2012年10月23日火曜日

モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房




アマゾンの書評などでも好評なこの本を、とある大型書店で手にとってみたら面白く、また上下に段組で24ページにわたる訳者解説が非常に啓発的で、もうその場でアンダーラインを引きたい衝動にかられましたので、やや高価な本でしたがその場で購入しました。その後読み進めたらやはり面白かった。これはきちんと理解したいと思い、原著のTime, Labor, and Social Domination: A Reinterpretation of Marx's Critical Theoryも購入し、翻訳でアンダーラインを引いた箇所およびその前後を原著で読みました(英語は平易です。翻訳の日本語も良訳だと思いますが、それ以上に英語は読みやすいです←なら、全部英語で読め!←すんません。時間がありません。 m(_ _)m )。

そのまとめは取り急ぎ私の英語ブログの記事(Moishe Postone (1993) Time, Labor, and Social Domination (Cambridge University Press))にしましたので、この日本語記事では、私の理解を思い切って自分なりに納得できる日本語にした上で、この本の主張を解釈してみます。下記の記事は、私の英語記事を基にしたもので、そこにある原著からの引用などを私なりに翻訳したものです(ですから下で示されるページ数は原著のページ数です)。私は自ら翻訳をすることにより理解をするのが好きなのでこのようなやり方で記事を書いています。私の翻訳は、自分にとってできるだけ納得ができる日本語を作り出すことにありますから、かなり「意訳」になっている箇所もあります。原著の信頼できる翻訳としてはこの『時間・労働・支配: マルクス理論の新地平』を参照して下さい。また、この記事では以前の「マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ」や、Marx's dialectics according to David Harveyで行ったまとめを基にしてますので、必要に応じてそれらの記事も参照していただければ幸いです。



■この本の概要

この本は、「伝統的マルクス主義」とは異なる作者なりのマルクス解釈を展開し、資本主義の生産体制が、私たちの思考や行動に根底的な影響を与えており、資本主義社会では歴史の主体が、人間というよりは資本 ―次から次に剰余価値を求め増殖する貨幣の運動―になっていると説きます。「伝統的マルクス主義」は、階級、私有、市場などの働きを重視し、労働者階級は資本家階級により支配され搾取されているとしますが、本書のマルクス解釈は、現代の社会的支配 (social domination)(注1)は、そのような支配ではなく、もっと抽象的 (abstract) ・無人格的 (impersonal) ・客体的 (objective) な支配だとするものです。



■哲学的意義

マルクスは「経済学」の批判を行いましたが、その批判は19世紀以降加速度的に専門化(あるいは分断化)された狭義の「経済学」の批判を越え、資本主義体制の近代のあり方を根底的に解明するものだったと考えるべきでしょう。この根底的解明は、私たちが当然視してまるで疑わない前提を明らかにするものです。この意味でマルクスの批判は、カントの批判と通底しますが、マルクスの場合、私たちの前提を、カントのように理性一般から生じるものとせず、近代の資本主義社会のあり方からくる歴史・社会的なものとしています。ですからカントがアプリオリな形而上学概念を認識論として分析したとすれば、マルクスはそれを社会的認識論として分析したと言えるかと思います。

このアプローチでは、カントが知識の超越論的アプリオリな条件として解釈していた構造化された知識以前のレベルが、社会的に構成されたものとして暗黙のうちに扱われている。この知識以前のものは、意識以前の意識の構造であり、社会的に形成されるものであるが、普遍的で超越論的アプリオリであるとも、いわゆる絶対知であるともされてはいない。この解釈によれば、認識論は、マルクスの理論では、根底的に社会的認識論となるのである。

this approach implicitly treats as socially constituted the level of structured preknowledge that Kant interprets as a transcendental a priori condition of knowledge. ... It grasps this preknowledge as a preconscious structure of consciousness which is socially formed, and neither posits it as a universal, transcendental a priori nor bases it on an assumed absolute knowledge. ... This interpretation suggests that epistemology becomes, in Marx's theory, radical as social epistemology. (pp. 218-219)




