2011年5月29日日曜日

ECRR(欧州放射線リスク委員会)は信頼できるのか?




Twitterで知ったブログ「buveryの日記」(http://d.hatena.ne.jp/buvery/)は非常に啓発的でした。


■科学とは絶対的な真理ではない

「2011-05-18 LNT仮説は、大規模低度被曝の推測の役に立たない」(http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110518)の記事の中で、著者は、次のように述べていますが、私はこの科学観は正しいと考えます。


■科学は正しいか正しくないか分からない所を、確かめながら、これでどうか、と考える作業。

放射線防護と少し離れますが、私の持論を書きます。世間の人が科学と言っていることは、何か難しいことだけれど、正しいと分かっている(筈の)こと、という意味です。少し前のマルクス主義者の人たちが言っていた、『科学的社会主義』の、『科学』はそういう意味です。しかし、科学が実際に行われているところでは、正しいか、正しくないか分からないところばかり。分かってしまったことなんて科学ではどうでも良いことなんです。常に情報は不足していて、あれじゃないか、これじゃないか考えるのが科学の実際です。世の中に出ている論文なんて半分くらい間違っています。何年か経つと間違った論文は誰も引用しなくなって捨てられていく、それだけのことです。
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110518




■科学が、(科学以外の)特定の価値観と結合することは危険

私は昨日の記事で、科学者は科学者としての論理を崩さず、科学者は科学者として真理のひたすらな探求を自らの機能とし、その機能を自壊させてまで政治家(もしくは市民)と結託するべきでないといった主張をしましたが、このことはbuvery氏の次のような主張につながると考えます。


■科学と倫理は関係ない。『いわゆる科学的真理』と『いわゆる社会的倫理』が結びつくと問答無用のファッショな社会になる。

科学の方法の内部には倫理はありますが、社会的な意味での倫理は全く別問題で、科学そのもので社会倫理を規定する事はできません。例えば、今回でも、『ドイツ政府の研究では原発近傍5キロで小児白血病は2倍になる』話は、何度も出てきていますが、あれは、先日私の書いたHaatsch, 2008のことです。論文を読むと、決して原発の放射能で白血病が増えるなどと断言できるような代物ではない。そういうものを金科玉条たてにとって、社会的倫理を結合させるような人種は、芯からファッショな人種で、時代が時代なら『モンペをはかないと非国民』とか、『ユダヤ人は劣等人種』とか言っていた人たちです。後日また書くつもりですが、ECRRはそういう集団です。




■ECRRは信頼できるのか

なお、ここに出てくるECRR(European Committee on Radiation Risk)(http://www.euradcom.org/)について(日本語ウィキペディア、英語ウィキペディア)については、私はこれまでRussia Today(http://rt.com/)でこのECRRのバスビー博士(Christopher Busby 英語ウィキペディア)のインタビューがよく出ていたこともあり、注目していました。

またこのECRRの「2010年勧告」(http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/ECRR2010.html)については、後半部分の実際の自然科学的検討は読まずに、前半の哲学的・社会学的・歴史的論考を速読し、その充実に好印象を私はもちましたが、このブログ氏の以下のような記事を読むと、ECRRの主張を鵜呑みにすることは危険なようです。(記事のタイトルはやや扇情的ですが、内容は科学的なものです)。




2011-05-11 私がECRRを狂気の集団と呼ぶわけ
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110511

2011-05-15 5月6日ネイチャーニュース原発は白血病と関係ない
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110515

2011-05-20 ECRRの福島リスク計算は妄想の産物
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110520




■このブログのbuvery氏は偏向しているのか・・・ それはないだろう。

以上のようなbuvery氏の記事を読み、私は今後はECRRの主張に対して、批判的な意識を高めて接しようと思い始めました。しかし、この判断はbuvery氏の記事だけに基づくものです。buvery氏(@buvery)がもし(上記の主張と裏腹に)自分自身は強烈な価値観(例えば原発推進や徹底的政府擁護)に影響されているとしたらどうでしょう?

しかしその可能性はなさそうだと私は考えます。


2011-05-06 ICRPのいう正当化と最適化
http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506


の記事で、buvery氏はICRPの正当化(justification)と最適化(optimization)について解説し(注)、次のように主張しています(まずは、見出しだけ引用します)


■ICRPの考えでは、ジャスティフィケーション(正当化)、オプチマイゼーション(最適化)が大事。

■郡山市や福島市の被曝は正当化できない。

■原発の被曝を医療被曝と比べることは筋違い。

■汚染地域に住む人たちの『得』は主観的なものだから、当事者本人にしか判断できない。

■文科省の決定は、ICRPの正当化原則に従っていない。

■文科省の20mSv/年以下なら安全、という宣伝はICRPの採用しているLNT仮説に反している。

■文科省はICRPのいう『最適化』を行っていない。

■ICRPが何もモニタも対策もとらなくて良いと言っているのは1mSv/年以下のところだけ。

■ICRP111で言っている参考値は、最適化するために使う指標。最適化(例えば除染や個人モニタ)をしないのなら、意味がない。

http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506


詳しくはブログ原文を読んでいただきたいのですが、とりわけ印象的な箇所を以下に引用します(太字強調は私が入れたものです)。


枝野長官などは、CTがどうの、医療X線がどうのと医療被曝と比べていましたが、ICRPの正当化原則から言えば、トンデモない。医療は、CTなどによる診断の利益と、放射線の害を比較して診断の利益が多い時に患者の納得づくで受けるもの。(中略)道を歩いている赤の他人にむりやりCT検査をして良いという話はない。今回の郡山市などでおきている公衆被曝は、何の益もない、何の同意もない、むりやりむき出し選択肢なしの被曝であって、比べる事自体がおかしい。


