2014年5月9日金曜日

カレン・フェラン著、神埼朗子訳 (2014) 『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』大和書房



「英語教育学者」なる人々の一部は、各種学校に赴き、コンサルタント業務のような真似をする。私が見るに、そのやり方には少なくとも二種類ある。

一つは、自分の過去の経験なり、文部科学省の政策なり、自分が好んでいる研究なりを絶対の物差しとしてしまって、それを当事者にとにかく押しつけるやり方。

もう一つは、訪れた学校の様子をよく観察し、その観察に基づく事実を指摘しながら当事者である学校の教師の間でのコミュニケーションを促進し、当事者自身の中から知恵が湧き出るようにするやり方。

いうまでもなく学校によい結果をもたらすのは後者だが、「英語教育学者」コンサルタントには存外に前者のタイプが多いように私には思える。


現場の観察もそこそこに、当事者と話し合うこともほとんどせずに、一方的に一定のやり方を押しつけるのは、この本の著者によると、経営コンサルタントにも多いという。著者は、「目標による管理」や「競争戦略」などのお題目を唱えて(3ページ)、論理的な分析を行いさまざまなモデルや理論を駆使して(1ページ)、その結果、会社を傾かせてしまった経営コンサルタントを代表して詫びるためにこの本を書いたという。

もちろん著者を含めたコンサルタントが、すべてコンサルティングに失敗したわけではない。成功例もある。だが、その実質は当事者・関係者の連携とコミュニケーションを促進したことにすぎなかった。しかし、そう言ってしまっては、ありがたみがなくなり商売にならないので、表向きは適当なお題目を唱えていただけだった(21ページ)。人間的側面を切り捨て、お題目を文字通り押し付けた場合、かえって経営が悪くなったことの方が多いというのが著者の見解だ。

著者は、ビジネスとて所詮は人間の営みであり、人間には非理性的で感情的で、独創的でクリエイティブであったりもするから、そんな人間が理屈どおりに動くはずはない、と自身の経験を振り返り総括する(23ページ)。

しかし理屈で考えれば、いくつかの数的指標(数値目標)を定めて、その評価基準をもとに経営すればうまくいくように思える。

だが現実に起こることは、部下は評価基準ばかり気にして、上司と意味ある会話をしなくなること(158ページ)、あるいは評価基準に関することしかやらなくなること(136ページ)、データ分析や報告書の作成ばかりに追われて、みんなで実際に問題に取り組む時間がなくなること(100ページ)、時には評価のための数値を操作してしまうこと(136ページ)、上層部も数値ばかり気にして、まるでダッシュボードの数値ばかり見ながら自動車を運転する人間のようになり、大失敗をしてしまうこと(136ページ)である。

逆に評価基準をなくせば、人々は自ら考え、判断力を行使し、互いに協力せざるをえなくなると著者は言う(132ページ)。

もちろん、この前提は職場の人間関係が良好で、皆が仕事に意味を見出していることである。だからこそ著者は、「モデルや理論などは捨て置いて、みんなで腹を割って話し合うことに尽きる」と著者は対話や人間関係の改善を第一に考えることを訴える(28ページ)。

評価指標は、せいぜい参考にすべきものであり、管理の方法になってはいけないと著者は訴える。ましてや評価基準とインセンティブ制度を絡めて懲罰的な効果が出てくるようになると、評価指標そのものが目的になり、本末転倒が起こってしまう(133ページ)。

そもそも評価基準を、やたらと数値化しようとするところに落とし穴がある。たしかに (1) 「半年で10キロ痩せる」という目標と (2) 「体力をつけ、心身の健康を改善する」という目標(あるいは目的)を比べると、 (1) の方が測定可能であることから、多くの人は (1) の方がよい目標と考えるかもしれない。しかし、(1) を達成したとしてもも ―とくに鞭で脅されて達成した場合―、リバウンドしたり、体調を崩したりすることは想像に難くない(133ページ)。

だがしばしば組織は単純な数値を目標に掲げることを好み、当事者・関係者が主体的に考えないようにしてしまう。かといって多岐にわたる多くの指標を設定し、それを複雑怪奇な方程式などで統合しようとしても、当事者・関係者はデータ入力に追われるばかりだ(そもそも机上で考えられた方程式が、変化してやまない現実に適応できるのかも疑わしい)。

