2014年4月16日水曜日

教英新入生(26生)の教養ゼミ感想の一部(高校までの学びや英語を身につけることについてなど)



私は今年度の入学生(教英26)のチューターで、4月9日に第一回の教養ゼミでお話をしました。その授業ではこの記事の一番下に掲載した北川さんに関する記事の話をしたり、「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)」などと挑発したり(笑)、英語が「身につく」とはどういうことかなどについて話しました。さらに授業後の課題として同じく下の5つのサイトを読んだ上で、授業の感想をウェブシステム(Bb9)に書き込んでもらいました。以下はその一部(原文のまま)です。二文字のアルファベットはイニシャルです。この29名の新入生が大学時代に、かけがえのない深く広い学びをしてほしいと切に願っています。









MA


誰かのお話を聞いて、これほど引き付けられたのは初めてでした。また課題サイトを読んで考えさせられ、袋小路にはまってしまい、思いのほか考えがまとまりません。そこで、難しいことは後にして、まず高校生だったころの自分の環境や、勉強法を振り返ってみました。

 高校1年生の時の英語の授業は、教科書のパートごとに予習(ノートの左側に教科書の英文を写し、右側に日本語訳を 書くという、ごくごくありがちなものです)を課されていました。授業中は新出単語の発音確認、予習してきた日本語訳と文法事項の確認で終了。高校の英語の 授業を楽しみにしていた入学当初、少しがっかりしたのを覚えています。そんな中、私が見つけた唯一の暇つぶし(笑)が英和辞典でした。英和辞典が私に「学 び」の本当の意義を教えてくれました。「なんで?」のあとの「なるほど、そういうことか」「へえー。こんなのもあるんだ」これが私の口癖でした。ブログで 拝見しました、「集中的入出力訓練」、声に出して読みながら書くことを私も常日頃やっていました。前述したように独り言をぶつぶつ唱える私はきっと、クラ スの中でも変人だったと思います。(笑)英和辞典は今でも本当に大好きで、無人島に何か一つ持っていけるのならば、私は間違いなく英和辞典を持っていきま す。私は探求心の塊で、疑問に思ったことはとことん解決しないと気が済まず、辞書に載っていないようなことを英語の先生に聞きに行くという、本当に先生を 困らせる生徒でした。しかしそんな私の疑問に、真剣に向き合ってくれ、考えてくれた先生たちがたくさんいました。質問しやすい環境、言い換えれば、私の 「why」を受け入れ、生徒も教師も一緒になって学ぶ環境が私の周りにあったことに、本当に感謝しています。

 文法事項や単語の詰め込み教育という話題をあちらこちらで耳にしますが、私はそれらに賛成の立場をとらせていただ きます。アウトプットには必ずインプットが必要だと思うからです。柳瀬先生もおっしゃっているように、ある程度の強制力を持った訓練も必要だと考えます。 しかし詰め込むだけでは、教えられた通りにそのまま、という単純な思考回路しか持ち合わせていないため他のパターンには対応できない、柳瀬先生が定義され る「バカ」が生まれるのだと思います。ひっかけ問題を解く能力だけが養われているのではないか、とすこしゾッとしました。

 また今回のお話の中で、一番心に残った言葉は、「できないやつは教えるな」です。背筋がぴんっと張ると同時に、ま さにその通りだと感じました。日本の英語教育では、なぜ実践的な英語力が身につかないのか、カリキュラムの問題ももちろんあるとは思いますが、根本的に考 えてみました。英語教師が、実践的な英語力を身に付けていないからなのではないか、と思います。実践的な英語力を持たない英語教師から教わった生徒に、実 践的な英語力など身に付くはずがないのです。このことを肝に銘じて、将来生徒に英語を教えるという責任感を常に意識したいと思います。私はこれまで、なん でこんなことを勉強しないといけないのだろうと思ったことは一度もありません。勉強する意義は、自分がまだ会ったことのない誰かの役に立つためであると 思っています。生涯勉強です。大学生活はいろんな分野において充実させ、お金では買えない価値を見出したいです。長々と、とりとめのない文章ですがお許し ください。ありがとうございました。







