を近代デジタルライブラリーで読了しました。


岡倉由三郎(1911,M11)『英語教育』(近代デジタルライブラリー)




社会情勢と情報技術の変化を差し引けば、ここ百年間「英語教育学者」が論じていることは、ほとんどこの本で説かれているような気すらします。

上述の「英語教育(学)への2つのアプローチ」では「英語教育学」や「応用言語学」について、以下のようにも書かれていましたが、それと同じ事は岡倉も「(英語)教授法」について言っています。以下、2013年と1911年の発言を連続して引用します。

応用言語学系の専門書を読んでいて、それなりに納得はするのですが、どこかしら、自分の向き合っている現実の教室にはぴったりとそぐわない感覚を持ってきました。
また、広い意味で言って英語教育の改善を志向するといえる(たぶん)種々の「英語教育学会」がありますが、この「学会」というものを、敷居が高く、あるいは縁遠いものと感じる中高現場の教員は少なくないようです。
私自身はいちおう大学院まで行って研究の手ほどきまでは受けたこともあり、学会に参加すること自体には全然抵抗がないのですが、もしそういうトレーニングを受けていなければ、たしかに学会という場は中高の現場とは縁遠いものに感じられてしまうであろうことは容易に想像がつきます。
いや、もっとドギツイ言葉で言えば、小難しい言葉を並べてもっともらしい顔をして大真面目に机上の空論を戦わせているものの、そこで議論されている内容は、「俺らには関係ない、俺らの仕事の役には立たない何か」であると捉えられることでしょう。
急いで付け加えますと、私自身が、学会で議論されていることが「自分には関係ない」とか「自分の仕事の役には立たない」とか思っているということではありません。仮に私が大学院で研究の真似事らしきことをしていなければ、そのように感じられたであろう、という仮定の話です。
しかし、小難しい言葉で、なんだか自分が日々向き合っている現実の教室に当てはまるんだか当てはまらないんだかよくわからないような話が飛び交っているという印象は、実はまったくのウソでもありません。
実際、学会にはほとんど参加したことのないような教員から、「学会でやってることって現場には関係ないよね」という反応が出されるのは、これまでに何度か経験してきたことです。 (2013)
http://angel.ap.teacup.com/amtrs/196.html


「世間で動もすると、教育学や教授法を斯く専門的のもの、入り易からざるものとして遠ざける傾向があるに就いては、しかく誤解する方にも思ひ違ひがあるに相違無いが世間の所謂教育学者達にも、多少の責任がある様に思はれる。それ等の人々は概していふと、好んできつくつな術語を用ゐ、左程の用も無いに、内外諸国の大家の語句を殊事しく引用し尋常の事までも態々神秘的の霧の中に祭り込んで仕舞ふ癖があると思ふは、自分ばかりの陋見でも無い様である。(1911, p.2)
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812330/99

 「蓋し自分が平生信ずるには教育学でも教授法でも其大部分は常識の産物で殊に教授法のごときは全然然りと思ふ」(1911, p.2) 
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812330/99

この引用も「内外諸国の大家の語句を殊事しく引用」する愚なのでしょう。英語教育界の私たちは、相当に自らの愚かさを自覚しなければならないように私には思えます。





 追記(2013/10/05)

生態学的アプローチと工学的アプローチのバランスを考える上で参考にしたい動画です。ぜひ御覧ください。








2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

共感しました。中等教育にかかわっていると、学期中は忙しくて、「哲学的」に英語教育を洞察しようとすることはなかなか難しいものの、そのベクトルだけはいつも持っていたいと思っております。夏休み中の「哲学的洞察」を深めるものとして、柳瀬先生のブログを思い出して、読ませていただいています。先生のような視点から英語教育に携わる研究者の方がおられることは、大いなる励みになります。
(教員LK) 

柳瀬陽介 さんのコメント...

LK先生、

コメントをありがとうございました。この記事はとりわけ皆さんの共感を得たようで、さまざまな反応をいただきます。

また、この度の全国英語教育学会でも、上記の発表は好意的に受け入れられましたし(参考 http://d.hatena.ne.jp/thunder0512/20130813/p1)、浦野先生と水本先生によるワークショップ
(http://mizumot.com/lablog/archives/883)でも、これまでの量的研究に対する厳しい批判が加えられていました。

しかし、質的研究は無制限に称揚されるべきかといえば、それはまったく違います。

「実践研究」のあり方についてしっかりと考え、それこそ実践してゆきたいと思います。

いろいろな形で連帯してゆけたらと思っております。

どうぞよろしくお願いします。