著者は、「これ以上、職場から人間性を奪うのはやめるべきだ」と訴える(23ページ)

あるいは、訳者のあとがきのまとめの表現を借りるなら、著者の主張は「コンサルティングにおいて重要なのは方法論やツールではなく、対話」であり、「クライアント企業は経営をコンサルタント任せにせず、自分たちでもっとちゃんと考えるべきだ」(316ページ)とまとめられる。

近代組織では ―あるいは官僚的組織ではというべきだろうか―、どうも人間的な要素をできるだけ減らし、無人格的(もしくは非人格的)システムを導入することこそが進歩だと思われることが多い。その信念は、疑われるべきだろう。

コンサルティング業務のようなことをする「英語教育学者」も、自らの売り物である過去の経験や文科省の政策や特定の研究論文ばかり見つめるのは止めて、当事者・関係者をよく見て、彼・彼女らの声に耳を傾けるという、人間として当たり前のことを優先すべきではないか。

人間として当たり前のことをしなくなることが進歩や改善につながるわけがない。










関連記事
ヘンリー・ミンツバーグ著、池村千秋訳『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』日経BP
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#061103



2014年5月5日月曜日

C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房





この記事も、フッサールのまとめと同様、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のための「お勉強ノート」の一つです。

この本は、40歳代後半のユングが、20年間にわたる臨床・討論・自己分析などの経験から得た知見を、歴史的にも用語的にもすでに存在する知見と関係づけ(1ページ)、自らの知見の広範囲な妥当性を示そうとしたものです。この記事では、人の心に関する学問が、狭義の自然科学とは異ならざるをえないことを示すため、まずユングのタイプ論を簡単にまとめ、それから、心の学問としての心理学のあり方について彼がどう考えたかをまとめます。基本的に翻訳書に基づいたノートですが、時折原著を参照し、ドイツ語を補ったりしています。












■ タイプ論

ユングは、構え (Einstellung)の二つと機能 (Funkution) の四つを掛け合わせてとりあえず8つのタイプを設定します(354ページ)。「とりあえず」と言いますのは、タイプの特定は困難で、かつ、人間は一つのタイプに固定したままであるとは限らないからです。

構えのタイプとして想定するのは、内向型 (der Introvertierte) と外向型 (der Extravertierte) の二つです。内向型は客体(Objekt, 対象)から離れるような (abstrahierend)態度をとり、外向型は客体(対象)に向かって積極的 (positiv) な態度を撮ります。

四つの機能のタイプは、合理的 (rational)な思考と感情と、非合理的 (irrational)な感覚と直観です。 合理的とは、「偶然性や非合理的なものを意識的に排除し」、「現実の出来事のうち無秩序なものや偶発的なものに一定の型を押しつける、あるいは少なくともそうしようとする」(388ページ)ことを意味します。

思考 (Denken)とは、「それ固有の法則に即して、与えられたさまざまな表象内容を(概念的に)連関づける心的機能」(452ページ)です。ユングはさらに「方向づけをもった思考の能力」 (das Vermögen des gerichteten Denkens) を「知性」 (Intellekt) と呼びます。

感情 (Fühlen) は、「一定の概念的な意味連関を作ろうとする意図ではなく、何よりも主観的な受け容れるか拒むかという意図をもってなされる」(463ページ)判断をする機能です。別の言い方をすると、感情の内容 (Gefühl)とは、一定の価値 (Wert) を付与する活動でもあります。

思考と感情は、それぞれ一定の型や主観的な価値を対象に当てはめるという点で「合理的」とみなされます。

これに対して「非合理的」とは、「理性に反する」 (widervernünftig)という意味ではなく、「理性の外にある」(außervernünftig)、つまりは、地球には月が一つあるとか、塩素は元素の一つであるとか、単なる偶然とか、理性では説明できないという意味です("irrational"という語の理解には、やはり注意が必要です。関連記事:全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について。翻訳において新造語はできるだけ避けるべきですが、思い切って「合理外の」ぐらいに訳してもいいのかもしれません)。

