改めてみなさん、教英へようこそ!
(写真は学部合同オリエンテーションのものです)
学部ガイダンス挨拶
皆さん、教英へようこそ。
皆さんが当たり前のようにして通っていた小中高、そして多少の自覚をもって入学してきた大学、これらの学校は近代社会の賜物ですが、近代社会は学校を、国の経済力や軍事力の増強のために形成してきたというのは一つの歴史的な事実です。日本の英語教育というのはまさにその最先端を走ってきていて、現在も政治家や産業人の話題にのぼっていることは皆さんも重々承知のことと思います。
しかし、学校を経済や軍事などのためだけのものとして考えることを拒んできた人たちがいます。それらの人々は教師、そして教育学者と呼ばれます。
教師や教育学者の多くは、学校という制度を、人々の幸せという点からも考えます。いやもっぱらその点から考えようとしているのかもしれません。
人類史上、この数百年で広く認められるようになった考えの一つが人権概念です。お金持ちや、腕力をもった人だけでなく、どんな人でも、どこに生まれようが、どう育てられていようが、どう能力をもっていようがもっていなかろうが、どんな人も生命という点で対等であり、どんな人も尊重され幸福を追求する権利を有するという人権概念は、それまでの弱肉強食的な考えからすると文字通り革命的な思想でありました。
しかしその革命的思想も今や日本国憲法も含め多くの国が国是とし、世界的に共有され尊重される考えとなっています。
広島大学という大学も、教英という講座も、その世界史的な系譜に連なっています。
皆さん一人ひとりが幸せになってほしい。そしてその幸せを周りに分け与えてほしい。そのために広く、深く学んでほしいと私たちは願っています。
複雑な近代社会で幸せであること、あるいは他人を不幸にしないことは、実はそれほど簡単なことではありません。だからこそ広く深く学ぶ必要があります。
皆さんに幸せになってほしい。
だから、学んでほしい。
これが私からの歓迎のことばです。
四年間よろしくお願いします。
(写真は学部合同オリエンテーションのものです)
大学院ガイダンス挨拶
皆さん、大学院へようこそ。大学院では、「研究」と呼ばれる近代合理的な知性の追求を目指しています。私たち教員は皆さんの研究を徹底的に支援します。
しかしその際、研究とは何かについて予め了解しておく必要があるでしょう。
哲学者のカントの感性・知性・理性の区分で言えば、研究では、言語と外的対象とを結びつける知性の概念を主に扱い、言語化以前の感性の直感や究極の言語化である理性の理念は軽視しがちです。
深層心理学者のユングの枠組みで言えば、思考・感情・直観・感覚の四つの機能、外向・内向の二つ構えのうち、現在主流の研究は、外向つまり外界に向けた思考ばかりを扱い、人間の心の内の感情・直観・感覚の探究については怠りがちです。
つまり研究とは人間の営みの一部に過ぎないものにすぎません。しかし、それを徹底的に追求することで合理的な社会を作り上げてきたのが近代という試みです。
この特性を踏まえて申し上げたいことが二つあります。
一つは、皆さんが研究に邁進するあまり、一人の人間として、みずみずしい感性と、根源的な意味を問う理性、そして心の中の感情・直観・感覚などを忘れないでほしいということです。
論文を書くマシーンにならないでください。マシーンになれば論文は量産できるかもしれませんが、その論文がおよそ「ことばの教育」という人間的な営みを適切に解明しているものかどうかわかりません。また、マシーンになることにより皆さんの魂は深いところで損なわれるでしょう。どうぞ研究と研究以外の生活のバランスを大切にしてください。
もう一つは、近代からポスト近代 (postmodern) の歴史的な潮流の中で、どうぞことばの教育についての研究の刷新を図り、新しい人間研究のあり方を探る試みを共に行いましょうということです。
自然科学が発達するにつれ、人間の研究も自然科学と同じものでよいのだろうかという問いは少なくとも19世紀から生じていました。しかし20世紀後半の、現在私たちが「主流」と呼んでいる人間研究の多くは、自然科学の方法を表面的に真似ただけのもので、同業者以外の人々、実践者、私たちの場合でしたら言語教師の共感や納得を十分に得ていないと、私は他の多くの人々と共に考えています。
それこそマシーンとなって論文を量産するのでしたら、理性や感性の働きを忘れ、内界を無視し、そういった「主流」のフォーマットに対して無批判的に従う方が効率的でしょう。しかし研究者とて人間です。今、世界中の多くの研究者が、人間研究のあり方についての新たな地平を開拓しようとしています。もちろんこれは困難な道です。試行錯誤ばかりです。私自身、苦しんでいるところもあります。
しかし私たちはなぜ研究をするのでしょうか。もし研究の目的が、業績量産による権力獲得ではないとしたら、それは人間の幸福のためにあるのではないでしょうか。人間の幸福のためには人間をより広くより深く理解する研究が必要になるかと思います。それを目指す苦しみは、何事にも代えがたい深い喜びをもたらしてくれるかと思います。ですから、できれば、お互い失敗や挫折を繰り返しながらも、人間の幸福のためという研究を目指し、近代合理主義を全面否定することなく、うまく超克する世界史的な試みを共に行いませんかというのが、私の申し上げたかった二つ目のことです。
今日から共に研究しましょう。どうぞよろしくお願いします。
0 件のコメント:
コメントを投稿