2013年1月9日水曜日

熊倉伸宏 (2012)『肯定の心理学 空海から芭蕉まで』新興医学出版社





妙に気になる本というものはあるものだ(それが数ヶ月、数年に一度あるかないかのものにせよ)。

最近の私にとってのそんな本が、この『肯定の心理学-空海から芭蕉まで』だった。この本について最初に知ったのは、村上陽一郎氏による書評(毎日新聞10月21日)を読んでのことだった。しかし、既にあまりにも多くの本を未読のままに散乱させ、それ以上にあまりにも多くの仕事を未完にしている以上、本ばかり買うわけにはいけない。だがこの本は毎日新聞の年間書評でもさらに取り上げられた。そこで再び気になりアマゾンで再度チェックしたら、すでに中古でしか手に入らない状態だった(追記:他のオンライン書店、例えば紀伊國屋書店では、この本は新品で購入できるようだ)。だから思い切って購入した。買ってよかった。一気に読み終えた。私はこの本との出会いを喜ぶ。



安直に語ってはいけない内容を、著者がぎりぎりのところで書いた本書を軽々しく紹介することは、非倫理的ですらある。だが、この本のことを少しでも伝えたく思い、私としては本書第I部第3章「『共感』の心理学 空海『声字実相義』を読む」について少しだけ書くことにする。



精神科医である著者は、ヒカリ(仮名)という患者に出会う。彼女は親友の死と幼児期の母子葛藤の記憶から生きることに苦痛をもつ、鋭敏な感性と知性をもった女性だった。彼女は自死願望さえ口にした。そんなヒカリは言う。

やさしい言葉は私を救ってくれない。

やさしい人は私を救ってくれる。(後略) (56ページ)


ヒカリはかつて、「あなたがいるから私は生きてゆける」とまで思っていた親友を失い、苦しむ。だが、苦しみの一つは、生前の親友に対するヒカリの思いが本当のものであったにもかかわらず、ヒカリは親友の死後も生きているという事実だった。ヒカリにとって生きることは苦痛であった。だからヒカリに与えられてきた「あなたの命はかかがえのない貴重なものだから、死んではいけない」や「あなたを愛している人が悲しむから死んではいけない」という「やさしい言葉」は、むしろヒカリを傷つけていた。


著者は述べる。

「やさしい言葉」は孤独な心が他者と交わることの不可能性を露わにした。そして他者への飢餓感を引き起こした。そして「生きる」ことがさらに苦痛であることを明らかにした。自分は他者に理解されない孤独な存在であること。その孤独は他者の理解を超えること。しかも、その孤独には、もう一つの感情、他者を求める心が異物として秘められていること。「やさしい言葉」はその苦痛を知らずして語られる。それゆえに孤独な心をさらに孤独にする。人と人の「隔たり」を露わにする。(61ページ)


しかし言葉はまったく無力だというわけではない。人びとの間を「隔てる言葉」もあれば「つなぐ言葉」もある。となれば、両者の違いは何か。語彙選択か。統語構造か。修辞法か。何が隔絶された人の心に架橋するという不可能を可能にするのか。


ヒカリについて著者は語る。

まったく同じ言葉、記号、シンタックスで話しても、人を生かすか、死なせるか、を決定するものが背後で作動している。それは何か。「やさしい言葉」ではなくて、「やさしい人」だとヒカリは言う。それでは「やさしい人」とは誰か。その人が語る言葉は何か。その人はどのように不可能を可能にするのか。彼女はいったい何を語ったのか。 (63-64ページ)


ここで著者は空海の言語論である『声字実相義』をよすがに考えを深める。だがこの思考は、著者の思いを「著名な他者」の言葉によって飾り、そのことによって読者の心を遠ざけてしまう「引用文献的思考」(64ページ)ではない。また人びとの間で使われてきた言葉の生態を自分勝手に改造してしまう「操作主義的思考」(65ページ)でもない。著者は自らの空海理解の乏しさを第一に告白しながら自らの思いを文章にしてゆく。



空海の『声字実相義』については、このブログでは『空海コレクション 2 (ちくま学芸文庫)』から引用することとする。(なおエンサイクロメディア空海では、 北尾克三郎氏による現代語訳を読むことができる)


空海は題名の『声字実相義』(しょうじじっそうぎ)の「声」「字」「実相」「義」を次のように解説(釈名)している。

初めに、釈名とは、内外(ないげ)の風気纔(わずか)に発すれば、必ず響くを名づけて声(しょう)と曰うなり。響(ひびき)は、必ず声に由る。声は、即ち響の本(もと)なり。声発(おこ)って虚しからず、必ず物の名を表するを号して字と曰うなり。名は必ず体を招く、之を実相と名づく。声・字・実相の三種(さんじゅ)、区(まちまち)に別れたるを義と名づく。

また四大(しだい)相触れて、音響必ず応ずるを、名づけて声と曰うなり。 (137ページ)


『空海コレクション 2』の北尾隆心氏はこの箇所を次のように訳している。

(人の)体内にある気息と、口外にある空気が少しでもぶつかりあえば、必ず響く(音響)を名づけて、「声」という。すなわち、響きは、かならず声によっており、声は、響きの本体である。声がおこると、無意味ではありえず、かならず物事の名義名跡をあらわすことを「字」と呼ぶ。名は、かならず実体を示し、このことを「実相」と名づける。「声」・「字」・「実相」の三種が、それぞれに区別されているのを「義」と名づけるのである。

また、四種の存在要素(四大)がそれぞれ接触すると、必ず音響が生じることを呼んで「声」というのである。 (138-139ページ)


これを私なりにまとめると次のようになる(このように浅薄な理解で物事を曲解することは、およそ愚かなことなのだが、私は自分の愚かさを、一つ一つ目の前に出してゆかないと、前に進めないから、ここに愚かさを書き連ねる)。

(1) 「声」とは、人の呼吸、もしくは、世界の四大要素(地=固体、水=液体、火=エネルギー、風=気体)の相互作用が、響きとなったものである。(注:四大要素の解釈は、オンライン翻訳北尾克三郎氏にしたがっている)