■「価値」

そのように資本主義社会によって形成された、私たちが日頃意識しない前提の重要な一つが「価値」(value/Wert)です。資本主義的な意味での価値 ―マルクスは『資本論』で、これをただたんに「価値」と呼び、時に「商品価値」(commodity value/Warenwert)と呼びます― の社会・歴史的特異性を理解するため、資本主義社会以外の社会での「価値」 ― これは17世紀の英語ではしばしば「真価」(worth)と呼ばれていました ― を検討することにしましょう。下の図は、マルクスが「単純・個別・偶然的な価値形態」と呼んだ価値概念での交換を私なりに図示したものです。




例えばあなたは自分の畑で野菜や米を育てているとしましょう。あなたは自然の力を借りて、自分の役に立つ労働(有用労働, useful labor, nützliche Arbeit、あるいは具体的労働, concrete labor) を行なっています。この労働もこの労働に費やされる時間も自分(および自分が大切にする人)のための時間と感じられます。これをここでは人格的時間 (personal time) と呼ぶことにします(注2)。あなたは自分の人格的時間を費やし、自然との協同による役に立つ労働で、豊かさ (注3)を生み出します。あなたはその自然との関係の中の労働時間で生み出された豊かさに「使えるという価値・使用価値」(use value, Gebrauch wert)を見出します(これは「真価」(worth)と言ってもいいかもしれません)。

あなたはやがてみずから生み出した豊かさを他人(あるいは他部族)に贈る(贈与する)かもしれません。贈与された方は、その感謝の印として(あるいはあなたと敵対的でない関係を築くために)贈与を返してくれるかもしれません。そういった相互贈与関係(互酬)で、資本主義が普及浸透する以前の社会の人々は生きていたのかもしれません。(この意味で、つくり話でありますが、映画『ダンス・ウィズ・ウルブス』で描かれているエピソードは非常に例示的です)。







■もっぱら貨幣が価値を表現する媒体になる時

やがて交換関係が頻繁になり、交換が単純・個別・偶然的なものから、市場での一般的なものになると、貨幣 (money, Geld)が汎用の交換媒体として独占的な役割を果たすようになります。あなたが何か欲しい物を手に入れるために、あなたは自らが作り出した「豊かさ」を「商品」 (commodity, Ware) として市場に出し(例えば野菜「商品1」)、それを売ることで貨幣を手にします。その貨幣であなたは欲しい物(例えば魚「商品2」)を購入します。その交換関係は次のとおりです。

商品1 - 貨幣 - 商品2


ここで大切なのは、商品1と商品2は本来まったく質の異なるものであり、それぞれの生産者がそれぞれの時間で作り出したものなのですが、貨幣という共通尺度が導入されたことで、貨幣が表現する価値の点で同じ価値(商品価値)をもつものとされることです。ここであなたが作り出した「豊かさ」は「商品」に転じます。

あなたが作り出した「豊かさ」(野菜)は、「具体的な豊かさ」 (material wealth) (注4)であり、「使えるという価値・使用価値」(use value, Gebrauch wert)をもっていました。しかしこれが「商品」となると、それは一定の貨幣量で交換され、その結果、他のあらゆる商品とも交換される存在になります。この意味で「商品」はもはや「使用価値」をもつ単なる「具体的な豊かさ」だけでなく、「交換のための価値・交換価値」(exchange value, Tauchwert)をももつ存在となります。使用価値の点についてもう少し詳しく言うと、生産者は自分が作り出す商品にはあまり使用価値を認めません(商品は通常自分では使えないぐらいの量で生産するものだからです)。商品の使用価値は購入者が認めるものであり、生産者は自らが作り出す商品の交換価値の方に注目します)。

さて具体的な豊かさ(モノ)を生み出した時間は、人格的時間でしたが、具体的な豊かさ(モノ)が商品になり、交換価値をももつようになり、さらにその交換価値は貨幣によって共通の尺度でその大小を測られるようになった以上、人格的時間も、交換価値に基いて別様の時間として測られるようになります。

交換価値に基いて測られる時間をマルクスは「社会的に決定される必要労働時間」(Socially necessary labour-time, Gesellschafaftlich notwendige Arbeitszeit)(注5)と呼びます。この「社会的に決定される必要労働時間」とは、ある商品を作り出すために、その時代にその社会で通常必要される標準的・平均的な時間です。もちろんある人や工場は、他の人や工場より少ない時間である商品を作り出すことができるでしょう。ある人や向上は遅くしか商品生産ができないでしょう。しかしその時代・社会に普及している技術や生産力も、おそらくは平均値を中心として正規分布(に近い形)で分布しているはずですから、ある商品を作るのに必要な労働時間を、その時代・社会の平均値で定めることは不合理なことではありません。

