2017年4月19日水曜日

今年の昼読はさらに多言語空間になりそうです。



今週から始まった「昼読」ですが、二回目の本日は特にさまざまな言語での読書会となりました。

参加者は院生5名、留学生1名、教員2名の合計8名。

読んだ本の言語は英語とロシア語がそれぞれ2名。あとはフランス語、ドイツ語、中国語、日本語の6ヶ国語となりました。








読書、とりわけ外国語の読書を継続することはそれほど容易ではありません。次から次に来る細々した仕事に追われて後回しにされがちだからです。

「昼読」で(外国語でのものも含めた)読書の習慣が形成されればと思います。

加えて、最後の10分間での意見交換は本当に面白いです。

世界が広がり深まります。

「昼読」は緩やかな集まりですから、ご興味をお持ちの方はお気軽に月・水・金の昼休みに教育学研究科A210室にお立ち寄りください(誰もいなくてもどうぞ勝手に入って下さい)。







留学生も含む学部生による「対話」についての振り返り



ここ最近、私はさまざまな機会を通じて「対話」の実践を促進しています。

以下は、学生間の対話を導入した学部4年生の授業(「現代社会の英語使用」)の第一回目の授業での感想の一部です。一人は留学生ですので、日本語の慣用法からは少し逸脱した書き方もしていますが、意味理解にはまったく支障がありませんでしたので、敢えて修正などはしませんでした。「慣用から少し逸脱しているとしても、これだけ深い内容を伝えられるのなら、この日本語は一つの個性として認められるべきではないか」と考えたからです。

このように母国語話者による修正を最小限に抑える方針(=意味理解に支障がでる場合や意図していない誤解を生んでしまっている場合以外は基本的に修正しない方針)については、アメリカの大学の多くのライティングセンターでは採択されていると聞いたことがありますが、自分自身でその方針についてそれほど共感していたわけではありません。ですが、今回は実際の留学生の日本語を読んで上のように感じた次第です。

もちろん修正についてはいろいろな意見があるでしょうし、文章執筆の目的によっても方針が異なるだろうことは承知していますが、今回は敢えて修正なしの方針を取りました。

ともあれ、以下の「対話」についての学部4年生の意見をお読みいただけたら幸いです。





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■ 個々それぞれが物事の一面しか見えていなくても、真理と連動性を全員が目指して対話をしていくと、個々の誰の考えであったものでもない、あらたな考えを創造できる。相手の言っていることが一見話題とは関係ないように思われるかもしれないけれど、連動性が頭にあれば、「それはどのように関係するの?」と質問をして議論を深めていくことができる。「相手を変えてやろう」と思っていると相手の意見を聞くことができない。

 けんかにならないように、などと思って反論しないでいると、対話にならない。傷つけない言い方ができれば、相手を思いやりつつ相手とは異なる意見を言い合えて、対話が進んでいく。

  対話ができた経験があるか、という問いに対し、私は授業や実習で授業を作るための話し合いがそれに該当するだろうと始め思った。しかし、講義中の対話で指摘してもらった通り、授業を作る話し合いは決められた時までに終わって授業を作りきらないといけないという点では、私たちが講義中に捉えた対話の在り方とは少し異なる。具体的に授業を作る話し合いの際は、時間的な制限によって妥協せざるをえない時もあるだろう。他に、わたしはサークルの運営についてサークルのメンバーと話し合うときも対話であったのではないかと思っていたが、その中にも、何月何日までに決めないといけない、など時間的な制限がついていたものがあり、それらも少し違うのだと思った。

そこで後々、対話をした経験は本当になかったのだろか、とさらに考えてみた。ずっと部活やサークルの話になるが、大学の吹奏楽団のみならず、中高の部活についても、母や運営上の関係が強い相手と部活の課題やその解決について話すことがあった。大体、そのときは明確な答えが出るわけではなくてむしろ「難しいね」などとひとまずは話を終えるのだった。そしてまたしばらくして同じ話をする。少しずつしか進展はしなかった。なかなか解決できない、という思いはあるが、いつか答えが見つかるのではないかという前向きな思いは常にあって、辛いとか悲しいといった否定的な思いにはさほどならなかった。対話ができた関係というのは、相手を信頼して安心して発言ができるし、相手も自分の意見を聞いてくれると思って発言できる関係であるから、そのような関係を持てたことはありがたいと思った。

