2011年10月21日金曜日

オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ

今年は数年ぶりに学部一年生に英語の授業をしています。授業はライティングで、使っている教科書はStyleなのですが、英語を書く準備段階として、この教科書をきちんと理解しなければなりません。

最近の英語の授業では、「次の英文を読んで、あなたの考えを自由に(日本語で・英語で)述べてみよう」といったスタイルが多いのかもしれませんが(間違っていたら教えて下さい)、大学の授業で私はそのようなスタイルは取りません。少なくともテクスト読解の最初の段階ではそのような意見表明などはさせません。敢えてぞんざいな言葉で表現するなら「オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ」というのが私が最初に求めることです。

なぜなら大学の教科書というのは、学生さんが日常的・惰性的に考えているだけでは、思いもつかないし、気づくこともできないことを学生さんに告げるからです。そのような内容を伝えるテクストをいいかげんに読んで、「考えを自由に述べて」みたりしたら、たいていの場合、学生さんは自分の日常的・惰性的な思考に引きつけて、よく聞くような凡庸な事柄を延々と述べるだけだからです。そんなつまらないことをテクストは言っているわけではない。

今年のエイプリール・フール記事でも少し書きましたが、「下線部の英文を見て適当に思いつくことを述べなさい」のような発問では、学生の知的枠組みは壊れず、テクストが伝えようとしている新たな知識体系は学生の中に入ってゆきません。

ここは愚直なほどにテクストの言語に忠実に、一語一句ゆるがせにせず、文法と文字通りの意味に忠実に読み解きながら、そのテクストの比喩的な意味や行間の含意をも丁寧に拾い上げてゆかねばなりません。

あまり大げさな言い方をしてもいけませんが(そもそも上記の教科書はそんなに難しい内容を伝えているわけではありません)、きちんとしたテクストを読むときは我意を捨てて、虚心坦懐にテクストの言葉に耳を傾けなければなりません。あなたが理解したいことを適当に引き出すのではなく、テクストがあなたに理解させたいと願っていることを正確に探り当てなければなりません。そうして謙虚に理解の努力を重ねる時に聞こえてくる声が、テクストが伝えようとしてくれることであり、多くの場合それこそが私たちの因習的な思考を破壊し新たな可能性を教えてくれます。それが精読です。大学は精読を学び、ひいてはその精読を高速にこなすことができるだけの知的能力を身につける場所だと私は思っています。(くだらない文書の速読・多読などには、知的訓練は要りません。そんなことは慣れと経験だけでできるようになります)。

その精読の邪魔にしばしばなってしまうのが、おそらくは中高で教えられたと思われる機械的な英文和訳の習慣です(「英文和訳」「翻訳」「英文解釈」などの用語の使い分けについてはhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_26.htmlをお読みください)。

機械的な英文和訳は次の図のようにまとめることができます。




学習者は、英文を見るや否や、反射的に(電子)英和辞書をひいて、その中から適当に思える訳語を見つけます。そしてその訳語を適当に日本語の語順になるようにノートに書き付けます。これで機械的な英文和訳は終わりです。これで教師には予習をしたポーズを取ることができ、叱責や減点を免れることはできますが、知的理解はほとんど伴っていません(だから知的喜びや内発的動機づけなどもほとんど感じることがありません)。

もちろんこの機械的な英文和訳とて、上で私が批判した「下線部の英文を見て適当に思いつくことを述べなさい」などよりはテクストに忠実にあろうとしているのかもしれません。なにせ適当に考えを述べるだけでしたら、ちょっと目立つ単語を見つけては、そこから「よく聞く話」や「自分がたまたま知っていること」を連想して、それをペラペラと日本語(あるいは英語で)述べるだけですから、それは読解ではありません。

とはいえ機械的な英文和訳は作業に過ぎません。ほとんど考えることもなく、想像力を働かせることもなく、ただ「こなす」ことができる退屈な流れ作業です。しかし、少なからずの高校生がこの作業をすることを英語を学ぶことだと思わされているのは周知の通りです。