(2) 「字」とは、声の有意味性を表す。声は物事の名であり、声は必ず何かの物事を意味する。

(3) 「実相」とは、声が示す名が、必ず実体を示していることである。

(4) 「義」とは、「声」・「字」・「実相」の区別のことである。


これをさらに集約すると次のようになる。

声とは、身体・物体、すなわち自然の動きであり、その響きが物事の名前となる。自然の動きである声の響きこそが物事の名前であり、それはこの世界の実体を示している。

短く言うなら、声こそが私たちの世界の実体を表している。


重ねて言うが、このように安直な要約はまともな研究者ならやってはいけないことである。だが、私は野口三千三氏や竹内敏晴氏の言語論や『モモ』の「星の声」を総括できる枠組みがここにあるかもしれないという誘惑に負けて、今このような要約をしている。





以上の空海の言語論を踏まえた上でヒカリの話に戻る。著者は専門家でもありながら(あるいは専門家であるがゆえ)、ヒカリが発する言葉に虚心坦懐に耳を傾けることの困難さを告白する。

自然が発する「響き」に言葉の真実がある。響きを聴きさえすれば良い。それは世の人が誰でも行なっていることであった。それは余りに日常的で当然にすぎることであった。それほどに日常的な行為がなぜ困難なのか。「響き」を虚心に聴くことは恐ろしいことだからだ。死の恐怖にさらされた者の語りは尚更であった。 (78ページ)


小賢しい断言(「あっ、そりゃ、○○だね」)、あるいは役割演技的な同意(「ウン、ウン、大変だったね」)は、人の自然 (human nature) の動きである声の響きを消してしまう。私たちは理屈や理論で、語る人の存在を抑圧してはならない。

だがそれは時に恐ろしいほどに困難だ。だから私たちは常日頃、惰性的で頽落的な通用表現でお互いをごまかしている。相手にも自分にも、自然な声を出させずに、世間の理屈や理論でよいとされている平板な語りを続ける。そして身体のかすかな動きを声に出そうとする者を抑圧する。そうして私たちは自らの「個別的自我」を守り、この世界に生きるということを、個別的自我間の損得勘定ゲームに変えてしまう。

だが、身体の奥深いところから発せられる声の響きは、そんな個別的自我を圧倒する。自然の響きである声は、個別的自我などをはるかに超えた開けた世界での共鳴を欲する。

響きは個別的自我に自然への従属を要求する。「私はこう考えた」、「彼はこう考えた」と分析している間は、そこで語られる言葉は個別であり真実を含まない。言葉が人と人の間で響き合うとき、はじめて言葉は自他を超え、合理を超え、言葉自体を超える。響きの前では人は言葉に従うことしかできない。理屈付け、理論化は後から来る。解釈の言葉が共感を産むのではない。共感はまずは「響き」として意外性をもって現れる。響きは自然の語りであり、そこから個別的な思考が作動するに過ぎない。 (80ページ)


私の推測に過ぎないが、ヒカリの声はとてもかすかで繊細な肌理の響きを有していたのだろう。しかしその微細な身体の動きを、ヒカリは自ら止めることはできない。もし止めてしまえば、ヒカリは生きながらえながら死んでしまうだろう。だが世俗世界の人びとは、ヒカリにも誰にも、そのような声で生活すること(とりわけ仕事をすること)を許さない。ヒカリはもはや世俗世界で自らの自然を表現できなかった。つまりは自分であることができなかった。ヒカリの声をその響きのままに聴く存在は精神科医の著者だけとなった。

しかしそこでヒカリはつぶやく。「死にたい」と。



私たちはどうすればいいのだろうか。「いや、生きていればきっといいことが・・・」や「自殺はいけない。なぜならば・・・」といった、のっぺりとして無神経な声の助言は、ヒカリをさらに苦しめるだけであることは先程確認したとおりだ。私たちはどうしたらいいのだろう。(いや「私たち」という表現で自分をごまかしてはいけない。私はどうしたらいいのだろう)。


ヒカリの言葉を受けての著者の行動についてはぜひ本書を読んでいただきたい。もったいぶって言わないのではない。著者の行動が安易なマニュアルのようにパターン化され一般化されることを恐れるからだ。


ただ、ヒカリは「やさしい人」に出会えたことだけはここでも告げておく。しかしその「やさしい人」の正体は、おそらくこれをお読みの皆さんが想像している人とは異なるはずだ(少なくとも私が予想していた人ではなかった)。その具体的な人物を特定せずに、ここでは筆者のまとめを引用しよう。

さて、「やさしい人」とは誰だろうか。

響きを聴き、それに、もっとも素朴に呼応する人。もっとも普通のことを普通に感じることのできる人。感じることから目を逸らさない人。もっともウブな心をもった人。真に自然な人。その人の心には膨大な自然があるにちがいない。その人の心には誰でもが住みつく空間が用意されているにちがいない。自分が生まれる遥か以前の過去、自分が生きている世界、これから生きていく者たち、誰でもが住みつくことが出来る自然な空間がそこにある。 (83ページ)




本書は、著者の表現を借りるならば「奇書の部類に属する」(149ページ)のかもしれない。だが私たちはすでに世間で権勢を誇る言説に辟易としていないだろうか。真善美の追求たるべき言説も、傲慢な「正しい言葉」、佞奸な「得する言葉」、あるいはせいぜい鈍感な「やさしい言葉」ばかりで埋められていないだろうか。


臨床医であり精神医学研究者でもある著者は「エピローグ」でこう述懐する。

大切なものは、何時も、研究室ではなくて、日常の些細なことから生まれて来た。答えは、何時も、日々の営みの中にあった。私の頭脳が成果を計算しない時にのみ、有効性とか、効率とか、業績や出世を考えない時、無欲の時、人に助けられた時、患者から学ぶ時、つまり、自己主張を捨てた時、私の頭脳が黙する時、全き受動性に自分を委ねた時にのみ、私に創造が与えられた。それが私の方法であった。 (145-146ページ)


