2013年1月1日火曜日

2013年のご挨拶 (ミヒャエル・エンデのことばを借りながら)





明けましておめでとうございます。2013年が皆さんにとってよい一年でありますように。




私の教会の元旦礼拝は、牧師による詩篇100:1-5の朗読から始まりました。以下、その一部をNIVからの拙訳(かなりの意訳)でご紹介します。



この地に生きるすべての人々よ、

喜びの声を高らかに届けよ、に。

はずむ心で崇めよ、を。

歓喜の歌と共に集え、の御前へ。

ゆめ間違うな、私たちのは神である。



詩篇はイエス・キリスト生誕前の書ですから、ここで言う「神」とは、イスラム教徒、ユダヤ教徒にとっての神であると解釈しても問題はないかと思います。

しかしもっとも重要なのは、私たちの「」 (the LORD) とは、(それが何を意味するものであれ)「神」であり、その他のものではないということです。

「あれまぁ、また宗教のお話ですか」と鼻白んでいるそこのあなた、しばしお付き合いを。と言いますのも、あなたにも「」がいるように私には思えるからです。それも「神」以外の。



ミヒャエル・エンデは、小説『鏡のなかの鏡―迷宮』の「駅カテドラルは、灰青色の岩石からなる」で、ある登場人物(説教師)に次のように語らせています。

「あらゆる神秘のうちの神秘 ― それにあずかる者は、さいわいなり! お金は真理である、唯一の真理であります。だれもがこのことを信ずるべし! そして、あなた方の信仰は確固たるものであるべきです、それも盲目的に! 信仰があってはじめて、お金は、その本質へとたかめられる! はたせるかな、真なるものもまた、商品であり、需要と供給の永遠の法則にしたがっている。それゆえわれらが神は嫉妬深い神であり、自分のかたわらに他の神々が存在することを許せない。しかしながら神はみずからをわれらの手にゆだね、みずからを商品と化したもう。われわれが商品を所有できるように、神の恵みをさずかれるように・・・」(『エンデ全集〈8〉鏡のなかの鏡』、52ページ)


エンデの記述は続きます。

「お金は全能である!」と説教師が呼びかけている。「与えたり取ったりすることにより、人びとを結びあわせる。すべてのものをすべてのものに変える。精神を物質に、物質を精神に変え、石をパンにし、無から価値をつくりだし、永遠に自己増殖し、お金は万能であり、お金は、神がわれらのもとに下った姿であり、お金は神である! (後略)」)(『エンデ全集〈8〉鏡のなかの鏡』、53ページ)


まことこの世の多くの人びとにとっての「主」とはお金ではないでしょうか。

私が所属する大学という機関でも、教授会となれば「いかにして予算を獲得するか。どのように (文科省の向こうにいる) 財務省を説得するか」という話題が真剣に議論されます。もちろん研究のことも語ります。ですがそれはいかに科研予算を獲得するか。今年の獲得件数は何件で総額はいくらか、というものです。しばしばそれで大学の価値が測られるからです。

言い古されたことですが、相変わらず真実なのは、小中高大の学校、いや下手をするとそれ以前の幼稚園、それ以外の民間教育機関も、根幹のところで少しでも偏差値の高い学校への進学をその存在意義としているということです。

なぜならそれこそがよい就職を得ると信じられているからです (さすがに疑い始める人びとも出始めましたが、そんな少数者の声は抑圧されます)。都道府県議会は進学率統計を手に、教育委員会を叱咤激励します。教育委員会は校長を集め、「結果」を出すように厳かに告げます。校長は、正規教員の尻を叩きます。正規教員は非常勤教員に仕事を押し付けます。 (一部の「良い子」を除いて) 子どもはそんな学びは面白くないと騒ぎます。保護者は何をやっているのだと学校を責め、ときに議員に電話します。

たしかに、お金がなければ生きて行けないのは近代社会の真実です。しかし、お金はいつのまにか私たちの手段、私たちに奉仕すべき道具であることを止め、私たちの人生の目的であり主人となってしまったようです。


あなたのもとにも説教師は訪れているかもしれません。



*****

わくわくする学びといった喜びより、子どもは砂を噛むような受験勉強を選ぶべきです。究極はお金のためなのですから。研究者も、自ら本当に究めたいテーマなどを夢想することなく、査読に通りやすく世間の耳目をひくテーマを選ぶべきです。お金なしにどうやって暮らすというのですか。

お金さえあれば、今の苦労も報われます。今失っている時間、そして感性がなんだというのでしょう。将来お金が入るようになれば、すべては報われます。あなたはテレビが毎日教えてくれる魅力的商品を手に入れることができます。人びともあなたのところに集ってくるでしょう。異性の愛も得ることができるでしょう。 (30代男性の未婚率は、非正規就業者が正規就業者の約2.5倍という統計はあなたもごぞんじでしょう)。

