2016年6月15日水曜日

ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)



以下は、ルーマンによる意味論についてのお勉強ノートの一つです。授業などで使う必要があるので、急いで掲載します。

ドイツ語原文は Niklas Luhmann (1997) Die Gesellshaft der Gesellshaft 1. Furakfurt am Main: Suhrkamp から、英語翻訳は Niklas Luhmann (translated by Rhodes Barret) (2012) Theory of Society, Volume 1. Stanford, California: Stanford University Press から引用したものです。

この本に関しては、ニクラス・ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 1』(法政大学出版局)というすばらしい翻訳があり、私は自分の母国語の出版文化がこのような翻訳を生み出すことを非常に誇りに思い、同時にいつもありがたく読ませていただいておりますが、下の訳は、私なりの訳出です。





意味は、現実として現れた現実性が、同時に、あふれんばかりの可能性を指示しているという形式をもっている。

・ドイツ語原文
Man kann Sinn phänomenologisch beschreiben als Verweisungsüberschuβ, der von akutuell gegebenem Sinn aus zugänglich ist.  Sinn ist danach -- und wir legen Wert auf die paradoxe Formulierung -- ein endloser, also unbestimmbarer Verweisungszusammenhang, der aber in bestimmter Weise zugänglich gemacht und reproduziert werden kann.  Man kann die Form von Sinn bezeichnen als Differenz von Akutualität und Mӧglichkeit und kann damit zugleich behaupten, daβ diese und keine andere Unterscheidung Sinn konstituiert.  (Luhmann 1997, S. 49-50)

・英訳
Meaning can be described phenomenologically as surplus reference accessible from actually given meaning.  Meaning is accordingly an infinite and hence indeterminable referential complex that can be made accessible and reproduced in a determined manner -- and I attach great importance to the paradoxical formulation.  We can describe the form of meaning as the difference between actuality and potentiality, and can therefore also assert that this and no other distinction constitutes meaning.  (Luhmann 2012, p. 21)

・拙訳
意味を現象学的に記述するなら、意味とは現実に与えられた意味によってあふれんばかりの指示が利用可能になることといえる。したがって意味とは -- ここでは逆説的な定式化が重要だ -- 限りなくそれゆえに不確定的な指示連関であるが、それは確定的なやり方で利用可能になり再生産できる不確定的な指示連関である。意味の形式は、現実性と可能性の差異と呼ぶことができる。そのことによって、他のどんな区別でもなく、この区別によって意味が構成されているのだと主張することもできる。


・解釈
意味が、現時点で顕になった意味(現実性)だけでなく、その時点では潜在的な意味(可能性)という二つの側面から構成されているという意味論は、一見したところ ‘denotation’ ( = a direct specific meaning as distinct from an implied or associated idea, Merriam-Webster, 明示的意味・文字通りの意味) ‘connotation’ ( = the suggesting of a meaning by a word apart from the thing it explicitly names or describes; something suggested by a word or thing : implication, Merriam-Webster, 含意・暗示) の二つの側面からの意味の説明という古典的な意味論と似ているようですが、ルーマンの言う「可能性」は ‘connotation’ よりもはるかに広い概念です。

  たとえば「このバラの写真」という句の意味を考えてみましょう。この句の「現実性」と ‘denotation’ については特に説明の必要がないかと思います。この句が、多くの写真の中から一枚の写真を指差している話者によって発話された時、この句の文字通りの意味は話者が指示しようとしている対象を確定します。これがこの句の「現実性」もしくは ‘denotation’であるとしましょう(と言いますより、実際のところは文字通りの意味の説明というのはきちんとやろうとすると存外に難しいのですが、それはさておき)。

  これに対して‘connotation’ (含意・暗示)は、例えば「バラ」なら「トゲがある」や「美しさで人々を惑わす」や「花の女王」などです。「写真」の含意・暗示でしたら、バラの含意・暗示以上に個人差や文化差があるでしょうが、「記念の品」や「本物ではない」などでしょうか。