こうして商品に交換価値が生じ、貨幣価値で測られれ始めた以上、私たちは「社会的に決定される必要労働時間」の価値も想定できます。ある商品にある交換価値(貨幣量)が与えられた場合、そこから人間の労働力以外のコストを差し引いた残りの貨幣量が「社会的に決定される必要労働時間」の価値となります。もちろん、この場合、労働者は、その時代・社会で標準的と思われる範囲内の生産力をもち、またその範囲内の真面目さで働くことが前提とされています(ですから雇用者はしばしば「そんなに仕事ができないならクビだぞ」とか「給料分はきちんと働けよ」と労働者に言います)。このように、時代・社会で標準的と見なされている労働を、マルクスは「抽象化された労働」(human labour in the abstract, abstract menschliche Arbeit) (注6)と呼びます。

この抽象化された労働は、その時代・社会に普及しているテクノロジーによって可能になっています。こうしてテクノロジーと共に抽象化された形でなされる労働に費やされる時間をポストンにならって、「抽象的時間」(abstract time)と呼ぶことにしましょう。

今まで説明してきた、非-資本主義社会での概念・用語と、資本主義社会で優先される概念・用語を対比的にまとめると下のようになります。(誤解のないようにつけ加えておきますと、資本主義社会では、非-資本主義社会での概念・用語が死に絶えているわけではありません。資本主義社会では下の左項と右項目が弁証法的関係にあります)。




非-資本主義社会 - 資本主義社会

具体的な豊かさ - 商品

使用価値 - 交換価値、商品価値、価値

役にたつ労働、具体的労働 - 抽象化された労働

自然 - テクノロジー

人格的時間 - 抽象的時間




資本主義社会で私たちが「価値」と信じて疑わないものは、「社会的な標準」として社会的に決められた基準であり、同時に私たちはその社会的基準にしたがって、所定の抽象化された時間、期待されている抽象的労働を行うことで、資本主義社会に組み込まれているということです。

非-資本主義社会で、私たちは自然との生態学的な関係の中で具体的な豊かさを生み出します。自らの労働を役に立つ価値があると自ら実感し、自らの時間を自らの人格的なものと感じていたはずです。しかし(やや誇張した表現かもしれませんが)資本主義社会では、私たちは(時に身体の自然のリズムに反してまで)時代・社会のテクノロジーの要求にしたがって働き、もっぱら交換価値のためであり自分のための使用価値ではないの商品ばかりを生産します。資本主義社会では自らの労働を社会に定められた「抽象的労働」と感じざるを得ず、労働時間は、自ら決定できるものではなく、社会的に要求される抽象的なものとなります。自分の時間、そして自分がその時間でなしうることの価値が、自らの心身で直接に感じることができずに、抽象的な社会的基準で測られるのみという点で、資本主義社会の私たちは疎外されていると言えるかもしません。特に皮肉なのは、私たちの社会は全体で見るなら、私たちが暮らしてゆくだけに十分な具体的な豊かさを生み出す力があるのに、私たちが自らの人生をまごうことなき自分のものとして実感できていないことです。

ポストンは言います。(注7)

資本主義における豊かさの主要形態としての価値の決められ方は、具体的な豊かの決められ方とはずいぶん異なる。価値が特異なのは、確かにそれは豊かさの一形態ではあるものの、人間と自然の関係ではなく、労働によってつながれている人々の関係を直接的に表現しているからである。したがって、マルクスによるならば、価値の構成において、自然は直接には貢献していない。価値は、社会をつなげるものとして、(抽象的)労働によってのみ構成されいる。価値とは、歴史的に特有な資本主義での労働の社会的次元が、社会をつなぐ活動として、あるいは疎外された関係の「実質」として、客体化されたものである。そうなると、価値の大きさは、作られた生産物やその際に使われた自然の力の量を直接的に表現しているものではないことになる。価値の大きさとは、抽象的労働時間の単なる関数である。言い換えるなら、生産力が向上すれば具体的な豊かさは増大しても、単位時間あたりの価値が増大することはない。社会的関係の携帯でもある豊かさの一形態として、価値はこれまで人間が獲得してきた生産力を直接に表現しているわけではない。

