2016年5月24日火曜日

真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より






人間を単数形ではなく複数形で考える

研究をやる上で真理や客観性、あるいは意味や現実や実在性といった概念は非常に重要です。これらの概念をどう理解するかで、何が研究として認められ何が研究として認められないか、あるいは「実践研究」なるものがありえるのかありえないのか、といった諸帰結が導かれます。研究あるいは実践研究として認められるか認められないかで、研究者の身分といった些事はおろか教育政策といった大きな事柄の運命も決まってきます。哲学的理解とは閑人の戯れ事ではなく、現実の権力のあり方を決める重要なことがらです。

この点で、アレントの『活動的生』 (VITA ACTIVA oder Von taetigen Leben) はこれらの概念に明確な規定を与えています(もっとも彼女の文体は必ずしも簡潔なものではないのですが)。ここではアレントの規定についてまとめ、関連箇所の拙訳を提示します。


最初にアレントの基本的な考え方を述べておくなら、彼女は、私たち人間は決して一人(あるいは一人の視点・観点)だけでは生きておらず、互いに異なり矛盾することもあるかもしれない複数の人間(ということは複数の視点・観点)の中に生きていることが、私たちが人間であるための条件の重要な一つだと考えています。人間を単数性ではなく、複数性において考えることがアレントの基本的な考えです(日本語の「人間」(=人-間)ということばは複数性を前提とした表現だと考えられますから、このアレントの考え方は日本語話者にとっては異質なものではないはずです)。

しかし唯一神のユダヤ-キリスト教を背景とする西洋的思考法は、人間をもっぱら単数性で考えがちだとアレントは指摘します。「神は自分のかたちに人を創造された」とは創世記127節の記述ですが、この記述を逆向きにして考えますと、人は(努力により)神に近づくことができるということになろうかと思います。もちろん唯一神の考え方では、人が絶対的な神と同じものになることはできませんが、フッサールが指摘したように人間が努力を無限回重ねれば少しずつ神の知に近づくはずだと多くの自然科学者は思っているでしょう(あるいはそうではないかと問われれば否定はしないでしょう)。

また、唯一神の世界では神は単数形で考えられていますので、理想的あるいは理念的に想定された人は、単数形で存在する人(Man, Mensch)です。かくして、私たち人間について考察する際にも、例えば言語学のチョムスキーは "the ideal speaker-hearer" 「理念的話者-聴者」という単数形の人を想定しますし、多くの心理学も平均値で表現される個人で私たちを代表させます。

さらに政治の世界では時に、独裁者が理想的な個人として考えられ、その個人の考えを徹底するのが理想郷を実現する途だと信じられます。この信奉がどんな悲劇をもたらしたかということは、ユダヤ人であるアレントが身をもって知ったことです。


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アレントは、人間についての学問、そして複数の人間がどうやって共存してゆくかという政治は、あくまでも人間の複数性を前提とした上で考えられなければならないと論じます。人間が複数で存在するということは、それらの人間が集い語り合う公共的空間(開かれた空間)があることを必要としますから、アレントは公共性という概念も重視します。

しかし、私たちが「真理」や「客観性」について語る時、私たちは人間を単数形で考えてしまっているのではないかとアレントは批判します。人間の複数性を考えるなら、そういった「真理」や「客観性」よりも、「意味」や「現実」や「実在性」について語った方がよいのではないかというのがアレントの考え方です。

以下、『活動的生』から二箇所を引用し、拙訳を示した上で、上の内容をもう少し詳しく検討します。昨年出版されました森一郎先生の翻訳書は極めてすぐれたもので私も常時参考にしていますが、以下の翻訳は私自身の勉強のために自分で訳出したものです(翻訳の間違いを怖れます)。信頼のおける翻訳をお求めの方は、どうぞ森先生の翻訳書をお読みください。











真理 (Wharheit) よりも意味 (Sinn)

・原文
Es mag Wahrheiten geben, die jenseits des Sprechenden liegen, und sie mögen für den Menschen, sofern er auch im Singular, d.h. auβerhalb des politischen Bereichs im weitesten Verstand, existiert, von gröβtem Belang sein. Sofern wir im Plural existieren, und das heiβt, sofern wir in dieser Welt leben, uns bewegen und handeln, hat nur das Sinn, worüber wir miteinander oder wohl auch mit uns selbst sprechen kӧnnen, was im Sprechen einen Sinn ergibt. (S.12)

・拙訳
真理というものは、語りあう人々の彼岸に存在するのかもしれない。存在するとしたらその真理は、単数形の人、すなわちもっとも広く理解した政治的領域の外部にいる人のために存在するものだろう。意味によってこそ、私たちは互いにもしくは自分自身と語りあうことができるのだが、その意味が語りあいにおいて生じるのは、私たちが複数形で存在する限りのこと、言い換えるなら、私たちがこの世界で生きて動きまわり行為する限りにおいてのことである。