 上司など上下関係がはっきりある相手には、反対の意見を言い出すのも難しく思われる。そういう関係でも対話を意義あるものとして成り立たせるには、上司の側に工夫が必要だろうと思う。あるいは、講義中の意見でも出たように、お互いを知らない時も、反対意見を出すことに抵抗を覚えることがあるだろう。このような時に、対話をうながす態度や話し方ができるようでありたいと思った。それらがどのようであるかということを考える際に一つ思い当たったのは、講義中の対話を見てもらって「間と話しだしの捉え方が人によりけり」と言われたことだった。間の感じ方、これだけ空いたら話せる、という感じ方は違うことを、特に他の国の方と話す時に感じたことがあったが、それは実際には国籍に関係なく生じる個人差である。発言権をバランス良く回す必要があるし、それだけでなく、質問をしたりして議論に巻き込んでいかなければより良い対話にはたどりつけないと思った。


■ 人の呼吸を感じる、という言葉が印象的だった。思い返してみると、高校の部活の試合では「よく相手の動きを見ろ」と言われた。しかし「相手が動いていないのに自分から動いていた」と試合後には同じ助言を何度ももらった。大学のサークルでは「周りの音をよく聞いて」、「口の形を見て」、と言われていたが、いつもずれてしまった。今回の授業で、人の呼吸を感じるということ、表情からその人の感情や動きを読み取る、ということはとても大切なことだと改めて思った。

アイコンタクトを取っているつもりで、何も見ていないのと一緒の時がある。人が目の前にいるのに、ただ浮かんだ言葉をそのまま口から吐き出すだけの時がある。それは討論どころかコミュニケーションですらない。話していて心地よいと感じる人の特徴は表情や言葉の表現など多くあるのだが、そのうちの一つに、自分が「しゃべりたい」と思ったときにそれを察して、すっと話してから聞き手へと自然にうつるということも挙げられるのではないかと思う。

先日教英の友達と、コミュニケーション能力が高いというのは、ただ笑って話ができるというだけではないのではないか、内容も含めて言えるものではないのか、という話をした。コミュニケーション能力の定義は様々であるが、相手意識は不可欠であるのではないか。こう言ったら、相手はどう思うか、どう返すか、話の流れはどう変わるか、そこまで少しでも見通しをもって話ができれば、相手を大切にしたやり取りが可能になるのではないかと感じた。


■ 
 対話によって、話し手と聞き手の間、意味の完全な一致は前提とされず、意味は差異があることを認めており、むしろ差異があるからこそ、新しいものを作り出すことが出来るという解釈によって、対話の本当の目指すことを考え直した。対話の中に、聞き手は普通に話し手が思っていたこととまったく同じ意味での反応をしないのは、人はそれぞれの背景と価値観を持っており、その価値観によって、自分しか持っていないスクリーンを通じで対話をしているからであろう。そして、対話の中で、自分が言おうとしたことと相手が理解したことの間の差異、本当は対話者それぞれ思考方式の差異だと考えた。その差異から生み出した同じ言葉に対して違うの理解、つまり同じ言葉について考え方の他の可能性そのものは、対話の参加者たちが創造した「共通な新たな内容」ではいかと思った。 

 理想的な対話を作るため、原則的には、対話の議題は定めないことだが、実際に対話をする時に、たとえテーマを決まっていなくても、その対話の最初の発話者によってある話題が提出したら、後の発話者もその人が言ったことあるいは議題に関わる内容しか言えないようになるのは普通だと思う。また、完全に自分の偏見を見捨てて他人に傾聴することも、あるいは自分の思うことをすべて自由に述べることも対話にとっては大切だが、そういった対話をするのがやはり実際の生活でいろいろな場面でも難しいことだなと意識思った。

 対話の参加者の間での意味に差異から何かあたらしいものが生まれてくるのように、私達が言葉にしたことと自分の本当の思考やぼんやりとしか意識できない思考過程の間にきっと何らかの差異があるのだろう。その差異によって、自分の思いに対して新しい認識を得られるかもしれない。それが、私達が言語から自分について学べることなのではないかと考えた。