もちろん商品は古びます。人びとの注目や愛も移ろいやすいものです。しかしお金こそは真実です。お金の価値は永遠です。お金は古びません。お金はあなたを裏切りません。

さらにいくばくかの金を得ることができ、それの投資に成功すれば、あなたは何もしなくともさらなるお金を得ることができるでしょう。そうすればあなたのもとを去った人びとも戻ってくるでしょう。あなたから離れた異性よりも、もっと魅力的で人びとが羨むような異性が寄ってくるでしょう。

お金こそは全能です。生活能力のない愚かで哀れな人びとがどんな屁理屈をこねようとも、お金こそはこの世の真実なのです。

神・イエス・聖霊の三位一体などを信ずるクリスチャンを笑いなさい。愚かな彼らは三位一体の本当の意味を知らないのです。なに、あなたもご存じない?ならば教えましょう。

三位一体とは、資本・金・商品の三つのあり方が、実は一つの実体、永遠なる実体であるという真理です。

父なる資本が、子なる金を生み出します。

この聖なる父・御子の働きは、聖霊なる商品の形をとってあなたの前に現われます

知らないとは言わせません。学校教育も商品なのです。研究も商品です。芸術も商品ですし、政治も商品なのです。

もちろん、あなたも商品です。あなたが働くのも、鏡の前で姿を整えるのも、何のためですか。商品価値を高めるためでしょう。


この世に生きるすべての人びとよ、喜びの声をあげよ、新たな商品に。

はずむ心で崇めよ、お金を。

歓喜と歌と共に集え、お金をもたらす、いと高き方のもとへ。

ゆめ間違うな、私たちの、いと高き方は資本である。

資本主義の王国が永遠に続きますように!

資本主義競争の正義が、この世の勝利を得ますように!

資本主義を否定する悪魔が、闇に葬られますように!





*****




もちろん、お金(資本・金・商品)以外を主とする人びともいます。

ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒がそうですし、法を真理とする仏教徒、その他の現世利益を基盤としない宗教人もそうでしょう。

いや、格別の組織的宗教を信仰しなくとも素朴に生きる市井の人びとにも、お金を主とせず、身近な人の笑顔を大切にし、自らの心身で実感するの満足を主としている方々も多いでしょう (彼ら・彼女らこそ主体的人間とはいえないでしょうか)。

むろん宗教人とて市井の至人とてお金を使わずに生きているわけではありません。ただ彼ら・彼女らは、お金をとしません。お金の奴隷ではありません。お金のために自分の人生を (そして周りの人びとの人生を) 捧げたりしません。

あるいはスピノザのように、神即自然  (deus sive natura)  とするならば、自然法則の存在を疑わずその解明に生涯を捧げる自然科学者も、朝日に自然と手を合わせる老人も、お金をとしない人びとなのかもしれません。

そう、特定の神を上げるなら躊躇する人びとも、自然を私たちの主と定めることには同意してくださるのではないでしょうか。

自然の営み、生まれてきた赤子の命という奇跡を眼にした人びとは、私たちの主とは、私たち自身でなく、ましてや金でもなく、自然なのだと思わないでしょうか。自然への畏れ、これこそは私たちのもつ崇高なる心の源泉ではないでしょうか。

私はこの冬に『モモ ― 時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語』を読み返しました。『モモ』を最初に読んだのは、大学生の時で、その時はモモが示す「耳を傾ける」という不思議な力の素晴らしさに心惹かれました。冒頭部の子どもの想像力の豊かさに心躍らされました。

二度目に読んだのは (離婚後の) 40歳の頃です。この時はもう右フックできれいに顎を打ち抜かれたみたいでした。腰から落ちてゆくようでした。自分が「灰色の男」であったことに気づいたからです(私が昔の自分に語りかけることができるなら、私は、野心をギラギラさせ、日経新聞を好んで読み、ビジネス系自己啓発書を数多く読んでいた30代の自分に、「落ち着いて。もう一度『モモ』を読んでごらん」と言うでしょう。もっとも30代の私はそれを鼻で笑っていたかもしれませんが)

それから約10年たち、この冬に『モモ』をもう一度読もうと思ったのは、やはりこの夏からマルクスについて、ひいては資本主義社会以外の社会のあり方について少しずつ学ぶことができたからです。今なら灰色の男たちの行動原理がよくわかると思ったからです。

はたせるかなよくわかりました。今回は私の中から灰色の男たちの葉巻の香りがほとんどしなくなっていることに安心もしました (でもまったく消えてしまったわけではありません、おそらく)。しかし、逆に辛かったのは、灰色の男たちの説得を受け入れてしまった (受け入れざるを得なかった) ジジ、ベッポ、そして子どもたちの末路でした。それはもう可哀想で、読んでいてつらいものでした (そして現実世界のジジ、ベッポ、子どもたちのことを考えると!)

