2017年4月28日金曜日

5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。先着50名で締切は5/12。申込みはお早めに!



以下のように、演劇的手法を通じて英語を教える第一人者である小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお迎えして無料ワークショップを開催します。「学校英語教育がよくなるためでしたら」と貴重な時間をさいてくださる小口先生には心から感謝します。

ワークショップ終了後、小口実践をどう学校英語教育に活かすかという観点から、英語教育研究者と小口先生とで対話し、さらには会場全体でも対話を行うシンポジウムも行います。

参加のためには申込みが必要です。先着50名で締切は5/12(金)の深夜ですので、急いでお申込みください。












公開ワークショップとシンポジウム
英語教育の身体性



■ 日時
2017年5月20日(土) 14:00-18:00


■ 会場
広島大学(東広島キャンパス)学士会館レセプションホール
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima/busstop_higashihiroshima/aca_2


■ 趣旨
 英語教師は、ことばの教師でありながら、これまで英語の形式性ばかりにこだわり、身体性を軽んじてきたのではないでしょうか。私たちが英語を使う際の形式的整合性はもちろん大切ですが、それよりも重要なのは英語が自分の「こころ」(言語化以前の感情)と「からだ」(感情化以前の情動)に即していることではないでしょうか。
 この集まりでは、劇を通じて英語・英会話を教える第一人者である小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお迎えし、そのワークショップを全員に経験していただきます。その後で、「英語教育の身体性」というテーマでシンポジウムを開催します。シンポジウムでは、科研のメンバーが小口実践をどう活かせるかという観点から、小口先生にいくつかの質問を投げかけて対話をします。その後は、参加者全員で対話を行います。
 (注)この企画は科研成果公開の一部です。
「教師教育者・メンターの成長に関する研究―熟達者と新人の情感性と身体性に着目して―」(課題番号:15K02787)
シンポジウムには、この科研のメンバーのうち、今井裕之(関西大学)、樫葉みつ子(広島大学)、玉井 健(神戸市立外国語大学)、長嶺寿宣(熊本大学)、山本玲子(京都外国語大学)、柳瀬陽介(広島大学) が登壇します。


■ 対象者(参加可能者)
英語教育に興味・関心をもつ方ならどなたでも参加できます。学校や会話学校などで英語を教えている方や英語教師志望の大学生はもとより、英語教育に興味をもつ中高生や一般市民の方も歓迎します。
入場は無料ですが、申込みが必要です。先着50名で締め切ります。
会場の一体感を高めるため、原則として参加者は全員ワークショップに参加していただきます。ワークショップの録画・録音・撮影は禁止いたします。


■ 申し込み(締切:5/12(金)の深夜)



■ 日程

14:00-16:00 ワークショップ
「英語DEドラマ ~みんなで レ・ミゼラブルのDo you hear the people sing を~」
16:30-18:00 シンポジウム
「英語教育の身体性」
19:00-20:00 夕食会(希望者のみ・有料)
大学近くのどこか別会場で


この企画に関する連絡先

柳瀬陽介
(広島大学教育学研究科)
yosuke(アット)hiroshima-u.ac.jp
電話: 082-424-6794








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「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

(続)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
 
(続々)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_18.html

2017年4月27日木曜日

他教科の院生・教員との対話から学んでいる英語教育専攻大学院生の振り返り



私が所属している広島大学教育学研究科教科教育学専攻の修士課程では、昨年から「共通科目」として10の異なる教科を専門とする大学院生・教員が共に学ぶ授業を開始しています。初年度の成果は、研究報告書としてまとめ、以下のホームページで公開しています。


異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究


以下は、その共通科目の一つである「教科教育学研究方法論」(概要 詳細)の最初の授業に参加した大学院生(M1)の振り返りの一部です。

近代知の専門化があまりに進行して知が細くなってしまい、知を統合できる人材、あるいは異なる専門家と対話ができる専門家が少なくなってしまったという指摘はずいぶん昔からありますが、それを克服する積極的あるいは実質的な努力はそれほど多くないのではないかと個人的には感じています。