・補記
アレントは私たちが「真理」 (Wahrheit) と呼んでいる理念を全面否定することはしませんが、その理念が存在するとしたら、それは「単数形の人」にとってのものであろうとします。単数形の人とは、自分以外の考え方の必要性を認めない人です。自分の頭が抜群にいいと信じて疑わないような人や独裁者がその例でしょう。彼・彼女は、自らこそが真理を知る者であり、残りの人々はその真理を知ればいいだけだと考えているでしょう。他人の意見に耳を傾けることも、異なる意見が共存していることの大切さも理解しない単数形の人は、複数の人が共存するという広義の政治性すら帯びない人です。

さらにアレントは、意味 (Sinn) を複数の人間が語りあうことによって生じるものだと考えていますから、単数形の人は、私たちが語りあう中で経験する意味を理解しない人ということになります。

逆に言うと、私たちがこの世界で実際に複数の人間の中で語りあい行為を重ねながら生きている限り、「単数形の人にとっての真理」はこの世界の彼岸にあるものといえましょう。そうなると、私たち人間が生きているという事象を研究するためには、いわゆる「真理」ではなく、私たちが日常的に経験している「意味」を大切にするべきかとなるでしょう。



客観性 (Objektivität) よりも現実 (Wirklichkeit) 


ここでは一つながりの原文を、読解の便のために五つに分割して翻訳・解釈してゆきます。


(1) もっとも客観的に見えるのは貨幣かもしれない


・原文
Im unserer Welt ist vielmehr die Flüchtigkeit ӧffentlicher Anerkennung, die täglich in immer steigendem Maβ produziert und konsumiert wird, so groβ, daβ verglichen mit ihr selbst das Geld, das immerhin zu den vergänglichsten Dingen gehӧrt, die es überhaupt gibt, »objektiv« und wirklich erscheint. (S. 71)


・拙訳
私たちの世界では、公共的称賛が日々ますます大規模に生産されては消費されているので、公共的称賛など、束の間のものに過ぎないと思われるようになっている。貨幣はそもそももっともはかないものの一つなのであるが、その貨幣の方が、公共的称賛と比べるなら、<客観的>で現実的であるように思えてくる。


・補記
「公共的称賛」と言われてもそれが何のことかわかりにくいかと思いますが、最近の例でしたらFacebookの「いいね」を考えてみればいいかと思います。Facebookでは毎日いや毎時間ごとに多くの「いいね」という「称賛」がつけ加えられ、その数が多くなるとテレビや新聞でも取り上げられることになります(同じことはTwitterYouTubeでもいえます)。こういったメディアはインターネットにアクセスできる万人に開かれていますから「公共的」といえます。

しかしそういった公共的称賛はいかにもはかないもので、数ヶ月もたてばほとんどの人に忘れられるものでしょう。現代の公共的称賛はメディアでますます大規模に生産され消費され忘れ去られてゆくものになっています(ちなみにSNSなど当然なかった時代にこの本を書いたアレントが出している公共的称賛の例は、詩人や哲学者、ひいては医者や法律家までもが求める公共的名声あるいは評判や世評です)。

公共的称賛がそのようにはかないものとなっているので、近代人は、貨幣の方が公共的称賛よりも<客観的>であり、ひいては現実的なものだと思い始めているというのがアレントの主張です。

貨幣、とりわけ紙幣は、そもそも約束事に過ぎず、その貨幣(紙幣)に対する信頼がなくなれば単なる紙切れになるものに過ぎません(鋳造貨幣には金属としての価値が残るかもしれませんが、ここでは議論を単純にするため、以下は貨幣を紙幣と読み替えてください)。

しかし貨幣は、商品として認識されたすべての物やサービスと交換できるもの(特殊な商品)であり、物やサービスのそれぞれを、貨幣量(値段)という一本のものさしの上に並べてしまうという離れ業をやってしまいます。突飛な例を出すようですが、小さな娘が父親に「お父さんは、お姉ちゃんと私のどっちが好きなの?」と尋ねる時、たいていの父親は「二人とも好きだよ。どっちが好きなんて比べられない。二人はまったく違っているのだから」と、質が異なる対象を一本のものさしの上に並べることはできないことを諭します。この説諭をすぐに理解できる子どもは少ないかもしれませんが、たいていの子どもは成長するにつれこの父親のことばを理解するでしょう。

しかし、貨幣とは、それぞれの物やサービスもっている質を捨象してしまいそれらを一本の数直線上にならべる媒体であり、私たちはその貨幣で物やサービスを得ることにあまりにも慣れてしまっています(以前なら貨幣を媒介とせずに得られていた物やサービスも近年、どんどん商品化されています)。そのように資本主義社会的生活様式にあまりにも慣れすぎた近代人は、貨幣こそが、あるいは貨幣のように一本の数直線上にすべてを並べられる指標こそが「客観的」であり、あまつさえ現実的だと思い込んでしまいます。