NM


 勉強すればするほどバカになる。オープンキャンパスで聞いた衝撃的なことばでした。教養ゼミでもう一度出会い、やはりはっとします。実際に、今まで出会った先生方の中には、理論よりも方法論を教えてくださる先生もいらっしゃいました。テストや模試の成績など、数値的なものは確かに伸びました。しかし、なぜ、どうして、という私たち生徒の問いかけに対して耳を傾け、目を輝かせて教えてくださる先生方から得たものには到底及びません。英語に関して言えば、授業で取り扱った長文の内容にリンクした海外の文化や事情背景などを話してくださったり、文法についてネイティブの感覚や考え方について教えてくださったりした先生の授業は本当に興味深く、言葉を学ぶことの本当の楽しさを知りました。逆にいえば、目先のテストや受験にだけ焦点を当てた授業を受けて得点を得る方法を身につけただけで、実は何もわかっていないことはたくさんあった気がします。そういった学びは、教室を一歩出ると何の役にも立ちませんでした。だから、私は英語教育を変えるのです。英語教育をおもしろくしたいのです。

 柳瀬先生は「好きこそ物の上手なれ」の精神が大切だとおっしゃいます。確かにその通りだと思いました。何かを身につけるときに何の苦もなく習得できるなんてことはありません。しかし、楽しめるならば、勉強と自分との間に垣根を作らないでどんどんと関わっていくことができたならば、それが本当の学びなのではないかと思います。だから、ただ机についてひたすら問題集をこなすような学習ではなく、映画や動画サイト、Webなどから自ら学びとる方法を私も実践していこうと思います。私は将来教師になりたいと思っていますが、そのためにはまず自分が学ぶことに対して常にどん欲である必要があると考えます。なぜ、どうして、と問う姿勢を教師がなくしたら、生徒も知識があれば、または問題が解ければそれでいいと思うはずだからです。

 また、北川さんのお話を聞いて、北川さんは、自分がどのような人間であるかについての認識や自分が何をしたいのかという目的意識が非常にはっきりとしていると感じました。私は、自分自身がどうしたいのか自信を持って言えないことがあります。どうすればよいかは明確なのに、本当にそれを望んでいるのかはよく分からないことがあります。だから、常に自分自身と向き合い、自分を認め、しっかりと自己との対話を行っていかなければならないと思いました。

 そして、自分というもののコントロールについてのお話については、緊急性があり、社会一般で価値が高いと見なされることを、私たちは優先しがちであると再認識しました。私も高校時代は、課題や部活動にたくさん時間をかけましたが、興味がおもむくままの自主的な学びや、趣味にほとんど時間を割くことがありませんでした。いますべき重要なこととはなにか。行動の基準はそこだったように思います。第一回目の教養ゼミを受けて、今まで、優先順位を考えることで効率的にやっているつもりでも、どこか落ち着かなさや焦りを感じることも多かったように思います。北川さんの話にもありましたが、生活をコントロールしてベストの状態に保つことや、ストレスコントロールなど、自分の声に耳を傾けることは思った以上に重要なのだということがわかりました。それは甘えているとか、根性がないとかいったことではなく、人間らしく、自分らしくあるためには、荷物を降ろして休憩したり楽しんだりすることが必要なのだと思います。一見重要性が無いように思えても、長い目で見れば人生を豊かにするヒントがたくさんあると気づくことができてよかったです。いままで洋画や音楽に興味を持っても、時間がないからなどといって深く楽しむことはありませんでした。振り返ると、そんな風にして結局なにもできなかった私自身に悔しくなります。しかし、これからの4年間は時間があります。もちろん課題など、すべきことはしっかりとしますが、いかに楽しく回り道をするか、を大切にして、興味を持ったことはとことんやってみようと思います。