方法論のハンドブックやマニュアルが流行する中、およそ世間受けしないような「方法」である(いやそもそも「方法」とは呼ぶべきではないのかもしれない)。ただ私はこのような生き方に憧れる。このような生き方を示している人びとを敬愛する。自然を愛したい。愛せていないから愛したい。そして自然に愛されたい。
















2013年1月3日木曜日

ミヒャエル・エンデ『オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』『芸術と政治をめぐる対話』岩波書店





■なぜ学校教育はますます官僚化されるのか

エンデの対話集を読んでわかることの一つは、学校がどんどんと官僚化されているのは現代日本の話だけではないということだ。おそらくこれは近代社会の特徴だと言い切っていいだろう。

「官僚化」というのはもちろんここでは否定的な意味で使われている。となれば「官僚」という人種が悪意に充ちた人びとで、自己利益のために日々教育を窒息させているのであり、「官僚」を追放してしまえばいいのかと言えば、それは短絡というものである。「官僚」あるいは他の一定の人びとだけを悪者に仕立てて彼・彼女らを叩けば問題解決するというわけではない。(これはマルクスが資本主義の災厄を資本家個々人の悪徳によるものとはみなさなかったことと同じだ)。

学校の官僚化というのも、私たちのあり方、ということは社会のあり方、の反映の一つであり、私たちが何よりも(資本主義社会体制での)「競争・成功・成績」を求めているからこその現象であるといえよう。エンデは次のように語る。

最近の ― そうだな、ここ50年のあいだに ― 学校がますます官僚化しているが、それはなぜなのか?教師に質問すると、「それは法律家のせいだ」という。法律家にいわせれば、こういうことになる。「学校が資格をあたえる存在であることによって、学校は経済や社会と直接つながっている。また、子どもがうまくやっていくかどうか ― たとえば医学部に進学できるかどうか ― は学校の成績に左右される。学校がそういうシステムであるかぎり、行政訴訟があるだろう。で、どの教師も、点数をつける段階ですでに、この点数評価は行政訴訟に耐えるものかどうか、を検討することになるだろう。安全確実にやるためには、教師は授業までをも官僚化してしまうだろう。後日必要とあれば提出できるように、教師は、口頭のやりとりの平常点まですっかりメモしておくことになる」。背後に国の悪意がひそんでいるわけじゃない。そんなことをしても、ますます面倒になるだけだからだ。むしろ背景にあるのは、教育制度と「競争・成功・成績」社会とが直接につながっているという事情だ。ほんとうの問題は、「国か、国でないか」ではなく、どうやったら文化的な自由空間、あるいはまた教育的な自由空間を社会に生みだせるかということじゃないのかな。なにしろどんな社会でも、自分をモデルにして教育制度をつくろうとする。だから問題は、現代のような社会のなかに、「成績・競争・成功」社会をモデルとしない学校を、どのようにつくることができるか、なんだ。 ((エンデ (1982/1997)『エンデ全集(15)オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』、82-83ページ)


学校の官僚化の進行を止め、学びの場に少しでも自由を ― 創造性の涵養のためには不可欠な自由を ―もたらすには、私たちが自らの自明とする価値観を問い直し、それに代わるよりよき価値観そしてそれに基づく社会のあり方を構想する必要がある。想像力を働かせて、私たちはよりよいあり方を創造してゆく必要がある。

「よりよい社会なんて脳天気なことを」と冷笑を浮かべる方には、こう説いてもいい。「グローバル競争においては創造性こそが鍵ではありませんか?このままの学校教育では創造性は育ちませんよ!」 

幾人かはこれで頷いてくれるかもしれない。だが、もし権力者が、「創造性が必要とされるのは、一部のエリートだけであり、エリート教育は権力者の子息などが通うことができる一部の私立学校で行えばいいこと。庶民の子どもは、安価でも命令通り働く労働者となれるように教育されればいいだけのこと」と考えていれば (私の思うところ、その可能性は高い) この論法も説得力を欠く。やはり愚直に論じよう。


― 私たちは皆、幸せに暮らしたい。そしてこの地球には(私たちが無駄遣いをやめれば)それを可能にするだけの資源もあるだろうし、私たちの文明がこれまで築いてきたテクノロジーを使えば、私たちは馬車馬のように働かずとも互いに幸せに暮らせるはずだ。少なくとも若者が将来に不安ばかり感じ、結婚も出産もできないと悲観する社会はおかしい ―


それでは何をすればいいのだろう。もちろん快刀乱麻を断つような「最終的解決」手段などない(「最終的解決」ということばの禍々しさを私たちは忘れてはならない)。だから私たちは、冷笑家に鼻で笑われ「デクノボー」と呼ばれることを恐れずにいよう。回り道のように見えても実はとても確実で、しかも誰もができて、誰もがなしたら、もうものすごい力となることを行おう。そのようなことの一つは、(笑いたまえ)芸術を愛することである。



■いまこそ芸術が重要

芸術は、少なくともアメリカやイギリスといった、私たちが参考にしてやまない、しかし公教育のレベルではOECD最低の国々ではどんどん削減されている(その反面、TEDといった自由な試みでは、しばしば芸術の価値が高らかにうたわれているが)。

日本の公教育でも芸術はどんどん軽視されていないだろうか(あるところでも書いたが、私は、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだと思っている。この話を芸術関係の教師にすると「ぜひ、そんな考えを他の人たちに伝えて下さい」と言われる。その表情からは、芸術科目が日頃冷遇され、さらにその待遇は悪くなっていることがうかがえる ― 書いていて思い出した。ある音楽教師は、学校が所有している楽器の手入れの予算すらないと嘆いていた)。

「しかし芸術なんて」と、勝ち組代表のようなしたり顔をしたスーツの男は告げるかもしれない「お金を食うだけで、ほとんどお金を稼げませんからね」。

この人たちの論法は、お金は稼ぎ続けなければならないもので、お金を使うことはたとえそれが豊かなquality of life (どうして日本語にはまだこの句のいい翻訳がないのだろう) のためだとしても悪徳だというものだ。それはまさに資本の論理なのだけれど、彼はそのことについて考えることは常に拒む。彼らの認識では「マルクス」と聞けば、まるでバイ菌の話をされたようにしかめっ面をすることが「オトナ」なのだ。

