4 生態学的視点
前節までの考察で、生きるとは、刻々と変動する世界の中で、その世界の変動と間断なく在りながら(=世界の中の自分を体認しながら)、そこに自らの動きを新たに生成させるとまとめられたのかもしれません。仮にそうしますと、生きることについて考えるには、世界と密接な相互作用関係にあるとするいわゆる「生態学的視点」を持つことが重要であると思えてきます。
そして何より、人は自己だけに留まることなく、自己の外にある世界の内に生きている。世界が「外」にあるとは、自己とは関係ないものとして、世界が世界として知られるという意味ではない。また、世界の「内」に存在しているとは、世界そのものと関わっているという意味であり、人は世界に関わりなく存在しているのではない。なぜなら、人も世界のあるいは自然の一部なのだから。(138ページ)
このあたり、まさにハイデガーの「世界内存在」概念を思い起こされますが、人間存在が生きることは、世界内での生態学的関係にあることだとすれば、それは必然的に、相互作用による総体的変化を重んずる「全体論」的視点にもつながってきます。全体論的視点では、個々の要素を単独に取り出して、それだけを問題視することはしません。その要素は他の要素との密接な連動関係にあるものであり、その全体性を無視して、個別化された要素を悪者扱いしても見当違いだからです。韓氏意拳でも、個別問題に気を取られて、物事の全体性を失うことを警戒しています。
たとえば「股関節の動きが体幹に対して遅れている」と認識すると、「だから股関節が悪い」と問題を短絡化してしまう。そして、「股関節をなんとかしなくてはならない」と仮想敵にし、「その障害をクリアするにはどうすればいいか」と物事を単純化して考えることを明晰さだと思い込む。「股関節の動きが体幹に対して遅れている」という関係性は事実だが、それは「結果としてそう」なのであって、一面的な事実でしかない。股関節が原因であったにしても、その現象の起きた理由はそれだけに還元できるはずはない。
そもそも関節は部品のように人体から取り出せないのだから、関節だけが問題となるはずがない。全体が問題なのだ。問題を特定することによって不安要因を取り除こうとして、逆に全体が見えなくなってしまっている。(172-173ページ)
この全体性の強調は、教室内での教師の判断についてもなされるべきではないでしょうか。教室の科学的研究にせよ、アクション・リサーチにせよ、私たちは「問題の特定」(およびそれに続く「問題の解決・解消・根絶」)にあまりに夢中になって、問題とは特定の現象にあるのではなく、諸現象の全体に広がりながら存在しているという認識を失っていませんでしょうか。だからこそ、科学的研究やアクション・リサーチで得られたとされる知見を行ってみても、状況は多少変化するだけで、また新たにどこかに「問題」が生じてしまうのではないでしょうか。教師の「能力」とは、ある特定の問題を解決する恒常的な力ではなく、教師が状況の全体性の中で、FLOWしていること、つまり、刻々とその世界を生きて、新たな行動を生み出してゆくことなのではないでしょうか。次は「能力」について考えてみましょう。
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