正当化原則から言えば、『不利益を被らないという間接的利益』があるのではないか。ただし、その利益の大きさは郡山市や福島市に住んでいる*当事者にしか判断できない*。だから、低度汚染地域に住むかどうかは、ICRPの正当化原則からすれば、地元民が決めるべきもの。目に見えない、主観でしか決められない利益と放射線の害を比べるわけだから、これは科学の話ではない。個人や集団の意思、つまり、住民の政治決定の話です。だからこそ、ICRP111は『住むか住まないかを決める参考線量』を決める時に利害関係者が決定に参加することを求めています。文科省が勝手に決めて良い事ではありません。


だから、正しい質問は、『政府はどのような利益が被曝の害より大きいと主張しているのか?その利益は地元民が判断すべきものなのではないのか?』『文科省に地元の子供たちやその親の主観的利益を決める権利はあるのか?誰がその責任をどうとるのか?』『疎開した方が良いと判断した家族に政府はどのような措置、援助をとるのか?』になります。責任をとりたくないから、決定したプロセスを文科省は言いたくない。私はそれに腹がたつ。


LNT仮説を無視する以上、ICRPに準拠しているとは言えない。江川紹子さんが政府に質問していた『20mSv/年はICRPに確認したのか』に対しては、ICRPはどの数字であっても『それ以下は無害』とは原理上答えられない。従って、正しい質問は、『ICRPに準拠するとどんなに微量の放射線でもガンの確率はあるといっているが、なぜ文科省はICRPに準拠していると嘘をいうのか』になります。ある数字以下は『無害』と言っているのは文科省であって、ICRPではない。

http://d.hatena.ne.jp/buvery/20110506




■私の価値観は脱原発、だからといって科学的知見をねじ曲げたくない。

ついでながら申し上げますと、私はこの度の事故を受けて、原発事故はたとえ発生確率が低くとも、リスクが非人道的なので、長い時間をかけて脱原発を総合的に目指すべきだと考えています。これは私の感情的な確信に基づく私の政治的意見です。

ですが同じように「脱原発」を訴えても、「すべての原発の即時停止」といった言い方には違和感を覚えます。スローガンとしては勇ましいですが、それが逆に思考停止を招き、原発事故以外のリスクを最終的には増大させしまうのではないかと懸念するからです。

私の意見に限らず、これだけ科学技術が発達し複合化した社会では、政治的見解にも科学技術の正しい理解が必要です。だからといって、科学技術の論理が政治的正解をもたらしてくれるわけではありません。科学技術は科学技術の論理で進展してゆくだけであり、科学技術をどう使うか(あるいは使わないか)は、その他の政治的、経済的、社会的、文化的、感情的などなどの様々な要因がそれぞれの論理で主張を展開する中で決定されるべきだと思います(その総合的な決定を、大きな意味での「政治」と呼ぶべきだと思います ―小さな意味での「政治」とは永田町界隈などで繰り広げられている活動です)。

高度に発展し複合化した社会では、誰も総合的な政策決定(大きな意味での政治)の正解がわかりません。

科学者、技術者、法曹関係者、経済人、文化人、職業政治家、一般の生活者などなどの社会的に分化された諸存在は、それぞれの機能を果たしながら、その機能では受け入れがたい他の諸機能の言動を、この世界の否定できない要因として受け入れなければなりません。

そうして諸機能が、世界全体を破壊しないという前提の上で、それぞれの機能を果たす中でなんとか決定がなされ、修正され、再決定されます。決して、ある種の政治家や科学者などが大きな政治の正解を知っているなどと期待すべきではありません。

最近で言うなら、科学者が政治家の代わりに為政者的発言をして科学を否定し人々に害を与えることは許されません。また、害を与えないにせよ、科学を歪めてしまうことは、長期的に見て社会を損ねます。

 ―こういったことを私は昨日の記事の後半で言いたく、言い尽くせていない感があったところに、この


「buveryの日記」
http://d.hatena.ne.jp/buvery/


を知ったのでこの記事を書きました。ECRRについてもどう考えるべきか迷っていたということも記事を書いた強い動機となりました。


なお、私がこの「buveryの日記」の存在を知ったのは、一色靖氏(@yasushi64 )のtweetからです。一色氏は、Twitterのプロフィールで


素人作家、生業は研究。工学博士(化学工学)ですがその後分野ワヤ…今は医療科学。三児を愛する父。嘘で誤解や偏見や風評が生まれるのは良しとせず怪しい情報は検証します。患者側、医療側にチャンネルを持ち医療福祉に関心あり。慢性B肝患者です。また重い鬱病を経験し治ってます。Queenファン歴30数年。小説はブログリンクからどうぞ
http://www.yasushi-studio.com/tweet/