しかし芸術が、資本主義社会の論理とは合わないというのは確かに正しい。一部の芸術作品は投機の対象になることはあるが、そもそも芸術の営みというのは ―芸術が一部の者によるものでなく、生活に根ざすものであった昔日の日本を思い出してほしい(柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫)― 貨幣による交換価値の多寡でその意義を問われるものではない。いや交換価値どころか、(「実用性」を強調した意味での)使用価値でも芸術は語り尽くせない(「交換価値」や「使用価値」については、たとえばモイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房をご参照下さい)。


芸術作品は、その交換性や実用性ではなく、その存在が重要なのである。芸術作品についてエンデは語る。

なにか他のものに役立つからすばらしい、というんじゃなくて、ここにあるから、この世にあるから、手もとにあるから、すばらしいのです。なぜかっていうと、それが存在するだけで、すでに世界は変わっているからです。木を植えることができるように、詩を書くこともできる、と言えるでしょう。こんにちではつねに、環境破壊のことばかりが注目されています。しかし、ほとんど無視されている現象があります。心の荒廃です。環境の荒廃とおなじように切迫していて、おなじように危険なものです。そしてこの心の荒廃に対抗するのに、心のなかに木を植える試みが考えられる。たとえば、いい詩を書こうとする。心に植える木というわけですね。木を植えるのは、リンゴがほしいからというだけではない。ただ美しいからという理由だけで植えることもある。なにかの役に立つから、というだけでなく、存在しているということが大切なんです。(エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、157-158ページ)


庭の木が、特に果実をつけずとも、そこに存在するだけで、その美において私たちの心に豊かさをもたらすのと同じように、芸術作品は、その存在の美において私たちの心を荒廃から守る。

だから、ことばの芸術としての文学も言語教育において重要な位置を占めなくてはならない。「詩なんて入試に出ない」と生徒は文句を言う。「センター試験やTOEIC・TOEFLのような多肢選択法で、文学読解なんかまともに作問できませんよ」と試験作成者も嘆く。私たちは、学校と経済の接点であり、実は現在の教育について圧倒的な権力をもってしまっているテストのあり方について根底的に考え、テストを新たにデザインしなければならない。その一方で教師は文学を教え続けなければならない。



■「この作品のメッセージは」と尋ねる教師の愚

だが文学を教える教師の授業が、実はしばしばおそろしく貧困なものだ。

私が見聞きしている範囲でも、ある文学作品を収録した高校英語教科書は、その作品をおそろしく凡庸に要約し、その作品の可能性を潰してしまっていた。またあるところで見た授業では、音楽に喩えるならまるで、「はい、この曲の調性はなんでしょう?そうですね短調です。だからこの曲でモーツァルトは、悲しい気持ちを伝えたかったんです」と言わんばかりの授業をしていた。文学は、あるメッセージを不器用に伝えている表現ではないことを、エンデは次のように説明している。

シェイクスピアの芝居には、つかまえるべきメッセージなんてない。しかし私はその芝居でなにかを経験したわけです。『オセロ』から帰ってきて、「もう一度、勉強したよ。嫉妬深くしちゃいけないって」と言ったり、『マクベス』をみて、「野心をもつべきではない」と言うのは、馬鹿ばかしいことでしょう。まったくそれでは、芝居が全体として理解できなかった、と言ういようなものですからね。文学は包装の問題ではないと思います。なるほどこんにちでは、よくある大学の授業のおかげで、包装の問題になってしまってますが。かわいそうに学生たちは『バケツ騎手』のようなカフカのテキストの取り扱い方を習ってから、こう言われるはずです。「では、この作者がそもそもなにを言いたかったのか、それを探らなければなりません」。そうして、ご苦労な解釈法を駆使して、最後に引き出す結論は、「<よい>は<悪い>よりもましだ」とかなんとか、くだらないおしゃべりなんです。つまりそうやって、作者の言いたかったことが、つかまえられた。結局のところ、芸術の問題全体が、包装の問題に還元されたわけです。こんな具合に考えられてるんですね。芸術家はメッセージをもっている。彼はそれを、クリスマスプレゼント用の包装紙にくるんで、 ― まあ、その包装紙が文学の形式なわけですが ― 受取人に発送する。で、受取人は、包みをほどきさえすれば、メッセージが手にはいる。もしそういうことなら、芸術家はメッセージを直接、発送することもできますよね。 ― もっともそれでは、芸術じゃなくなるわけですが。 (エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、153-155ページ)


思うに、文学教育に理解を示す教員ですら、文学に自らの心身を根こそぎもっていかれるような体験をしたことがないのではないだろうか。あるいはたとえそれが拙く人前に出せるようなものではないにせよ、やむにやまれず自ら表現したことがないのではないか。

「書くこと」は実用はおろか、他人のためでもないかもしれないとエンデは告白する。

エンデ ほんとうに正直な話をしてよければ、私は、だれかになにかをあたえるためになんか、書いてはいないんです。それは、尋問されたときの弁明にすぎない。仕事をしているとき、結局のところ、読み手のことは考えていません。

ラップマン=コップ じゃ、なぜ書くのですか?