この「教科教育学研究方法論」を始めとした広島大学教育学研究科教科教育学専攻の試みは、ますます複合化・高度化する知識社会で活躍できる実践者・研究者を育成する試みです。ぜひご注目いただけたらと思います。






*****

■ MY


私は今回の講義について、以下の3点に焦点を当てて振り返りたいと思います。結果的に振り返りを自分の研究領域に引き付け過ぎていますが、教科横断的な講義の中でシェアしたいという想いの基に書かせていただきました。なお、私は英語教育研究を専門としています。

① 教科間の対話の重要性
② 現代社会の中での英語教育研究の役割
➂ 他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話


① 教科間の対話の重要性

 教科間連携という言葉は私たちにとって新しい言葉ではありません。私が大学に入学した4年前には、すでにそうした連携の必要性は唱えられていました。しかしながら、4年間の大学生活の中で受講した講義の中に、異なる教科の教員志望者の間での対話がメインとなるものはありませんでした。またそうした状況から容易に想像できる通り、学部の卒業論文等にもそうした類のテーマが選択されることは無かったと記憶しています。私が専攻していた領域は言語に関わるものでしたが、同じ言語に携わる領域である国語科教育や日本語教育の学生や先生方と、講義等で公式に対話の機会をいただいたことはありませんでした。

 ここには様々な問題が関わっていますが、その中の一つの理由は「外国語教育=英語教育」という狭小な認識が、現代社会において暗黙の前提となっていることに加え、当の英語教育研究の関係者の中にも、そのような認識を未だに固持している方が少なくないことです。英語教育研究を専門にしているからこそ強調したい点ですが、現在の日本の英語教育は「英語至上主義」、「実用主義」、「数値至上主義」を基盤として動いています。そこに複言語主義的、英語の学習、使用を通して、英語だけでなく母語や他の諸外国語を知る、学ぶという視点はほぼ無いと言って良いでしょう。英語教育研究の関係者が今後まず行うべきは、他領域の研究者の方々との連携、それを可能にする対話です。少なくとも、同じ言語を対象とする研究領域の方々との連携が存在しない状態では、学習者たちはもとより、彼ら/彼女らの教育に携わる私たちの視野は狭まる一方です。


②現代社会の中での英語教育研究の役割

 今回の講義で取り上げられた3.11というテーマを受け、私も英語教育研究者の立場から何ができるか考えました。英語を扱っているので、「海外からの情報の受信、国内からの発信」ということを推しても良かったのですが、それは英語教育研究に携わる他のM1生が力説してくれると思っていたので、私自身は「言語について語ること」について考えることを強調しました。先述の通り、現代の英語教育の趨勢は英語の実用的な価値を強調する方向に傾いています。もちろん、災害時を含め、現代の日本社会における英語使用の重要性を否定するつもりはありません。しかしながら、英語を使うことに対する焦点が存在する一方で、使用されている英語について分析的、メタ的な視点を持つことの重要性に関しては、あまり大きな関心が持たれていないのではないでしょうか。例えば、英語を聞く力や読む力、話をする力等を向上させることによって、海外との連携の一助となることも可能ですが、英語教育が担う役割はそれだけではありません。例えば海外のニュースと日本のニュースの情報を様々な観点から比較したり、英語をメタ的に分析する力を母語の分析に利用し、政治家等々のレトリックに対処することを可能にしたりする力を養うこともその一つです。本講義のように教科の垣根を越えて意見を発信できる場をお借りし、真に学習者と社会全体に貢献できる英語教育を、他教科の知見を可能な限り利用しながら模索しなければなりません。



➂他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話

 ②で述べたことと重なりますが、英語教育の研究者間でも各々の意見は大きく異なることがあります。さらに、そうした意見の分断は時折大きなものになってしまいます。だからこそ、他の領域の新鮮な知見を利用しつつ、自分たちの研究を相対化する必要があるのです。私は自分自身の研究テーマが「言語について語ること」に密に関連していますが、だからといって言語使用に関する研究を否定することは決してありません。ともすれば極端な方向に振り子が振れる英語教育研究なので、教科横断的な対話の実践を通し、その経験をさらに英語教育研究者間でシェアすることによって、私たちの研究領域をバランスよく発展させていきたいと考えています。