そういった機械的な英文和訳と全く異なるのが、忠実な英語読解に基づいた創造的日本語表現としての翻訳です。



学習者は、英文を文の流れにそって、文法と語義に忠実に読みます。「たぶんこんなことを言っているんじゃないか」といった推測ではなく、愚直なくらいに英語に即した忠実な理解を試みます。そうして英文が言おうとしていることを、頭の中で絵にします(具体的な絵にしにくい抽象的な論考なら「例えばどういうことを言っているんだろう」と絶えず具体例を自分で考えようとします)。

そのように絵を描くと ―小説なら登場人物の表情や仕草が目に浮かぶぐらい具体的に描ききると― その絵が明らかに伝えようとしている意味、秘かに伝えようとしている意味、その絵に描かれていない事柄が伝えている意味などがわかります。この「わかる」感覚は身体的といっていいぐらいで、読みながら「はあ、はあ、こういうことか」と実感することができます。その絵(つまりは英文の意味)が、自分にとって新しいものでありながらも、それまでに自分が培ってきた生きた意味の体系にぴたりと当てはまり、「なるほどこうなのか」と納得がゆくわけです。

納得できたら、その頭の中の絵を、できるだけ自然な日本語で表現しようとします。その中で英文の品詞とは異なる品詞で日本語表現をするかもしれません。異なる構文で日本語表現をするかもしれません。そうなってもいいから、とにかく自分の納得した感覚を一番素直に表現できる日本語を自分の中から探り当てます。これが私の言う翻訳です。

この翻訳の際は、むしろ英和辞書は使うべきではないでしょう。異なる言語の訳語ではニュアンスがかえってわかりにくくなったりするからです。ひくなら英英辞書でしょう。

いや、翻訳家の警句「辞書をひく馬鹿、ひかぬ馬鹿」を思い出すなら、辞書は敢えてひかずに丁寧にその箇所およびその前後を何度も丁寧に読むべきかもしれません。きちんとした作家が書いたものなら、文章は必ずわかるように書かれていると私たちは仮定することができます。その仮定に基づいて英文そのもの ―当該箇所およびその前後―を何度も徹底的に読むわけです。すると、時に文章の最後まで読まなければならないこともありますが、わからなかった語句の意味も明らかになってゆきます。その努力を怠ってすぐに辞書をひいて適当な「意味」を見つけたつもりになってわかったつもりになるのが「辞書をひく馬鹿」です。(もちろん警句の後半である「辞書をひかない馬鹿」についても忘れてはいけません。特に外国語を読み解く場合、私たちは徹底的に辞書を読んで、その外国語表現の常識的語義や含意を体得しておこうとすることは必要です)。

そうして徹底的に頭を働かせて、頭の中に絵を描きますが、その絵を日本語で表現するのがこれまた難しいものです。ここでも英和辞書はしばしば邪魔になります。自然な表現を妨げることが多くあるからです。むしろ英和辞書は一切使わずに ―もちろん専門用語の定訳を調べる時は別です― 自分の中から日本語を搾り出します。そうして出てきた日本語がぴったりとしたものであればよし、そうでなければその日本語で類語辞典をひき、日本語の同義語を探します。そうして頭を働かせているうちに自然な日本語は出てくるものです(時にそれは数日後に出てきたりしますが)。


私が大学の英語の授業、あるいは英文テクストを使った専門の授業で読解のために日本語を使う場合は、もちろんこのような忠実な英語読解に基づいた創造的日本語表現としての翻訳を試みています。

他の英語教師の皆さんはいかがでしょうか。本日、「みんなこんなことはよくわかっているだろうな」と思いつつ、念のために上の図を簡単に黒板に描いたら、思いの外多くの学生さんがその図をノートに写していたので、この文章をしたためました。

おそまつ。

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