と自己紹介されていますが、私は広瀬隆氏に対する一色氏の批判的見解を知って以来、一色氏のtweetsを貴重な情報源としています。


一色靖氏(@yasushi64 やbuvery氏(@buvery)のように科学的訓練を受け、かつ一般に向けて発信されている方々に感謝します。一色氏やbuvery氏のTwitterやブログをフォロー・RSS購読することをお勧めします。



(注)
ICRP見解については、日本原子力学会が2011/5/9付けで公表している「被曝による健康への影響と放射線防護基準の考え方」が、取り急ぎ知るためには役立つかと思います。http://www.aesj.or.jp/information/fnpp201103/com_housyasenbougo20110509R.pdf


追記 2011/06/01

一般社団法人サイエンス・メディア・センターは、以下のように、2011/5/25にジャーナリスト向けに発行したサイエンス・アラートを出していました。



ICRPとECRRそれぞれの勧告について:専門家コメント

http://smc-japan.org/?p=1941


山内知也教授(ECRR2010翻訳委員会, 神戸大学大学院海事科学研究科)と、津田敏秀教授(岡山大学大学院 環境学研究科(疫学、環境疫学、臨床疫学等))によるものです。

多元的な検討のためこちらもぜひお読みください。

科学者でない者としての私見ですが、ICRP,ECRRあるいは他のどの基準をとって考えようとも、危険が疑われる地域では、常識的な範囲の中でできるだけ内部被曝を避けるような方策を取ることは重要であると考えます。




追追記(2011/07/21)

buvery氏が新たに記事「イギリスの内部被曝調査委員会がクリス=バズビーをどう批判したのか」を追加したので、ここでもお知らせしておきます。





追追追記 (2011/11/25)

The Guardianがバスビー博士に関する批判記事を出しました。



Christopher Busby's wild claims hurt green movement and Green party

http://www.guardian.co.uk/environment/georgemonbiot/2011/nov/22/christopher-busby-nuclear-green-party?newsfeed=true


Post-Fukushima 'anti-radiation' pills condemned by scientists

http://www.guardian.co.uk/environment/2011/nov/21/christopher-busby-radiation-pills-fukushima


2011年5月28日土曜日

七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書(その2 隠蔽される事故原因と放射線障害)

この記事は「七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書」の続きです。



***



■今、日本で発足しようとしている事故調査・検討委員会

先日、政府は今回の原発事故の調査・検証委員会の委員長に「失敗学」で有名な畑村洋太郎氏を選びました。言うまでもなく、この委員会は、今後の賠償補償問題だけでなく、未来の原発政策に大きな影響を与えるものです。多元的で科学的な検討が必要です。

しかし、この畑村洋太郎氏は、原発事故の有様がかなり明らかになった今年の4/21の時点での産経新聞のインタビューで、次のように明言しています。


人類は原発を知り尽くしていない。だからこれからも事故は起きるだろうが、事故を克服して原発を使っていくべきだ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110421/dst11042103130002-n1.htm


まさにこれから調査・検証しなければならない事象について、これだけ明確な方針を公言している人が事故調査・検証委員会の長に内定するというのは、私にとってはおかしなこととしか思えません。


それでも畑村氏は「失敗学」と自称する学問の創始者だから期待できるとする向きもあります。

しかしコンプライアンスを始めとして、的確な発言を繰り返している郷原信郎氏は、畑村氏起用についてわざわざ次のように発言しています(太字強調は私が付け加えました)。


しかし、注意しなければならないのは、畑村・失敗学は、従来の事故原因調査等とは考え方が全く異なるということだ。

事故の発生や拡大に関係する様々な要因を抽出し、そこから「本質安全」への道筋を明らかにしていくというのが「失敗から創造へ」という畑村・失敗学の基本的な考え方であり、「誰が悪かったのか、誰の責任か」ということは問題にしない。そこで、明らかにされる事実というのは、「そういう発想で事故原因を考えることが、安全につながる」という一つの「仮説」であり、事故原因と結果の因果関係を実証することではない。

畑村先生を中心とする委員会の調査・検討が、今回の原発事故問題への対応や、今後の我が国の原発をめぐる政策に、活用されるためには、このような畑村・失敗学の基本的な考え方が調査に携わる関係者に理解されるだけではなく、国民に受け入れられる必要がある。

今後、委員会が立ち上げられ、そこでの議論が、必要に応じて公開されるであろうが、それを、従来の事故調査のような責任論や法的原因論の観点でとらえると、大きな違和感を生じることになる。

まず、「失敗学」の考え方について認識を共有することが必要だ。



郷原氏が言いたいのは、事故調査・検証委員会の委員長の学問的信念が、このように、事故再発を防ぐものではなく、どうやって失敗から安全を作りだすかというものであることを、国民はきちんと理解しているか、ということだと私は理解しました。私などは、この畑村・失敗学が、「原発安全神話改訂版」を創り上げるのではないか心配です。


また、この委員会のメンバーは以下のように発表されています。


柳田邦男・ドキュメンタリー作家 ▽ 古川道郎・福島県川俣町町長 ▽ 尾池和夫・前京大学長 ▽ 柿沼志津子・放射線医学総合研究所放射線防護研究センターチームリーダー ▽ 高須幸雄・前国連大使 ▽ 高野利雄・元名古屋高検検事長 ▽ 田中康郎・元札幌高裁長官 ▽ 林陽子弁護士 ▽ 吉岡斉・九州大副学長