■ MK

学部時代から対話概念を学び、対話的ディスカッションを経験してきた教英生にとってはおなじみとなった形式の講義でした。

 これまで対話を行ってきたのは同じ価値観を共有し、英語科の文脈を理解してきた人たちであったのに対して、今回は専門の教科が異なるゆえに、自分たちとはまた異なる観点から意見を述べることができる人たちであったという点で、大変興味深い経験ができたと考えています。以下、①他教科との対話、②英語科としての立場 にしぼり話をします。 

 「3.11が明日起こるとしたら自分はどう感じ、考え、行動するのか」というテーマは初めて集まったメンバー同士で語り合うには重たすぎるテーマかもしれないな、と考えていたのですが周りを見ると多くのグループがすでに意見を述べ合っています。こちらでもすぐに会話が始まり、理科の観点から地学における防災論、そしてそれを用いた「津波」に対する防災教育の話、社会科からは市民性教育の観点から非常時に市民が錯綜する情報を多面的に判断し行動するあり方を、家庭科からは”家族・家庭”を再認識させる働きかけや防災教育についての話をいただきました。特に興味深いと思ったのは理科の方が発した、災いを忘れると書いて「忘災」という言葉が出ているが、今回の震災を語り継ぐためにどのような取り組みができるか?という問いです。そこから話は発展して広島においても原爆ドームを残すか残さないかで大きな議論があったが結果として残されているのは忘れないためである、だとか被ばく経験を広島がどのように語り継いでいるかが参考になるだろう、ということまで話すことができるのは、ひとえに対話的環境が醸し出す自由な雰囲気のおかげでしょうか。他教科と学びを共有するというのは刺激的な体験です。私がそう感じるように、周りの方にもそう思っていただけるような情報を共有せねばならないと考えました。

 最後に、自分自身が3.11に英語教育学を学ぶものとしていかに貢献できるのか考えたことについて言及します。震災という非常事態において、人と人がトラブルなく協力できること、共に仮設住宅で生活できること、意思を伝え合うことができることというのは非常に重要な問題です。コミュニケーションを教える役割を担ってきた言語教育の中でも英語教育、とりわけ学校教育における英語科はこのことについて多くを貢献することができていなかったのではないかと考えます。極端な言い方になりますが中・高等学校においては受験合格という出口を最重要視した暗記科目と遜色のない現状、コミュニケーション重視を打ち出したとは言え中身のないペラペラ英語話者を量産してしまいそうな英語教育政策を見るに、「非常事態に他者とどのようにうまくやっていくか」、そしてそれはいかにして教えていくのかという実は重要な発想が欠けているように思えます。英語教育が根底として何を目的としているのかという問題は、実はまだまだ問い直しが可能な事柄なのかもしれません。

 震災と教育を自分の中で結びつける視点をいただくことができた今日の授業に感謝するとともに、これから他教科の視点をどんどん取り入れていくことができることに期待します。



■ MM

今回の講義を通じて、対話(dialogue)という言葉の意味とその重要性を再認識しました。対話とは、話し手と聞き手の間で発生する差異について考えることを繰り返すことによって、一緒に新しいものを創造していくことであると理解しました。グループでの話し合いにおいても、多くの差異が発生しました。

例えば、数学専攻の方は、数量的・数値的に、体育専攻の方は、身体や健康、運動に関連させてトピックにアプローチしていました。個人的に印象的だったのは、ベトナムからの留学生の方のお話です。その方は、震災当時はベトナムにいたそうですが、Facebookを使って震災に関する記事を共有したり、日本に向けての応援メッセージを送ったりしていたそうです。また、震災の後には、日本の防災教育の凄さについて話題になったこともあったそうです。