The determinations of value, the dominant form of wealth in capitalism, are very different from those of material wealth. Value is peculiar in that, though a form of wealth, it does not express directly the relation of humans to nature but the relations among people as mediated by labor. Hence, according to Marx, nature does not enter directly into value's constitution at all. As a social mediation, value is constituted by (abstract) labor alone: it is an objectification of the historically specific social dimension of labor in capitalism as a socially mediating activity, as the "substance" of alienated relations. Its magnitude is, then, not a direct expression of the quantity of products created or of the power of natural forces harnessed; it is, rather, a function only of abstract labor time. In other words, although increased productivity does result in more material wealth, it does not result in more value per unit of time. As a form of wealth that is also a form of social relations, value does not express directly the acquired productive abilities of humanity. (p. 195)




■資本という主体

さてここで貨幣を価値形態とした交換関係の話に戻りましょう。大変に重要な変化が起こるのは、貨幣を自分の生活を満たす以上の量所有し、その貨幣を使って交換をしようとする人たち(=資本家)が登場する時です。資本家は、自分お金(「貨幣1」)を出してある商品 ―典型的には、自活手段を欠き、他人に雇用してもらって賃金をもらうしかない人々(=プロレタリアート)の労働力(「商品3)」― を買い、その労働力という商品で生産した生産物 ―少しややこしいけどこれも商品(「商品4」)です― を売ってお金(「貨幣2」)を得ます。この関係は以下のように図示できます。


貨幣1 - 商品3・商品4 - 貨幣2


ここでは貨幣の交換関係に注目したいので、「商品3・商品4」はまとめて「商品」と表記すると次のようになります。

貨幣1 - 商品 - 貨幣2


さてここで大切なのが貨幣1と貨幣2の関係です。先ほどの商品1と商品2は質的にまったく異なるものであり、本来は共通の尺度で量的に比較することができないものでした。商品1と商品2を等価とか等価でないとか判断するようになったのは貨幣が導入され普及してからです。現在の私たちも、純粋な気持ちから贈り物をした時に、相手がその贈り物の商品価格を調べて、その価格の商品券を送ってきたら、なんだか嫌な気持ちがすると思います。純粋な気持ちで贈り物をした場合は、そもそもその見返りを求めていませんが、見返りの贈り物を受け入れるにせよ、その人なりの気持がこもった贈り物をもらうことを求めると思います。もっとも汚れきった大人である私たちは、お歳暮・お中元をもっぱら(相手との権力関係を考慮した)計算によって交換していますが・・・(苦笑)。

ところが貨幣1と貨幣2は質的にはまったく同じものです。これは量的に表現できるだけです。モノの交換でしたら、自分が手に入れられないモノを、自分が潤沢にもっているモノと交換できて、それで自分が満足ならそれで終わりですが、資本家にとって貨幣1と貨幣2が同じ量なら、それは慈善事業に過ぎず、まったく意味がありません。資本家にとっては貨幣2は貨幣1より多額のものでなければなりません。言い換えるなら、貨幣2は、貨幣1に剰余価値 (surplus value, Mehrwert) が加わったものでなくてはなりません。剰余価値が加わった貨幣を簡単に「貨幣’」と表現すると、上の関係は下のように表現できます。



貨幣 - 商品 - 貨幣’


このように自己増殖することを定められたお金(貨幣)を資本 (capital, Kapitel)と呼びます。資本はどんどん展開し自己増殖してゆきます。それを図示したのが下の図です。(下の図では、英語表記に従い、Cが商品(commodity)を、Mがお金(貨幣)(money)を示しています)。






貨幣そして資本の量的で抽象的な性質は強調されるべきでしょう。貨幣が価値の一般的表現形態となり、かつその貨幣が資本として自己増加することが必須となった資本主義社会では、貨幣・資本の性質がそのまま社会つまりは私たちのあり方に浸透していると考えられます。過度の単純化を恐れつつも、非-資本主義社会と資本主義社会での私たちのあり方を対比すると、左項と右項がそれぞれの社会では優位な性質であるように思えます。




