2013年8月23日金曜日

農業はわずか2世代で工業化し投資の対象となった。では教育は?



私たちの「常識」とは、古来のものでなく、存外に近年に急速に作られたものであることは珍しくない。

この本(下記参照)の原著者であるJules Prettyが述べているように、人類の35万世代は狩猟採集民で、600世代は農民だった。いくつかの地域ではここ8~10世代が産業化を経験しているが、農業が工業化されてしまったのはここ2世代のことに過ぎない(訳書27ページ。以下、引用はすべて訳書から)

しかし私たちの多くは、工業化された農業こそを農業だと信じて疑わない。ある特定の作物を、化学肥料や農薬を使いながら大規模かつ効率よく集中的に収穫することこそが農業だと考えている。さまざまな作物を自給自足のために小規模で育てる営みなどは、時代遅れで滅びても仕方ないとすら時に考える。農業振興とは、農業にどんどん資本が投資され、農家がより多くの現金を手に入れることだと考える。農業の株式会社化のどこが悪いのかといぶかる。


だが、誰だか忘れてしまったが、ある農業者は言っていた。

土地がやせることもなく、毎年一定の収穫があることを農業では安定という。

だが、経済学者によれば、これは停滞らしい。


工業化し投資の対象とすらなる農業は、わずかここ数十年の営みに過ぎない。

それ以外の時代には、人間は自然との循環関係、つまり維持可能な共存共栄の関係で生きていた。というより、人間は自然の恵みにより生きることができるのだから、自然に感謝し自然を損ねることは避けなければならないというのが、人間の知恵だった。

もちろん農業の工業化(さらには投資対象化)にもそれなりの長所はある。収穫量の急激な増大である(179ページ)。だが、これは農薬使用の増加も招いている。「病害虫」は単一作物栽培(「モノカルチャー」)で蔓延する。農地の生物多様性が失われ、餌が豊富にありながら、天敵がいなくなるからだ。しかも農薬抵抗性も発達するから必然的に農薬は効かなくなる(158ページ)。さらに強力な農薬を使うなら、それは生物多様性をいっそう損ねてしまう。

また、農民もモノカルチャーで自給自足の手段を奪われると同時に、単一作物は市場の価格変動にさらされ、貧困化しかねない。自給自足型農業ならあまり現金を使わずともそれなりに豊かな暮らしができたものの、モノカルチャー型農業なら、多くの借金をして機械や化学肥料や農薬を購入しつつも、市場次第では多くの現金収入が見込めなくなる。

農業の工業化は正しい選択だったのだろうか。農業を投資の対象とすることは正しいことなのだろうか。短期的にでなく、長期的に考えたい。

私たちは、「合理性」や「効率性」といわれればほぼ無批判的にそれらを肯定する。そのためには「標準化」や「単一化」が必要といわれればそれもそうだろうと首を縦に振る。「多様性」や「多元性」と聞くと、なんだか青臭い概念のように思ってしまうし、「一つ一つの質は異なる」とか「数値に還元できない」などと聞くと、現実を知らない夢想家のことばのように思う。合理性と効率性を求め、物事を標準化し可能な限り単一化した上で、大規模に事業を促進し、金銭でその報酬を与えることを疑おうともしない。

だが、それはここ数十年で急速に加速した発想に過ぎない。今は、それを批判的に吟味することが私たちの歴史的課題なのではないか。

著者は言う。

世界は多様性に満ちあふれ、限定された条件下にあり、各場所に応じた多様なアプローチが必要だ。この考え方は、標準化によって産業開発を進めるアプローチとはそぐわない。近代主義は、単純化と効率化をめざしてつき進む。技術的な解決策は普遍的なものだし、社会的な状況には依存しない、と中央で決めてかかる。(249ページ)
近代主義思考は、必然的に、社会や自然に対するある種の尊大さへといきつく。地元の現場状況は複雑だし、机上で描けるほどきれいではない。だが、近代主義思考は、こうした地元状況とは切り離し、人々と相談せずに壮大な計画をたてることを可能にする。そして、近代化は、新たな秩序を構築するため、時代をかけて蓄積されてきた混沌とした地元の慣習や多元的な機能を一掃することに力を注ぐのだ。これは、歴史的な制約から自由になって、秩序や自由をもたらすものとみられるが、単純化された規則や技術では適切に機能するコミュニティを育むことはできないし、見落とすものがつねにある。残念なことに、20世紀の間に私たちは、自然とコミュニティとのバランスを大きく崩してしまった。今私たちは、世界をつくり変えることで、新たなバランスを見出す必要がある。(250-251ページ)


