2008年3月23日日曜日

ノルベルト・ボルツ著、村上淳一訳『世界コミュニケーション』東京大学出版会

この本を読むにはルーマンやハーバマスについてある程度の知識を持っておいた方がよいでしょう。しかしそういった固有名を知らなくとも、社会や組織や他人との相互作用の中で、未来を作り上げようとしながらも、未来は私たちが単純に計画したようにはならないことを痛感されている方、現実世界の「複合性」(complexity)を無視できない方ならこの本を面白く読めるかもしれません。

以下、何カ所か引用しながら、私なりに考えたことを連ねてみます。

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一つの理想を定め、その達成のためにひたすら努力するという発想はしばしば美談として語られますが、実際の世界では、理想の唯一性が私たちを壊してしまうこともあります。私たちは、単一の理想のために固定された目的合理性を警戒する必要があります。ユートピアは私たちを憂鬱にしてしまうか、頑なで迷惑な善人にしてしまうのかもしれません。

人が憂鬱になるのは、ユートピア的な目標を設定しておいて、それが達成されないのは自分の力不足のためだと考える場合である。はっきり言えば、問題を解決できると思うこと自体が問題であり、治療薬としてのユートピアとは、それ自体が病気なのだ。(148-149ページ)

「ユートピアは、経済学者の言葉に従えば<確実性の世界>である。それは<見つかったパラダイス>である。ユートピアの住人はあらゆる答えを知っている。しかし、われわれが住んでいるのは、不確実性の世界なのだ」。いつものことながら、ユーモアのセンスのない人々、思い上がった人々は、倫理という武器庫から武具を取る。(149ページ)


私たちの未来は、おそらく確実にといっていいほど、私たちが計画した通りにはなりません。それではその不確実性に対して、私たちは情報を増やすことで対応できるのでしょうか。情報を多くすれば、私たちは誤った未来予測から解放されるのでしょうか。ボルツは、情報化はかえって私たちを迷わせてしまうかもしれないことを指摘します。

われわれにとって重大な諸問題は、知識がないために生ずるのではなく、針路どり(オリエンテーション)がないために生ずるのだ。われわれは混乱しているだけで、無知であるわけではない。しかし、まさにそのことが、「情報時代」の熱狂と、その<事実、事実、また事実>の事実一点張りによって、見えなくなってしまっている。新しい情報テクノロジーの圧力の下で、あらゆる問題を無知の問題と解する傾向が出てきている。しかし、意味を求める問いに情報をもって答えることはできない。「問題は混乱にあるのであって、無知にあるのではない」。理解したいと欲する者は、いろいろな情報を破棄しなければならない。こうして、われわれは、パラドクシカルな結論に達する。マルチメディア社会の情報氾濫のただかかで、「付加価値」と言えるのは、情報を減らすこと以外にない。(116-117ページ)


理想一筋でもいけないし、情報を増やすだけでもいけないとするなら、私たちはどうすればいいのでしょうか。相互作用や組織や社会といった複合性(complexity)の高い問題に対応するにはどうすればいいのでしょうか。一つのことをやり始めることでしかない、とボルツは言います。しかしそのストラテジーは、最終目的の達成ために直線的に連結された一連の手段の最初に手をつけることではありません。一つのことをやっては振り返り、その時点で改めて自分には何ができるか、何をなしうるか、何をなすべきかを考え直し、次の可能性につなげてゆくことが、物事の複合性の中で「限定的な合理性」(bounded rationality ハーバート・サイモン)しか持ち得ない私たちの最善手でしょう。

社会的な問題は、いちどきに解決できるものではなく、細分して対処するしかない。(中略)いちどきに解決することのできないそれらの問題は、問題解決のための触媒にはなるが、その解決から別の問題が派生する。つまり、問題の解決とは、実は問題を定義しなおすことである。「われわれは、<われわれの外に>[解決すべき]問題を発見するのではない。われわれは、問題をどのように定義するかを選択するのだ。(12ページ)


私たちの未来は、ある時点で設計された計画通りに到来するのではありません。私たちの一歩は、新たな展開を招来し、さらに多くの可能性を生み出して、私たちは私たち自身の行為によって、私たちが予期していなかった行為をなすようにも導かれるのです。私たちは、私たちの範囲を超えたものに翻弄されながら、私たちがなしうることをなしうるのみです。

進化は、それ自体が進化する。したがって、「進化概念自体が、<見立て>を不可能にする」。社会進化は、未来を先取りすることなしに、複雑性に反応する。(中略)進化は時間に期限をつけず、目標のない開かれた時間にする。われわれが未来をもつということ、そして未来についての知識をもたないということは、同じ自由の表と裏である。われわれは、動いている目標に向けて動いているのだ。だから、未来は予測できるものではなく、われわれの動きによって未来を誘発する可能性があるにすぎないといえる。(155-156ページ)


もちろん新たな展開の中で、ある針路を取ることは、必ずしも正しい選択ではない可能性があります。しかし誰も「正しい」選択を知り得ないのです。私たちは、それぞれがそれぞれの時点でなしうることを冷静的かつ現実的に判断している限りにおいて、それぞれがそれぞれに異なる複数の未来像を描くことを許し合うべきでしょう。

いまユートピアに代わるのが、複雑性に対する高い感度と、リスク意識である。現代的なのは、もはや目標を追求することではなく、リスクを冒すことなのだ。リスクの問題において確実なのはただ一つ、他の人々も確実性を手にしていないということである。未来とは、リスクである。こうした未定の未来が、互いに排除しあうさまざまの<未来における現在>を、現在の時点で許容する。だから、人々はいま、未来を予言する代わりに、さまざまの<可能な未来>を比較しようとする。さまざまの可能な未来を計画してみるしかないのだ。ユートピアに代えてわれわれが手にするのは、機能主義的な「さまざまの可能性」である。(159ページ)


正答は誰も、いかなる時にも知り得ないものだとしたら、私たちにとって大切なのは、どれが「本当の正答」かを現時点で決定しようとするのではなくて、現時点で誤りのように思えそうなことがあれば、そこから自己修正を図ることでしょう。いやそれ以前に、私たちが自己修正、つまりは計画変更をすることを許すことでしょう。

予見できなかった事態に対応する能力は、弾力性をもつこと、そして抵抗に対処していけることを、前提とする。それは、衝撃の吸収と、突発自体への対処[危機管理]がうまくできるかどうかということであり、そのかぎりで、<立ち直る力>をもつという美徳は、効率性の要請と交錯する。たとえば持続性追求のような<先取り戦略>が安定性に賭けるのに対して、<立ち直り戦略>は可変性に賭ける。柔軟に対応できるためには、余剰性(リダンダンシー)[余裕、あそび]と、緩やかな結合が必要である。(162ページ)


ここで「無用の用」、つまり、直接的な目的-手段構造はもたないものの、どこか私たちを豊かにしてくれる、いわゆる「教養」の重要性が再浮上してきます。

職業上の未来が不確実であればあるほど、「実務重点」教育はリスキーになる。これは「人文学」(ヒューマニティーズ)にとっての慰めであろう。(127ページ)


しかし人文・社会系であるはずの教育界においても、ますます私たちは、測定可能・実証可能な「事実」をエビデンスとして提示しながら、過去に定められた計画に自分を合わせることを強いられているような気がします。「アカウンタビリティー」や「数値目標」といった流行語によって、私たちは「複雑性に対する高い感度と、リスク意識」を失いつつあるのではないでしょうか。

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