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110528k0000m040075000c.html


それぞれのリンク先を見ていただければわかりますように、この中には原子力工学の研究者がいません。かろうじて柳田氏がドキュメンタリー作家として、吉岡氏が科学史・科学社会学研究者としての知識と経験をもっているぐらいです。このメンバーで、厳密な事故原因の調査と検証ができるのか、それほど楽観的になれません。

もちろん原子力工学研究者のほとんどは「原子力ムラ」の住人とも言われていますから、原子力工学者を入れていないとも主張できるかもしれません。しかしそれでしたら先日、参議院行政監査委員会で原子力工学専門家として証言をした「原子力ムラ」の住人ではない小出裕章氏(京都大学助教)などの人材を招くこともできたはずです。




このように、(1)委員長畑村氏の個人的信念(原発継続)、(2)同氏の学問的信念(対象となる技術の安全化を目標とする)、(3)委員会メンバーに原子力工学の専門家がいない、といった理由から、私はこの委員会が、きちんと事故原因の調査・検証をできないのではないかと懸念しています。(※首相官邸の見解はhttp://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201105/27_p.htmlで読むことができます。)



しかし、それはまだわからないことと今はしておきます。それよりも、ここではチェルノブイリの事故調査で実際に何が起こったかを、七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書からまとめてみたいと思います。




■ソ連政府が事故の数ヵ月後にIAEAに提出した報告書は、事故を運転員のミスとした。

1986年8月にIAEAで行われた「チェルノブイリ原発事故国際検討会議」にソ連政府が提出した報告は、「事故の第一義的原因は、発電部署の要員たちが犯してしまった、まったくありうべからざる指示違反、運転規則の組合わせだった」というものでした(85ページ)



■5年後の国家原子力安全監視委員会のシュテインベルク報告書は、事故は運転員のミスではなく、制御棒の構造によるものだとした。

しかしながら事故から5年たった1991年の国家原子力安全監視委員会のシュテインベルク報告書は、1986年の事故調査報告とはまったく反対の結論を出します。事故は運転員のミスによるものではなく、原子炉の構造上の欠陥であったとしたのです。

この背後にはもちろん1991年のソ連崩壊があるでしょう。しかしシュテインベルク報告は、単にソ連が崩壊したから、ソ連の公式発表を否定したというものではなさそうです。七沢氏は、この画期的ともいえる報告が出た背景について次のように述べています。


まず、彼自身がチェルノブイリ原発の元運転員であり、その職場の仲間が被災し、生命を失ってまでも「国賊」扱いされてきたことへの深い憤りが原点にあることは疑いない。それに加えて、彼自身、ソ連政府事故調査委員会に協力して、自己原因調査のプロセスを見てきたことにも由来している。

私とのインタビューを、シュテインベルクは衝撃的な証言で結んだ。


「実は原子炉の欠陥が真の事故原因だったことは、86年の5月の段階で、政府の事故調査委員会、そしてソ連政府の上層部にまでも、十分よく知らされていたのです。その証拠に、事故後すぐにRBMK型原子炉の制御棒の改良をしています。それにもかかわらずソ連政府はあの当時、意識的に偽の情報を世界の前に、そしてソビエト国民の前に出していたのです」
(94ページ)





■ゴルバチョフの活躍と限界:政治家は真実よりも体制安定を選ぶ

もちろん86年の事故調査の際にもそれなりの調査はなされました。特にペレストロイカ(再構築)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて改革に取り組んだゴルバチョフは、ソ連の守旧派の言いなりにはならないと独自の調査をし、それに勇気づけられていろいろな証言も出ました(120ページ)。しかしそんなゴルバチョフもかなりの真相を知りながら、事故原因は運転員のミスとする報告書を最終的には出してしまいます。そのあたりの事情を、ルイシコフ(元)首相は、七沢氏に語ります。


「ゴルバチョフは政治家です。彼が情報を発表するにせよ、その内容をどうするかは別の問題です。もしあの時、チェルノブイリ型原子炉が危険であることを発表してしまったら、ソ連国内のすべての同型原子炉が停止へと追い込まれたでしょう。そうなったら国を支える電力供給はどうなりますか。(中略)このような事故が起きたからといって、原発の重要性を忘れてしまうようではいけないのです」(127-128ページ)


七沢氏は93年に京都でゴルバチョフ氏と会い、彼自身から次の言葉を引き出しています(もちろんのことながら、この時点で彼は公的な政治権力の地位を失っています)


「政治家というものは、こういう場合には社会に動揺を与えないことをまず第一に考えるものなのです。公表したあとの、社会的影響を深く考慮すべきだという意見が、政治局の大勢だったのです」(129ページ)


政治家個人の倫理性や道徳性がいかに高かろうと、政治家が政治家である限り、必ず限界はあると考えるべきでしょう。



■IAEAは原子力の平和的利用を推進することを目的とする団体

しかし86年にソ連の報告書がIAEAの席上に出された時に、それには何の検討も加えられなかったのでしょうか。もちろんそういうわけではありません。IAEAの席上には原子力技術の専門家もおり、ソ連の報告書に対しては500を越える質問状が寄せられました。1日目にはすべての質問に答えると豪語したソ連のレガソフ代表も、原子炉の構造に関する質問も含まれたこの質問攻勢には弱り果て、会議の進行役に対してモスクワに帰ると言い出し、会議は中断されました。(141ページ)