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実際のところ残念ながら、数値データを出さなければ「客観的」でないと考える研究者や政策決定者はまだたくさんいます。そういった思い込みについて再検討をするために、私はこのお勉強ノートを作っていますし、岩波ブックレットでも資本主義社会について言及しました(もっとも一部の読者には、英語教育なのだから具体的なノウハウを書くべきで資本主義といった話は関係ないと思われたようでしたが・・・)。



(2) 現実は、一本の数直線的な「客観性」の視点・観点だけでは理解できない。現実は、複数の人間の複数の視点・観点から観察されることから生じる。


・原文
Im Unterschied zu dieser »Objektivität«, deren einzige Basis das Geld als Generalnenner für die Erfüllung aller Bedürfnisse ist, erwächst die Wirklichkeit des ӧffentlichen Raums aus der gleichzeitigen Anwesenheit zahlloser Aspekte und Perspektiven, in denen ein Gemeinsames sich präsentiert und für die es keinen gemeinsamen Maβstab und keinen Generalnenner je geben kann. Denn wiewohl die gemeinsame Welt den allen gemeinsamen Versammlungsort bereistellt, so nehmen doch alle, die hier zusammenkommen, jeweils verschiedene Plätzte in ihr ein, und die Position des einen kann mit der eines anderen in ihr so wenig zusammenfallen wie die Position zweier Gegenstände. Das von Anderen Gesehen- und Gehӧrtwerden erhält seine Bedeutsamkeit von der Tatsache, daβ ein jeder von einer anderen Position aus sieht und hӧrt.  Dies eben ist der Sinn eines ӧffenlichen Zusammenseins, mit dem verglichen auch das reichste und befriedigendste Familienleben nur eine Ausdehnung und Vervielfältignung der eigenen Position bieten kann und der ihr inhärenten Aspekte und Perspektiven. (S. 71-72)


・拙訳
このような「客観性」の唯一の基礎は、すべての欲求を満たすための共通分母となる貨幣なのだが、公共空間での現実は、そういった<客観性>とは区別されるものであり、数えきれないほど多くの観点と視点が同時に存在していることから生じる。無数の観点と視点から、何かが共有されるようになる。だが、そこで基準や共通分母が共有されているわけではない。人々に共有されている世界で、共有の集合場所が設けられたとしても、そこに集う人々はそれぞれに異なる場所を占めるだろう。それぞれの場所で人々が取る位置が重なり合うことはない。それは、二つの物体の位置が重なり合うことがないのと同じである。各人がそれぞれ異なった位置から見て聞いているという事実があるから、他者によって見られ聞かれることに意義があるわけである。これが公共的共存の意味である。公共的共存に比べれば、家庭生活は、それがどんなに豊かで満足ゆくものであっても、特定の位置の拡大版と複写版、およびそれら固有の観点と視点しか生み出すことはない。


・補説
私たちは「客観性」という用語にも様々な意味を込めることができるので、話がややこしいのですが、仮に上に述べたような貨幣的な意味、すなわち、たくさんの物事を一本の数直線上に配置できるという意味を「客観性」という概念の定義とするなら、私たちが日常生活で、すなわち多くの人々によって構成されている社会的営みの中で、「現実」と呼ばれているものは、そういった「客観性」とは異なります。もう少し正確に言うなら、そういった「客観性」に基づく理解は、一面的なものに過ぎず、とても「現実」の全体像を表現しているとはいえません。アレントの主張は、人間の営みについて考える際は、そういった「客観性」よりも「現実」を大切にするべきだというものです。

ですが、内容について補説をする前に、ここで翻訳についての2つの補注を加えておきます。

一つは「公共空間」です。ドイツ語は “öffentlich Raum”であり通常の英訳は “publich space” などですが、öffentlichoffenの関係性から “open space” とも訳せます。öffentlichを学習者用ですが独独辞書 (Langensheidt Taschenwörterbuch Deutsch als Fremdsprache) で定義を見ても、(1) so, dass alle daran teilnehmen, ihre Meinung sagen können, (2) so, dass es alle benutzen dürfen ←→ privat, (3) von allen oder für alle, (4) so, dass es alle wissen = bekannt, (5) staatlichといった記述が見られますから、これらのうちの (1) から (3) といった記述からすれば、この“open space”という翻訳も十分可能かと思います。

そうなると“öffentlich Raum” を「開かれた空間」と翻訳することもできますし、そう訳した方が文章の流れがよくなる箇所もありますが、アレントの哲学の中で重要な語であると思われるöffentlichには一貫して同じ日本語を充てたかったので、一部の箇所では日本語表現としてはこなれないようになってしまう「開かれた」という訳語は使わず、「公共(的)」という訳語を充てることにしました。

もちろん「公的」という訳語も考えられます(実際、森先生はそのように訳されています)。ですが、「公」の原義というか古義が朝廷や幕府であり、現代でも「滅私奉公」といったニュアンスで「公」が理解される場合があるので、öffentlichの開かれた性質をより強く表現するために「公的」ではなく「公共的」と訳すことにしました。