非-資本主義社会 - 資本主義社会

個人的 - 社会的

質的 - 量的

具体的 - 抽象的

個別的 - 標準的

感覚的 - 形式的

自然 - テクノロジー

生態学的 - 工学的

循環的 - 直線的





このような資本主義社会で、私たちは、暮らしに役立つ労働というよりは抽象的労働に従事し、自然に関わるよりもテクノロジーに依拠し、人格的というより抽象的な時間を過ごし、必ずしも具体的豊かさとは限らない商品を生産します。私たちが感じるのは、自分たちが生み出す具体的な豊かさが、暮らしのために役立つという価値というより、市場で交換価値をもつという(商品)価値です。言い換えるなら、私たちは非-資本主義社会から資本主義社会に自らの基盤を移すにつれ、下図の上の行の連関から、下の行の連関を主にするあり方を所与としていると言えましょう。


非-資本主義社会: 自然 - 役立つ労働 - 人格的時間 - 具体的な豊かさ - 使えるという価値

資本主義的社会: テクノロジー - 抽象的労働 - 抽象的時間 - 商品 - 貨幣との交換価値



さらにこの「テクノロジー - 抽象的労働 - 抽象的時間 - 商品 - 貨幣との交換価値」は、資本の自己増殖運動により、さらに強化されてゆきます。これらの関係を図示したのが下の図です。






■資本主義社会での「トレッドミル効果」

資本主義社会では、「テクノロジー - 抽象的労働 - 抽象的時間 - 商品 - 貨幣との交換価値」連関は、強化の一方向にしか進みません。これが「歴史の流れ」(a flow of history) あるいは「歴史的時間」(historical time) と思われてしまうのが資本主義社会の怖いところかとも思います。

さらにこの強化は、人間が労働から解放され、より多くの自由時間を満喫することを許しません。ほとんどすべての者が自ら自活する術をもたないプロレタリアートであり、残りの少数のほとんども資本主義競争に生き残ることを至上命題としている資本家である以上、私たちのほとんどは労働強化の流れに巻き込まれてしまいます。

資本主義競争に勝つため、企業は新しいテクノロジーを導入します。その企業が優位に立つのも束の間、テクノロジーは普及します。例えば誰もが今までの半分の時間である商品を生産できるようになったとしましょう。これまでと同じ時間働けば二倍の量の商品を生産できます。しかしそれを市場に出せば、(需要-供給の関係で考えてもいいのですが)それはこれまでの半分の抽象的労働時間しか必要としない商品、つまりは半分の交換価値しかない商品となり、生産者はこれまでの半分の貨幣しかもらえません。仮にこれまで通りの資本主義的購買生活を維持しようとすれば、生産者はこれまでの二倍働かなければなりません。つまりは、具体的な豊かさは二倍になっても、私たちの労働と時間の価値は同じ様に二倍になるどころか、半分になり、私たちはまたもや以前と同じ時間、しかし以前よりも高い生産性で働かなければなりません。神話的イメージで言えば「シーシュポスの岩」あるいは「賽の河原」でしょうか。







ポストンはこれを資本主義の「トレッドミル効果」 (treadmill effect) と呼びます。下に私なりに図示してみました。







■抽象的労働による人間の抽象的支配

かくして資本主義社会では、本来人間が暮らしてゆくためであった労働が、抽象労働・交換/商品価値・貨幣・資本に転化し、どんどん自己増殖して、人間そして自然を疎外してゆきます。ポストンは言います。(注8)



マルクスの [理論による資本主義社会での] 価値の決定および価値の創造過程が意味していることは、労働は、もともと労働の過程においては目的ある行為であり人間と自然の相互作用を制御し管理するものであったのに、[資本主義的] 価値創造の過程の中で、その目的から切り離されてしまったということである。労働力の行使の目的が、もはや労働の具体的性質との必然的なつながりによって限定されることがなくなっている。むしろ目的は、そうは見えないかもしれないが、行使される労働の質的性質とは関係なくなってしまっている ― [今や] 労働の目的とは、労働時間の客体化である。つまり、労働力の行使が、ある目的のための手段でなく、自分自身が目的である手段になってしまった。この目的は、まさに(抽象的)労働によって構成された疎外の構造によって与えられている。目的としてこれは一義的である。この目的は、[労働の多義性をもたらす] (具体的)労働の具体性から離れており、また社会の行為者の意思からも無関係に定位されている。