とはいえ、歳をとるといいこともあり、今回の三度目の読解では、これまでとは違って、マイスター・ホラのことば、そして彼が行うこと、示すことが心に入ってきました。

以下は、モモがマイスター・ホラの勧めにしたがって「時間の花」を見た後に、「星の声」に気づき始めるところです。

じっと耳をかたむけていると、だんだんはっきり、ひとつひとつの声が聞きわけられるようになってきました。でもそれは人間の声ではなく、金や銀や、その他あらゆる種類の金属がうたっているようなひびきです。するとこんどはすぐそれにつづいて、まったくちがう種類の声、想像もおよばぬとおくから言いあらわしがたい力強さをもってひびいてくる声が、聞こえてきました。それはだんだんはっきりしてきて、やがてことばが聞きとれるようになりました。いちども聞いたことがないふしぎなことばですが、それでもモモにはわかります。それは、太陽と月とあらゆる惑星と恒星が、じぶんたちそれぞれのほんとうの名前をつげていることばでした。そしてそれらの名前こそ、ここの<時間の花>のひとつひとつを誕生させ、ふたたび消えさらせるために、星々がなにをやり、どのように力をおよぼし合っているかを知る鍵となっているのです。

そのとき、とつぜんモモはさとりました。これらのことばはすべて、彼女に語りかけられたものなのです! 全世界が、はるかかなたの星々にいたるまで、たったひとつの巨大な顔となって彼女のほうをむき、じっと見つめて話しかけているのです!

おそろしさよりももっと大きななにかが、彼女を圧倒しました。

その瞬間、彼女を手招きしている・マイスター・ホラのすがたが目に入りました。彼女はかけよりました。マイスター・ホラに抱きあげられ、その胸に顔をうずめました。ふたたび彼の手が雪のようにふわっと目をふさぐと、すべてはくらく、しずかになって、不安は消えました。彼は長いろうかをとおって、もどって行きました。(『モモ』、217-218ページ)


私はモモのように星々のことばまではわかりませんが、星々に声があるのだとは思います。声を聞きとれてもいないのでしょうが、声はあるのだという予感だけはしています。これからの人生で星々の声が聞こえ、星々のことばがわかればとも思います。 (拝金教徒の方々、愚かな私を哀れんでください)。

私はキリスト教徒ですから、「私の主はイエス・キリスト」と言います。ですが、私の教会はおそらくスピノザの時代のユダヤ教会のように不寛容ではありませんから、 (誤解をおそれながらも)こう言うことが許されるでしょう。「私の主は星々、つまりは自然です。なぜなら自然こそは神の御業ですから」。

いや神学上の懸念をしばし忘れるなら、次のことだけは断言できます。大声で皆さんに告げます。

私のは、お金ではありません。

私は、資本・お金・商品の三位一体を、聖なるものとは決して認めません。

私は現在資本主義社会に生きる者ではありますが、資本主義的あり方を唯一神聖なるあり方として崇めることは決してしません。


皆さんは、どうなのでしょう。皆さんはどのように御自身の信仰を告白なさいますか?




***


昨年の年末年始、私は自分自身に対する強烈な嫌悪感から、ベートーベンの歓喜の歌を認めることができなかった (「身体で考え、示す」)。だが一年たち、私はさまざまな助けと恵みを得て、この冬は第九を聞けるようになった (というより何度か聞いた)。

その助けと恵みの一つは、宮澤賢治だった。もし森の奥深くで、猫背で坊主頭の宮澤賢治が指揮棒をもち、彼の仲間である森のけものと森に迷い込んでしまった子どもたちを楽団員とし、森の木の実を合唱団員、木々を独唱者とする「デクノボー祝祭管弦楽団・合唱団」でもって第九を演奏するなら、私は聞きたいとある時思った。歓喜の歌は己の愚かさ・無能さを徹底的に認めてはじめて歌えるのではないかと私は考えるようになった。それが私と第九の和解の始まりだった。

ただ第四楽章の歌詞は、やはり宮澤賢治の詩にしたかった。メロディーに合うように、詩を若干書き換えなければならないだろうが、歌詞はシラーの (私からすればやや仰々しい) ドイツ語でなく、賢治の以下の詩であってほしかった。



雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ





しかし、年末に届いた英語教育達人セミナーのメールマガジンで紹介された次の第九の動画は、「デクノボー」に関する私の頑なな心を解きほぐしてくれた (これに限らず、私はどれだけ多くのことを達セミの仲間に負っているだろう)。


こんな歓喜の歌も私は好きだ。


願わくは、皆さんが真の主を見出しますように。


そして、その主を、こんな歓喜の歌ででもいいし、どんな喜びの歌ででもいいから、ほめたたえてるような毎日を皆さんがお過ごしになりますように。


「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平安が、御心にかなう人々にありますように」 (ルカの福音書2章14節)


















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