この話題は、国が違えば、物事を見る角度、持っている情報が異なるということの一例ですが、同様のことは、やはり教科に関しても言えると思います。グループ内の専門が異なる者、つまり、持っている情報や思考様式に何らかの異なりがある人間が集まり、話し合うことによって、お互いの想定を越えた意味の差異が発生し、多種多様な考えに触れることができました。改めて、学校現場は性質上、教科という枠によって断片化しており、共有性が薄れた、それぞれが非連動的な意味を有する集団の集合体になっており、これからの通教科型、教科横断的な指導を実施していくためには、異なる教科の人と対話をしていくが初めの一歩だと思いました。

また、同時に対話をすることの難しさを痛感しました。教科が違う事でそれぞれが持つ情報の差が発生するのは当然として、お互いの人間性(社交的/非社交的、積極的/消極的など)も大きく対話をしていくうえで重要であると実感しました。対話に対する態度、対話の雰囲気作り、進行の仕方など、どのようにすれば対話がうまく成立するかをこの講義の中で考えながら実践していきたいと思います。



■ IM

今回の講義を通して,感じたことが3つある。

 まず最初に,自分の視点の偏りである。「もし明日3.11が起こったとしたら〜教科教育学の研究者または教師としてどう感じ考え行動するか?」という問いについて,グループで話し合いをした時,私は石巻市の大川小学校で7割の児童が津波の犠牲になったことに関連して教師として何ができるかという話をした。そして,対話が繰り返される中で,「英語の教科としては何ができると思いますか。」と聞かれた。この時,自分の視点は教師としての視点が強く,教科教育学の研究者としての視点は弱いのだということに気づいた。

 次に,教師は児童生徒と十分に対話できているのかということである。柳瀬先生の「よい対話とは」というお話の中に「偏見なしに他人に影響を与えようなどとせずに傾聴する」ということがあった。学校においては,教師の一方的な指示や押し付けになっていることが多いのではないかと感じた。これは,教師自身に自分の思考や意図は絶対的に正しいという思い込みがあるからではないだろうか。児童生徒の成長を促すためには,時にはそれらを捨てる覚悟も必要なのではないかと感じた。

 最後に,学校現場で教科間の融合ができたら何が生まれるだろうという期待である。中学高校では教科の指導が単独で行われる。他教科との連携や融合はほとんど行われていない。しかし,社会に出れば各教科で身につけた知識や技能が単独で使用されることはほとんどないのかもしれない。このことを踏まえると,教科間の融合で生まれるものは教育上有益であるはずだ。

 他教科の人たちの意見を聞き,対話することで新たな視点を持つことができた。またそこからお互いの考えを掘り下げ,それを共有することで新しい考えを生み出すことができるということを実感した。



■ SK

今回の他教科(時には他校種)の学生の皆さんとの交流を経て私が感じた事をまとめて復習とさせて頂きます。

私たちのグループで話題に挙がったのがいわゆる「習熟度が低い」学習者に各教科でどう対応しているか?というものでした。

つい最近、私が所属していた学部のコースの先生が英語科では、依然として「英語嫌い」に対する十分かつ有効な研究がされていないというお話がありました(様々な背景を踏まえたお話であったのでここではそれについて深く触れることは避けます)。このお話を聞いた後ということもあって、他教科の皆さんの非常に明確で分析的な「○○嫌い」に対する知識・思いに本当に感銘を受けました。

その中でも保健体育科の学生さんがされていた話が特に興味深いものでした。その方は、幼児の体育教育に携わった経験があるそうで、その際に習熟度の差の例として「早生まれの児童と」と「遅生まれの児童」の例を挙げられていました。保健体育教育に全く見識のない私でも一年間という発育段階の差を抱えながら、共に同じ学習環境を共有していることのすさまじさは容易(専門とされている方には失礼かもしれませんが)に想像できました。このような大きな「差」に対する工夫、配慮を当然の前提として保健体育の教育は、なされるそうです。

 正直なところこのお話を聞いた時に私の「英語教育」に対する考えはなんと横暴で乱雑なものだろうとショックを受けました。他方では、上の例のような緻密で責任を持った研究(教育)をなされている一方で、私という教員志望の学生は、知らず知らずのうちに弱者を切り捨てるような理念を持ってしまっていたことを痛感しました。