その非合理的(あるいは合理外の)タイプとしては感覚と直観があります。

感覚 (Empfindung)とは、物理的な刺激を知覚に伝える身体的な心的機能であり、感情と混じり合うことはありますが、感情とは別の事柄として理解されています(458ページ)。

直観 (Intuition) とは、知覚を「無意識的な方法によって」伝える心的機能であり、直観においては「どんな内容も出来上がった全体」(475ページ)として表されます。

この思考・感情・感覚・直観が四つの機能ですが、この四つで十分なのかという問いに対して、ユングは次のように答えています。

感覚は現実に存在するものを確認する。思考は存在するものが意味することを認識できるようにしてくれるし、感情はそれがいかなる価値をもっているかを、そして最後に直観は今そこに存在するものの中に潜んでいる、どこから来て今後どうなるのかという可能性を示してくれる。(576ページ)


かくして、とりあえずユングはこれら四つの機能が、外に向かうか内に向かうかの二種類にさらに分化し、八つのタイプになるという類型を立てました。



■ 一つのタイプだけでは限界がある

これら八つのタイプが一人の人間の中でまんべんなく発揮されれば、それは素晴らしいことでしょうが、たいていの場合、人は自分が十分意識できている主要機能と、相対的に意識的な補助機能をもっており(438ページ)、残りの二つの機能は無意識的になっています。例えば思考が主要機能(直観が補助機能)である人にとって、感情(と感覚)は無意識的になります。しかし、この無意識というのは、感情の内容を意識化しないというわけではありません。もちろんその人は自らの感情の内容を認識しますが、それはその人の意向に逆らって現れるものであり、その人の意識は感情の内容にいかなる有効性も影響力も認めようとしないのです(554ページ)。

さて、近代においては、とりわけ思考(そして知性)が合理的(あるいは理性的)として称揚されてきました。その合理性は、想定した客体・対象をうまく説明できることから裏付けされていますが、これは逆に言うと、合理外の偶然的な要素などを排除することにより成立していることです。ですから、合理性は現実のすべてを扱っているわけではありません。

ユングは言います。

現実に存在する客体(すなわち単なる想定された客体ではない)を合理的に説明しつくすなどということはユートピアないし理想である。想定された客体だけが合理的に説明しつくすことができる、というのはこれには思考のもつ理性にによって想定された以上のものははじめから入っていないからである。経験科学 (empirische Wissenshaft) も合理的に限定された客体を想定する、というのは偶然的なものを意図的に排除することによって現実の客体をまるごとでなく、つねに合理的観察の目をひく部分だけを取り上げるからである。(477ページ)


しかし合理性あるいは理性は、いわば近代の証として特権的な地位を得ています。外向型の思考タイプの人はこの状態に満足するでしょうが、満足できないのが、「非合理的」(合理外的)な感覚タイプや直観タイプの人、あるいは概念図式ではなく主観的な価値に重きをおく感情タイプの人、さらには関心が外界の客体・対象ではなく内界の客体・対象にもっぱら向かう内向型の人一般でしょう。これらの人々は、近代科学の主流に対して異論をあげますが、それはたいてい党派間の争いとなってしまいます。

ユングは、そういった争いを外面的な歩み寄りによって丸く収めようとするのではなく、この対立を心理的な問題として考察する方が有益であり、それにより、それぞれのアプローチが存在する権利があることがわかってくると考えます(524ページ)。

こう考えるユングの前提は次のようなものです。

私は、人間心理とはほとんど無関係であり、それゆえ客体でしかありえない自然現象なら、唯一の正しい説明というものがありうると確信する。同様にまた、客観的に記録する装置では捉えることのできない複雑な心的過程は必ず、その主体 (Subjekt) が産み出す説明しか受け付けない、すなわち概念の提唱者は自分が説明しようとする心的現象に合致するような概念しか産み出せない、と確信する。(526ページ)


ここで大切なのは、ある人の心について理解する際は、その人の心を理解しようとする者も人間の心をもった者であり、ここでは理解の客体と主体がともに人間の心であるということです。つまり、心理現象を説明するということは、これもまた一つの心理現象であるということです。ユングは言います。