TK


教養ゼミで柳瀬先生のお話を聞かせていただいて、僕の疑問が勘違いではなかったのだと実感できたことが一番の収穫となりました。

僕は、現代の学校教育はオカシイと思っています。点を取ること、大学に入学することが目的となり、学ぶことがその手段にすぎなくなっているからです。大学入試センター試験で、そのことを強く実感しました。例えば社会科目です。僕は世界史と地理をとっていたので、センター試験もこの二つを使って受験しました。正直なところ、世界史は本当に苦手でした。しかし点を取らないといけないので必死に教科書を暗記しました。教科書を暗記しただけで、本番で八割とれました。本当に無意味で、価値のない時間でした。(断っておきますが、これは僕自身の勉強に対する感想であり、きちんと勉強をしてセンター試験に臨んだ人に対する批判ではありません)歴史の表面だけを「覚えれば」テストで点がとれるのですから。なぜ戦争が起こったのか、あの事件にはどんな意味があったのか、そんなこと知らなくてもセンター試験では点が取れます。しかし、その「そんなこと」が歴史を学ぶ上で一番面白いところなのではないでしょうか。僕自身は、受験シーズンはこのことに気づいていましたが、やはり点を取ることだけを考えていました。今となってはすごく後悔しています。

どうして現代の学校教育は以上のようなシステムなのか、高校二年生のころに先生が説明してくださいました。「多様な分野に触れることにより、将来の選択肢が増えるからだ。だから教科を絞って勉強してはいけない。」と。今だから言えますが、心の中では「何を言ってるんだこいつは?」と思っていました。「将来の選択肢が増える」ということは、その分野に興味を持ち、楽しさを覚えることが必要だと僕は思っています。しかし、こんな表面的で、中身の薄い学習で、どうやって楽しさを見つければいいのでしょうか。子供たちはどの分野にも興味をひかれず、むしろ将来の選択肢が狭くなっているのではないでしょうか。確かに、現代の子供には、僕自身も含めて、主体的に学ぼうとしない傾向があります。でもそれは、少なからず現代の教育制度にも問題があるはずです。

自分自身が教職の道を進むにあたって、今一度現代の現代の学校教育の問題を見つめなおすことができるゼミでした。







OA


 私が先日の教養ゼミを通じて改めて感じたことは、「Why?」の疑問を持ち、解決することを大切にしていきたいということです。私がそう感じるようになったのは教師を目指し始めたころからですが、そう感じるきっかけをくれたのも、教師を目指すきっかけをくれたのも、今までお世話になった先生方でした。

 私は、小学校二年生から高校一年生の春までずっと、保育士になりたいという夢を持っていました。中学校の間は英語がとても苦手でした。英語の授業は苦であり、出される課題は毎回辞書や参考書を机いっぱいに広げて泣きそうになりながらやっていました。だから、将来の進路の選択肢の中に「英語教師」は全く含まれていませんでした。英語が苦手だと感じていたとき、「Why?」の疑問が私の頭の中にたくさんありました。でも、中学1年のころ、ただ単語を覚えよう、ただ文法を覚えよう、としていたため、全く理解は深まらなかったのです。

 そんな私を救ってくれたのは、当時担任だった英語の先生でした。私の通っていた学校は、県に三校しかない、県立の併設型中高一貫校のひとつで、中学校から通っていた私は中学生のころから県の高校教師として働く先生方から授業を受けていました。当時の担任の先生も県の高校の教職員として働く先生でした。英語が大の苦手だった私に、昼休みを使って毎日be動詞の使い方から教えてくださいました。私は少しでも納得できなかったり理解できなかったりすると、すぐに「Why?」の質問を投げかけました。その先生は、予定通りに進まなかったとしても私の質問に丁寧に答えてくださいました。その先生との特訓の甲斐あって、中学校三年の4月の模試で今までにないくらいの成績をとることができ、そこから英語は私の得意科目となり、また、いつのまにか英語が大好きになっていました。

