2013年1月14日月曜日

大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)に参加して



大津由紀雄先生の「中締め講義」(世に言う「最終講義」)のシンポジウムに登壇させていただけたのは、私にとってこの上なく光栄なことでしたし、何より楽しいことでした。大津先生、大津研の皆さま、参加者の皆さま、懇親会でお話できた皆さま、そして他の登壇者である松井孝志先生と亘理陽一先生(お二人と一緒に登壇できて本当によかったです!)、それぞれに厚く感謝申し上げます。ここでは記憶が薄れないうちに、感じたこと・考えたことを書きます。




■言語の形式性と身体性

シンポジウムで私は、大津言語教育論、ひいては近代言語学の発想がどうしても身体性を十分に取り込んでいないことを強調しました。討論の終盤で、西山祐司先生がうまくまとめてくださったように、言語の形式性と身体性という論点は両方共にあるがそれらは決して相矛盾するものではないこと、が確認できただけでも私は収穫があったかと思います。

私が思いますに言語の形式性に関しては近代言語学という強力な理論基盤がありますからきちんと語られていますが、身体性に関しては直観的な理解はあれど理論的基盤はまだ近代言語学ほどには整っていないのでとかく軽視されがちです(特に学界言説において)。その身体性が、今後、学界言説などでも、きちんとした論点として認められるようになり、さまざまな知見が積み上げられてゆけば、言語教育の言説もより十全なものになるかと思います(といいますより、知識の「体得」を前提とする言語教育の言説から、身体性が欠落していることは認めがたい欠落だと私は考えています)。

こう書きながらも、このブログを読みつつ「身体性って何だよぉ」とお思いの方(特に私のこれまでの記事をお読みでない方)もいるだろうと私は懸念しています。私としても、これからますます言語・言語教育の身体性についてまとめてゆきたいですし、多くの人の関心が身体性に向けられればと思います(ご興味をお持ちの方は、取り急ぎhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/112.htmlの末尾の関連記事一覧をお読みいただければと思います)。




■わかること・できること・つながること

このようにシンポでは言語の形式性(あるいは認知的側面)と身体性の両方がそれぞれに強調されましたが、言語の社会性(=個人を考えているだけでは決して解明されない側面)については、私は短く言及したものの、時間の関係できちんと議論することはできませんでした。

それでも討論の時間の中で、次のようにまとめることだけはしました。

言語について、「わかる」こと、「できる」こと、「つながる」こと、の三側面を認めるなら、大津言語教育論は「わかる」こと中心で、「できる」ことと「つながる」ことの考察が十分ではない。

言語について「わかる」とは、大津言語教育論が強調する「ことばへの気づき」も含めた認知的な理解のことです。「できる」とは、ある言語行動が実際に自分の身体でも可能になることで、「つながる」とは言語を通じて他者とコミュニケーションがとれることです。後二者が大津言語教育論では十分に捉えられていないのではというのが私の主張でした。

「できる」ことでは、言語以外でしたら鉄棒の逆上がりという例があります。逆上がりには現実社会で金銭換算できるような利益などほとんどありませんが、それでも子どもは逆上がりができるようになると嬉しいものです。自分の身体の可能性が広がり、あらたな体感を覚えることができることは、人間にとって根源的な喜びであると私は考えます。

外国語においても同じで、これまでは音の塊にしか聞こえなかったものが分節化された意味の連なりとして聞こえてくるようになるとか、とっかえつっかえしか言えなかったことがすらすらと自分の身体の奥から湧くように言えるようになるとか、活字の集合体でしかなかった視覚刺激から表情を伴った声が聞こえてくるようになるとか、脂汗を流して考えなければ書けなかったのが自分で気がつく前にある表現を書き留めていたというようになる、という身体の実感、あらたな可能性の体感は、私たちにとってかけがえのない喜びであるように思えます。実際、授業では「できなかったことができるようになる喜び」は大小様々なレベルで観察されます。大津言語教育論が今後、この側面でも発展すればと思います(というより、言語教育論は特定個人のものではありません。私たちが共に発展させなければなりません)。

