2016年6月2日木曜日

人間の複数性について: アレント『活動的生』より





この記事は、以前の記事である「真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より」( http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/blog-post_24.html ) に続くアレントに関するお勉強ノートです。

アレントにとって複数性 (Pluralität, plurality) は非常に大切な概念です。ここではその複数性についてアレントが言及している箇所を私なりに翻訳することによって考え、私なりの理解をまとめておきます。

最初にごく単純にまとめてしまえば、複数性というのは、ただ単に人間が多く存在しているということではなく、独自の個性(独自性)をもった人々が、その個性という違い(差異性)にもかかわらず同じ人間として平等性(対等性)をもちながら、他の多くの人々と共にいる (多数性) という事態を意味します。



対等性と差異性を同時に有する複数性があってこそ、語りあいも行為も可能になる。

・原文
Das Faktum menschlicher Pluralität, die grundsätzliche Bendingung des Handelns wie des Sprechens, manifestiert sich auf zweierlei Art, als Gleichheit und als Verschiedenheit. Ohne Gleichartigkeit gäbe es keine Verständigung unter Lebenden, kein Verstehen der Toten und kein Planen für eine Welt, die nicht mehr von uns, aber doch immer noch von unseresgleichen bevölkert sein wird. Ohne Verschiedenheit, das absolute Unterschiedensein jeder Person von jeder anderen, die ist, war oder sein wird, bedürfte es weder der Sprache noch des Handelns für eine Verständigung; eiine Zeichen- und Lautsprache wäre hinreichend, um einander im Notfall die allen gleichen, immer identisch bleibenden Bedürfnisse und Notdürfte anzuzeigen. (S.213)


・拙訳
語りあいと行為の根本的条件である人間の複数性という事実は、対等性と差異性という二つのあり方で姿を現す。等質性がなければ、生きている者同士で相互理解することも、死んだ者を理解することも、もはや私たち自身ではなく私たちと同じ対等な者によって生きられるはずの世界に対して計画を立てることもなくなるだろう。差異性とは、各人を現在・過去・未来のいかなる人とも絶対的に区別していることなのだが、その差異性がなければ、相互理解のための語りあいも行為も必要ではなくなるだろう。すべて等しく常に同一である欲求や用途を互いに知らせることが必要になった時にも、記号的な音声言語だけで十分であろう。


・解釈
人間の複数性は、人間は互いに「対等だが異なっている」 (gleich aber verschieden, equal but different) 、あるいは互いに「異なっているが対等である」 (verschiedenaber gleich, different but equal) という二つの一種相反するようにも思える対等性 (Gleichheit, equality) と差異性 (Verschiedenheit, difference) という二つのあり方から成り立っている。

人間が人間として平等 (gleich, equal) であると私たちが言う時、それは人間が「等質だから対等(であるべき)」 (same and (therefore) equal) ということを意味しているのではない。また、人間は「等質ではないから不平等(でもよい)」 (different and (therefore) not equal) といった人間の平等性を否定するような言説を、少なくとも近代的な人間の多くは認めない。平等性(対等性)とは、違いがあるからこそ認められるべきものである。

人間の複数性は、人間の違い(差異)を認めた上で、あえて人間を平等(対等)とみなすことからなりたっている。

このように対等性 (Gleicheit, equality) と等質性 (Gleichartigkeit, sameness) は異なる概念だが、ドイツ語を見ればわかるように、これらには重なるところもある。対等性と等質性との違いは、対等性は差異性を重んじる概念であり、等質性は差異性を軽視する概念であるとまとめられよう。

だがもちろん、対等性が差異性を重んじるといっても、それは、対等であるとされる複数の人間が質的に・種的にまったく異なる(例えば、犬と花崗岩のように異なる)ということを意味しない。人間は、それぞれの違い(差異)をもちながらも対等(平等)なのであるが、その違いは質的・種的なものではなく、人間は人間という種としてのある程度の等質性(同質性・同種性)は有している。

このように緩い意味での同質性は対等な人間にも共有されているものであるが、その緩い同質性ゆえに、人は他人と相互理解すること、過去の人物を理解すること、未来の人々のために計画を立てることができる。緩い意味での同質性を伴う対等性があってこそ人間はお互いに理解ができる。