しかし複数の説明が《避けられない》ことは心理学理論の場合宿命的なことである、というのは何らかの自然科学の理論とはちがって心理学における説明の客体は主体と同じ性格をもっている、すなわちある心理現象を説明するのはやはりもう一つの心理現象でなければならないからである。こうした容易ならぬ障害のために思想家たちは古くからやむをえず奇妙な逃げ道をとってきた。すなわちたとえば心理現象の彼方にあり、それゆえその支配下にある心を客観的に考察できるという「客観精神」を仮定したり、あるいはこれと大差ないが、知性とは自分自身の外に出ても自らのことを定立し考察できる能力であると仮定したのである。(529ページ)。


こういった「奇妙な逃げ道」をフッサールが「客観主義」と名づけたのは、前の記事でまとめた通りです。英語教育研究あるいはSLA研究でいうと、量的アプローチだけしか認めない人々は、そういった仮定を疑い得ないものとして質的アプローチなどを排除しようとします。しかし、人が人の心を解明しようとする限り、解明者の心のあり様も主題化せねばならず、また解明者も一様ではない以上、どうしても心理学理論は複数にならざるを得ず、中には両立が困難な説明もあると結論せざるをえないでしょう。

ユングも次のように言います。

しかしわれわれが知性を用いて極めようとするものは何であれ、それが誠実な作業であって、楽をするための、論拠先取りでないかぎり、逆説 (Paradox)と相対性 (Relativität) とに行き着くことになる。心的現象を知的に理解すれば必ず逆説と相対性に到達するのであり、このことは知性がさまざまな心的機能の一つでしかなく、その本性上人間が自らの客観像を構成するさいの一手段でしかないことからしても確かである。知性だけで世界を理解できるなどと考えてはならない。世界は感情によっても同じようによく理解できるのである。それゆえ知性による判断は、よくて真実の半分でしかなく、またそれが誠実であるならば必ず自らの不十分性を認識せざるをえなくなるのである。(530ページ)


仮に量的アプローチの研究者が、英語授業に関して、美しいまでの合理的な説明をしたとしても、その合理性は論拠先取りによる現象世界の設定の限定性によるものであり、授業はその限定的世界を大きくはみ出すものです。教師や生徒は、量的アプローチの研究者が「主観的に過ぎない」とさげずむ感情的な価値観を個々人それぞれにもっています。教師も生徒も、「割り切れない」(=非合理的・合理外的)な事物を感覚に取り入れていますし、合理的な説明がつかない直観にもとづいて行動したりもしています。優れた実践者は、それらのできるだけ多くに対応しようと努力する中で、自らという人間を知りながら、一人ひとりの生徒を知ってゆきます。

そういった実践者の複雑で、矛盾(Paradox)や相対性にあふれた多彩な色彩の知恵を、平板な単一色で塗りつぶすことは止めようというのが、ユング的に考えた場合の結論となるかと思います。

しかし、結論を急ぐことなく、ユングが心理学のあり方についてどう語っているか、もう少し見てゆくことにしましょう。



■ 心理学のあり方

ユングは、心理学における認識には、認識者の個人的な偶然性(persönlich Zufälligkeit)必然的に伴っていることを強調します。
学問的な理論形成や概念形成のうちには多くの個人的偶然性 が伏在しているのである。精神物理学的判断だけでなく、心理的・人格的判断(注)もある。われわれは色を見るのであって波長を見るのではない。この周知の事実は他のどの学問よりもまず心理学こそが肝に銘じておかなければならないことである。個人的判断の作用は観察する時にすでに始まっている。人は自分の位置から一番よく見えるものを見るものである。(16ページ)


(注)翻訳書は"psychologische persönlichen Gleichung"を「心理的個人的誤差」と訳していますが、私は「心理的・人格的判断」と意訳しました(「判断」という訳語を敢えて使った背後にはポラニーの論の影響があります。関連記事:インタビュー研究における技能と言語の関係についてhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517)。念のため、上記の部分の原文を下に写しておきます。

In wissenschaftlicher Theorie- und Begriffsbildung liegt viel von persönlich Zufälligkeit. Es gibt auch aine psychologische persönlichen Gleichung , nicht bloß eine psyychophysische. Wir sehen Farben, aber keine Wellenlängen. Diese wohlbekannte Tatsache muß nirgends mehr beherzigt werden als in der Psychologie. Die Wirksamkeit der persönlich Gleichung fä schon an bei der Beobachtung. Man sieht, was man am besten aus sich sehen kann. (8)