 今回は保健体育の教育を例に挙げましたが、他の教科の皆さんも本当に私に常識や固定概念を見直す機会を与えてくれる素晴らしいお話をしてくださりました。次回以降も多くの私の「常識」を覆して下さるのが楽しみです。



■ YR

今回の授業では、自分が勤務する学校での職員会議などの話し合いについて、新しい視点をもつことができた。教科の違い、経験年数の違いから、議論が平行線になったり、しっくりいかないことがある。しかし本当は、議論の前に、それぞれの先生と対話をしていることが大切なのだと思った。

 3.11に関するテーマについて、対話をするとなった時に、どんなものになるのか想像がつかなかった。しかし、指定討論者の意見を聞いた時に、専門性があるということの素晴らしさに感銘を受けた。避難生活によるエコノミー症候群を心配すること、初めての経験に言葉を失い、新たな言葉を紡いでいくこと、これまでと今とこれからの思いを形にして残すこと、数字や値を正しく理解し、ただ不安になるのではなく理性的になること、内容に結びつく英語で外とつながっていること、次に起こることを予測することなど、それぞれの専門を立場とした意見は、その専門がもつ力を教えてくれた。

 それから自分のそばにいる院生との対話は、面白い内容となった。「うまく話がまとまらない」というメンバーもいたが、同じことについて考えようとする姿勢が大事だと思った。自分の専門性があるからこそ、気づき、行動することができる。だから、専門性を磨き、他との融合のために対話していく人間になりたいと思った。発表してみて、私はどうしても意見をまとめる癖がついているという発見もあった…。



■ TK

われわれ教師は児童生徒に本当に「役に立つこと」を教えているのだろうか。

そんなことを考えるきっかけとなった講義だった。

児童生徒から「こんなん勉強しても何の役にたつん?」という質問を受けたことがないだろうか。

もしくは自分自身が学習者のとがそのような質問や疑問を感じたことはないだろうか。

そんな質問が来たとき私は

「自分がこの学習を役に立つものに変えていくんだよ」と答えている。

役に立つかどうかはだれにもわからない。学習者が「役に立つかどうか」で判断し知識技能の習得を取捨することはリスクがあるともいえる。

教師として知識・技能を児童生徒に伝え、思考・判断・表現力をはぐくむ場を与えてきたつもりであるが、3・11のような未曾有の事態において、役に立つと思われていた既存の知識や技能はどれほど役に立ったのだろうか。

逆に「役に立たない」と思われていた学習が「役に立った」こともあるのではないだろうか。

講義では社会科・理科の生徒が発表した後、音楽科の生徒が「音楽は、社会や理科みたいに役にたたないかもしれないが」と話し始めた。

しかしグループで対話を進めていく中で、他教科学生達からの音楽の有用性について発言を集め、音楽の役割・効果が明らかになってきた。

ともすれば、即効性を、あるいは受験というフィルターを重要視した知識技能伝達型の授業を行いがちである我々に、ふと立ち止まって考えることの重要さを与えてくれた講義であった。



2017年4月25日火曜日

When Borders Closeの解説記事




以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。

 ■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。


When Borders Close
by Ruchir Sharma
Nov. 12, 2016.
Sunday Review, The New York Times


この記事は、大方のメディアの予想に反してドナルド・トランプ氏が大統領に選出された直後に書かれたものです。この頃に書かれた記事としてはめずらしく、冷静で長期的な視点をもった論考だと思い、私はEvernoteに保存していました。


日本の英語教育界では、およそ単純すぎるグローバリズム観がしばしば表明されます。「グローバリズムだから英語を使わなければならない」、「英語を使えばグローバリズムに対応できる」などです。これらのスローガンの前提としては「グローバリズムは疑いなく受け入れるべき」、「グローバリズムは今後も続く」といったものもあるかと思います。

これらが勇ましい与太話で終わっていればいいのですが、これらの考えは中高の現場での英語教育に大きな影響を与えていますし、大学においても英語だけで卒業・修了できる学部・大学院が無批判的に厚遇されるといった形でさまざまな影響を与えています。