■ 後半の「対話」というものについて実際に対話をして見るときには,これほど日本語で対話をすることが難しいのかと驚きました。私たちのグループの対話の進め方は,提示されている質問に対して一人一人が意見を述べていくという形でしたが,後から振り返って見れば,これは対話とは到底言えないものであったのではないかと考えてしまいます。対話とは,異なる意見・異なる背景を持った人と話し合う中でなんとなくこれが真実なんだろうね,というものへと近づこうとする試みであると考えますが,私たちが行っていた話し合いではただひたすらに自分の意見を述べるだけで,人の意見を受けて自分の考えを変えたり反論して見たりすることが一切なかったように思います。母国語で対話をすることは造作ないだろうという考えは,私たちが日本語そのものに関する知識は十分なのでしょうが,対話をする経験や意義などを持っていないことに気づいていなかったからこそ持ってしまうのでしょう。


■ 対話についてですが、自分がこれまで思っていたものよりはるかに創造的で高度な営みであるということがわかりました。今回の対話体験を通して一番心に残ったのは聞き手の「受容力」です。特に、聞き手は話し手とまったく同じ意味での反応をするわけではない、という点が印象的でした。自分がとにかく伝えているだけでは相手に伝わらない、したがって相手の理解を踏まえて(受け入れて)少しずつお互いが良いと思う方向にすり合わせていかなければならないことになります。ここで自分を押し付けたりせずに、傾聴する姿勢を持たなければ対話は成立し得ません。




追記 (2017/04/25)

母国語話者以外が書く言語について、 ある学生さんがさらにコメントを書いてくれましたので、ここに転載しておきます。

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 その言語の慣用から多少逸脱していても、それは一つの「個性」として捉えられるのではないか、というお話が印象的だった。自分自身、母国ですら完全に使いこなせているわけではないだ、ということを大学に入ってやっと痛感した。「正しい」言語とは何か、ということを母語である日本語を例に考えたとき、「詩」が浮かんだ。詩において、違和感すら与える形容詞と名詞の組み合わせや、倒置法などの不規則な語順こそが、読み手の感情を動かす個性として生きるということが多々ある。

(中略)

 言語において、母語話者が権力を持つ、ということはない。母語としない人からこそ気づかされること、学ぶことも多い。そして、外国語を通して母語への認識を深める、ということはこのようなことからも言えるのではないかと考えた。

 つまり、文化や概念の異なる国の言語を取り扱う際、それぞれの単語や語順などに対する認識には、多少ずれが生じるものであるようだ。それならば、まったく違和感のない文章よりも、むしろ、その人の持つ文化や概念をそのままに、思考を飾ることなく言葉にした文章こそが、その人の言いたかったことを最も身近に感じられる表現へとつながるのではないかと感じた。加えて、他の言語を学習する際、その言語のみでなく、それを使用する人々のもつ概念や文化についても、私たちは学んでいく必要があるようだ。





2017年4月17日月曜日

教英入学式での挨拶

以下は、4月3日に教英の入学式で私がした挨拶です。学生さん共々、初心を忘れないために掲載します。






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学部新入生への挨拶


新入生の皆さん、「ご入学おめでとうございます」ということばを聞き飽きてきていませんか?

確かに大学合格をゴールとしか考えていない人たちには、大学入学はめでたいことでしかないでしょう。しかし、私のように大学入学から卒業までの学生さんの姿を長年見てきた大学教師にとっては、大学入学はスタートでしかありません。

このスタートをうまく活かせるか活かせないかはまさに皆さん次第です。

大学の教師も施設も、皆さんがこれから作る友人も、あるいは保護者も、皆さんの代わりに皆さんそれぞれの人生のレールを引いてくれません。(いや、むしろ、引かせてはいけません)。だから、今は、入学を嬉しく思いながらも、気を引き締める時期だと私は思っています。

とりわけ私が懸念している新入生は、高校卒業までの生活で、自分の「からだ」と「こころ」の実感を忘れてしまった人です。

よく高校の先生などには「大学入学までは我慢をしろ。入学したら好きなことをすればいいから」と言う人がいます。

若い人の中には、そんなことばを鵜呑みにして、自分が「からだ」や「こころ」で感じるさまざまな想いを抑圧してしまった人がいます。「勉強とは自分の嫌いなことを我慢してやること」などと思いこんでしまっています。

そんな人は、大学に入学しても自分は本当は何がしたいのかがわかりません。感性をつぶされてしまったからです。いや、少し厳しい言い方をすれば、自分の感性を他人につぶされてしまうことを許してしまったからです(ここで「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という茨木のり子さんの詩を思い出す人もいるかもしれません)。

そんな人も、しばしば自分は好きなことをやっていると思い込んでいます。ですが、実際は、周りの人がやっていることを、「みんなやっているから」という理由だけでやっているだけです。