「人の心は一様であり、どんな人がどんな人の心を解明しようとしても、その結果は同じでなければならない」というのは、「客観主義」の信奉者の信念でしょうが、ユングはそれに反対します。

心理ないし心理的原理は一つしかないという仮定は、正常人がもつ擬似学問的な偏見から来る耐えがたい暴虐である。「人間」とその「心理」という一般的な言い方がつねになされ、その心理はいつもきまって「・・・にすぎない」へと還元される。同様に「現実」という一般的な言い方によって、あたかも「現実」が一つしかないかのように語られる。しかし現実とは一人ひとりの人間の魂のうちに働いているものに他ならない (Wirklichkeit ist nur das, was in einer menschlichen Seele wirkt) のであって、ある種の人々が実際にあると信じたことを偏見に従って一般化したものではないのである。そのさい議論がどんなに学問的になされようとも、次のことを忘れてはならない。すなわち学問は生の 「全体」ではなく、それどころか心理的な構えの一つにすぎず、人間の思考の一つの形式にすぎないのである。(48-49ページ)


「客観主義」によると科学は、いつか人間の心理を一つの真実に収斂させてしまうことになっていますが、そもそも認識をする者も人間である以上、人間の心は認識者の心のうちの働きにおいて捉えられるのであり、認識者の心のあり様によって異なって現れるわけです。私たちはそのようにさまざまな人間の多様な理解が錯綜する世界に住んでいて、なんとかその多様性にうまく対応しています。これが世間知というか生きる知恵であり、学説というのは、その知恵のごく一部しか定式化していないと言えるでしょう。その部分知が、生きる知恵を凌駕すると考えるのは知の暴虐でしょう。

もちろん、心理学も狭義の「科学」にとどまろうとすれば、感情や想像力(Phantasie 翻訳書では「夢想」と訳されているが、ここではいわゆる「アクティブ・イマジネーション」(能動的想像力)の意味(あるいはそれに類する意味)(488ページ)でこのことばが使われていると判断し、「想像力」と訳すことにする)を排除するか、知的に抽象化して捉える必要があります。しかし心理学を現実の世界に応用しようとすると事情が変わってきます。ユングは言います。

ところが科学を現実の世界に応用するとなると事情が変わってくる。それまでの王であった知性はここでは単なる補助手段となり、たしかに学問的には洗練された道具かもしれないが、しかしもはやそれ自体が目的でなく単なる条件にすぎない小道具でしかなくなる。知性および科学はここでは創造的な力と意図に奉仕させられるのである。これもまた「心理学」ではあるが、しかしもはや科学ではない。これは言葉の広い意味での心理学である、つまり創造的な性格をもった心理的活動であってその中では創造的想像力が首座を占めるのである。創造的想像力と言う代わりに、こうした現実的な心理学 (praktischen Psychlogie)においては生きること (Leben) 自体に中心的な役割が与えられていると言ってもよいであろう、というのは一方ではなるほど生産的創造的想像力こそが科学を補助手段として利用するが、しかし他方ではまさに外的現実の多様な要求が創造的想像力の活動を刺激するからである。(66-67ページ)。


想像力は実践者が常に使っているものですが、何せ内界の出来事で、外的・物理的な証拠が得られないものですから、いわゆる「実証主義」(=「客観主義」の一派)の人々は、想像力に関して研究することを拒みますが、研究が現実的なもの、実生活での働きを期待されるものであろうとするなら、想像力について適切に考える必要があります。たとえ、それによって、これまでの狭義の「科学的心理学」の枠組みを超えることが必要でも。(関連記事:マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html)

想像力といったこれまでの狭義の科学の枠組みを超える事象について考えることを拒否するなら、なるほど「科学性」は保たれるでしょうが、それは果たして望ましいことでしょうか。ユングは言います。

