来週の月曜から始まる集中講義の補助ブログ記事をようやく書き終えることができました(なんという自転車操業だ 汗)。David Block (2003) The social Turn in Second Language Acquisition (Georgetown University Press)を読んで、もしそれでも時間が余ったら、この本の執筆の重要な契機となったはずのFirth and Wagnerの論文(1997,1998 および2007)を読もうという計画です。
David Block (2003)
"The Social Turn in Second Language Acquisition"
Three MLJ articles by
Firth and Wagner (1997, 1998, and 2007)
このThe social Turn in Second Language Acquisition の性格を一言でまとめるとしたら、122ページにある次の表現を借りるのがいいかもしれません。
... recent debate over the ontological and epistemological issues underlying different approaches to SLA - in a nutshell, the rationalist cognitive dominated approach versus the socially sensitive and engaged, postmodern approach (p. 122)
この本を読むと、この論争(debate)の意義は大いにあったことがよくわかります。この論争により、20年ぐらい前までは唯一真正なる研究方法と思われていた、個人心理学的発想(注1)に基づいた量的研究法の限界が今や明白になったからです。そして、その限界を補うための個人を超えた社会的側面を扱う研究、量的測定・数量化以外の記述を行う質的研究が必要であることが、現在では(対話さえ拒む一部の頑迷な研究者を除くならば)広く認められたからです。
ところが、日本では必ずしもそうではありません。質的研究を露骨に否定する人こそほとんどいなくなりましたが、質的研究を理解せずに量的研究のように認識して、結果的に質的研究を学会誌から排除してしまっているようなエピソードはまだ多く聞かれます。
さらに状況が悪いのは、社会的なアプローチの研究に対する無理解です。これに関しては、多くの英語教育研究者が存在すら認知していないのではないでしょうか(もちろん私はここで少数の良心的な研究者のことを例外として省いて話を進めています)。
このThe Social Turn in Second Language Acquisitionに取り上げられている、社会的権力関係も考慮した社会言語学的アプローチ、アイデンティティなどの価値意識も含めた語用論的アプローチなどは、少なくとも私がよく行く日本の英語教育学界ではあまり取り上げられません(唯一、ヴィゴツキー系のSociocultural Theoryはまあ時に見られるのですが)。
ですから、Pennycookらがまとめあげた批判的応用言語学 (Critical Applied Linguisitcs) にある政治的側面を捉えた英語教育研究はほとんど見られません。
Index to pages about
Critical Applied Linguistics
しかしひょっとしたら現在の日本において英語教育こそは、(英米に遅れる形で跋扈し始めた)新自由主義的風潮を正義の追い風として、資本主義的競争ばかりに邁進し、その風に乗るものは称賛するも、そこからはぐれる者は置き去りにする社会のあり方を拡大を潜在的に肯定しているのかもしれません。(現在の学校英語教育から、グローバル資本主義競争と、そこにつながる大学受験・資格試験を除いた時に、何か意義が残っているのでしょうか ―タテマエでなくホンネのところで)
あるいは「授業は英語で」を錦の御旗にして「指導要領に従えない者は学校を去れ」と息巻き、指導要領を操ることにより、あたかも教育界での立法・行政・司法のすべての権力を一手に掌握したような言説が聞こえてくる現状において、「英語教育学」の「学者」たる人間は ―もし御用学者あるいはその予備軍(wannabe)でなければ― 学校英語教育という現象を政治的な観点から考察してみることを試みなければならないのではないでしょうか。
しかし明治以来、日本のエリートに寄り添う形で発展してきた英語教育は、現状をひたすら肯定し、その枠組の中でどうやってゆくかばかりを考えてきたように思います。批判的な想像力を欠いていたのです。
いや、批判的な想像力を抑圧し忌避し、いかに現状の枠組で生徒そして教員を統治するかが「英語教育学」の仕事の一つであったようにすら思えます。(この意味で、指導要領を不問の与件とし、いかにそれを整合的に解釈して体制を維持しながら生徒と教員を管理(そしておそらくは支配)するかを目指しているような「英語教育学」とは、大げさに言えば現代の神学なのかなとすら思えてしまいます。もっとも神学ほどの精緻さや体系性はないのですがw)。
上記の引用にしても、それを読んで「『存在論』や『認識論』とか、『ポスト・モダン』なんてわけのわからない戯言はどうでもいいんです。それよりも誰にもわかる数字で結果を示す。これこそが説明責任です。違いますか!(キリッ)」と反応する人が多いだろうなと私は思ってしまいますwww。
話が大きくなりすぎそうなので、身近な話題に変えます。実際、The Social Turn in Second Language Acquisitionでは政治的な話題はほとんど出ていないので(注2)。
生徒の学びに寄り添うためには、5件法のアンケートを頻繁かつ大規模に行うだけでいいのでしょうか。生徒の家庭や教室での人間関係や自己意識、学校や地域が置かれた社会・経済的状況、そしてそういった状況を固定化(あるいは悪化)させている政治的状況を理解することはどうでしょうか。こういった個人心理学・量的方法にとどまらない社会的・質的アプローチも重要ではないでしょうか。
生徒が社会で英語を使えるようになるためには、マークシート方式で測定できる(信頼性の高い!)学力のことだけを考えていればいいのでしょうか。人が何をどのように語るかという言語使用と社会的諸関係の錯綜した関係を少しでも解明することも重要ではないでしょうか。そうして生徒が英語という外国語に対して"ownership"を感じ、自らの"agency"を自覚しながら、英語使用共同体に参加することを私たちは促進するべきではないでしょうか。
現状の問題意識では容易に言語化できない事象を考察するために、私たちは質的そして社会的な学術用語の使い方を、少しずつ(「学問をした馬鹿」のように暴走しないように注意しながら)学んでゆくべきではないでしょうか。そうしてこれまでの人類の社会科学的知見を消化して、日本の英語教育界を語る私たちのからだの血肉とした時に、私たちはよりよい社会を創り出すための力を得ませんでしょうか。
集中講義を通して、学生さんと一緒に考えてゆきたいと思います。
(注1)
「個人的心理学」については下記の記事をお読みください。
アレントによる根源的な「個人心理学」批判
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/03/blog-post.html
この世の中にとどまり、複数形で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/03/blog-post_24.html
(注2)
David Block氏は、政治的な側面を最新刊のNeoliberalism and Applied Linguisticsで語っているのかもしれません(私は未読です)。
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