かくしてこの本は、世界中のさまざまな地域で試みられ成功を収めている、前近代的あるいは脱近代的な農業 ―持続可能な有機農業(=農場を構成する土壌、鉱物、有機物、微生物、昆虫、植物、動物、そして人間を、互いに影響しあって安定した全体を創出している有機体として考える農業。198ページ)を紹介する。定年退職後は晴耕雨読で自給自足に近い生活をしようと思っている私は本書を面白く読んだ。


だが、読むにつれ、農業と教育を重ねて考えずにはいられなかった。


教育も工業化されていないか。投資の対象にすらなろうとしていないか。


「学者」は 、ことに「英語教育学者」は、学習者も教師も単一的にとらえ、地域や学校のさまざまな事情を排除すべきノイズとして考えて、机上で描いた「合理的」で「効率的」な計画を押し付けようとしていないか。そして一部では飛躍的な成果を上げながらも、他の多くの人々の学びを根底的なところで損ねていないか。

さらには、技術的知性ばかりを洗練させ、人々の営みから遊離してしまった知を「科学」と詐称していないか。そしてそのような知を操り、肩書とそれに伴う(わずかな)利権を得ることを「偉い」ことと思い込んでいないか。そして学びの多様性や持続可能性を訴える人々を鼻で笑おうとしていないか。


教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ」でも書いたし、「Critical Applied LinguisticsとAlternative Approaches to SLAを学んだ学生さんの感想」でも学生さんが書いてくれたが、私たちは自分たちが正しいと信じて疑わないことつまりはイデオロギーについて批判的である必要がある。

私たちが、正しいと自覚・自認することすらもなく、それについてまったく思考停止してしまっている信念は、私たちの長期的な災厄の源になりうる。


*****


ジュールス・プレティ著、吉田太郎訳(2006)
『百姓仕事で世界は変わる ― 持続可能な農業とコモンズ再生』 築地書館







Jules Pretty (2002)
Agri-Culture: Reconnecting People, Land and Nature. Routledge






追記(2013/08/26)

私のSNSにある方が上の記事に対して以下のコメントをくださいました。ご本人の許可を得ましたので、ここに転載します。

「このやり方なら、だれでもできる」という普遍的あるいは魔法のような方法が本当に可能なのか。農業のことは分かりませんが、子育てにそんな方法はないと断言できます。
もう随分昔から、子どもたちの世界は大人の欲得にまみれてしまっていると感じます。子どもを消費者としてターゲティングするということです。そしてそのことに気がついている子どもは結構多くいます。それを逆手にとって、大人をやり込めます。崩壊学級を目の当たりにしたときに感じたことです。
大人たちから「できる」「できない」でふるいにかけられる一方で、一個の消費者として利用されることに、子どもは深く傷つけられているのではないか。
投資は悪いことではありません。ただ、教育も農業もその対象は生きていて、多様性に満ちているのですから、そのことを許容してあげなくてはいけないと思っています。効率的な投資とはなじまないですね。
先生のブログから、こんなことをつれづれに考えました。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いつも, 大変興味深く読ませていただいています。

この記事で、つい2-3日前に結果発表になったイギリスの義務教育終了試験、GCSEについての論評、学校が試験の工場化しているという記事を思い出しました。(http://www.telegraph.co.uk/education/educationnews/10260980/Exam-factory-approach-damaging-education.html)

GCSEの成績が生徒の今後、学校の評価を決めるため、生徒が少しでも高い点を取れるように何度も試験を受けさせる学校が増えている、という趣旨です。

GCSEは、日本育ちの私からみれば大変工夫されたテストで、論文筆記も多く、外国語は、読む聞くはもちろん、テーマ作文、一対一の口頭試験もあり、全国の学生にこうした(多分制度としてかなり高価な)試験を行う、イギリスの教育への投資に感心しています。(英語以外に仏、独、西、中、ラテン、そして日、など各語を受けるオプションもあります)

TOEFLでも、TOEICでも、標準テストが、教育や個人の能力のものさしとして一人歩きすると、日本では、これ以上の教育の工場化がおきそうだなぁ、と思って新聞記事を読んだところです。

ご参考になればと思い、コメントさせていただきます。
瀧野

柳瀬陽介 さんのコメント...

瀧野様
コメントならびにTelegraphの記事のご教示をありがとうございました。
記事を読みましたが、ある意味、これは日本の進学校や中高一貫校がやっている
「前倒し」型の教育かとも思います。もちろん、日本ではGCSEのように何度も
受けられる試験ではありませんが、センター試験の見直しで何度も受けられる
試験制度が画策されています。また、TOEFLについても何度も受けることが
できることをメリットとして導入論者は述べています。
短期的な効率性の追求が、長期的な害を成し得ますが、効率性といった
考え方に絡め取られてしまった者、数字に支配されている者はしばしば
結果的に長期的な害を「仕方ない」として頬かむりしてしまいます。
きちんと批判して是正しなければと思います。
ありがとうございました。
2013/08/26
柳瀬陽介