  しかしルーマンのいう「可能性」はもっと莫大な意味につながってゆきます。「このバラの写真」は、そばにある「あのバラの写真」や「もっと向こうにあるバラの写真」、あるいは「このパンジーの写真」や「あの青空の写真」にも結びつきうる可能性をもっています。「バラ」は、「トゲ」や「魅惑」や「女王」だけでなく、「園芸愛好家」や「植物一般」や「動物一般」や「品種改良の歴史」などともつながり得ます。「写真」は「動画」や「押し花」だけにとどまらず、「趣味」や「芸術」や「デジタル技術」や「高額精密機械」などとの関連ももっています。

これらは無限とは言わないまでも、私たちの意味世界に数多く存在しています。ただその存在は、現時点では潜在的なものに過ぎません。聴者が「このバラの写真」という句を聞いた時は、聴者が直接的に経験している現実性は指さされた写真だけにとどまるぐらいでしょう。私たちはその句のすべての可能性をただちに想起し意識することはありません。しかしおそらくはこれらの可能性は無意識のうちに活性化されているはずです少なくとも、上記の可能性は「アインシュタインの特殊相対性理論」よりは活性化されているはずです)。このあたりは、神経科学の統合情報理論で説明すれば、より明晰に説明できるはずですが、ここでは割愛させてください。

関連記事:統合情報理論からの意味論構築の試み ―ことばと言語教育に関する基礎的考察― (学会発表スライド)
※この学会発表の論文化はこの夏は断念しました。もう少し統合情報理論を勉強し、かつルーマンという補助線を使って後日論文化したいと思っています。

英語教育の現場では、一問一答式に、英単語を問われるとその日本語訳を答える営みが「単語の勉強」や「語彙学習」と呼ばれていますが、そのような営みはルーマンのいう可能性はおろか、 ‘connotation’ (含意・暗示) までも切り捨てた営みです。

ルーマン意味論にしたがうなら、そういった「単語の勉強」や「語彙学習」は、現実性と可能性という差異の統一からかけ離れた形式をもっていますから、意味を学習しているとはいえないでしょう。意味を欠いた学習ということでしたら、とてもことばの学習とはいえません。下記の拙著で使った表現でいえば、そういった「単語の勉強」や「語彙学習」は「意味の亡骸」を暗記しているにすぎません。





ことばの意味を経験するとは、一例をあげると、この本の共著者である小泉清裕先生の実践のように、さまざまな働きかけで子どもの心をゆさぶり -- もう少し硬い表現をすれば、さまざまな働きかけで子どもの意味世界の可能性を活性化し --、その上で例えば “What color is spring for you?” と問いかけて、子どもに「っ」と考えさせ想像力を働かせることかと思います。

そういった実践を説明・解説する理論としては、このルーマンの意味論は優れていると私は考えて、私は昨年、下の講演をしました。

「意味論の比較から考える小学校英語教育のあり方」(一般社団法人「ことばの教育」主催 講演会)のスライドを公表


と、長くなりましたが、「意味の現実性と可能性が同時に示される」、あるいは「明示的な意味が暗示的な意味を引き連れて現れてくる」、さらに言い換えるなら「意味は、現時点で表に出てこない潜在的な可能性とのつながりをもってこそ意味たりえる」、つまり「暗示的な意味とのつながりを断たれた明示的な意味は、もはや意味ではない」などとまとめられるルーマンの意味論は、教育実践を考えるためには有効な意味論であると私は考えています。


意味によって、私たちが理解可能な世界 --意味世界と呼んでいいでしょうか --の一部が現実性として浮かび上がり、その背後に茫漠とその意味により喚起された可能性が隠れているという事態を直感的に図示したのが、以下の図になります。





・訳注
「現実に(与えられた意味)」の部分の “aktuell” は「現時点で(与えられた意味)」ぐらいに訳した方がわかりやすいかとも思いましたが、この語と“Akutualität” のつながりを明確にするために、「現実に」と訳出しました。
  “Mӧglichkeit” に対しては「可能性」という訳語を充て、「潜在性」とは訳しませんでした。「可能性」よりも日常語らしくない「潜在性」は、“Mӧglichkeit” よりはドイツ語の日常語らしくない “Potentialit ät” の訳語として使うことにします。



ルーマンの意味論は、せめて『社会の社会』からの引用にせよ、本来は上記の引用箇所だけでなく、もっと引用してきちんとしたまとめをするべきですが、取り急ぎお勉強ノートを作りました。おそまつ。




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