 そしてまた、高校に入って英語を教わるようになった先生も、「Why?」の疑問を大切にする先生でした。はたから見れば脱線と言えるのかもしれませんが、授業で取り扱う教材について、関連のあることをたくさん話してくださったり、「なぜこの考え方になるのか?」を詳しく教えてくださいました。毎日の授業が楽しみであり、英語に大きな興味を抱くようになりました。

この二人の先生のように、英語の楽しさを教えられる教師になりたいと思い、教師を目指し始めたのです。

 高校三年生のころは、受験に向けていわゆる「受験英語」をすることが大半で、私は心の中で違和感を感じながら机に向かっていました。「AだからAだ」と言っているようにしか感じられない説明を受けたことも多々ありました。受験に合格するためには必要なことかもしれません。でも、私はやっぱり「受験英語」は「学ぶ」こととは言えないと思います。私は教師になったら、私に英語の楽しさ、苦手なことでも「Why?」の疑問を問い続けることで理解できることの喜びを生徒に伝えられる教師でいたいと思います。





YA


まず、第一回目の教養ゼミを受けて。

私は去年のオープンキャンパスで柳瀬教授の話を聞いて、広大の教英で学びたいと思い試験を受けたのですが、課題を読んでいて「やっぱり来てよかった」と思いました。

私は中学の時から、学校教育の掲げる「良い子」を目指し勉強をしてきましたが、高校に入り学年が上がるに連れて「はめられた」というきがしてなりません。自分から入り込んでしまっただけなのかもしれないですが。「よく学び、よく遊べ」と書いてありましたが、本当にそれです。私の固い固い頭の中には「遊ぶ暇はない」でした(笑)「もっと遊べば良かった」という後悔が最近つのります・・・

「なんのために勉強するのでしょう?」

もし私がそう問われたら、正直言い訳しか思い浮かびません。

人は一人じゃ生きていけない。勉強はある意味一人でもできるけど、それじゃ生きていけない。

沢山遊ぶことで沢山人と触れ合う。そして色んな和ができて、人生が楽しくなる。それがベースとなって、その上に勉強があるのではないでしょうか?

ただ「遊ぶ」ことがベースになるのではなくて(笑)、柳瀬教授がおっしゃるように「表のカリキュラムと裏のカリキュラム」両方が大切なんだと私も思いました。

次に学校の授業について。

とりあえず決まったこと、勝手に断定されたことを覚えさせられるけど、どうしてそれを勉強しないといけないのか、そしてなぜそうなるのか、教えてくれる先生は少なかったように思う。

それにプラス「わからない=自分が頭悪いから」という感じで、質問せずどんどん悪循環になってしまう。

つまり、もしその人に意欲があったとしてもそれが無駄になってしまう、ということ。

だけど、その意欲はパワーになる、行動源になる貴重なエネルギーであり、それを失うのは非常にもったいない!

ただ決められたことを教え込むだけ、つまり自己満足で終わる教師にはなりたくないと思います。

私は、生徒の意欲を無駄にしたくない。そのために、生徒が「わからない」を積極的に出し、生徒同士で出し合える授業をしたい。

そして、その意欲を生かしてもらいたい。生徒が自ら動く力を後押ししたい。

と同時に、「自ら考える力」を養う手伝いをしたい。私のように、ただ「勉強をしなければならない」という観念に縛られないような、個人個人の考えを育む手伝いをしたい。

そして、自分も常に成長させていきたい。

そう感じました。もうすこし先の話ですが、、、

そして私自身も、「英語が好きだ」という自分の気持ちに正直でいよう、と思いました。「上手じゃなくても、得意じゃなくても、自分が好きならいいじゃないか!」というような言葉を柳瀬教授から聞いた時は涙が出そうでした・・・(泣)この言葉を励みにこれからやっていきます!!

