2018年1月5日金曜日

落合陽一 『魔法の世紀』『これからの世界をつくる仲間たちへ』『超AI時代の生存戦略』


私は複数の友人が口にする著者の本はできるだけ読むようにしています。落合陽一先生のこの三冊の本(この記事の一番下に掲示しています)もそうやって読みました。読んでみて、現代とはどういう時代なのかについての理解が深まったような気がします。以下は、私なりのまとめですが、いつものように私の誤解や偏りにみちた要約で、しかも今回は自分の考えも混ぜ込みましたので、興味をもった方は必ずご自身で本をお読みください。


■ 魔法の世紀とデジタルネイチャー

落合先生は、現代という時代を「魔法の世紀」(=ほとんどの人にとっては魔法としか思えない技術が当たり前に使われる時代)として、世界を「デジタルネイチャー」(計算機自然)としてとらえます。

デジタルネイチャーとは、「物質、精神、身体、波動、あらゆるものをコンピュータの視座で統一的に記述していくような 計算機的自然観」です(『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1355-1357))。この自然観に基づいて創られ進化する世界は、 「人間とコンピュータの区別なくそれらが一体として存在」 する世界となります。(『魔法の世紀』 (Kindle の位置No.1851-1853))。


■ 人間とコンピュータの共生

このデジタルネイチャーの考え方の根底には、「人間とコンピュータはどちらがミトコンドリアなのか」(『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1329))という問いがあります。ミトコンドリアは、もともとは独立した生物でしたが、(人間を含む)真核細胞生物はミトコンドリアを飲み込んで、以来、真核細胞生物とミトコンドリアは共生しています。それでは人間とコンピュータでは、コンピュータの方がミトコンドリアなのかといえば、落合先生はそれほど簡単な話ではないと考え、人間とコンピュータの上位概念としてデジタルネイチャーを設定したわけです。

このデジタルネイチャーの考え方によれば、人間とコンピュータは入り混じり共生していることになります。これはそれほど突飛な考え方ではなく、私たちがEメールやSNSを使いこなしているようでいて、実はかなりそれらに追われ巻き込まれていることを思い起こせば、今の私たちはデジタルネイチャーの中に生きているという考えもそれほど無理なく受け入れられるでしょう。


■ 人間とコンピュータの間の対話

人間とコンピュータが共生するとなると両者がどのように対話をするのかという話になります。もちろんその対話(あるいはインタラクション)も、人間がもっぱらコンピュータが提供するサービスの受益者・消費者として振る舞う場合は、人間の直感に近い形で対話ができます(すぐれたサービスはそのように作られていますから)。それでも、いろいろなアプリを思い出してくださればいいのですが、人間はそれなりにコンピュータの論理に基づく操作法を学ばねばなりません。

ましてや人間がコンピュータ(サービス)を作り出すことになれば、究極的にはプログラム言語を学ばねばなりません。もちろんプログラミング言語を操るのは一部のプログラマーだけでしょうが、そのプログラマーに作ってもらいたいプログラムのアイデアを語ったり、それ以前に自分がやりたいことを整理する時には、多くの人も、論理的に思考しなければなりません。ブルーナーの言い方を借りるなら、論理-科学的 (logico-scientific) ・科学規範的 (paradigmatic) 様式で考え、言語を使用しなければならないとなるでしょう。

関連記事:J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/10/j-bruner-1986-actual-minds-possible.html

論理-科学的様式の言語で語れるように物事を解釈し説明する力を、落合先生は「言語化能力」としています。

言語化能力とは解釈力や説明能力のことであって、 語学力のことではありません。どんなに英語が流暢でも、解釈が低レベルで説明が下手なのでは、話を聞いてもらえない。重要なのは語学力ではなく、相手が「こいつの話は聞く価値がある」と思えるだけの知性です。(『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1506-1508))

この落合先生の見解は、同じく計算機科学の新井紀子先生の見解にも重なります。

単に流暢な英会話ができたとしても、国際社会を生き抜けるわけでも尊敬を集められるわけでもありません。実はそこで語られているのは、数学をベースにした科学技術言語なのです。そのことを日本人はもっと自覚すべきでしょう。

関連記事:新井紀子 (2010) 『コンピュータが仕事を奪う』 日本経済新聞出版社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/09/2010.html

英語教育においても、ただとにかく喋れる・書けるようになることーーいわゆる「語学力」の向上ーーを目指すのではなく、論理-科学的様式で語り・書くことーー「言語化能力」を目指すことを目指すことが重要となるでしょう。

もちろん論理-科学的様式で言語を使うことは、英語といった第二言語の教育だけで訓練するものではなく、第一言語で訓練することでしょう。また、その訓練は国語だけでなく数学や理科や社会などの教科、およびそれらの教科を超越したプロジェクトで行われるべきでしょう。

極端な話をすれば、第一言語で論理-科学的様式をマスターしたら後はなんとかなると言えるかもしれません。実際これまでも「語るべき内容をもっていれば、後は通訳を雇えばいいだけのことだ」といった意見もありましたが、いかんせん通訳を雇う費用が大変でした。しかし、現在では、標準的な言い方・書き方ーー多くの場合、論理-科学的様式の言語使用ーーを入力すればスマホの翻訳アプリでもかなり信頼できる翻訳が無料でできます。