この記事を読んだだけでグローバリスムがわかるとか、世界の未来が予測できるといったことがあるはずもありませんが、スローガンに煽られて思考停止状態になることに楔を打ち込むことはできるでしょう(もっとも権力側にいてオコボレをもらえる限りにおいて思考停止状態になることは存外に快適なもののようです。ですが、それは弱者を蹂躙し社会を歪ませる頑強となることを私たちは忘れてはいけません)。

以下の分析を通じて、日頃から各種報道を批判的に読み比べながら考える習慣を身につけましょう。きわめて個人的な意見ですが、世界の動きや社会の情勢には無関心なまま、資格試験の得点向上だけを考えている英語オタクには公教育の英語教師になってほしくはありません。





*****

追記(2017/05/09)
以下、"deglobalization"には、「反グローバリゼーション」という訳語を充てていますが、ひょっとしたら「脱グローバリゼーション」という訳語の方が無難なのかもしれません。この訳語についてはしばらく考えます。


■ 6-7
確かにグローバリゼーションの時代には繁栄があったが、その受益者はもっぱらエリート層だった。


■ 8-9
経済危機が訪れると、不満をもった層はナショナリズムを唱え、自由貿易やグローバル金融や移民に制限を加えようとする扇動者を支持した。グローバリゼーションは停滞し、反グローバリゼーション (deglobalization) が始まった。


■ 11-12
この経済危機は第一次世界大戦と共に1914年に始まり、40年間にわたる移住と貿易の増加に終わりを告げた。


■ 12-14
これは、1980年代に始まり2008年のリーマンショックで停滞するまで続いたグローバリゼーションのブームと似ている。今日、グローバリゼーションはまたもや後退している。


■ 19-20
新たな反グローバリゼーションの時代が始まった。この時代はしばらく続きそうである。


■ 23-27
チンギス・カン以来、国境 (border) を越えたヒト・モノ・カネの流れは数十年周期の波で前進と後退を繰り返している。1914年に始まった後退は30年間続き、世界経済を弱体化し人々の不平感をつのらせ、やがてはそれは第二次世界大戦という形で暴発した。2008年に始まった後退はまだその力を増している。経済成長の鈍化やインフレや勃発する(国際的)衝突などの影響を自覚するべきだ。


■ 29-33
1914年と2008年の類似性は驚くばかりである。1914年以前の蒸気船と世界貿易への英国の参入は、2008年以前のコンテナ輸送・インターネットと世界貿易への中国の参入と似ている。


■ 37-41
グローバリゼーションによって引き起こされた20世紀初頭の社会的緊張 (social tensions) も現代と似ている。もっとも裕福な1%のアメリカ人の収入は1870年からどんどん上がり始め1920年代にはピークに達し、「金ぴか時代」の金権政治 ("gilded age" plutocracy) に至った。民衆の不満は広がり、1929年の世界大恐慌以降は特に政治家が国境を閉ざしがちになった。


■ 43
20世紀前半にアメリカは内向きになった。


■ 49
1930年代の最初の頃、アメリカは移民の受け入れを事実上中止したともいえる。


■ 54
国境を閉ざすことで競争と商業活動が停滞し、大恐慌 (the Depression) は長引いた。


■ 54-56
この時期のアメリカでは「アメリカが第一」 ("America First") と唱える 大衆主義者 (populist) は非主流派にすぎなかったが、ヨーロッパやアジアでは大衆主義者が軍事的独裁 (militarist autocracies) の権力を奪取し第二次世界大戦につながった。


■ 59-62
世界貿易が1914年のピークに戻るのはようやく1970年代になってからであった。資本の流れが戻ったのはそれよりも遅い1990年代である。しかしこれらの貿易と資本の流れが速くなると、それは金融危機につながることとなった。


■ 64
現在から見ると、(リーマンショックの)2008年は、(第一次世界大戦の)1914年と同じような転換点であったように思える。


■ 65-67
貿易の国内総生産(Gross Domestic Product)  に占める割合を世界的に考えるなら、1973年の割合は30%だったが、それが2008年には60%にまで上がっている。しかしリーマンショック以降は55%にまで落ちている。