エンデ 手に汗にぎる冒険だからなんです。題材であれ、形式であれ、思想であれ、私を魅惑するものとの対決なわけです。 ― 私を挑発するものとの。(エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、163ページ)


表現をする際に、まずもって決定的に大切なのは表現者自身の存在、心身であるということは、どこかでパット・メセニーも語っていた。

しかし現在、文学は、そういった存在のすべてをかけた営み、心身まるごとの営みとしては教えられていないのだろう。学校、そして大学までもが、学ぶ者の存在をかけた学び、学ぶ者の心身を抜きにしては語れない学びを拒否し、誰にでも当てはまるはずとされるような無難な「客観主義的知識」ばかりを伝達しているのだろう。



■「専門家的思考」による大学教育の貧困化

自らの心身を主体的に関与させず、さらには制度化された枠組みを問いなおすこともしない表層的な学習は、「専門的教育」として近年の大学ではしきりに推奨されている。さすがに昨今は大学人の中から「これではまずい」と教養の見直しを求める声もあがりはじめたが、その「教養教育」が「専門的教育」を水で薄めただけのものであったりして、安心はできない。

私もかつて紹介し、江利川先生も最近のブログ記事で取り上げていた内田樹先生の『街場の教育論』は、「他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。」(92ページ)と定義しているが、この定義をせざるを得ない背景には、多くの「専門家」が自らの専門枠(蛸壺)から一歩も出ることができない現状があることは言うまでもないだろう。

ただそのような蛸壺的な専門家であることは、学界では確固たる地位を得ることができるし、権力者からも重用されることもある。

なにしろ自らの知について疑うことを知らないから、その知の適用も無制限に認める。知の枠組みを問い直す試みに対しては躊躇なく冷笑を加える術を身に着けているから、論争で表面上勝ったように見せかけることに強い。そして専門外の者が目を白黒させてしまうようなデータの山を生産することは得意中の得意である。その専門の事柄を推進しようとする権力者にとって、そのような専門家ほど重宝するものはない。「哲学を侮蔑することこそ専門家として出世する方法である!」

エンデは、近年の大学が一面的な専門家的思考ばかりを強調する背景に、資本主義経済のシステムへの過剰適応をみる。

今日の大学での科学者教育をよく観察すれば、はっきりとわかることだが、学生は最初から特定の目標をめざして訓練されているんだ。真理を探究しながら人間形成をする場という古典的な意味での「大学」(ウニウエルシタス)は、とっくの昔に消えてしまっている。今日の大学は、ただただ専門教育の場となってしまった。化学の学生も物理の学生も、まず最初にいちど、化学とはなにか、物理とはなにか、じっくりと考えたり、そもそも自分がやっていることはどういうことなのか、と自問したりはしない。それどころか学生は、はじめから、まったく一面的な専門家的思考というものをたたきこまれる。大学入学以前でも可能なかぎり、そう教育されている。よくわかるようにね。だって現代の経済は、システムの内側ではたらく人間を必要としているんだから。いま自分がやっていることを、じっくり考えるような人間なんて、邪魔なだけだ。(エンデ (1982/1997)『エンデ全集(15)オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』、72-73ページ)


もし大学がこのような有り様なのなら、そこでの「文学教育」にも楽観視はできない(文学系教員よ奮起せよ!)。しかし絶望するには及ばない。大学も究極において市民によって支えられている(財務省じゃないよ。税金を払っているのは市民だよ)。そもそもこのブログだって大学制度の外の営みだ。悲観傾向のある私のような人間にとって、絶望というスタンスを取ることは容易だけれど、絶望しなければならない必然性など私たちにはない。

しかし、現状に対して、根源的に考えなおし、私たちの暮らしを変えてゆくことは必要だ。根源的に考えることは、私たちの思考に「質」を復権させることも含んでいる。



■「質」を取り戻せ

例えば日本の英語教育研究では、いまだに質的研究がさまざまな偏見で阻害されていることはもうここでは繰り返さない。ここでは、その質の軽視・否定の裏側である量化礼賛の思考の背後に、やはり資本主義社会があるかもしれないという可能性について短く語っておこう。

実は、モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房の記事でも書いたのだけど、モノとモノの交換(あるいはサービスとサービスの交換)の場合、交換される二つのモノ・サービス(AとB)の質は異なる(たとえば子守りをしてもらう代わりに野菜をあげることを考えてほしい)。この交換は質的に異なるものの交換であり、ここでは質の違いを理解することは非常に重要である。交換は上の子守り仕事と野菜の交換のように一対一でうまく見つかればいいが、いつもそういうわけには行かないので、お金(M)を導入する。この A-M-B の交換で、お金は単なる道具にすぎない。

ところがここで資本家の投資という営みが発生する。資本家は自ら生産せず、自ら潤沢にもっているお金を何かに投資することを生業にする。資本家の交換は、 M-A-M である。

だがここで問題が生じる。A-M-B ならば、「Aとはまったく違うし、自分では手に入れられないBが得られたのだから、まあいいか」と交換のために使ったお金(M)の価格についてはそれほどまでにはこだわらなくてすむ。しかしM-A-Mの場合、左のMと右のMに質の違いはまったくない。お金(M)とは、量的な違いしかもたない媒体であり、この世のあらゆる異なる質をすべて価格に量化する魔法でもある。さらには野菜は腐ってもお金は朽ちることがない!

資本家としては右のMが左のMよりも多くなってもらわなければ困る。表記としては M-A-M' とでも表せるかもしれないが、とにかく資本家にとってはお金は増えてもらわなけばならない。お金が増えなければあらゆる手段を使っても増やそうとする。

だから資本家による投資に基づく資本主義社会にとって、成長は至上命題であり、否定することはできない。それどころか多くの借金を負っている日本のような国家の場合、「低成長」だって認められない。借金の利子以上の「成長」をしなければ借金はますます増え続ける。資本主義システムがいったん稼働してしまうと、それを止めること、スピードを落とすことはとても難しい(これは原子力発電やガンに似ている)。

こうなると多くの人が、お金のことばかり考え、すべての物事をお金のように考えるようになっても不思議はない。お金のように考えるとは、質の違いをすべて忘れ、すべてを量化して考えるということだった。質的研究を頑なに拒み、量的研究しか認めない人は、こういった資本主義社会の考えに影響されているとはいえないだろうか(もっとも、量的研究の専門家は鼻で笑うかもしれないが。だって彼・彼女らは「専門家」なのだから)。