Marx's determinations of value and the process of its creation imply that labor, which in the labor process is defined as purposeful action that regulates and directs human interaction with nature, is separated from its purpose in the process of creating value. The goal of the expenditure of labor power no longer is bound intrinsically to the specific nature of that labor; rather, this goal, despite appearances, is independent of the qualitative character of the labor expended -- it is the objectification of labor time itself. That is to say, the expenditure of labor power is not a means to another end, but, as a means, has itself become an "end." This goal is given by the alienated structures constituted by (abstract) labor itself. As a goal, it is very singular; it is not only extrinsic to the specificity of (concrete) labor but also is posited independently of the social actors' will. (p. 281)




労働が、私たち自身のための行為というより、資本主義社会というつながり(あるいは束縛)を維持するための行動になっているように思えます。一人ひとりが思い思いに労働をして社会を形成しているのではなく、一人ひとりは資本主義労働の全体性の中の器官に過ぎないようです。もはや私たちは資本主義社会に取り込まれたのかもしれません。


労働が社会的関係をつなぎ構成する時、労働は個々人を支配する全体性の中心的要素となってしまう ― しかしながら、個々人は特定の個人によって支配されているわけではない。「このように労働が時間によって測られるなら、労働とは一人ひとり異なる主体の労働には見えない。いや逆に、異なる労働者が労働の単なる器官であるように見える」。
(中略)マルクスの分析によれば、個々人が抽象的で客体的な構造に包摂されてしまうことは、資本というカテゴリーを理解した上で把握される社会的形態がもつ一つの特徴である。

When labor mediates and constitutes social relations, it becomes the central element of a totality that dominates individuals -- who, nevertheless, are free from relations of personal domination: " Labour, which is thus measured by time, does not seem, indeed, to be the labour of different subjects, but on the contrary the different working individuals seem to be mere organs of the labour."
... Marx analyzes the subsumption of individuals under abstract objective structures as a feature of the social form grasped by the category of capital. (p. 192)



資本主義社会の支配とは、「客体的」なものです。

資本主義の定義の基本となっている社会的関係は「客体的」な性質ものであり、「システム」を構成している。なぜならば資本主義社会での社会的関係は、歴史的に特異な社会的つながりを生む活動としての労働によって構成されているのであり、この活動は抽象体として同質的であり、私たちの実践を客体化した形態だからである。

The social relations that fundamentally define capitalism are "objective" in character and constitute a "system," because they are constituted by labor as a historically specific socially mediating activity, that is, by an abstract, homogeneous, and objectifying form of practice. (p. 158)

ポストンはこうも言います。


このような抽象的で社会的な強制を最初に決定づけるのは、個々人が生き残るために商品を生産し交換しなければならないということである。この行使される強制は、例えば奴隷や農奴の労働のように直接の社会的支配関係ではない。これはむしろ「抽象的」で「客体的」な社会構造の関係であり、抽象的で無人格的な支配を表している。この強制は、究極のところでは、特定の個人や階級や機関によって基礎づけられているものではない。この支配の究極の中心は、社会的実践を固定的な形態にしてしまうことによって構成される、資本主義者の社会が、社会をあまねく構造化しようとする形態に求められる。

The initial determination of such abstract social compulsion is that individuals are compelled to produce and exchange commodities in order to survive. This compulsion exerted is not a function of direct social domination, as is the case, for example, with slave or serf labor; it is, rather a function of "abstract" and "objective" social structures, and represents a form of abstract, impersonal domination. Ultimately, this form of domination is not grounded in any person, class or institution; its ultimate locus is the pervasive structuring social forms of capitalist society that are constituted by determinate forms of social practice. (p. 159)




この資本主義支配の「抽象的」で「客体的」な性質が、もしかすると科学という抽象的な文化ととテクノロジーという客体的な文化を促進し、かつ、資本主義的活動を超えて私たちの暮らしや営みをも科学とテクノロジーで形式的に管理しようという現代の傾向を強化しているのかもしれません。