この事態に対してIAEAのブリックス事務長はレガソフを始めとしたソ連の代表団をプライベートに夕食会に招待し「ソビエトがすべての質問に答えるだけの十分な準備ができていない事情は理解した。だから、答えられない質問は、モスクワに持ち帰り、あとで回答してくれればよい」と提案します。IAEAとしてもソ連代表が本当に帰国してしまったら困るからです。(141ページ)これ以外のさまざまな政治的妥協・功利によりIAEAは厳密な検証の場とはなりませんでした。



■IAEAを切り抜けたレガソフは2年後に自殺をした

しかしそうやってIAEA会議を切り抜けたレガソフも、その後良心の呵責を感じはじめ、またソビエト科学のためには体制の改革が必要と国内で唱え始めました。しかし彼の改革案はことごとく受け入れられず彼は村八分状態になります(154ページ)。そして彼はチェルノブイリ事故のちょうど二年後の1988年4月26日の深夜に自宅で首吊り自殺します。(153ページ)

七沢氏はレガソフの死を次のように総括します。


レガソフはその最晩年に、チェルノブイリ原発事故を招いた真の原因は長年国を支配した官僚体制がその内部に宿した病巣、「体制を維持するためには秘密を守り通し、民をかえりみない」という倒錯的な矛盾にあったことを見抜いていたに違いない。(155ページ)





■放射線障害調査も歪められた

調査はもちろん被曝住民に対してもおこなわれます。七沢氏がようやく公開されたカルテを調べたところ、避難民が検査のために入院した5月初旬には「放射線障害」という診断が目立っていました。しかし退院時には診断名は「神経血管疲労」に変わっていました。(235ページ)

七沢氏はコビィルカ医師長の証言を得ます。


「「神経血管疲労」という病名をつけることになったのは、ソ連保健省からの通達があったからです。「事故の規模はそれほど大きくないから、住民に放射線障害に関した病気は起こらない」という指示があり、われわれ現場の医師は、「放射線障害」と診断することを禁止されたのです。それで、ほとんどすべての患者に対して、上からの指示通り「神経血管疲労」の診断名を書きました。どんな症状が出ていても、判で押したようにこの病名になったのです。当時、医療分野は共産党とKGBのコントロール下にありましたから、医療検査の結果は特別の部屋に保存されて、機密扱いを受けたのです」(235ページ)




■IAEAは住民被曝被害の再検討に際して、ソ連政府の差し出すデータばかりを使った。

しかし、こういった診断に対してはさすがに国内で批判が高まります。そういった国民世論に対抗するため、ソ連政府は国際的な学者グループをIAEAに派遣してもらって調査してもらうことにしました(238ページ)。しかしその調査結果は、ソ連の対応は、避難と食物制限については、放射線防護の観点からは必要な範囲を超えており、もう少し緩和すべきである、また汚染地帯の住民が陥っているのは「放射能恐怖症」という心理的な病だとするものでした(239ページ)。こういった結果が出た背景にはIAEAが基本的に原子力推進を目的とすることがあると私などは考えますが、七沢氏は、こういった結果が現在は国際的に批判されているのは、第一にIAEAがの調査はソ連政府の委託と出資によるもので、独自の調査は少なく、ほとんどがソ連政府の差し出すデータの評価に終始したこと、第二に調査から大量に被曝した者を除外したことにあると書いています(239-240ページ)。

七沢氏は、IAEAのブリックス事務局長から次の証言を得ます。


「IAEAとは、加盟国の政府の利益と意向を代表する組織であり、各国の国民や、世界の市民のための組織ではありません。もちろん民主的国家においては、政府は国民の利益を代表しますから、間接的には人々の利益につながるはずなのですが・・・」 (240ページ)



追記 2011/05/29

ソ連政府によるチェルノブイリ事故調査に対して批判が高まり、ソ連政府はIAEAによる調査を依頼し、国民世論の鎮静を図りました。IAEA調査団の長は被爆地「ヒロシマ」の重松逸造氏だっただけに、地元の期待は高かったが、実際はどうだったか。ジャーナリスト広河隆一氏@RyuichiHirokawa の取材に基づくテレビ報道。






■政府と人々は、根源的には対立していると考えるべき。

以上のようなことから、私なりにまとめをしますと、次のようになります。


●政府(政治家・官僚)というものは、いざという時は多少国民を犠牲にしても、国家体制の安寧を優先する。これは政治家・官僚に倫理性・道徳性を期待することでは是正できない傾向と考えるべきである。

●事故調査や医療調査は、その後の政策や賠償金に関わることもあり、政治的な介入が必ずあると考えておいたほうがよい。

●「国際機関」といえど、その設置目的をよく考えるべきであり、政治から自由であるなどと期待すべきではない。

●そういった「政治」の行き過ぎを是正するのは、人々の勇気ある発言であり抵抗である。

●政治家・官僚とて人の子であり、時に良心の呵責に耐えかねて自壊することもある。


日本人の多くは「徳治主義」が好きなので、知識も人徳も備えた政治家が権力の座につき、善政をしてくれることを期待します。「○○は駄目だ。でも△△なら・・・」と次々に政治家の待望論が出ます。