私たちは「質」を取り戻さなければならない。「質」を軽侮し「量」こそは真実とする現代の教育学を批判しなければならない。エンデはこう言う。

質という概念を、ぼくはいまこんなふうに理解しているんだ。つまり、人間が世界にかんして最初にもつ根源的な体験である、とね。質は、いつもいちばん最初に体験される。質の体験はあらゆる思考に先行するものだ。量的思考は、ずっとあとになってから登場する。たとえばぼくが一本の樹をみるとしよう。そのときぼくは、量的なものを、まず最初に知覚するわけではない。ぼくが知覚するのはまさしく樹の質、樹の本質といったものだ。緑色であるとか、生きいきしているとか、樹の特徴となるような目印のすべてを知覚するわけだ。それらはみんな、ぼくが計測したり、計量したり、数えたりできない質であって、ともかく最初に体験しなければならない質なんだ。もちろんそれもまた、ぼくが最初に学び、練習し、教育されなくてはならないことだ。ギリシャ人や他の文化の人たちにはそれがわかっていた。教育の目標もそこに置かれていた。現代のぼくたちの公認の教育学では逆のことが行われている。まさしく科学信仰なんだ。今日の自然科学的世界像で正しいとみなされるのは、色盲の片目が知覚する世界だけであり、しかもそのなかでも、数学で表現できるものだけが正しくて、あとはみんな幻想にすぎないとされる。赤色や青色は現実には存在してなくて、ぼくたちの脳が主観的に生みだすものでしかないわけだ。(エンデ (1982/1997)『エンデ全集(15)オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』、42-43ページ)


「質」が私たちの根源的な体験であるとは、「質」が私たちの身体でまずは感じられるもの(だからこそ心に立ち現れてくるもの)と私は解釈する。1/12の大津先生シンポジウムではこのあたりも語ってみたいと思っている。(時間があればの話ではあるが)。



■花を植え、音楽を奏でるという暮らしの中の小さな革命

私たちの暮らしに質を取り戻そう(Quality of Life!)。芸術を愛し、文学を感じよう。人間には経済成長以外にもやることはあることを思い出そう。

人生そのものである、私たちの時間も量化し(Time is moneyは近代の真理とされてしまった)、あなたの時間が生産する貨幣への交換価値だけであなたを評価する「灰色の男」にNoを言おう。たしかに資本主義社会を止めることはできない。でもそれを手懐けることはできるはずだ。それが暴走するのを止めることはできるはずだ(というより止めなくてはならない)。人間が自ら作り出したものの奴隷になる悲劇について、古今東西の神話・寓話は語り続けてきた。今こそ、その警告を思い出そう。

何をしよう?モーツァルトを聞くことはいかが?花を植えてはいかが?

「何の価値があるんだ」ですって? 存在ですよ。存在の価値があるんです。

モーツァルトの音楽によっても世界は、私にとって、ちがった世界になったのです。どこかでなにか作品がうまくできれば、音楽でも、絵でも、いや、小さな詩でもいいのですが、いい作品が生まれれば、その作品が存在するというだけで、世界は変革されるのです。というわけでこのことは私にとって、とてともなく重要なことなのです。たんに美的な意味においてではなく、それによって人類の精神の状況が別のものになる、という理由においても。これはきわめて重要なことだと、考えています。私にとっては、とてつもなく重要なことなんです。木を植えて森をつくるのとおなじくらいに。(エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、167ページ)


特になにもせずとも、存在しているだけで喜びを感じることが私たちにはできることを思い出そう(みんな子どものときはそうだった)。もちろんあなたは、もう子どもではないかもしれない(少なくとも身体の上では)。しかし私たちには文化がある。暮らしを楽しむ文化がある(芸術はその一つだ)。

暮らしを楽しもう。暮らしの質感を大切にしよう。量(とりわけ金銭)だけで私たちの人生を語ることは止めよう。そうやって私たちは資本主義にほころびを入れることができる(これが20世紀の悲劇によって少しだけ賢くなった私たちにとっての「革命」だ。暮らしの中の小さな革命。私たちに力はある。絶望する必要はない。













2013年1月1日火曜日

2013年のご挨拶 (ミヒャエル・エンデのことばを借りながら)





明けましておめでとうございます。2013年が皆さんにとってよい一年でありますように。




私の教会の元旦礼拝は、牧師による詩篇100:1-5の朗読から始まりました。以下、その一部をNIVからの拙訳(かなりの意訳)でご紹介します。



この地に生きるすべての人々よ、

喜びの声を高らかに届けよ、主に。

はずむ心で崇めよ、主を。

歓喜の歌と共に集え、主の御前へ。

ゆめ間違うな、私たちの主は神である。



詩篇はイエス・キリスト生誕前の書ですから、ここで言う「神」とは、イスラム教徒、ユダヤ教徒にとっての神であると解釈しても問題はないかと思います。

しかしもっとも重要なのは、私たちの「主」 (the LORD) とは、(それが何を意味するものであれ)「神」であり、その他のものではないということです。

「あれまぁ、また宗教のお話ですか」と鼻白んでいるそこのあなた、しばしお付き合いを。と言いますのも、あなたにも「主」がいるように私には思えるからです。それも「神」以外の。



ミヒャエル・エンデは、小説『鏡のなかの鏡―迷宮』の「駅カテドラルは、灰青色の岩石からなる」で、ある登場人物(説教師)に次のように語らせています。

「あらゆる神秘のうちの神秘 ― それにあずかる者は、さいわいなり! お金は真理である、唯一の真理であります。だれもがこのことを信ずるべし! そして、あなた方の信仰は確固たるものであるべきです、それも盲目的に! 信仰があってはじめて、お金は、その本質へとたかめられる! はたせるかな、真なるものもまた、商品であり、需要と供給の永遠の法則にしたがっている。それゆえわれらが神は嫉妬深い神であり、自分のかたわらに他の神々が存在することを許せない。しかしながら神はみずからをわれらの手にゆだね、みずからを商品と化したもう。われわれが商品を所有できるように、神の恵みをさずかれるように・・・」(『エンデ全集〈8〉鏡のなかの鏡』、52ページ)