他方、人間一人一人は異なった存在であるが、その違い(差異性)がなければ、複雑な言語など必要はなく、私たちはある物の代わりとなっているだけの記号的な言語を音声で叫ぶだけのコミュニケーションで満足していることだろう。差異性がない人間というのは、原始的な動物に過ぎず、望むこともすべて同じだろうからである。


・訳注
上でも述べたように、 "Gleichheit" "Gleichartigkeit" は、"gleich"を共有することばなので、翻訳にもその共通性が現れるようにしたかった。その点、森先生の翻訳はこれらを「同等性」と「同種性」と「同」を共有した形の訳をしており、私は読んだ瞬間「うまい訳だなぁ」と膝を叩いた。(アレントの英語版を元にしていた志水速雄氏の『人間の条件』ではこれらは「平等(性)」と「同一性」と訳されていた)。

しかし私としては、人間は「異なれども対等」という表現はしっくりきても、「異なれども同等」という表現にはどこか違和感を覚えてしまう。私は「異なれども対等」という表現を使い続けているので、"Gleichheit" には「対等性」という訳語を使いたかった。


関連記事:柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12. pp. 14-28)


そうなると "Gleichartigkeit" の訳語には「等」を入れればよいと考え、「等質性」という訳語を使うことに決定した。

なお、 "Gleichheit" "Gleichartigkeit" の違いについては、アレントが別の箇所でも書いているので、その違いについては別の記事でまとめておきたい。

また "Sprechen" は動詞を名詞扱いしている表現であり、もともと名詞である "Sprache" ではないので、「言語」とは訳さなかった。森氏も志水氏も "Sprechen" を「言論」と訳しているが、アレントは "Sprechen" が、人間の複数性を根本条件としていることを強調しているので、一人では不可能で複数の人間がいてはじめて可能になる営みを表す語として「語りあい」を選んだ。




人間の複数性には、個々人の独自性が含まれている。独自性を公然にするのは語りあいと行為である。

・原文
Im Menschen wird die Besonderheit, die er mit allem Seienden teilt, und die Verschiedenheit, die er mit allem Lebendigen teilt, zur Einzigartigkeit, und menschliche Pluralität ist eine Vielheit, die die paradoxe Eigenschaft hat, daβ jedes ihrer Glieder in seiner Art einzigartig ist.
   Sprechen und Handeln sind die Tätigkeiten, in denen diese Einzigartigkeit sich darstellt. Sprechend und handelnd unterscheiden Menschen sich aktiv voneinander, anstatt lediglich verschieden zu sein; sie sind die Modi, in denen sich das Menschsein selbst offenbart. (S.214)


・拙訳
すべての存在が有している特殊性も、すべての生き物が有している差異性も、どちらも人間においては独自性となる。人間の複数性とは、誰も人間でありながらもそれぞれのあり方で独自であるという逆説的特性をもつ多数性である。
  この独自性が姿を現す営みが語りあいと行為である。語りあいと行為により人間は、ただ単に差異を示すのではなく、お互いに能動的に己と他の区別を示す。語りあいと行為は、人間存在が己を公然にする様態である。


・解釈
存在するものはそれがなんであれ一つ一つが特殊なものであるし(特殊性)、どんな生き物もそれぞれの違い(差異)をもっている(差異性)。人間も存在するものであり生き物である以上、当然、特殊性と差異性を有しているが、人間の場合は、それらは独自性と表現されるべきであろう。

人間は、共に人間であるという共通性をもちながらも、一人ひとりが個人としての独自性を有している存在である。複数性とは、独自の個性をもつ個々人が、その独自性にもかかわらず人間として対等に複数で存在しているということを表す多数性である。

だが、この独自性も、人が何もしなければ現れていない。もちろん人間は一人ひとり固有の顔や姿を有しているが、それは上述の特殊性や差異性のレベルで表現できるものであり、人間の独自性とは言いがたい。人間が自らの独自性を示すのは、語りと行為である(語り (Sprechen) と行為 (Handeln) については後日、稿を改めてまとめたい)。


・訳注
「特殊性」と「独自性」については、比較的平明な日本語表現を選んだつもりである。「公然」は "offenbart"であり、"Offentlichkeit" (「公共性」) とのつながりを示すために、「公」という字を含む訳語として「公然」を選んだ。















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