2012年10月1日月曜日

私は言語に生き、言語は私に生きる





この記事は「メディア・リテラシーについて」の続きです。


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「独立数学者」の森田真生先生(@orionis23)の「この日の学校」は圧倒的に面白かった。私などが断片的に理解していたことがつながり、さらにそのつながりが、私がぼんやりとしか考えていなかったことを刺激し、次々に私の中でも思考が喚起された。以下は、その時に私が考えたことの一つである。以下に含まれる誤りはすべて私によるものである。

日本が誇る数学者の岡潔は、「数学とは正しいか正しくないかではなく、心が安定するかしないかである」と言ったそうだ(私のノートに基づく記述ですので、間違いがありましたらひらにご容赦を。ご指摘いただければすぐに訂正します)。

優れた数学者が例えばある証明を完成させたと確信するのは、自らの心がその証明において非常に安定するからだと言う。「うん、これでいい。間違いない」といった安定した気持ちだろうか。最近、ABC予想を証明したと発表した望月新一教授も、論文を完成させた時に、大いなる心の安定を覚えたのだろう。

しかし一方、その証明の一部に誤りがあるのではないかという指摘も既にされているという。もしその指摘通りに証明に誤りがあるのだとしたら、望月教授が感じたに違いない(と私たちが今推定している)心の安定は何だったのだろうか。それは恣意的な感覚に過ぎなかったのだろうか ―― これが私が森田先生にした質問だった。

森田先生は、それに答えて、まずは自身の数学科時代の体験を語った。学生時代の森田氏が、ある数学の問題について答えを出すと、教授は間髪入れず「違う」と言ったそうだ。しかしその教授も、それがなぜ違うのかを説明する段になると、しばし時間をとって考えたり計算をしたりしなければならなかったという。そして時間をとってみると、やはり森田氏よりも教授の方が正しかった。森田氏が感じた心の安定よりも、教授が感じた心の不安定―森田氏の誤答を見て直ちに覚えた心の不安定―の方が正しかった。言い換えれば、教授の心の方が、森田氏の心よりも、数学的に優れていたのである。

だがもちろん森田氏もその間違いから学ぶ。正解を知り、そこに、以前の自身の答えに覚えていた心の安定よりも、深く広い安定を感じる。かくして、森田氏の心は数学的に耕され、森田氏はより数学を深めてゆく。

森田氏、いや数学徒は、このようにして心の中に数学を育てているのであろう。いや、心を(少なくとも心の一部を)数学と一体化させると言うべきであろうか。

「心は身体である」 (<人間の心は人間の身体の観念である>) (『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』33ページ) "the human mind is the idea of the human body"  (Looking for Spinoza: Joy, Sorrow, and the Feeling Brain, p.12) というスピノザ、そしてダマシオの考えに準ずるなら、心の中に数学を育てる、あるいは心を数学と一体化させるとは、数学を身体化すること(embodiment)と言うことができるだろう。








若き数学科の学生は、数学を身体化しようと日夜数学に励む。だんだんと学生が心に --ということは身体に-- 感じる安定は鋭敏かつ的確なものになってゆく。学生は次第に一流の数学者に並ぶぐらいの数学的な心身を獲得する。

そして数学徒から数学者になった彼は、やがて新しい発見を数学界にもたらすかもしれない。議論のために、彼が大数学者になったとしよう。彼の次々の発見で、数学はさらに豊かなものになる。こうなると、彼の心身と数学は共進化しているとすら言えるかもしれない。

共生と言うことも可能であろうか。彼は数学なしでは生きてはいけない。数学がなければ、彼は生きがいを失い、病さえ得てしまうかもしれない。他方、数学も、彼を必要としている。彼がいなければ数学は活力を失ってしまうかもしれない。

この喩えが荒唐無稽に思えるなら、特定個人ではなく、地球上の数学者・数学徒・数学愛好者全員を想像してほしい。数学者らは、数学なしでは生きてゆけない。他方、数学の方としても、地球上の数学者らがある日すべて死に絶えてしまったとしたら(そしてその後二度と地球上に数学に興味を示す者が現れなかったとしたら)、数学は死に絶えてしまうかもしれない。数学者らと数学は共生関係にあり、数学者らが豊かな人生を送れば数学も発達し、数学が発達すればより多くの人間が数学者らになり、と両者は(互恵的に)共進化すると言えないだろうか。

数学者は数学に生き、数学は数学者に生きる。



今度は言語のことを考えよう。第一言語にせよ、第二言語にせよ、それを習得しようとする人間にとって、言語は不如意な形式である。周りから聞こえてくる言語にも、自らが発する言語にも、言語習得途上の者はあまり心の安定を覚えることがない。だが言語使用を重ねるにつれ、彼女の心身は、既にその言語を習得使用している人間の心身と同じように動くようになる。彼女の心身も、他の言語使用者の心身が安定する時に同じように安定するようになる。彼女の心身は、文法文に接する時には安定しているが、非文法文に接すると不安定になる。美しい文章を読めば豊かに安定するし、悪文を読めばぐらぐらと不快なぐらいに不安定になる。彼女は、言語的な心身を獲得したのだ。ここでの言語習得とは、言語的な心身の獲得である。