もう一つは “Wirklichkeit” を「現実」と訳すことについてです。類義語に “Realität” “Aktualität” があるので、これらを訳し分けることについても考えなければなりません。

回り道になるようですが、まずは“Realität” “Aktualität”について考えたいと思います。これについては、碩学の木村敏先生(精神病理学)が、「リアリティ」と「アクチュアリティ」の違いとしてまとめられています(木村敏 (1994) 『心の病理を考える』 岩波新書 p.29)。その説明によりますと、「リアリティ」はラテン語の「レース」resつまり「事物」という語から来ていて、「事物的・対象的な現実、私たちが勝手に作りだしてり操作したりすることのできない既成の現実を指す場合に用いられるのが原義」だそうです。それに対して「アクチュアリティ」の方は、ラテン語で「行為」「行動」を意味する「アークチオー」actioから来ており、「現在ただいまの時点で途絶えることなく進行している活動中の現実、対象的な認識によってはとらえることができず、それに関与している人が自分自身のアクティブな行動によって対処する以外ないような現実を指している」そうです。

この説明から訳語を考えますと、“Realität” “reality” には「実在性」、“Aktualität” “actuality”には「現実性」という訳語を充てることが考えられます。

しかし、アレントにとって一番大切な概念は、 “Wirklichkeit”のようです。この語に「現実(性)」という訳語を与えて、“Aktualität”には「現前性」といった訳語を充てることも考えましたが、「現前性」は哲学では時々使われる語ではあっても、日常的に使われる語ではありませんから、できるだけ避けるべきかと思いました(私はできるだけ平易な言葉を用い、新造語やカタカナ語はできるだけ避けたいという信念をもっています)。

ですから、結局、“Wirklichkeit”には「現実」、“Realität”には「実在性」、“Aktualität”には「現実性」という訳語を充ててこれらを区別することにしました。ドイツ語に詳しい方によりますと、“Wirklichkeit”は比較的日常的にも使われる表現であるのに対し、後二者はラテン語由来のすこし格式張った語であるので、後二者に「性」をつけて抽象的な意味合いをもたせるのは悪くない考えかとも思いました。

ついでながら、“Wirklichkeit”について述べておきますと、この語で印象的だったのは、“Wirklichkeit” (現実)と “wirken” (英語ならwork, act, take effectなどに相当する動詞) の関係性を踏まえて発言されたユングの次のことばです。(C.G. Jung Psychlogische Typen: Gesammelte Werke Sechster Band S.41, Patmos Verlag der Schwabenverlag AG, Ostfildern)

Wirklichkeit ist nur das, was in einer menschlichen Seele wirkt.
現実とは、ある人のこころの中で現に実働しているものである。(拙訳)

関連記事:
C.G.ユング著、林道義訳 1987 『タイプ論』 みすず書房

こういった言い方からも、 “Wirklichkeit” “Realität” “Aktualität” などよりもドイツ語話者にとって実感のこもる語ではないかと推測できます(ドイツ語に詳しい方からのご教示があれば嬉しく思います)。

ついでながら “Realität” についても述べておきますと、『活動的生』を翻訳された森先生は、アレントは米国生活の中で英語に親しみ「英語表現のドイツ語表記」を使ったように思える箇所があるとお考えになっておられます。“Realität”もその一つで、この語は “reality”のドイツ語表記であると推定されて、“Realität”には「リアリティ」というカタカナ語を充てており、“Wirklichkeit”には「現実」の訳語を充てておられます (訳者あとがき pp.521-522)。


と、翻訳についての補注が長くなりましたが、内容についての補説(というより蛇足)に戻ります。

アレントは、私たちが「客観性」と呼んでいる概念は、私たちが資本主義的生活様式に慣れきってしまい、すべての商品を一本の数直線上に表せる貨幣の論理をあらゆるものに適用させてしまおうとしていることから生じていると指摘します。

貨幣がすべての欲求の「共通分母」であるという表現ですが、これについては以下の論文の助けを借りて、私なりに言い換えてみます。

岩井茂 (1928) 「共通分母としての貨幣に就いて」 『商工経済研究』
香川大学学術情報リポジトリ

あるところに農夫がいてAという品物をもっていますが、そのAをある漁師が欲しがり自分のBという品物と交換しようと提案します。Aについて農夫は自分の生活感覚から「この価値は牛の半頭の価値がある」と言います。牛の価値を分母 (1) とすればAの価値はその半分 (0.5) であると言っているわけです。つまり「Aの価値 1/2 x 牛一頭」というわけです。これに対して漁師は、自分がもっているBは「マグロ三匹の価値がある」と言います。マグロの価値を分母 (1) とすればBの価値はその三倍 (3) だ、つまり「Bの価値 = 3/1 マグロ一匹」というわけです。