「つながる」ことについては、言語以外の例をあげますと、武術での投げ技などがあります。武術では最初に自分の身体がバラバラに動かないように、自分の身体のつながりが失われないように、感覚を頼りに自分の動きを洗練させてゆきますが、それに上達すると、やがて自分の身体が相手の身体に接触した時も、二つの身体がつながり、自分だけの力でも相手だけの力でもないいわば不思議な力(=二つであり一つであるつながった身体の重力や慣性力などの統合)で投げ技などが成立します。これはうまくゆくと、かけた方もかけられた方も驚くぐらいの動きとなり、同時に両者はそれぞれに身体的な快感さえ覚えるものですが、元々は別々であったものが「つながる」と、バラバラでは決して到達できない境地に至ることができます。

言語も同じで、「ことばが通じた」という現象は、本来ものすごいことで、人間にとっての根源的な喜びです。私たちはこのことを日常的な惰性で忘れがちですが、異国で初めて外国語が通じた時や、これまで振り向いてくれなかった人が初めて振り向いてくれた時、あるいは昏睡していた病人がようやくことばに反応してくれた時などで、鮮烈に感じることができます。本来、私が決してアクセスすることができない排他的な意識をもつ他者と、私という人間が連動することができるということは、奇跡とも思えることです(この意味で私は言語コミュニケーションの一つの簡単な定義として「言語を通じてある心身と別の心身が連動すること」をよくあげます)。簡単にいえば言語の社会性となりましょうし、また言語の社会性にはこれ以外の側面もあるのですが、言語を通じて「つながる」ことについても私たちの理解が深まることを私は願っています。

ただここで気をつけておきたいのは、この言語(教育)の認知的側面、行動的側面、社会的側面をバラバラに捉えてはいけないということです。言語についてわかること・できること・つながること、という認知的・行動的・社会的側面は、その統合がからだの実感を通じて感じられるものでなければならないということを私としては強調しておきたいと思います。

言語の認知的理解が、個人での言語行動から乖離し、ましてや複数の人間の間での言語協働につながっていないことは、しばしば「頭でっかち」で「机の上だけ」の勉強として批判されてきましたから多言を要しないと思います。

言語行動が、認知的理解や社会的言語使用から切り離されていることは、「機械的なドリル」としてしばしば批判されています。もっとも外国語を使うというのはかなり精妙で難しい運動ですから、私は機械的なドリルや練習を全面否定するつもりはありません。意味も考えずに、ただ外国語の発音を正しく行う練習などは、むしろ外国語学習上欠くべからざる過程だと思っています。ただ、そのように自分の心の動きや周りの人間の心の動きから独立した練習ばかりしているだけでは、外国語能力は十全に発達しないというのは、私が『学習英文法を見直したい』や『危機に立つ日本の英語教育』の中の章で解説した「言語コミュニケーション力の三次元的理解」でも主張した通りです。

言語の社会的使用が、言語の認知的理解や言語の個人的身体運動が不十分なままになされることは、日本における英語学習といった「外国語環境」では珍しいかもしれませんが、移民などが経験する(狭義の)「第二言語環境」では珍しくないように思えます。そういった場合では、「通じている」ように思えるのだけど、今ひとつ自分でも「わかった」とか「できた」とかいう実感がないので、移民が改めて本格的な第二言語教育を求めるというのはよく聞く話です。

言語使用の実感は、認知的にも行動的にも社会的にも、「わかった」「できた」「つながった」と身体で同時に統合的に感じられるべきで、それを言語教育の目標の一つとして規定することは可能だと思います。でもこう言いますと、すぐに「そんな目標は、数値化できません。他人から観察できません」と批判する人がいますが、いい音楽にしても、いい運動にしても、数式の展開にしても、私たちが「わかり」「でき」「つながる」ことは本源的にからだで実感することです。