最後に、英語を身に付けることについて。

高校の時は単語帳を必死に覚えました。使うかは別として。「言葉は体から出てくる」ということばを聞いて「まさにそうだ!」と思いました。

私は韓国ドラマが好きで(笑)、それから韓国語が好きになり、日本語字幕で韓国語を聞いたり韓国語のテキストを買ってCDを聞いて覚えたりまねをしたりするのにハマってました。

英語は、アメリカのドラマ「Victorious」(←であってたと思う・・・)にはまって、録画して同じ話を何回も英語でみてました(笑)単語帳よりはるかに面白かったです。もちろんベースは大切ですが、要は「生きた英語(言語)」に触れるということが、私達にとって一番楽しくてワクワクすることなのだと思います。とくに英語は「得意ではないけど(苦手だけど)好き」という人は多いと思います。(←私も)

そこから、その気持ちをバネにして得意になりたいです!!

あとは、NHKの「大人の基礎英語」や「ニュースで英会話」も受験生の時に見ていました。「大人の基礎英語」は友達が教えてくれて、見ているとハマってしまいまして(笑)

ガリガリただ勉強するよりは、全然楽しかったし身につきました。自分でノートを作ったらさらに楽しかったです。

と、いろいろと話がごちゃごちゃしてしまいましたが、言いたいことは、「教科としての英語」だけでなく、そこから「生きた英語」を楽しみたいし、生徒たちにも同じように楽しんでほしい、と感じました。






ON


 私は今まで、学校の小テストや定期テストのために、その場しのぎで行われる勉強に疑問を持っていました。徹夜で教科書やノートの丸暗記をし、テストが終わったらすべて忘れて再度覚えなおす、といった いわば「テストのための」勉強です。私はwhyを追及して物事を体系的に理解したいと思う性格なので、このような学習は絶対にしたくないと思いつつも、現在の受験に対応するためにそのような勉強法を半ば強いられる形で行ってきました。whyを追及しても受験では役に立たない、これは暗記科目だからwhyは存在しない、と開き直ってきました。

 しかし、柳瀬先生の「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない」という言葉を聞き、それだ!という衝撃を受けました。というのも、上述のような単語や要点だけを理解しようとする形式的かつ効率的な勉強法に疑問を持ちつつも、なぜそれが自分にとって納得がいかない疑問点なのか、深く考えることがありませんでした。また、それを考える余裕もなければ、考えたことを言葉でうまく表現できませんでした。

 ですが「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない」という言葉は私が心の中で思っていたことを簡潔に表しています。学校に行けば行くほど、つまり学校で受験用のwhatとhowを学習するほど、今後出会うであろう新しい問題に対処できなくなっていくということが自分でも分かっていたから、この勉強法に納得できなかったのだと思います。そのように私は解釈しました。

 以上のようなことから柳瀬先生の講義は、私の今までの学習を見直し、今後の大学での学習をいかに充実したものにするか考えるきっかけとなりました。

 私が教師になったら、whatやhowを伝える教師主体の授業ではなく、生徒主体の授業を行いたいと思います。「主体的」というのは漠然とした言葉ですがやはり大切です。なぜなら「主体的」に自ら考えて行動することでコミュニケーション力や積極性といった、今後社会で生きていくうえで必要な能力が育つからです。whatやhowだけ伝えれば確かに分かりやすい。しかし実際にその教授法が採られている学校は機械的な人間を生み出す温床となっているかもしれません。whatやhowを全否定するわけではなく、「whatやhow」と「why」のバランスが非常に難しいと思います。

 最後に、この文章を書く際にも、私は表現の仕方に苦労しましたし、読み返すとまとまりがなく分かりにくい点が残っています。自分の考えを上手く伝えるためにも、whyの追及が必要だったのかもしれません。これまでは、客観的に数値化された成績で自己を把握してきましたが、4年間の大学生活では自分の興味のある分野を追及し、単位にとらわれずに理想の教師像に近づいていきたいです。