エンデの記述は続きます。

「お金は全能である!」と説教師が呼びかけている。「与えたり取ったりすることにより、人びとを結びあわせる。すべてのものをすべてのものに変える。精神を物質に、物質を精神に変え、石をパンにし、無から価値をつくりだし、永遠に自己増殖し、お金は万能であり、お金は、神がわれらのもとに下った姿であり、お金は神である! (後略)」)(『エンデ全集〈8〉鏡のなかの鏡』、53ページ)


まことこの世の多くの人びとにとっての「主」とはお金ではないでしょうか。

私が所属する大学という機関でも、教授会となれば「いかにして予算を獲得するか。どのように (文科省の向こうにいる) 財務省を説得するか」という話題が真剣に議論されます。もちろん研究のことも語ります。ですがそれはいかに科研予算を獲得するか。今年の獲得件数は何件で総額はいくらか、というものです。しばしばそれで大学の価値が測られるからです。

言い古されたことですが、相変わらず真実なのは、小中高大の学校、いや下手をするとそれ以前の幼稚園、それ以外の民間教育機関も、根幹のところで少しでも偏差値の高い学校への進学をその存在意義としているということです。

なぜならそれこそがよい就職を得ると信じられているからです (さすがに疑い始める人びとも出始めましたが、そんな少数者の声は抑圧されます)。都道府県議会は進学率統計を手に、教育委員会を叱咤激励します。教育委員会は校長を集め、「結果」を出すように厳かに告げます。校長は、正規教員の尻を叩きます。正規教員は非常勤教員に仕事を押し付けます。 (一部の「良い子」を除いて) 子どもはそんな学びは面白くないと騒ぎます。保護者は何をやっているのだと学校を責め、ときに議員に電話します。

たしかに、お金がなければ生きて行けないのは近代社会の真実です。しかし、お金はいつのまにか私たちの手段、私たちに奉仕すべき道具であることを止め、私たちの人生の目的であり主人となってしまったようです。


あなたのもとにも説教師は訪れているかもしれません。



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わくわくする学びといった喜びより、子どもは砂を噛むような受験勉強を選ぶべきです。究極はお金のためなのですから。研究者も、自ら本当に究めたいテーマなどを夢想することなく、査読に通りやすく世間の耳目をひくテーマを選ぶべきです。お金なしにどうやって暮らすというのですか。

お金さえあれば、今の苦労も報われます。今失っている時間、そして感性がなんだというのでしょう。将来お金が入るようになれば、すべては報われます。あなたはテレビが毎日教えてくれる魅力的商品を手に入れることができます。人びともあなたのところに集ってくるでしょう。異性の愛も得ることができるでしょう。 (30代男性の未婚率は、非正規就業者が正規就業者の約2.5倍という統計はあなたもごぞんじでしょう)。

もちろん商品は古びます。人びとの注目や愛も移ろいやすいものです。しかしお金こそは真実です。お金の価値は永遠です。お金は古びません。お金はあなたを裏切りません。

さらにいくばくかの金を得ることができ、それの投資に成功すれば、あなたは何もしなくともさらなるお金を得ることができるでしょう。そうすればあなたのもとを去った人びとも戻ってくるでしょう。あなたから離れた異性よりも、もっと魅力的で人びとが羨むような異性が寄ってくるでしょう。

お金こそは全能です。生活能力のない愚かで哀れな人びとがどんな屁理屈をこねようとも、お金こそはこの世の真実なのです。

神・イエス・聖霊の三位一体などを信ずるクリスチャンを笑いなさい。愚かな彼らは三位一体の本当の意味を知らないのです。なに、あなたもご存じない?ならば教えましょう。

三位一体とは、資本・金・商品の三つのあり方が、実は一つの実体、永遠なる実体であるという真理です。

父なる資本が、子なる金を生み出します。

この聖なる父・御子の働きは、聖霊なる商品の形をとってあなたの前に現われます。

知らないとは言わせません。学校教育も商品なのです。研究も商品です。芸術も商品ですし、政治も商品なのです。

もちろん、あなたも商品です。あなたが働くのも、鏡の前で姿を整えるのも、何のためですか。商品価値を高めるためでしょう。


この世に生きるすべての人びとよ、喜びの声をあげよ、新たな商品に。

はずむ心で崇めよ、お金を。

歓喜と歌と共に集え、お金をもたらす、いと高き方のもとへ。

ゆめ間違うな、私たちの主、いと高き方は資本である。

資本主義の王国が永遠に続きますように!

資本主義競争の正義が、この世の勝利を得ますように!

資本主義を否定する悪魔が、闇に葬られますように!





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もちろん、お金(資本・金・商品)以外を主とする人びともいます。

ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒がそうですし、法を真理とする仏教徒、その他の現世利益を基盤としない宗教人もそうでしょう。

いや、格別の組織的宗教を信仰しなくとも素朴に生きる市井の人びとにも、お金を主とせず、身近な人の笑顔を大切にし、自らの心身で実感するの満足を主としている方々も多いでしょう (彼ら・彼女らこそ主体的人間とはいえないでしょうか)。

むろん宗教人とて市井の至人とてお金を使わずに生きているわけではありません。ただ彼ら・彼女らは、お金を主としません。お金の奴隷ではありません。お金のために自分の人生を (そして周りの人びとの人生を) 捧げたりしません。

あるいはスピノザのように、神即自然  (deus sive natura)  とするならば、自然法則の存在を疑わずその解明に生涯を捧げる自然科学者も、朝日に自然と手を合わせる老人も、お金を主としない人びとなのかもしれません。

そう、特定の神を上げるなら躊躇する人びとも、自然を私たちの主と定めることには同意してくださるのではないでしょうか。

自然の営み、生まれてきた赤子の命という奇跡を眼にした人びとは、私たちの主とは、私たち自身でなく、ましてや金でもなく、自然なのだと思わないでしょうか。自然への畏れ、これこそは私たちのもつ崇高なる心の源泉ではないでしょうか。