社会一般で、知識と実践が、科学的、技術的、組織的なモードに転換していくことは資本主義の発展と共に生じたことであるが、これは抽象的、同質的、量的な社会的次元によって定められ、それゆえに生産性と効率を高め続けるよう方向づけられた社会的背景によって歴史的に構成されたものである。労働の使用価値の次元のさまざまな側面が、価値によって与えられた目標に奉仕するように発展させられ利用されているだけでなく、使用価値のさまざまな側面は、この価値の枠組みを強化し再構成するような形で構造的に機能している。つまり資本の属性として機能しているのだ。したがって、価値次元による使用価値次元の横領と私が読んでいる現象は、価値次元から生じている一種の形式的合理性によって構造化されていると言える。この結果が、ウェーバーが私たちの生活のあらゆる領域で進行する(形式的)合理化と呼び、またホルクハイマーが世界の道具化という観点から発言した、近代生活の傾向である。この過程は労働と社会的生活の実質的次元をますます巻き込み、ポスト自由主義の生産と社会・政治的側面の制度の管理的合理化に結実しているだけに、ホルクハイマーは、この原因を労働そのものに求めた。しかしながら、この実質的進展の究極の基礎は、労働の具体的次元にあるのではなく、むしろ、価値の次元にある。

The socially general mode of scientific, technical, and organizational knowledge and practice that emerge in the course of capitalist development are constituted historically in a social context that is determined by an abstract, homogeneous, quantitative social dimension and, hence, is geared toward ongoing increases in productivity and efficiency. Not only are the various aspects of labor's use value dimension developed and utilized in order to serve the ends given by the value-determined framework, but they also function structurally to reinforce and reconstitute this framework -- that is, they function as attributes of capital. ...
What I have called the "appropriation" of the use value dimension by that of value thus can be seen as a process in which the use value dimension is structured by means of the sort of formal rationality whose source is the value dimension. The result is the tendency in modern life which Weber described in terms of the growing (formal) rationalization of all spheres of life, and which Horkheimer sought to articulate in terms of the growing instrumentalization of the world. Because this process increasingly involves the substantive dimension of labor and social life -- that is, the administrative rationalization of both production and the institutions of social and political life in postliberal capitalism -- Horkheimer located its source in labor per se. However, the ultimate ground of this substantive development is not the concrete dimension of labor but, rather, its value dimension. (p. 354)



■自然と人間のために、資本主義を制御する

このますます加速するようにすら見える資本主義の流れは、自然と人間を酷使することによって動力を得ています。資本主義は「高度な焼畑農業」("slash-and-burn agriculture on a 'higher' level", p. 383)とすら言えるでしょう。自然と人間がその生命力を著しく損なってしまう前に、私たちはこの資本主義の荒々しい動きを制御することを覚えなければなりません。資本主義を構成しているのが、私たちの労働であり時間である以上、私たちは資本主義のあり方に何らかの影響を与えることはできます。私たちはJohn Hollowayが言うように、"Crack Capitalism" ― 資本主義にひびを入れること ― を行うべきでしょう。それが資本主義社会の全廃といったユートピアの幻想を克服した21世紀の「革命」なのかもしれません。








(1)
翻訳書のタイトルは簡潔に『時間・労働・支配』となっていますが、原著のタイトルはTime, labor, and social dominationです。この本で"social"は、しばしば"abstract"で"objective"で"impersonal"であり、"personal"なあり方・関係を抑圧するという意味をもつことばとして使われています。ただし、"social" (あるいは"society") が常に否定的な含意で語られているわけではありませんが、

(2)
ポストンは、この時間を「抽象的時間」(abstract time) との対比から「具体的時間」(concrete time) と呼んでいます。しかし私にとって「具体的時間」ということばはどうもピンときません。ポストンおよびマルクスの言う「抽象的」とは、「資本主義的生産体制の構造によって定められ、個人や特定集団の力を超えた」といった意味だと私は理解していますので、その意味での「抽象的」 (abstract) の対句として「人格的」 (personal)ということばをもちいることにしました。(言うまでもありませんが、ここでの「人格的」には道徳的含意はありません)。