もちろん実際の交換としては農夫と漁師が合意すればABを交換するでしょうが、もしこの交換が「客観的」かと問われるなら、以下等式が成り立つかという問いになります。

1/2 x 牛一頭 = 3/1 マグロ一匹

しかし、ここでは分母(牛とマグロ)がそもそも違う以上、この等式が成立するかを問うことはできません。

ですが、ここで牛やマグロといった分母の質をすべてそぎ落として、数量表現だけで存在する貨幣を導入すればどうでしょうか。私は牛とマグロの値段の相場を知りませんので、ここでは具体的な値段は出せませんが、Aの価値もBの価値も、貨幣を共通分母にすることにより一本の数直線の上で表現できることは間違いないでしょう。それはあたかも、2つの分数2/173/25を比較する時に、共通分母である425を見つけて通分すると、50/42551/425になり比較可能になるようなものです(ですが、もちろん数には質はありませんが、商品にはあります。貨幣は異質のものを「客観的」に比較可能にするという点で、数学の共通分母以上の働きをもつ共通分母であると言えます)。

しかし、アレントは私たちが、多くの人々が集う場所(公共空間、開かれた場所)で「現実」と感じるものは、そういった貨幣的な「客観性」とは区別しなければならないと述べます。「現実」は、複数の人々によって多くの観点 (Aspekt / aspect) と視点 (Perspektive / perspective) が存在し、それらの無数の観点と視点から同じものが観察されることから構成されるとアレントは述べます。これらの観点と視点には、貨幣のような共通分母はありません(喩えて言うなら、牛、マグロ、どんぐり、ホタテ貝、織物、彫刻、刀、絵画・・・などの無数の異なる分母が存在しています)。

「現実」の成立を、アレントは空間的な比喩でも説明します。たとえばある彫刻を見るために多くの人が一箇所に集ったとしても、それぞれの人が見る位置や角度は異なるわけですから、誰も同一物(彫刻)を見ながら、すべての人が共通の表象(彫刻の姿)を見ているわけではありません。それが「現実」です。

彫刻の比喩を別の角度から述べれば、私たちはある彫刻を鑑賞する時に、あらゆる角度(=視点)から、またあらゆる分析のポイント(=観点)からその彫刻を眺めます。彫刻展で複数の彫刻を比較する審査員でしたら、それぞれの彫刻をそのように丁寧に観察するでしょう。もしある審査員が「3メートル離れた正面から焦点距離50ミリの標準レンズを付けたカメラで撮影した写真だけを共通の視点・観点として比較しなければ『客観的』ではない!」などと息巻けば、私たちはその人の愚かさを笑うでしょう。彫刻Cの良さがもっとも現れる観点や視点と、彫刻Dの良さがもっとも現れる観点や視点は異なります。それが「現実」というものでしょう。

ここでちょっと脱線しますと、このことからするならば、彫刻にせよ何にせよ芸術作品に順位をつけるコンクールという営みの矛盾が明らかになってきます。だからこそ、芸術コンクールでは1位から30位まで一直線に並べることなく、金賞何名、銀賞何名、審査員特別賞、奨励賞、といったように序列性を曖昧にし、かつ賞の質を異なるものにしているのかもしれません。

とはいえ、オリンピックではフィギュアスケートや体操といった芸術的性質が強い種目にも、「客観的」な採点法を導入し、すべての競技者を一本の数直線の上に並べます。まあ、せめて複数の審査員を設けているぐらいの配慮はあるといえるのかもしれませんが、これほどまでにして「客観性」を求めるオリンピックという近代的試みは、芸術、あるいは人間が生きているということとどう結びついているのか、ひょっとしたらそれは私たちを一定方向に強く誘導しているだけなのではと思わざるをえません。

私の考えはオリンピックにせよ学力テストにせよ、「客観的評価」とは第一義に権力の生成と管理のために行われているものであり、私たちの暮らしを豊かにし、私たちを幸せにすることを最大の目的にしているものではないというものです。英語教育でも評価研究はもっぱら科学的で客観的なものと考えられていますが、私は、評価研究は極めて権力的で政治的な色彩をもったものであり、多くの評価研究者はその権力性や政治性を自覚していないのではないか(あるいはそれらを直視することを拒んでいるのではないか)と思っています。

閑話休題

アレントは、異なる観点と視点をもった複数の人々が共に集っていること(公共的共存)の意義は、一つの物事が多数の観点と視点から観察され、なおかつその観察に基づき人々が語りあうことができることであると考えているようです。互いに通分できないかもしれない観点と視点があるからこそ、この世には完璧な秩序は到来せずいつもゴダゴダが絶えませんが、それだからこそ私たちは暴走せずにすんでいるのかもしれません。