私はこの冬に『モモ ― 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』を読み返しました。『モモ』を最初に読んだのは、大学生の時で、その時はモモが示す「耳を傾ける」という不思議な力の素晴らしさに心惹かれました。冒頭部の子どもの想像力の豊かさに心躍らされました。

二度目に読んだのは (離婚後の) 40歳の頃です。この時はもう右フックできれいに顎を打ち抜かれたみたいでした。腰から落ちてゆくようでした。自分が「灰色の男」であったことに気づいたからです(私が昔の自分に語りかけることができるなら、私は、野心をギラギラさせ、日経新聞を好んで読み、ビジネス系自己啓発書を数多く読んでいた30代の自分に、「落ち着いて。もう一度『モモ』を読んでごらん」と言うでしょう。もっとも30代の私はそれを鼻で笑っていたかもしれませんが)

それから約10年たち、この冬に『モモ』をもう一度読もうと思ったのは、やはりこの夏からマルクスについて、ひいては資本主義社会以外の社会のあり方について少しずつ学ぶことができたからです。今なら灰色の男たちの行動原理がよくわかると思ったからです。

はたせるかなよくわかりました。今回は私の中から灰色の男たちの葉巻の香りがほとんどしなくなっていることに安心もしました (でもまったく消えてしまったわけではありません、おそらく)。しかし、逆に辛かったのは、灰色の男たちの説得を受け入れてしまった (受け入れざるを得なかった) ジジ、ベッポ、そして子どもたちの末路でした。それはもう可哀想で、読んでいてつらいものでした (そして現実世界のジジ、ベッポ、子どもたちのことを考えると!)

とはいえ、歳をとるといいこともあり、今回の三度目の読解では、これまでとは違って、マイスター・ホラのことば、そして彼が行うこと、示すことが心に入ってきました。

以下は、モモがマイスター・ホラの勧めにしたがって「時間の花」を見た後に、「星の声」に気づき始めるところです。

じっと耳をかたむけていると、だんだんはっきり、ひとつひとつの声が聞きわけられるようになってきました。でもそれは人間の声ではなく、金や銀や、その他あらゆる種類の金属がうたっているようなひびきです。するとこんどはすぐそれにつづいて、まったくちがう種類の声、想像もおよばぬとおくから言いあらわしがたい力強さをもってひびいてくる声が、聞こえてきました。それはだんだんはっきりしてきて、やがてことばが聞きとれるようになりました。いちども聞いたことがないふしぎなことばですが、それでもモモにはわかります。それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの<時間の花>のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをやり、どのように力をおよぼし合っているかを知る鍵となっているのです。

そのとき、とつぜんモモはさとりました。これらのことばはすべて、彼女に語りかけられたものなのです! 全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となって彼女のほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!

おそろしさよりももっと大きななにかが、彼女を圧倒しました。

その瞬間、彼女を手招きしている・マイスター・ホラのすがたが目に入りました。彼女はかけよりました。マイスター・ホラに抱きあげられ、その胸に顔をうずめました。ふたたび彼の手が雪のようにふわっと目をふさぐと、すべてはくらく、しずかになって、不安は消えました。彼は長いろうかをとおって、もどって行きました。(『モモ』、217-218ページ)


私はモモのように星々のことばまではわかりませんが、星々に声があるのだとは思います。声を聞きとれてもいないのでしょうが、声はあるのだという予感だけはしています。これからの人生で星々の声が聞こえ、星々のことばがわかればとも思います。 (拝金教徒の方々、愚かな私を哀れんでください)。

私はキリスト教徒ですから、「私の主はイエス・キリスト」と言います。ですが、私の教会はおそらくスピノザの時代のユダヤ教会のように不寛容ではありませんから、 (誤解をおそれながらも)こう言うことが許されるでしょう。「私の主は星々、つまりは自然です。なぜなら自然こそは神の御業ですから」。

いや神学上の懸念をしばし忘れるなら、次のことだけは断言できます。大声で皆さんに告げます。

私の主は、お金ではありません。

私は、資本・お金・商品の三位一体を、聖なるものとは決して認めません。

私は現在資本主義社会に生きる者ではありますが、資本主義的あり方を唯一神聖なるあり方として崇めることは決してしません。


皆さんは、どうなのでしょう。皆さんはどのように御自身の信仰を告白なさいますか?




***


昨年の年末年始、私は自分自身に対する強烈な嫌悪感から、ベートーベンの歓喜の歌を認めることができなかった (「身体で考え、示す」)。だが一年たち、私はさまざまな助けと恵みを得て、この冬は第九を聞けるようになった (というより何度か聞いた)。

その助けと恵みの一つは、宮澤賢治だった。もし森の奥深くで、猫背で坊主頭の宮澤賢治が指揮棒をもち、彼の仲間である森のけものと森に迷い込んでしまった子どもたちを楽団員とし、森の木の実を合唱団員、木々を独唱者とする「デクノボー祝祭管弦楽団・合唱団」でもって第九を演奏するなら、私は聞きたいとある時思った。歓喜の歌は己の愚かさ・無能さを徹底的に認めてはじめて歌えるのではないかと私は考えるようになった。それが私と第九の和解の始まりだった。

ただ第四楽章の歌詞は、やはり宮澤賢治の詩にしたかった。メロディーに合うように、詩を若干書き換えなければならないだろうが、歌詞はシラーの (私からすればやや仰々しい) ドイツ語でなく、賢治の以下の詩であってほしかった。



雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ





しかし、年末に届いた英語教育達人セミナーのメールマガジンで紹介された次の第九の動画は、「デクノボー」に関する私の頑なな心を解きほぐしてくれた (これに限らず、私はどれだけ多くのことを達セミの仲間に負っているだろう)。


こんな歓喜の歌も私は好きだ。


願わくは、皆さんが真の主を見出しますように。


そして、その主を、こんな歓喜の歌ででもいいし、どんな喜びの歌ででもいいから、ほめたたえてるような毎日を皆さんがお過ごしになりますように。


「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平安が、御心にかなう人々にありますように」 (ルカの福音書2章14節)