科学を自己目的とすることはたしかに崇高な理想であるが、しかしそれを徹底的に追求すると科学や技術の数と同じだけのたくさんの自己目的を産み出してしまう。この結果たしかにその時点で脚光をあびる機能が高度に分化・専門化されはするが、しかしそれによってまたその機能が世界や生から遠ざかり、さらには個々の領域の数は増えるが、しだいに相互の関係をすべてうしなっていくことになる。こうなると個々の領域においてばかりでなく、専門家へと分化・上昇していく、ないし加工していく人間の心にも、貧困化と荒廃が始まる。(67ページ)。


この箇所の引用は、私はJ-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html)でも行いましたが、私は上記の状態が「英語教育学の発展」の状況に重なっていると懸念しています。(この発表の様子は下の動画で見ることができます)。







「英語教育学」なるものの発展あるいは進歩が私たちの目指すものではないでしょう。目指すものは、現実世界の改善であり、英語教育を通じて私たちがより幸福になることです。

重要なのはけっして合理的な真理を考え出したり発見したりすることではなく、現実の生が受け容れることのできる道を発見することだからである。(97ページ)


かくして、ユングのいう広い意味での心理学は、現実世界で生きる人間のためのものとなりますが、それはユング派の実践的研究者あるいは研究的実践者の活躍で立証されている通りです。ユング派は、臨床経験に基づきながらも、(教条的な方法論ではなく)使う用語の定義を大切にしながら(440ページ)、研究と実践を同時に深めていっています。

英語教育研究に従事する者は、こういったあり方に学ぶべきではないかというのが、私の考えです。





関連記事
C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
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C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
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小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
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河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
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村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
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小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
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J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html






量的研究の源泉の理解のために ― フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部の簡単なまとめ



この記事は、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のための準備ノートの一つです。

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ここでは量的アプローチの源泉をさぐるため、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部を私なりにまとめてみます。原著にあたることもしていない、いわゆる「お勉強ノート」です。以下のページ数は、私が以前から有しているハードカバー版のものですが、現在入手できる版は、文庫本版ですので、文庫本版をご利用の方はご注意ください)。










フッサールは最晩年のこの著で、Wissenschaft ―この翻訳書では「科学」「学問」「学」と適宜訳し分けられていますが(後書き:424ページ)、この記事では(引用部を除いて)「科学」とすることにします。「科学研究費」といった用法に見られる広義の「科学」です― に対して根底的な批判を加えます。フッサールは、現在の科学は、一つの哲学から派生していることを指摘します。

現在、建設されつつにあるにせよ、すでに成立しているにせよ、複数形の科学はすべて、ただ一つの哲学の分枝にすぎない。普遍性の意味を大胆に、過度ともいえるほどに高揚することはすでにデカルトにはじまるが、そうすることによって、この新しい哲学は、一つの理論的体系の統一のうちに、およそ意味のあるすべての問題を、厳密に学的な仕方で包括しようと努力するのである。すなわち、必当然的に明瞭な方法論と、合理的に秩序づけられた研究の進行によって、すべての問題を包括しようとするのである。こうして、理論的に関連づけられた究極的な真理の唯一の体系 ―世代から世代へと無限に成長する唯一の体系― これこそが、事実の問題であろうと理性の問題であろうと、時間的な問題であろうと永遠の問題であろうと、およそ考えうるすべての問題に答えるものとされた。(20-21ページ)


この哲学は、古くは、実在的なものの基盤を理念的なものにもとめたプラトン主義に遡ることができますが、近代においては、やはり「自然の数学化」を行ったガリレイにその端を求めるべきだとフッサールは考えます(38ページ)。

自然の数学化によって次のような世界が構想されます。

合理的で無限な存在全体と、それを体系的に支配している合理的な学という理念の構想は、かつて見られなかった新たな試みである。無限の世界、それはこのばあいには理念的なものの世界なのであるが、そのなかの対象が個別的に、また不完全に、たまたまわれわれに認識されるというのではなく、合理的で体系的統一性をもった方法が到達しうるような世界として、また無限の進行において、結局はあらゆる対象がその完全な即自存在に従って認識されるような世界として、構想されているのである。(36-37ページ)