そんな彼女はやがて豊かな言語使用者になる。議論のために偉大な作家になったとしよう。彼女にとって豊かな言語使用はもはや生きることの本質ですらある。彼女が次々に生み出す言語は、その言語の可能性を拡げる。彼女抜きに、その言語は語れないと評されるようになったと仮定しよう。彼女は言語と共生し、共進化している。

これも荒唐無稽だと言うなら、集団を考えてほしい。言語はその命を保ち、発展するために、言語使用者を必要としている。言語使用者も、その人生を豊かなものにするためにはその言語を必要とする。言語使用者が豊かな人生を送れば、それだけ言語が発展する。言語が発展すれば、より多くの人間がその言語にひきつけられ、さらにその言語を豊かに発展させる。

言語使用者は言語に生き、言語は言語使用者に生きる。



今度は武術について考えよう。武術の型は、修練者にとって当初は不自然なものである。型に即した動きをしようとすれば、文字通り心身は不安定になる。だがやがて稽古を積むにつれ、彼の心身は、型に即した時にぴたりと安定するようになる。型から、つまりは術理から外れた動きをしたら、かれは不快感を直ちに覚え、彼は型・術理に即した動きに戻る。彼は武術の心身を獲得したのだ。

彼のような武術家が多くいてこそ、その武術は生命を得る。もしその武術の武術家が何らかのはずみで全滅したならば、その武術は死に絶える。武術家は、武術を究めることに生きがいを感じる。かくして武術はその可能性を広げ深める。そうして豊かになった武術は、より多くの人間をその武術に集める。ここでも武術家と武術は共生し共進化している。

武術家は武術に生き、武術は武術家に生きる。



ここで一般化を試みよう。

数学も、言語も、武術も、人と人の「間にあるもの」であり、物理的に表現される限りにおいて「力や効果を伝達する物質的存在」ともいえる。さらに三者は、それぞれの形での「コミュニケーションための経路あるいはシステム」あるいは「表現様式」である。これらは数学者・言語使用者・武術家が「機能し活躍するための条件や環境」でもある。

となれば、数学、言語、武術もメディアだと言える。以下、この三つ(およびその他の類例を)媒体と称することにする。


そうすると、次のように一般的に言えまいか。


人は媒体に生き、媒体に人は生きる。



もっと自分に即して言えば、こうなる。


私は媒体に生き、媒体は私に生きる。



音楽家は音楽という媒体に生き、音楽という媒体は音楽家に生きる。

画家は絵画という媒体に生き、絵画は画家に生きる。

例はいくつも足すことができるだろう。また、人は一つの媒体に生きるだけでなく、無論複数の媒体に生きている。「ある個人は複数の媒体に生き、ある媒体は複数の人間に生きる」と言えるだろう。

数ある媒体の中でも、もっとも広く使われているのが言語であろう。だから次のように強調したい。


人間は言語に生き、言語は人間に生きる。

人間と言語は共生し、共進化する。



「言語教育とは何か」という問いにはいくつもの答え方が可能だろうが、ここでは私は次のように答えたい。


言語教育とは、学習者にその言語的な心身を獲得させること。

そして、その言語的な心身が告げる安定感で、その言語共同体の中で豊かな生活ができるようにすること。

さらには、言語共同体成員が言語に生き、言語が言語共同体成員に生きる共生関係を豊かなものにし、両者の共進化を促進すること。



私は言語に生き、言語は私に生きる。





追記

この記事を書いた後で再掲されたのを知った森田先生の書評(『数覚とは何か?』 スタニスラス ドゥアンヌ著)を読んだら、次のようにありました。

本書の一貫した主張は、第4章の“numeration systems have evolved both through the brain and for the brain”(数システムは、「脳を通して」生み出されてきたと同時に、「脳のために」進化してきた)という一文に端的に表現されている。


上の私の「私は言語に生き、言語は私に生きる」の出処は、昔読んだこの一節と、先日の森田先生の講義です。この『数覚とは何か?―心が数を創り、操る仕組み』も買って読もう。









1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

タゴールはこう歌います。わたしたちはいつか知るだろう、魂が得たものを死が奪い取ることはできない、と。なぜならそれが得たものは魂そのものと一体なのであるから。
私はこう考えます。能力は潜在させることのできる性質であると。ある人間が数学を教えることができ、さらにピアノを弾けるというのは言い換えると人はあるときは炎であり、またある時は水であり、またある時は風であり、地であると。人間は自らの能力を潜在的にしたり顕在させることで自然に言わせれば別の性質を帯びた存在になることができる。人間は性質を変化させる第二の自然、精神存在である、と