もちろんこの実感が理解・行動・連結の正体であるわけではありません。実感はいわば随伴現象であり、各個人がそれぞれにクオリアとして感じるものでしょう。ですが、私たちがこのタンパク質の身体をもっている限り、私たちはからだで実感を覚えるものです。仮に人間と見分けがつかないアンドロイドができたとして、そのアンドロイドと私たちが会話を楽しむ時、そのアンドロイドに私たちが感じているクオリアがあるかどうかはわかりません(というより違う媒体によって実現されているアンドロイドのクオリアは必然的に私たちが感じるクオリアと異なると言うべきでしょう)。ですから私たちが覚えるからだの実感が、アンドロイドも含めた一般的な言語使用を可能にしているメカニズムであるわけではありません。ですが、私たちはヒトという生物である限り、私たちが日常的に覚えているからだの実感を伴いながらさまざまな経験をします。私たちのからだの実感は、主観的かもしれないけれども、私たちに共通の現象です。これを私たちの思考と言説から無視し排除することは賢明なことだと私は思いません。

と、話は哲学的にもなりましたが、言語について「わかる」「できる」「つながる」ことが、からだで実感されることが言語教育について不可欠だということはここでご理解いただけたらと思います(願わくば、あなたなりの実感と共に)。




■「外国語のからだ」ができていなければ「外国語への気づき」は生じない

このからだの実感(あるいは「質感」と言うべきでしょうか)について、シンポジウムで十分に述べられなかったかもしれないことは、大津先生がおっしゃるように母語については私たちは気づきを実感することができるが ―ある子どもはその気づきの「質感」を「あ”~っ」と表現あるいは表出しました―、まだそれ用の身体ができていない外国語については、同じ程度に気づくことができないということです。

言い換えるなら、外国語でも気づきの質感を感じることができるようになるためには、理屈抜きにでもかなりの外国語体験をしておかなければいけないということです。外国語学習を、意識で把握できることだけに限ることなく、意識的把握をこえたことばの理解・行動・連帯も含めてゆかねば、言語教育は十全でないと私は考えます。

実際、私たちは、意識的把握をこえて外国語を体験していますから、それまではまったく意識していなかったことも、気がついてみればわかり・できることがあります。大津先生が挙げた例は、(1)~(4)で、"wave"が猫の行為で"he" = "the cat"として成立しないのはどれかを問うた時、ある程度の英語力がある者は、そのような束縛関係を意識的にまったく学んだことがなくても正確に指摘できるという例でした。

(1) The cat waved when he jumped.

(2) When the cat jumped, he waved.

(3) He waved when the cat jumped.

(4) When he jumped, the cat waved.


私が大学院生の時に行った実験では、phonotacticsの点から英語では起こり得ない音素配列の単語(nonword)と、英語では起こりうるが現在のところでは英語として通用していない単語(pseudoword)を弁別させると、中2、中3、高1、高2と学年が上がるにつれ、きれいに右上がりに弁別能力が高くなりました。こういった音素配列についても当然学校では教えられていませんから、私たちは意識に上らないことも体験の中で学び、それについて意識的な判断もできるようになっているわけです。これに限らず意識的に理解せずとも私たちがわかっていることはたくさんあるはずです(私たちは意識していないからそれに気づかないだけです)。

しかしこのような能力が身につくためには、たくさんの外国語使用を体験することが必要です。大津言語教育論では、母語での気づきを活かして、外国語学習を促進することが強調されます。たしかに母語での気づきから、これまではとかく無味乾燥だった外国語の文法も少しは実感(を予感)できるようになるという利点は私も大いに認めるところですが、外国語については、意識的な仕組みの提示と、意識を超えることもある体験の両方が必要であり、大津言語教育論は外国語の意識的な提示と、外国語の非意識的でもある体験の二つについてもっと展開する余地があるというのが私が言いたかったことです。



■科学と実践の関係について

他方、科学と実践の関係については、シンポの討議で、ある程度明確にできたのではないかと思っています。以下私なりに(ということは私に都合よく)シンポのやり取りを再構成します(ですからこれはフェアなまとめではありません。大津先生および大津先生と考えを共にする方々のご寛容を乞います)。

大津:柳瀬さんのいう身体性は、科学では扱い難い。その扱い難い領域を扱っていないと批判されても私としては困惑する。

柳瀬:私からすればなぜ科学にそれほど忠誠を誓わなければならないかがわからない。この意味で大津先生はやはり科学者だと思う。私は科学よりも実践の現場に忠誠を誓う仕事をしている。