■ 69-71
資本の流れについても同じように国内総生産に占める割合で考えるなら、2007年は16%であったが今ではそれが2%にまで落ちている。


■ 73-75
人の流れも少なくなっている。たしかにヨーロッパへの難民は引きも切らないが、世界全体で考えるなら貧しい国から豊かな国への人の移住は、2011-2015年ではその前の5年間から400万人減った1200万人となっている。


■ 78-81
1930年代と同じように、世界的な貿易や投資や移住の減少によって、世界経済は弱体化している。この新たな反グローバリゼーションの時代は長く続くかもしれない。その理由の一つとして、第二次大戦後のグローバリゼーションの秩序が、ロシアや中国と言った新興国での独裁者と西側民主主義諸国での大衆主義的な政治家によって攻撃を受けていることがある。


■ 84-87
2008年以来、インド、ロシア、中国、アメリカといった国々で保護主義的な政策が取られてきた。保護主義的障壁が一つの産業でできあがってしまうと、それは他の産業にも波及してゆく傾向があるので注意が必要である。


■ 89-93
1980年代に中国が世界貿易に参入して以来、中国の人口爆発によって世界貿易は加速した。原材料を、中国、後にはポーランドやメキシコといった国々に作られた工場へと運ぶことにより世界は繁栄した。2008年以前の世界貿易ブームはこれらのサプライチェーン (supply chain) の中での商品移動によるものが多かった。


■ 93-95
しかしこの流れは変わった。特に、中国が貿易への依存度を低め、中国の工場が国内での生産に乗り出したことが大きい。


■ 97-99
このグローバリゼーションの停滞の理由をオートメーションや中間層の仕事が少なくなっていることに求める者もいる。


■ 99-101
しかしテクノロジーを重視する者たちは、政治的現実 (political reality) を見失っている。今の政治的な流れは、移民と貿易に反対する立場をとっている。反グローバリゼーションの意味合いを認めなければならない。


■ 103-105
二つの世界大戦の間の時代に、反グローバル的な綱領によって国際競争が少なくなり、インフレも手伝って経済成長は弱まった。今日、大衆主義者 (populist) は国内産業を保護して富を共有することを訴えているが、これは前例の繰り返しとなるかもしれない。


■ 107-110
国内での富の再分配は、人々の収入格差を狭める健全な効果をもつかもしれない。だが保護主義が強くなれば、国々の間での富の格差は大きくなるだろう。第二次世界大戦以来、貧しい国が輸出抜きに経済発展した例はほとんどない。


■ 114-117
もっと心配なのは、国境を閉ざすことの地政学的な影響である。2008年以来、開かれたグローバル秩序がよろめき始め、民主主義国家の増加も止まった。Freedom Houseの調査では、2008年以来、自由が高まった国は60あるものの、100以上の国々で自由は後退した。民主主義国家では外国人嫌い (xenophobic) が増加し、独裁国家はより抑圧的になった。


■ 121
自由が後退している国々の政府は国境を閉ざし、軍事力を強化している。


■ 126-127
20-10年前までの軍事費は世界的にほぼ横ばいであったが、ここ10年間の軍事費は東アジアで75%、東ヨーロッパで90%、サウジアラビアで97%上昇している。


■ 129-130
第一次世界大戦で粉々に砕けた希望は、ますます相互につながった世界 (increasingly interconnected world) により、軍事衝突は過去のものになるだろうという希望だった。この希望はここ数十年間再浮上していたが、国々のつながりはほころびかけているし、緊張は広がり、「我が国こそ第一」という大衆主義 (populism) は、アメリカも含めた国々で強くなってきている。


■ 135-137
ヒト・モノ・カネのグローバルな動きはこれから停滞し続けるだろう。過去から学べることは、昼の後に夜が来るように、グローバリゼーションの後には反グローバリゼーションが来るということである。反グローバリゼーションの時代は、グローバリゼーションの時代と同じぐらい続くかもしれない。