しかし、政治家は少なくとも政権を握る限り、少数を捨て多数を生かすという判断をするように動機づけられています。また官僚は、言われたことだけをやり自ら失敗をしないようにする文化で暮らしていますから、積極的に少数者を救うために人道的に立ち上がることはないでしょう。むしろ少数を救うために多数を犠牲にしようとする為政者、人道的信念から越権的な行為をする官僚は、それぞれ為政者、官僚としての機能不全として追放されると見るべきでしょう。



■自らの論理を越えた圧力が知恵を生み出す

とはいえ、それはあくまでも一般的な傾向であり、実際の判断にはいろいろな裁量の余地があります。「無理だ。少数の犠牲に目をつぶるしかない」と政治家や官僚が思っても、それは彼・彼女らが自分たちの頭でそう判断しているだけであり、「そのような犠牲は許されない」と強烈な圧力がかかれば思っても見なかった知恵が出ることはしばしばあることです。

「文句ばかり言う自称『市民』の勝手に付き合っては現実は乗りきれない」と苦々しく言い捨てる政治家・官僚はしばしばいますが、彼・彼女らは、本当は自分の無能を密かに自覚し、自分たちが限界と思っている限度を超えて思考し・行動することを怖がり嫌がっているのかもしれません。

本来、公務員は「公僕」つまりは"public servant"です。難しいとされる試験あるいは過酷な選挙戦を経て安定した身分を得ていることの裏面は、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)つまりはエリートの重い責務を負っていることです。ところが人間はしばしば自分に甘くなるもの。だから市民は政治家・官僚に自分たちが当然受けるべき憲法上の権利を堂々と要求できます。



■ルーマンの機能分化論的な政治観

私はルーマンの社会論を妥当と考えている者ですから、それを解釈して、多元的な機能行使を現実的な理想と考えます。つまり官僚は官僚として現行制度の忠実な執行を自らの機能とします。政治家は政治家として政策決定や立法などを自らの機能とします。科学者は科学者として真理のひたすらな探求を自らの機能とします。国民は国民として自らの憲法上の権利が損なわれないことを求め続けることを自らの機能とします。

ここで大切なのは、政治家も官僚も、あるいは科学者も国民も、どれとしてすべてを総括する立場には立っていないということです。政治家はしばしば、科学者の真理や国民の権利請求を面倒くさいものと考えます(官僚の愚直な仕事さえ時に嫌がります)。官僚はしばしば、政治家の新政策を嫌がります(科学者の真理や国民の権利請求などは余計に面倒くさいものです)。科学者はしばしば、政治家や官僚の要求を科学的に受け入れがたいものとみなし、国民の要求を荒唐無稽なものと考えます。国民はしばしば、政治家・官僚・科学者の行動を不十分なものとしか考えません。

ですが、ここでもし政治家が、官僚・科学者・国民の要求をすべて満たしたと称したら、それは巨大な嘘を述べており、傾聴すべきさまざまな声を抑圧していると考えるべきでしょう。「偉大なる指導者」は全体主義にしか登場しません。民主主義政体の指導者は常に批判を受ける者です。

また科学者が、政治家・官僚に都合のいい説ばかりを述べ始めたら、彼・彼女は科学者として自殺し「御用学者」というエセ学者になったにすぎません。御用学者はエセ科学者として国民を犠牲にし、政治家・官僚にばかり都合のいい制度に奉仕し、自らの安寧や栄光をそこで得ます。

国民にしても、もし国民が衆愚化し、さらには暴徒化するなら、政治家、官僚、科学者それぞれの立場からすればとても許容できないような政治を要求することとなり、社会は自壊します。民主主義政体の最大のリスクは国民の衆愚化・暴徒化であす。政府・官僚はそれを防ぐため権力行使をしなければいけませんし、科学者は国民をできるだけ啓蒙しなくてはなりません。

つまり、複雑に発達した現代社会における「政治」とは、政治家、官僚、科学者、国民のどれもが単独で健全に実行できるものではありません。ましてや一人あるいは少数の指導者が善政を行うことなど考えてもいけません。


■それぞれがそれぞれの存在の機能あるいは「良心」を失ってはいけない

「政治」とは、誰も正解がわからないし、誰もすべてを統括できない問いであり、為政者だけに委ねては危険です。「政治」を行うには、為政者、官僚、科学者、国民(あるいは経済人、文化人などなどの存在)が、それぞれの機能をできるだけ忠実に果たそうとし、かつ社会全体の機能を破壊してしまわないようにして行われるべきだと考えます。

社会全体が損なわれないように自らの機能を果たすには、それぞれの存在は、他の機能を有する他の存在の、自らの機能では理解しがたい・受け入れがたい機能を、何とか自分の機能が自壊しないように翻訳して理解し・受け入れ、自らの機能を継続しなければなりません。

原子力工学者を例にとりますと、原子力工学者は、国策に邁進する政治家、利益ばかりを求める経済人、絶対安全などを求める国民、限られた権限と予算しか与えない官僚などといった、科学技術の論理だけでは度し難いし受け入れがたい声を聞きながら、それでも科学技術の論理だけは崩さずに、科学者・技術者としての「良心」を失わずに言動しなければなりません。そこで科学者・技術者が自らの論理や良心を捨てれば、「原子力ムラ」の住人のようになり、やがては今回のような取り返しの付かない人災を生み出してしまいます。