MM


第1回目の教養ゼミを受けて、また課題サイトを読んで、私がこれまで行ってきた「学習」や「勉強」がどれだけ自分を「バカ」にしているのかを考えさせられました。例えば英語であれば、受験のために単語帳の4500語や(実際使う場面がわからなかった)例文たち等必死に覚えてきましたが、"why"を気にかけることなど一切なく"what""how"を、それこそ1秒を惜しんで頭に取り込んでいきました。これが「学習」であると信じて疑いませんでした。これらを実際に海外の方やALTに使ってみると思った以上に通じず、または話しかけられた時に全く相手の意図が理解できない(アップされていたTEDも8割方わかりませんでした。)など、様々な場面で自分の英語力の低さは痛感してはいましたが、「私達の授業用英語では仕方がない。」と心の中では諦めていました。しかし今回の講義でそれが「バカ」という状態なんだと気づきました。

そこで惹かれたのが「映画を繰り返し見て?」の記事です。英語は好きだけど、今まではどちらかというと受け身の状態で英語を習得してきたため単語も文も機械的に記号的に理解していました。でもそのようにして覚えた英語たちは驚くほどのスピードで忘れることができるのに、幼い頃に見た大好きな映画「SPEED RACER」の"Race's changing us."という台詞はずっと記憶の中に留まっているし(この台詞はかなりゆっくり読まれたので。)、"Go!Speed,go!"というフレーズも、使われたシーンもほぼ完璧に覚えています。TVで見るとき何度もこの台詞を画面の前で言いました。当時の私が意味をきちんと理解していたかはわからないけれど、これが英語を心身に染みとおらせることで、「好きこそものの?」の効果は絶大なんだと思いました。これからは、最初は英語音声・日本語字幕になるだろうけど、洋画を進んで繰り返し見て、また好きな洋楽を何回もリピートして、楽しみながらで英語を心身に付けたいと思います。

私は将来高校の英語教諭になりたいと考えています。そのためには今の「バカ」状態を脱し、"why"を確実に学ばなければいけません。これまでそういった習慣がなかったのでかなりの時間を要するかもしれないし、時代は物事に対する最短経路・最小労力・結果を求めているかもしれません。ですが、未来の教え子たちを私の善意によって「バカ」にしないために、これ以上善意による「バカ」を増やさないように、英語への私自身がもつ興味や英語自身がもつ素晴らしさを体現できる教師を目指したいです。そのために、これからの授業は自分の感性と感情を最大限引っ張りだして取り組んでいきたいと思います。






OA

北川さんについての話はどれも印象的でしたが、一番印象に残ったのは、大学で教え始めた頃の話でした。北川さんの、自信がにじみ出ないことを、自身の私生活を充実させることで教授として成功しようという発想に驚きました。一見それらは関係のないことのように思われたけれど、今までに出会った先生方のことを思い浮かべてみたところ、納得しました。

 例えば、休日はいつもヨットに乗るのが楽しみで、時間があればネット上で国内外の人と囲碁を打つという高校時代の数学の先生は、授業中もなんだかいきいきしていて、私もこの先生のように充実した生活を送る社会人になれたらいいなあ、と思いながら、好感を持って授業を受けていました。  

 話がかわりますが、最短距離を追求する、受験勉強によく見られる傾向には、常に疑問を抱いていました。今回の柳瀬先生のお話を聞いて、この感覚が悪いものではなかったと思えました。  

 小学校の時は、クラスに中学受験を予定して塾に通う人が多数いました。その人たちから聞く、塾で習ったことというのは、今回柳瀬先生がお話された「whatやhowのみ」のものでした。高校生の頃に一度だけ受けてみた塾の授業もそうでした。  私は、それとは違う、「why」を追い求める授業や勉強が好きでした。そして、授業中に友人の意見をいくつか聞いて、同じようにwhyを求めて勉強を楽しむ人が近くにいることがわかり、うれしく思いました。