こういった公共的共存は、「家庭生活」 ―おそらくは家父長制のイメージで語られた、一つの物の見方だけしか通用していない生活―にくらべるとあまりにも雑然としているように思われるかもしれません(とりわけ秩序を好むという意味で「保守的」な方々にとっては)。たしかに「この会社は一つの家族だ」、「この国は○○を父とする一家だ」といった比喩で集団を統制すれば、何もかもが整然となり物事は効率的に進むと思えるかもしれません。しかし、そういった生活は、一つの特定の観点と視点を拡大しているあるいは複写しているだけであり、その多様性の欠如により、物事が変化した時に対応できません。また、変化のない時でも、その集団内にいる人々のさまざまな個性(観点と視点)を抑圧していることでしょう。人間が人間らしく、複数の人々で共存してゆくためには、複数の人々の観点と視点を、そしてそれらに基づく語りあいを必要としているのです。



(3) 一つの主観にすぎない観点・視点が公共的にも重大なものと考えられることがあるかもしれないが、それが「現実」を構成することはない。「現実」は一つの対象がさまざまに異なるあり方で立ち現れることにより成立している。

・原文
Die Subjektivität des Privaten kann durch die Familie auβerordentlich intensiviert und multipliziert werden, sie kann so stark warden, daβ in ihr Gewicht sich auch im Öffentlichen fühlbar macht; aber dies Familien - »Welt« kann darum doch niemals die Wirklichkeit ersetzen, die aus seiner Gesamtsumme von Aspekten entstecht, die ein Gegenstand in seiner Identität einer Vielheit von Zuschauern darbietet. Nur wo Dinge, ohne ihre Identität zu verlieren, von Vielen in einer Vielfalt von Perspektiven erblickt werden, so daβ die um sie Versammelten wissen, daβ ein Selbes sich ihnen in äuβerster Verschiedenheit darbietet, kann weltliche Wirklichkeit eigentlich und zuverlässig in Erscheinung treten. (S. 72)

・拙訳
私的な主観性は、家族を通じて途方もなく強化され増大されうる。はなはだしい場合は、その私的主観性が公共的にも重要だと感じられることもありうる。しかしこの家族的な<世界>が現実の代わりとなることはない。現実は複数の観点の総計から生じている。複数の観点によって、一つの対象が、見る人によって異なるが同一であるものとして立ち現れる。多数の視点をもった多数の人々によって同じ物が見つめられても物の同一性が失われることなく、物の周りに集まった人々が、同じ物が非常に異なったように立ち現れるということを知る場合にのみ、世界の現実が本当に信頼おける現象となる。

・補説
ある一つの主観的な考え方に過ぎなかった考え方が全体主義的な風潮などと共に世間に蔓延し、その他の考え方が抑圧される時、私たちの多くは、その特定の考え方から見える視界を「世界」のすべてだと勘違いします。しかしそういった「世界」(というより世界観)がいかに制度的権力を得ようとも、それが現実の代わりとなることはありません。現実はそんな世界観が提供する「世界」よりもはるかに多様で複合的です。全体主義的で一元的な世界観は、現実の多様性と複合性に対応できずやがて破綻するということは歴史が教えていることだと思います。

現実は、ある意味で逆説的な関係から成り立っています。さまざまな人々が同一の対象を見ているのです。しかし、それにもかかわらず、同一の対象がさまざまに異なったものとして認識されるということ、あるいは同じことを逆に表現するなら、人々がさまざまに異なることを言いながらも人々が同じ対象を見続けているということ -- この逆説というか矛盾によってこそ私たちの現実が成り立っているのです。経験豊かな人が時に口にする「これが現実っていうものだよ」という述懐は、こういった現実を表現しているのではないでしょうか。ある特定の見解だけが全員に共有されている状態ではなく、多様な見解が存在する状態であってこそ、私たちはその状態に「現実」を感じるのかと思います。



(4) 私たちがある対象に対して実在性(リアリティ)を感じるのは、その対象の認識について私たちがある本性を共有しているからではなく、私たちがさまざまな視点や観点からその対象に関わっていることが明らかであるからだ。


・原文
   So ist Realität unter den Bedingungen einer gemeinsamen Welt nicht durch eine allen Menschen gemeinsame »Nature« garantiert, sondern ergibt sich vielmehr daraus, daβ ungeachtet aller Unterschiede der Position und der daraus resultierenden Vielfalt der Aspekte es doch offenkundig ist, daβ all mit demselben Gegenstand befaβt sind.
(S. 72)

・拙訳
  私たちが共有している世界という条件の下では、すべての人々に共有されている<本性>によって実在性が保証されているわけではない。むしろ実在性とは、すべての人々が取る位置の違いとそれらの位置から生じる観点の多数性にもかかわらず、誰もが同じ対象と関わっているのだというのが明らかであることから生じるのである。

・補説
ここではまず “gemeinsam Welt” をどう理解し翻訳するかについて迷いました(というより今でも迷っています)。まずは形容詞の “gemeinsam” ですが、ドイツ語に長けた方からは笑われるのを覚悟で愚直に学習者用独独辞書(上掲)の定義を見ますと、(1) zusammen, miteinander; (2) mehreren Personen oder Sachen in gleicher Weise (an)gehörend ←→ getrennt, verschieden とあります。英語でしたら、common, joint, shared, collectiveなどの訳語が与えられています。