他方、為政者・官僚・経済人も、科学者・技術者としての良心を失わない者を邪魔者として扱い、自分たちの言う事を聞く科学者・技術者(=エセ学者・御用学者)を創り上げようと懐柔などはしてはいけません。さもないと今回のように政権・統治機構・経済活動自体が壊れかねないようになってしまいます。国民も夢物語のような話ばかりする科学者・技術者を求めてはいけません。さもないとどこかで大きな破綻がきます。

国民について逆の見地から語りますと、国民は自らの機能である憲法上の権利請求をやめてはいけないと考えます。もし今回の原発人災で、福島の人にはかわいそうだけど、きちんと国が賠償したら国が立ちゆかなくなるから我慢してもらうしかないじゃないか、と思い始めたら、それは倫理的な罪を犯しはじめているだけでなく、国としてあるべき姿を国に失わせてしまうという国民の機能において失敗をしてしまうことだと考えます。福島の人々、不当に人間の尊厳を損なわれた人々が憲法上の権利請求をすることに対して、他の国民は倫理的な意味だけでなく、機能分化社会の存在論的な意味においても、支援するべきだと考えます。



■誰にも解がわからない。だから考える

「しかしどうすればいいのだ!大規模避難なんて急にできるわけがないじゃないか!」と怒り出す官僚もいることでしょう(いや、このような怒り方をする国民も結構います。彼・彼女らは国体という秩序が乱されることを非常に嫌います。私はこのように制度・秩序の維持を偏愛する自称「保守派」「現実主義者」を個人的には好きになれません)。

「わかりません」というのが私の正直な答えですし、それは誰にとってもそうでしょう。大規模避難→社会的混乱→財政破綻となるかもしれません。しかし大規模避難→社会的再構築→社会的再生となるかもしれません。また、財政破綻になったとしても、その財政破綻から新しい秩序・制度が生まれるかもしれません(歴史は、これまですべての政体・文明にそのように過酷な試練を与えてきました)。無責任で言っているのではありません。わからないから本気で考えよう、実行しよう、試行錯誤し、そこから急速に学ぼうと言っているのです。

自称「保守派」「現実主義者」の中には、「正しさ」が見えない状況を極度に嫌う人がいます。それは感情的性向なのか創造的知性の欠如なのかわかりませんが、たしかに時代によっては制度や秩序の「正しさ」が重視されるべき安定した時期もあります。しかし時代によっては、新しさ、ということは古い秩序の(部分的)破壊が必要な時があります。この「国難」の今はそんな時代だと私は考えます。

もちろんすべての新しいこと、革新的なことが無批判的に称揚されるべきではありません。そこは本来の保守主義、すなわち健全な知的懐疑主義が自制となり、革新の暴走を食い止めるべきです。真の保守主義者とは、変えるものを変えるために、変えてはいけないものを守るとも言われます。そういった意味の保守主義者(それは穏健な革新主義者と言い換えてもいい存在かと思います)が今、必要だと思います。

それでは守るものとは何か。それは人間の尊厳だと考えます。それを守るためには、これまでの文明的便益は多少犠牲になっても仕方ないと私は考えます。

私は考えます。わからないから考えます。







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Revolution is tweeted now.  人間の尊厳を保つために

昨日(2011/05/27)Gil Scott-Heronという黒人音楽家が亡くなりました。彼を思い起こすこと(あるいは彼について新たに学ぶこと)により、私たちは日本においても、人間の尊厳を保つために何ができるかの指針が得られるのではないでしょうか。以下、私の話にしばしお付き合いください。




■黒人音楽は黒人の歴史と表裏一体

私は最初はジャズから入り、次にブルーズ、そして黒人音楽全般を好きになりました。好きな理由は最初はあくまで音楽的なものであり、特にリズムに私は惹かれていましたが、やがて


Say It Loud! A Celebration of Black Music in America [Box Set, Import, From US]





などで体系的に黒人音楽を聞くうちに、音楽と表裏一体である黒人の歴史 ―ここではそのまま「黒人」という表現を使います― を知るようになりました。

「自由の国アメリカ」で黒人が置かれていた立場というのは公民権運動以前ではそれはもうひどいものだったことは周知のことかと思いますたが、その状況を覆すべく立ち上がった公民権運動の市民(多くは黒人でしたが白人らもいました)の勇気・苦労はものすごいものでした。自宅に火炎瓶が投げ込まれ、人前で罵られ、さらには仲間であるはずの黒人からも「そんな必要はない」と言われました。

公民権運動について少しずつ知るにつれ、黒人音楽は私にとって特別な意味を持ち始めました。黒人音楽の多くは、人間の勇気と尊厳の表現です。



■最も印象的だった"The Revolution Will Not Be Televised"

上の"Say It Loud!"の中でも最も印象的だった曲の一つが、Gil Scott-Heronによる"The Revolution Will Not Be Televised"でした。黒人が、自らの尊厳を取り戻そうと活動しても、大手メディアがその活動を放送してくれやしない。"The Revolution Will Not Be Televised"(革命がテレビ放映されることはない)とGil Scott-Heronは何度も何度も繰り返します。この作品は後々のラップというジャンルの誕生にもつながりました。

奇しくも先日金曜日(2011/05/27)、そのGil Scott-Heronは62歳で亡くなりました。



そうして彼の"The Revolution Will Not Be Televised"という作品を改めて思い起こすと、実は、私たちには光が見えているのだと思えてきます。



■私たちは無力なのか?