「合理的で体系的統一性をもった方法」を無限回適用するというのは、数学によって初めて思考されるようになった理念かと私は理解していますが、その理念に基づき、「考えうるかぎりの完全化の地平へと自由につき進むことによって、いたるところに極限形態が予示され、決して到達されることのない普遍の極」(41ページ)へと向かっていくのが科学の特徴というわけです(こういった理念の実証的な追求に関しては、カントがすでに『純粋理性批判』で批判を加えていますが(関連記事:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く)、フッサールももちろんその伝統に立脚し、この記事では扱わない本書の後半(第三部)で超越論的現象学を構想します)。

「自然の数学化」には次の二つの側面が含まれます。一つは、数学が、「物体世界をその空間時間的な形態に関して理念化することを通じて、理念的な客観性を創造した」(48-49ページ)ことです。この理念的な客観性に対しては、「それを絶対的な同一性において規定し、絶対に同一的で、方法的に一義性をもつものとして規定しうる諸性質の基体として認識する可能性が生ずる」ことになります。

私たちが子どもで野山を駆けずり回っていた頃、世界は次々に新しい様相を見せ、私たちは世界に魅惑されていたかもしれませんが、そこに絶対的な同一性を見出すことはなかったはずです。しかし私たちは数学や物理学などを学ぶにつけ、世界を「理念的な客観性」で見るようになります。やがては英語教育といった極めて人間的な営みに対しても、「第二言語獲得研究」の「量的アプローチ」といった枠組みを科学的な真理(への道)として教え込まれ、英語の学びにも「絶対的な同一性」があるはずだ (いや、なければならない -- Muß es sein? Es muß sein.--) と信じて疑わないようになります。

自然の数学化の第二の側面は、数学が実用的測定術と結合することによって、「人は、そのつど与えられ図られた形態的な出来事から出発して、知られていないし直接には決して測ることもできない出来事をも、異論の余地のない必然性をもって「計算」しうる」(50ページ)と信じるようになることです。かくして、「世界はあらゆる形式を包括する総体的形式であり、この相対的形式は、分析的な仕方で理念化されうるし、作図によって隈なく支配できるもの」として科学者に現れてくるようになります。

この科学者の理念化された世界は、虫取りに夢中になっている子どもに現れている「世界」はもとより、午後の様子が午前と一変している学級などに日常的に接している教師に現れている「世界」とも異なっているものですが、科学者の「世界」は、現代社会では特権化され、それは市井の人々の世界観を無教養なものとして侮蔑しかねないものになっています (とはいえ、厳密な自然科学を行っている科学者は、自らの世界観の限定性を十分自覚していますからそのような侮蔑とは無縁ですが、自然科学を模したような研究を中途半端に行っている人は、しばしばそのような侮蔑を陰に陽に示します)。

この世界の理念化とともに、「普遍的で精密な因果性」も自明なものとされるようになったとフッサールは指摘します。こうして世界の数学化から一般的数式を得ることができたら、その数式は他にも応用されて、一般的因果関連を表現する(60ページ)ものとされます。

かくして私たちが日常的に経験している生活世界には、数学的な衣が被せられ、私たちはその衣こそが真実だと思うようになります。

「数学と数学的自然科学」という理念の衣 ―あるいはその代わりに、シンボルの衣、シンボル的、数学的理論の衣といってもよいが― は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実で真の」自然として、生活世界の代理をし、それをおおい隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。つまり、生活世界で現実に経験されるものや経験可能なものの内部ではもともとそれしか可能ではない粗雑な予見を、無限に進行する「学的」予見によって修正するための方法を、真の存在だと思い込ませるのである。(73ページ)
ガリレイは、「発見する天才であると同時に隠蔽する天才」 (74ページ) でもあるわけです。

もちろん、「数学と数学的自然科学」という理念の衣をまとった世界に私たちが十分な真実性を見出すことも多々あります。例えばテクノロジーですが、私自身も多くの(精密)機械が正確に稼働することを日頃は疑っていません。その意味では科学の計算による世界把握を認め享受しています。