この形容詞を使った “gemeinsam Welt” を森先生は「共通世界」と訳されています。しかし、最初に原文を参照することなく翻訳書を読んだ私は、この「共通世界」と「共通分母」の二つの「共通」は同じ語の翻訳だと思い込んでおり、これら二つの関連性について少々合点がいかない思いを抱いていました。ですが原文でチェックすると、それぞれ “gemeinsam Welt” “Generalnenner”で、形容詞は違います。後者は数学用語で「共通分母」という訳語が確定していますから、それとの違いを出すために前者は今回「私たちが共有している世界」(共有世界)と訳しました。

もちろん、訳し分けさえすればよいという問題ではなく、要は「私たちが共有している世界」あるいは「共有世界」ということばをどのように理解して使うかということの方が大切です。そこで “Realität unter den Bedingungen einer gemeinsamen Welt” という単位で考えてみますと、Bedingung ((1) eine Forderung, Voraussetzung, von deren Erfüllung etwas abhängt, (2) bestimmte Umstände, die j-n/etwas beeinflussen) (英語ならcondition という語が気になります。アレントのこのドイツ語での著書は、彼女が英語で出版した The Human Conditions(邦題は『人間の条件』)を彼女がもう一度ドイツ語で書き直した本です。その「条件」とは、私なりに説明するなら、「人間が人間であるために前提としなくてはならない条件」であり、その概念はこのドイツ語版の第一章の “Die menschlche Bedingtheit” でも説明されています。 “Bedingtheit” は抽象的な名詞であり、上述の “Bedingung” は具体的な条件を意味する名詞であることを考えると、ここでの「共有世界」も、人間が人間であるために前提としている条件の一つであると考えられます。「世界」という概念も、考え始めるととてもやっかいな概念ですがその詳細はここでは割愛するとして、世界を分かち合い共有して生きていかなければならないのが人間だというのは常識的にも理解しやすいと思います。ですから「共有世界」を、「私たちが共に集い人生の営みを繰り広げる場であり、私たちが共有している物理的空間」という意味で私は理解しています。

と、また翻訳に関する補注が長くなりましたが、そういった共有世界で私たちが実在性を感じるのは、人々がさまざまな見解を取りながらも明らかに同じ対象を見ていることを確信できている時であり、その時、必ずしもその対象に万人にとって同じに見える何らかの本質的特性(本性)があるわけではない、というのがアレントの主張です。私たちが同じ対象に関わりながら、あれこれとさまざまな認識を述べ合う時に、私たちは複数性において生きている人間として実在性を感じるというのは、日常的感覚で考えるとなるほどと思えるのではないでしょうか。

もちろんこの用法は、“Realität / reality”は、ラテン語の「レース」resつまり「事物」という語から来ていて、「事物的・対象的な現実、私たちが勝手に作りだしてり操作したりすることのできない既成の現実を指す場合に用いられるのが原義」という木村敏先生が説明する伝統的な用法(上述)とは少し異なりますが、自然科学的物理世界についてではなく、あくまでも、活動的・能動的に生きるということ (Vita activa) について書いたアレントにとっては、このように複数の人々が異なる見解をもちながら同一対象に関わり続けることこそに実在性、実在感、あるいはリアリティを感じているというのは私にはよくわかるような気がします。



(5) 一つの特定の視点・観点からしか物事が観察されない世界は、人間が人間として生きる世界ではなくなる。

以下の文章は、上掲の文章から少し離れての文章ですが、一連の論証のまとめになっていますので掲載しました。


・原文
Eine gemeinsame Welt verschwindet, wenn sie nur noch unter einem Aspekt gesehen wird; sie existiert überhaupt nur in der Vielfalt ihrer Perspektiven. (S. 73)


・拙訳
ある一つの共有世界が存在していても、もしそれがたった一つの観点でしか見られないようになったなら、それは共有世界としては消滅してしまう。そもそも共有世界が存在するのは、視点の多数性によってのみなのである。

・補説
ここでは「共有世界」に単数の不定冠詞が使われていることに着目しました。つまり「共有世界」とは、人間が共有している世界だとしても、人類全体によってあるいは生物種としてのヒトによって共有されている、定冠詞と共に表現されるべき唯一の世界ではないわけです。人々がさまざまに語りあいさまざまな行為でもって営んでゆくのが「共有世界」であり、それは共同体の数だけあると言っていいでしょう(もちろん、共同体はお互いに重なったりしていますから、共同体の数を正確に数え上げることはできませんが)。

そういった共有世界は、多数の視点・観点によって成立しているわけですから、もしそれがたとえば独裁的な人物(あるいは制度)によって、特定の一つの視点・観点からしか認識されないようになったら、そこには物理的な世界は残っているかもしれませんが、私たちが人間らしく生きるための条件としての共有世界ではなくなるわけです。アレントの言う共有世界とは、物理的世界のことではありません。人々が行為を積み重ねることで成立している世界、言い換えるなら現在進行形で生きている歴史をもった世界がアレントの共有世界かと思います。