現在の日本。日本の政財官マスメディアなどが、福島の人々を始めとした多くの被災者の苦しみを見てみぬふりをしようとしています(体制というのは放っておけばそうしがちです)。おとなしいとされる日本の人々も立ち上がり始め、声をあげています。あるいは次に近くの原発が暴発すれば自らの家族もあぶなくなると思い始めた人も声をあげはじめました。

その抵抗の中で、私たちは時に無力感を感じることがあります。しかし、今の私たちの苦労を、公民権運動の人々の苦難と比べることはできません。私たちははるかに恵まれています。

「記者クラブ」マスメディアは、体制よりであると言われ、それはかなりの程度正しい記述かと思いますが、しかしそれでも私たちが声を上げれば、マスメディアもその声を取り上げざるを得なくなっています。

Gil Scott-Heronの時代は"The Revolution Will Not Be Televised"だったかもしれません。

しかし今の日本では(日本国憲法に基づく私たちの抵抗(注)を仮に"the revolution"と呼ぶなら)



"The Revolution Will Be Televised."


です。


仮にテレビカメラが来るのに時間がかかるとしても、


"The Revolution Is Tweeted."


です。


人間としての当然の尊厳が踏みにじられているとしたら、立ち上がって発言し、行動してください。それが自分のことであれ、他人のことであれ。



■ ツイッターで発言してください。

根拠がある発言はできるだけ短縮URLをつけてその根拠を示してください。

発言できないならRT (Retweet)してください。

あるいはQT (Quote Retweet)であなたのアイコンと共にあなたの共感を示してください。

抗議したい相手にはReply (あなたの声を届かせたい相手の@マークをつけて発言) してください。

仲間を求め流れを作りたい時はハッシュタグ(#)をつけてください。


もちろん、今の日本の状況に問題を感じていないのなら発言する必要などありません。

しかし、もし現状がおかしいと思うのなら、今人間としての尊厳が踏みにじられている人々のために、そして自分の魂を腐られてしまわないために声を上げてください。


声を上げる勇気がないというのなら、下の歌詞を目で追いながら、Gil Scott-Heronの声を聞いてください。

人間らしい社会・人間らしい生き方とは何かを考え、言葉にし、それを実現してゆきませんか。








The Revolution Will Not Be Televised


You will not be able to stay home, brother.
You will not be able to plug in, turn on and cop out.
You will not be able to lose yourself on skag and skip,
Skip out for beer during commercials,
Because the revolution will not be televised.

The revolution will not be televised.
The revolution will not be brought to you by Xerox
In 4 parts without commercial interruptions.
The revolution will not show you pictures of Nixon
blowing a bugle and leading a charge by John
Mitchell, General Abrams and Spiro Agnew to eat
hog maws confiscated from a Harlem sanctuary.
The revolution will not be televised.

The revolution will not be brought to you by the
Schaefer Award Theatre and will not star Natalie
Woods and Steve McQueen or Bullwinkle and Julia.
The revolution will not give your mouth sex appeal.
The revolution will not get rid of the nubs.
The revolution will not make you look five pounds
thinner, because the revolution will not be televised, Brother.

There will be no pictures of you and Willie May
pushing that shopping cart down the block on the dead run,
or trying to slide that color television into a stolen ambulance.
NBC will not be able predict the winner at 8:32
or report from 29 districts.
The revolution will not be televised.

There will be no pictures of pigs shooting down
brothers in the instant replay.
There will be no pictures of pigs shooting down
brothers in the instant replay.
There will be no pictures of Whitney Young being
run out of Harlem on a rail with a brand new process.
There will be no slow motion or still life of Roy
Wilkens strolling through Watts in a Red, Black and
Green liberation jumpsuit that he had been saving
For just the proper occasion.

Green Acres, The Beverly Hillbillies, and Hooterville
Junction will no longer be so damned relevant, and
women will not care if Dick finally gets down with
Jane on Search for Tomorrow because Black people
will be in the street looking for a brighter day.
The revolution will not be televised.

There will be no highlights on the eleven o'clock
news and no pictures of hairy armed women
liberationists and Jackie Onassis blowing her nose.
The theme song will not be written by Jim Webb,
Francis Scott Key, nor sung by Glen Campbell, Tom
Jones, Johnny Cash, Englebert Humperdink, or the Rare Earth.
The revolution will not be televised.

The revolution will not be right back after a message
bbout a white tornado, white lightning, or white people.
You will not have to worry about a dove in your
bedroom, a tiger in your tank, or the giant in your toilet bowl.
The revolution will not go better with Coke.
The revolution will not fight the germs that may cause bad breath.
The revolution will put you in the driver's seat.

The revolution will not be televised, will not be televised,
will not be televised, will not be televised.
The revolution will be no re-run brothers;
The revolution will be live.

http://www.gilscottheron.com/lyrevol.html





注

日本国憲法 抜粋


第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

第十七条  何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第二十五条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
○2  日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html







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