大津:それならばなぜダマシオの神経科学を引用するのか。やはり言語教育論を科学にしたいという願望があるのではないか。

柳瀬:そうではない。実践の学である言語教育論において科学は部分でしかありえない。ただ部分として有効な場合は、人類知の最上のものの一つとしての科学知は当然導入する。ただ言語教育論の部分でなく全体が科学であるべきだとは決して思わない。そう考えると、実践が歪められてしまうからだ。

大津:そこは私も同意見である。しかし柳瀬さんのいう身体性とは教えられるものなのか。

柳瀬:教える (teach) ということを、意識的な行為とするならば、教えられない。だが、Henry Widdowsonも言うように、teacherが働きかける対象はteacheeではない。それはlearnerである。Teachingとは、learnerが教えられた通りのことを実行することではない (別の言い方をすればteacher/learnerの関係は、trainer/traineeの関係でもない)。Learnerはteacherのteachingをきっかけとして自ら学ぶだけだ。だから身体性も、teachableではないが、learnableではある。それが言語教育と言語学習の成功例で観察できることである。

大津:しかしその際に教師は何ができるのだろうか。教師ができることを実践の学としての教育学はまとめることはできるのか。

柳瀬:教えることは、植物を育てることにたとえるべきなのかもしれない。植物が育つことに関して、人間は直接な手助けはできないが、植物が育つ条件・環境について学び、ある程度の原理原則を打ち立てることはできる。土が乾燥する時、葉の先が枯れ始めた時、寒い日が続く時、などにどうすればいいのかについて私たちはまとめることができる。しかし忘れてはならないことは、私たちはその植物を見守ることこそが大切なことである。植物を見守らないままに、教科書で学んだからといって原理原則をただ実行することは愚の骨頂である(植物はやがて枯れるかもしれない)。私たちが行うべきことは、育ちゆくものを愛情深く見守り、これまでに私たちが学んだ原理原則で注意深くその育成を謙虚に促そうとすることだ。



つまり、テクノロジーにおける科学の応用のように、科学は実践に直接的に適用されるべきではないと私は考えています。。実践における科学知とは部分的な参考意見に過ぎず、実践家が行うべきことは対象を愛情をもって見守り、よいと思われることを注意深く行い、その様子をさらに見守ることだと考えます(そしてこのことは大津先生も賛同してくださっていることだと思います)。実践の学があるとしたら、それは私たちがこういった経験を丁寧に記述し、それを共有することだと私は考えます。




■科学と民主主義の文化の導入

言いたいこと(というより感謝したいこと)はまだ他にもたくさんありますが、ここではとりあえず大津先生の言語教育界への貢献の最大のものの一つと私が考えていることを書いて、この記事を終えることとします。

大津先生がこれまでに言語教育界にもたらし、最終講義・シンポジウムでも体現したことは、科学と民主主義の文化を導入したことだと思います。懇親会などでも多くの人が、大津先生がいつも対等な関係で温かく接し、かつ理性的に話を進めてくれたことを感謝していました。私もまったく同意見です。人びとが真理あるいは正義の前では対等であり、人びとはお互いに理性的に真理あるいは正義に近づいてゆくべきだというのは、科学と民主主義の文化が私たちに教えてくれていることです。その意味で大津先生は常に科学的で民主的です(カラオケで都はるみを歌っている時は除きます 笑)。もちろんこの科学と民主主義の文化は大津先生だけが独占しているものではありません。しかし私は言語教育界を見渡しても大津先生以上にこの文化を体現している人を思い浮かべることは容易ではありません。だから私は言語教育界(特に英語教育界)に、科学と民主主義の文化を示してくださったことに対して大津先生に深く感謝しています。

懇親会に集ったさまざまな人びとを見ても、そこに共通しているのは大津先生を敬愛しているという一点だけで、あとは関心、職業、年齢、性別もさまざまでした。真理と正義といえば堅苦しく聞こえますが、実は真理と正義は万人を招きます。万人を愛し、万人に愛されます。真理と正義を常に目指していることが大津先生の人気の正体の一つだと私は思っています。

大津先生のこれからますますのご健康とご多幸を心からお祈りします。







以下は私がシンポで取り上げた大津先生の本です。お読みでない人があればぜひご一読を。















追記

大津先生の中締め講義(認知科学編)は1/26です。くわしくはこちらへ。






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