追記(2012/10/27)
上では "concrete time"という原語を"personal time"に変換して「人格的時間」としましたが、"concrete"の"pertaining to or concerned with realities or actual instances rather than abstractions; particular ( opposed to general)"の意味(Dictionary.com)を考えますと、特に原語を変えなくとも、そのまま"concrete time"を「個別的時間」と訳してもいいのかなとも思い始めましたことを付け加えておきます。


(3)
ここでの「豊かさ」は"wealth, Reichtum"の訳語として使っています。経済学では「富」が定訳になっているようですが、どうも私の感覚では「富」という日本語はしっくりこないため「豊かさ」としています。ですから私は『資本論』の冒頭の有名な一文も、「富」ということばを使わず、「資本主義的生産体制が支配的な社会では、社会の豊かさとは「商品が満ち溢れていること」であるように見える。これらの社会では一つひとつの商品が、社会の基礎的な形態であるように見える」と訳したく思っています。(参考:「マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ」)。

(4)
ここでは"material"の"being of a physical or worldly nature"の意味(Merriam-Webster)の意味を強調して、この語を「物質的」ではなく「具体的」と訳しました。

(5)
定訳は「社会的必要労働時間」ですが、ここでもわかりやすさを優先してあえて「社会的に決定される必要労働時間」と意訳しました。

(6)
定訳は「抽象的人間労働」です。なおポストンは、ほとんどの場合において"abstract labor"という表現を使っています。

(7)
私が翻訳に苦労するもう一つの表現は"to mediate"や"mediation"です。定訳は「媒介する」や「媒介・媒体」なのでしょうが、これでは今ひとつ腑に落ちないので、ここでは思い切って「つなぐ」や「つながり」としました。

(8)
ここの翻訳では、"purpose", "goal", "end"という本来訳し分けるべき語を、不本意ながらすべて「目的」と訳しています。私の理解では、"purpose"は人間の主体性が含意された表現、"goal"とは遥かかなたに望む表現(「目的」)、"end"とは文字通り終結点が明示されている表現(「目標」 ― 例えば「数値目標」のように)です。関連記事として、「現代社会における英語教育の人間形成について ― 社会哲学的考察」をお読みいただければ幸いです)。














4 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

訳者の野尻英一です。
図解も入れて深い読み込みをされていることに感嘆いたしました。
英語で論考をお書きになっているのも素晴らしいと思います。著者のポストン先生にお知らせしたいと思います。喜ぶと思います。

柳瀬陽介 さんのコメント...

野尻英一先生、

わざわざコメントをくださり、ありがとうございます。
翻訳者の先生にコメントをいただき大変光栄に思います。

『時間・労働・支配』の一読者としては、まずは翻訳をしていただいた
先生方にお礼を申し上げなければなりません。

翻訳がなければ私はあの大部の本を読みとおすことはできなかったと
思います。また、解説もすばらしいものでした。
この素晴らしい本を日本語読書界にもたらしてくださった
先生方には本当に感謝しています。

私はマルクスに関しては門外漢ですが、マルクスを理解するにつれ、
多くのことがわかってくるように思え、それが大きな驚きと喜びになっています。

さらにこのポストン先生の解釈により、マルクスの意義を再認識することが
できました。

私の英語記事は単なるまとめに過ぎませんが、もしポストン先生が、極東の地の
英語教育専攻の者も先生の本に感銘を受けたことを一興と思ってくださるのでしたら
光栄です。

野尻先生のますますのご活躍とご健康を心よりお祈り申し上げます。

2012/11/03
柳瀬陽介

Unknown さんのコメント...

柳瀬陽介先生

簡潔なコメントに丁寧なお返事をいただき、恐縮です。
先日、社会思想学会でポストンに関するセッションがあり、そこでも活発な議論がありました。私のレジュメをご参考までにお送りしたいと思います。
別途、メールアドレスに、ご連絡させていただきます。

野尻英一

柳瀬陽介 さんのコメント...

野尻英一先生
再度のコメントをありがとうございます。
社会思想学会での先生のレジュメをぜひ拝読させていただきたく思います。
私のメールアドレスは yosuke@hiroshima-u.ac.jp もしくは yosuke.yanase@gmail.com です。
先生のお申出に心から感謝します。
2012/11/07
柳瀬陽介