ちょっとグロテスクな想像で考えてみましょう。学校の中の学級という複数の人間で構成される共同体では、毎日、さまざまな発言があり行為があり、それらがその学級の歴史を織りなしてゆきます。そこではたとえば宿題について、体育祭について、あるいは学校規則について、さまざまな見解があり、生徒も担任教師も発言を重ね行為を重ねます。暫定的で緩い合意は便宜的に生じるかもしれませんが、唯一無二で完全無欠の最終見解などは出ません。しかしそれこそが学級という共同体、あるいは共有世界だと思います。

ここからがグロテスクな想像です。近未来のある日、独裁的な手腕で学校教員や保護者を統括した首長が登場します。彼あるいは彼女は、全国学力テストの点数以外では何も誰も評価しません。それこそが科学的な教育改善であり教育管理だとその首長は言い張り、強権で異論を封殺します。全国学力テストの結果に反映されないことも教育の成果の一部であると教員が述べても「主観的で非科学的なことを言うな」と首長は恫喝します(あるいは首長のお抱え研究者(御用学者)が首長の代わりに恫喝します)。教員も生徒も保護者も恐怖でその制度を受け入れるとしましょう。

そうなったからといって別に校舎が消滅するわけでもありません。生徒や教師が消えるわけでもありません。物理的にはほとんど何の変化もないでしょう。しかし、そうなったら、以前の学級という共同体あるいは共有世界は完全に消滅してしまうでしょう。それは人間が人間らしく生きる世界ではなくなります。アレントの共有世界とは、このような独裁体制で消滅してしまう世界を意味していると私は理解しています。



まとめ

長くなりましたので、全体を短くまとめてみます。

近代の科学とそれに基づく技術の成果に魅惑され、資本主義的生活様式によってすべてを数直線上に並べることを当然のように思い始めた私たちは、真理や客観性といった概念に魅了されます。もちろん、人間が人間らしく生きることとは縁遠い対象世界においては真理や客観性といった概念は、それ相応の妥当性と実利性をもっています(それが科学技術の成果です)。

しかしこと人間が人間として人間らしく生きることに関しては、真理や客観性よりも、意味や現実を重視すべきです。

真理は、私たちの語りあいから隔絶したところにある概念(あるいは理念です)(もちろん、プラグマティズムに基づく真理観はこの限りではありませんが、そういったことにはここでは深入りしません)。私たちが語りあう毎日の営みからは真理は到来しませんが、意味は刻々と生まれてゆきます。人間に関する研究が、下手に自然科学を真似て真理を求め、その真理とは程遠い私たちの意味を「研究にならない」として葬り去ったら、それは非人間的な研究とは言えませんでしょうか。少なくともそれは、人間がより人間らしく生きるために貢献する研究ではないと思いますが、いかがでしょう。

客観性は、すべてを一本の数直線の上に並べられる、貨幣のような共通分母という唯一無二の視点・観点を認めることにより成立する概念です(もちろん、客観性にもプラグマティズム的な解釈を含めさまざまな見解がありますが、そういった議論もここでは割愛します)。なるほどそういった客観的な観点で人間の営みを数値化することもできるでしょう。それも一つの見方です。しかしもしそういった見方しか認めず、他の見方を「客観的でない」と否定するなら、それは人の世を人でなしの世にしようとする試みだと言えませんでしょうか。たとえば人々を年収の観点からしか見ずに、「私の年収は低いかもしれませんが、それでも幸せです」などと言う人がいようものなら、「客観的でないことを言うな!」とそういった見解を封殺する研究者がいたら、そんな研究者はたとえ「客観的」で「科学的」であったとしても、人間世界、つまり人間が人間らしく生きている世界の研究者とは言えないでしょう。

人間の営み(教育ももちろんその一つです)を研究するには、上に定義したような客観性にとらわれずに(別の言い方をすれば「客観主義」 (Objectivism) の教理にとらわれずに)、人間の現実を大切に丁寧に観察するべきでしょう。

その観察は多元的で複合的な記述となり、そこからは普遍的な因果法則による説明などは生まれません。しかしそれこそが現実です。そんな現実を否定し、客観的な真理を求めようとするのは倒錯です。しかし現在の私たちは近代の科学技術と資本主義にあまりに取り込まれてしまい、そういった倒錯を進歩であると思い込んでいないでしょうか。

人間の現実は、さまざまな人々がさまざまに異なる見解をもってある対象と関わり続ける過程あるいは歴史の中に感じられるものです。それは物理的対象とは異なる実在性(リアリティ)をもっています。

英語教育の改革を考えるため、少なくともそれについて研究するためにはこういった認識論的考察も必要だと私は考えます。










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