 また、ひたすら合格のためのwhatとhowを伝える授業は確かに効率的ではありますが、このような授業の継続は、先生のおっしゃるような「バカになる」のみならず、そもそも、実用的な知識を欠いたまま資格を習得しても、その資格を運用できるのか、という疑問を抱きました。あくまできっかけにすぎない資格でも構いませんが、受験者がどこかでその自覚を持っていなければならないと考えました。

課題サイトからの引用:試験とは、新しい職場や大学などでの現場で、どんな状況にでもそれなりに対応できる人を選ぶためのものではなかったのか。


 私もそう考えた時期がありましたが、試験に備えて計画的に勉強や準備ができたか、という点も試験は問うのだろうと今は考えています。ただし、「創造的で探求的な人間」であることができるかどうかを問う面が試験に設けられなければおっしゃる通り、教えられたwhatとhowを淡々と覚えた人間しか選ばれなくなると思います。

 教員を志す者として述べても良いのならどこかでhowを問う喜びのような、あるいは新しい知識を得るだけの喜びでも良い、学習そのものの楽しみを自分自身が感じ、生徒に伝えられるような教員になりたいと思います。

 課題サイト2を読んで考えたことなのですが、今までの自身の英語学習を振り返る中で、はっきり言えることが一つあります。単語帳は苦手だし、ものすごく嫌いでした。ちっとも覚えられないし、覚えたところでコロケーションが分からず、一部の名詞しか実際の会話では活用できませんでした。

 このサイトを読んで、それは、ことばが本来つながるはずの心やからだや場から無理矢理切り離していたからだとわかりました。だから、映画を繰り返し見て自然な英語を身につけようという先生のご提案に納得しました。中でも、日本語音声で英語字幕を活用しながら映画を見るという方法は思いつきませんでした。まずは、以前に映画館で見たことのある洋画や興味のある洋画で、是非やってみたいと思います。あるいは、以前から関心の強い音楽関係の洋画なら、専門用語でも分かるようなものがありそうなので、そのような分野の洋画から始めたいです。





TY


 私は今回の話を聞いて、アメリカから帰ってきた時のことを思い出しました。日本に帰ってきて再び日本の授業を受けたとき、自分たち生徒はロボットかと思いました。全員が同じように椅子に座り、先生の話を聞いて、ノートをとる。そして試験に向けて暗記をする。正直つまらなかったし、何も心に残りませんでした。アメリカに留学する前はこれが普通だったのだと思うと、すごく複雑な気持ちになりました。日本の”受け身”の授業と違って、アメリカでは生徒が主体となった授業がほとんどでした。授業の話題について、自分が疑問に思ったことや意見をクラスメートや先生と語り合う。知識をただ詰め込む授業よりも何倍も分かりやすかったし、もっと知りたいと思えました。知識を詰め込むことも大事だと思いますが、あることについて自分で考え、意見を持ち、それを自分以外の相手に発信することはもっと大事なのではないかと私は思います。

 答えのない問題が山のようにあり、これからも増えていくであろうこの時代に、学校でひたすら答えのある問題だけを解くというのは矛盾していると思います。社会に必要とされている人材を育成できるような教師になるために、これから大学で4年間教育について深く学びたいです。






SN


 WhatとHowだけでなく、Whyを問う大切さ・・・

これを心に留めている中・高の教師は、いったいどれほどいるのだろうかと今回の教養ゼミを通して自分の中高時代を思い返しました。

 私は昔から疑問に思ったことを追求しないと気がすまない人間で、友達からは「そんな細かいことまで気にせんでも」といつも呆れられていました。しかし私は、そのWhyと一つ一つ真剣に向き合って自分の納得いく結論に導く作業が、学習の一番の醍醐味ではないかと思っています。その知的好奇心を持てば、どんなことも楽しく感じるし、理解も自然に深まると思います。