しかし、テクノロジーも、巨大化し複雑になっていくと、例えば震災時の原発のように、絶対安全なはずのものが事故を起こしたりすることは周知のことです。また、薬品といったテクノロジーも、人によっては効かずに副作用でかえって苦しむようになることもよく知られていることです。「数学と数学的自然科学」という理念の衣にもとづく計算は、私たちの日常世界の「粗雑な予見」に過ぎないことは、日常生活者にとっては何度も何度も痛感していることですが、それでも「SLA研究によるとこうだから」と、現場教師に特定の教授法を強要するSLA研究者も残念ながら一部存在します(もっともそういったSLA研究者は、権力を得るために自らの知識を利用・乱用している人というべきで、そういった人ばかりがSLA研究者だとは私も思っていません)。

しかしガリレオ的世界観はここで止まることなく、「特殊な感性的性質は単に主観的なものにすぎない」(76ページ)という学説によって、「人格的生活を営む人格としての主体を、またあらゆる意味での精神的なものを、さらに人間の実践によって事物に生じてくる文化的な諸性質を、すべて捨象する」(85ページ)事態を招きます。世界を「自然と心的世界という、いわば二つの世界に分裂する」(85ページ)二元論を導入し、さらに心的世界を科学から排除する、あるいはそれを自然とまったく同じものとして無人格的に扱うことを科学者と教養人に強要するにいたりました。

かくして、科学を行う者あるいは信じる者は、科学による支配を信じるようになりました。フッサールはこう言います。

いっさいのものについての認識力をたえず増大し、たえず完全にすることによって、人間はまた、その実践的な環境に対しても、つまり無限の進行において拡張される世界に対しても、その支配をますます完全なものにしてゆく。そこには、実在的環境の一部である人類に対する支配、したがって自分自身、ならびに仲間の人間に対する支配、自己の運命に対する力の増大、人間一般にとって合理的に考えうるような「至福」の完成、というようなことも含まれている。なぜなら人間は、価値や財に関しても、それ自体において真なるものを認識しうるからである。これらすべてのことは、合理主義にとっては自明な帰結としてその地平に存している。かくて人間は、真に神の似姿なのである。数学が、無限に遠い点とか直線とかについて語るのと類比的な意味で、このばあい比喩的に、神は「無限に遠い人間」であるということができる。(93ページ)
一部の科学者や教養人にとって「宗教」というのは侮蔑語で、「それは宗教のようだ」という表現は、相手にとどめを刺す時に使うことばですが、私から言わせれば、英語教育などというきわめて人間的で、自然科学的な意味で言えば莫大な複雑性に影響されている日常世界に対して、科学的方法を無限に適用することにより、真実に辿りつけ、学習者や教師も含めた世界を支配できると信じこむことこそは「宗教のようだ」と思えます。



フッサールは、このように「数千年来のすべてのこれまでの哲学の客観主義」の性質を整理した上で、「超越論的哲学」という用語を最も広い意味(=デカルトを通じてあらゆる近代哲学に意味を与えるもの)(137ページ)で使い、「超越論的哲学こそは、前学問的ならびに学問的な客観主義に対して、あらゆる客観的意味形成と存在妥当の根源的な場としての認識する主観性へと立ち帰り、存在する世界を意味形成体ならびに妥当形成体として理解し、こうして本質的に新たな種類の学問性と哲学とに途を開こうと試みる哲学」(139ページ)と規定します。この主題は第三部で展開されますが、そのまとめは後日に行いたいと思います。この第一部と第二部のまとめだけでも、いわゆる「量的アプローチ」が前提としている哲学(あるいは挑発的な言い方をするなら「信仰」)が少しは明らかになるのではないかと思います。



まったくの余談になりますが、私は最近とみに事務仕事が多くなり、なかなか本を読む時間がとれないので、この本をある武術の講習会にもっていって、昼休みに一人になった時に読んでいました。そこを通りかかった友人がこの本を見つけて「これは一体、何ですか?」と尋ねてきました。私は「授業をどうやって行うかというきわめて日常的な営みに、高度な科学的研究が必要だという理屈を信じてやまない人たちがいるので、その人たちを批判するために読んでいる本です」と答えました。それでも友人は得心しない顔をしているので、「つまり、屁理屈を批判するために、私はさらなる屁理屈で武装しているのです」と説明したら、友人も笑い出し、二人で大笑いしました。

この記事を書いているのは、午前中の雨も晴れた子どもの日の午後です。連休にこんな文章を書いているなんて、我ながらバカだねぇ(苦笑)。






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