だから「みんな」に合わせて、「みんな」の顔色をうかがってばかりです。自分の「からだ」と「こころ」で感じること、そしてその感じたことを表現することができません。表情ですら自分で自由に出せません。自分の考えはひたすらに隠そうとすらします。

だから、一見楽しそうな顔をしていても、実は不安です。あるいはたまにある例ですが、人前では過剰なまでに「幸せな自分」という役を演じて、実際のところは疲れ切っています。

そんな人は、自分の「こころ」--言語以前の未分化な感情-- と「からだ」-- 感情以前の身体内での細かな蠢き-- を忘れてしまっています。そんな人には、身体の底からの意欲は湧きません。心の底からの情熱も出てきません。だから深い知性も身につきません。

だから皆さん、一人になること (solitude) を怖れないでください。

教英は先輩後輩の「縦のつながり」と同級生同士の「横のつながり」に恵まれた素晴らしい場所です。

しかし、自分の個性を大切にしてください。

自分の「からだ」で感じたこと、「こころ」で想ったことを大事にして、それをことばにしてください。流行りのことばをうまく使いこなすのではありません。自分にぴったりのことばが見つかるのを辛抱強く、しかし貪欲に待ち続けて下さい。それこそがことばを学ぶことだと私は考えています。

大学時代に、自分の「からだ」と「こころ」を取り戻してください。あるいはそれらを忘れないまま入学した人は、それらをどんどん育てて下さい。

そして自分のことばを見つけてください。さらには、そのことばで他人に語りかけてください。また、そんなことばで語りかけてくる他人に耳を傾けてください。深い友情を築いてください。今は漠然としか感じられていない自分の可能性を実現させて下さい。

もし皆さんがそんな学生生活を送ることができたら、私は卒業式に心から「おめでとうございます」と言います。

だから今日はおざなりな「おめでとう」は言わず、こう言います。

互いに自分の「からだ」と「こころ」を大切にしましょう。そこから出てくる深いことばで語り合いましょう。

深いことばで学ぶ大学へようこそ。







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大学院新入生への挨拶



大学院に進学された皆さん、ご入学おめでとうございます。

大学院では、学問という古来からの営みにこれまで以上に真剣に従事します。
この営みは、お上手を言い合ったりする世渡りや、巧みに忖度を行う保身や出世とは異なります。

もちろん出世はともかく、世渡りや保身は大切ですから、それらはそれらでうまく行ってください。

しかし、こと学問の時間、研究の場においては、人間関係や利害関係や権力関係よりも、自分自身の納得を大切にしてください。

研究において、自分でどうしても納得できないことに対しては、怖れずに「わからない」と言って下さい。そして自らの疑問を口に出して下さい。納得できていないことに対して "Yes" と言わないでください。

逆に自分が納得できないからといって、その内容をむやみに "No" で否定しないでください。それは現在のあなたの知的限界によって理解できないだけであり、その内容が間違っているわけではないかもしれないからです。

納得できないことに対しては、"Yes" とも "No" とも言わず、疑問を表明してください。疑問すら出ずに不全感ばかり感じる時は、それを肯定も否定もせずに自分の中に静かに留めておいてください。そして数週間後、数ヶ月後、数年後、ひょっとしたら数十年後に「ああ、こういうことか」と膝を打ってください。

人類は有史以来、紆余曲折はあれど、学問(およびそこから派生した科学)と民主主義を大切にした流れでこれまでの歴史を作ってきました。学問(科学)においても民主主義においても、人間関係や利害関係や権力関係とは独立に、お互いの納得を求める営みです。私はそんな人類の歴史を大きく肯定する人間として大学に勤めています。

現在、世界各地で民主主義の後退が懸念されています。その中には学問や科学の成果をあからさまに権力が否定しようとする動きすらあると思われます。こんな時代に、大学・大学院が、研究を世渡りや保身や出世の道具にしてしまってはいけません。それは人類の歴史に対する冒涜だとすら私は考えます。

お互い学問という営み、研究という精神を大切にしてゆきましょう。

それが世界中に二千年以上にわたって存在し続けた数え切れない先達と、私たちの後に続くこれまた無数の人々に対して私たちがもつ義務であり、喜びだと考えます。

と、偉そうなことを言いましたが、実は私自身が一番、きちんとした研究ができずに心苦しく思っているというのが現実です。

皆さん、互いに切磋琢磨して学びましょう。

大学院へようこそ。