 しかし、実際の教育現場では効率性のために、その生徒のWhyに応えてくれないこともよくあります。例えば私は化学ではモルの概念、数学ではベクトルの概念がどうしてもすぐに理解出来なくてたくさんの先生方に質問に行きました。もちろん一生懸命説明しようとしてくださった方もいらっしゃいましたが、最終的には「とにかくこれで覚えなさい」と言われ、心のモヤモヤが取れないままになってしまいました。そういうものも結局は勉強していくうちに自分自身で納得のいく結論を出せたりしますし、真剣に向き合うだけも意義はあります。けれど最初になぜ?と思ったときにWhatとHowしか教えられなかったら、そのとき生まれたせっかくの知的好奇心の芽は教師によって摘まれてしまっているのではないでしょうか。せっかく質問をしに行っても、答えもなくただ覚えろとだけでは、普通生徒は傷つきますし、やる気もそがれます。きっとこの状況は教師も生徒も気づかぬまま広がっていて、これが柳瀬教授のおっしゃる「学校に行けば行くほどバカになるかもしれない」ということだと思います。この負のサイクルはどうにかならないのか・・と質問に行くのが怖いという友達と話す度に思ったものです。

 また、高校時代私の周りには英語が分からない、出来ないという人が大勢いました。しかし話してみると、その人たちには他の人が目をつけないとても鋭い質問があったりするものです。私は、彼女たちは英語が出来ないのではなく、そのWhyに応えてくれる人が側におらず、疑問への対処の仕方が分からなかったのではないかと思います。受け身ではなく積極的に動くことも大事なので一概にそうとは言えませんが、Whyを持ち解決していく重要性を教師が生徒にちゃんと伝えなければそのような状況はこれからも続いてしまいます。ですから私は、些細なことでも生徒がWhyと思うことは真摯に受け止めて一緒に考え、学ぶ楽しさを伝えることで、様々な分野でもそうやって学んでいけるよう指導出来る教師になりたいと強く思います。





授業で言及したサイト:北川智子 (2013) 『世界基準で夢をかなえる 私の勉強法』 幻冬舎
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013_4.html
課題サイト1:学校に行けば行くほどバカになるかもしれない(試験には受かるかもしれないけど)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/08/blog-post_27.html
課題サイト2:映画を繰り返して見て、ついでに英語を身につけよう
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_09.html
課題サイト3:ウェブで英語を自学自習し、豊かな文化社会を創り上げよう!
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/05/blog-post_31.html
課題サイト4:広大教英生がお薦めする英語動画集
http://kyoeivideoselection.blogspot.jp/
課題サイト5:英語専攻生はTOEFL ITPを受けよう
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/toefl-itp.html








4 件のコメント:

さちこ さんのコメント...

はじめまして。
先日、インターネットを見ていて、こちらのサイトを見つけました。
リンク先など軽くですが拝見しました。
また時々、見せていただきたく思います。
それだけなのですが、このコメントをどこに残そうか、大したことでもないので何もしないでおこうか(この記事のコメントとしては場違いと思いつつ、一番身近?な音楽ブログに書き込むのも間が抜けているような気がしまして)と思いましたが、ここに記載させていただきます。
失礼しました。

柳瀬陽介 さんのコメント...

さちこ様、
コメントをありがとうございます。
適当に見てやってください。
それにしても音楽ブログとは「音感」のことでしょうか。
実はそのブログは私自身がURLを失念してしまって長年アクセスできないでいます(汗)。
もし「音感」のURLをご存知でしたら、この欄でも結構ですからご教示ください。
2014/04/17
柳瀬陽介

さちこ さんのコメント...

早速の返信ありがとうございます。
はい「音感」です。

ここ↓
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/index.html

を拝見して


ここ↓
http://yosukeyanase-music.cocolog-nifty.com/

です。

柳瀬陽介 さんのコメント...

あ、ほんとだ。
このブログまだ生きていたんだ・・・
ありがとうございました!