人間中心の世界観に基づき人間と人間の間のコミュニケーションだけを考えていたこれまででは、論理-科学的様式の言語使用は科学者やエンジニアといった一部の人だけのものだったのかもしれません。ですが、仕事や生活でコンピュータと共生が前提となる時代では、論理-科学的様式の言語使用の重要性は非常に高くなるでしょう。


■ 論理-科学的様式の言語と物語様式の言語の間の翻訳

それでは言語教育は論理-科学的様式の言語だけに集中すればよいのかといえば、そうではないでしょう。なぜならどんどんと新しいコンピュータ(サービス)を作り出そうとすれば、今のところは論理-科学的様式の言語では表現できないが、人間としては確かに感じている「意味」を語ることーーブルーナーの用語なら物語様式の言語で語ることーーも重要になってくるからです。(少なくとも今のところの)コンピュータは物語様式で思考することが不得手です。デジタルネイチャーに住まう魔法の世紀だからこそ、逆説的に物語様式が重要になるわけです。

そうして物語様式の言語使用を進化させたら、その言語使用を論理-科学的様式に翻訳することが重要になるでしょう。同時に、コンピュータ(サービス)を商品として普及されようとしたら、その商品の論理-科学的様式の論理を物語様式の語りに翻訳することも重要になるでしょう(アップルのプレゼンテーションがその例でしょうか)。

参考記事:スティーブ・ジョブズのプレゼン術を徹底分析!〜歴史的名演「iPhone」とベストプレゼン10選〜
http://conlabo.jp/stevejobs-presentation-556

こうなると、これからの言語教育は、論理-科学的様式の言語使用、物語様式の言語使用、両者間の翻訳の3つが柱になるのかもしれません。さらに言語教育を第一言語教育と第二言語教育に分けて考えますと、それぞれの言語教育での3つの柱に加えて、第一言語と第二言語間でそれぞれの様式で翻訳することという第4の柱も加えられます(異言語・異様式での直接翻訳は困難なので、まずは言語間次に様式間、あるいはまず様式間次に言語観という順序で間接的に翻訳をすることが現実的でしょう)。しかしこの第4の柱である異言語間同様式翻訳のうち、論理-科学的様式間の異言語翻訳は、コンピュータによってずいぶん支援(あるいは代替)できるものとなるでしょう。この言語教育の整理を図示したのが下の図です。





■ 人間の意欲(モチベーション)

物語様式の思考・言語使用を人間がコンピュータに補うべきなのは上で述べた通りですが、人間はコンピュータに意欲(モチベーション)も補う必要があります。現時点でのコンピュータは自らの意欲をもたないからです。「私はこれがコンピュータでできるようになってほしい」という意欲がなければ、コンピュータは「何でもできるはずだが何にもしない箱」になってしまいます。

しかしコンピュータに人間の意欲を教える時にも、最終的には論理-科学的様式の言語使用に落とし込む必要があります。コンピュータをプログラミングする前に、まずはプログラマーなどの協働者に人間言語でその意欲に価値があるを伝えなければならないからです。落合先生によれば、その際に大切なのが、5つの問いあるは3つの観点からの言語化です。

5つの問い
(1)  それによって誰が幸せになるのか。  
(2)  なぜいま、その問題なのか。 なぜ先人たちはそれができなかったのか。  
(3)  過去の何を受け継いでそのアイディアに到達したのか。  
(4)  どこに行けばそれができる のか。
(5)  実現のためのスキルはほかの人が到達しにくいものか。
『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1150-1154)

3つの観点
(1) モチベーション:なんでそれやるの?
(2) 抽象化した意味:それはどういう意味があるの?どんな機能なの?
(3) 使った結果:それを使うとどんないいことがあるの?今後どうやって使ったらいいの?
『超AI時代の生存戦略』 (Kindle の位置No.993-998)

このようにして自らがもつ意欲を形にすることが重要ですが、もちろんそもそも自分に意欲があることが前提です。これも逆説的に聞こえるかもしれませんが、デジタルネイチャーにおいて、ヒューマンネイチャー(人間の自然=身体)の重要性はますます高くなるでしょう。


■ クリエイティブ・クラス (the Creative Class)

こうして言語化能力を、論理-科学的様式の言語と物語様式の言語でも、第一言語と第二言語でも、両様式間でも両言語間でも高め、人間の意欲をコンピュータに教え、デジタルネイチャーでより快適で幸せな生活を可能にするなら、その人は決して仕事を失うことはないでしょう。そのような人は、クリエイティブ・クラス (the Creative Class 創造者階級) という社会階層に属すると呼ばれるでしょう。

参考記事:the Creative Class
https://en.wikipedia.org/wiki/Creative_class
https://www.questia.com/library/120081994/the-rise-of-the-creative-class-revisited

私たちは人工知能 (AI) のことを考えると、「AIに仕事を奪われる」といった恐怖感に襲われ「AI 対 人間」という構図で考えがちですが、実はそれは「クリエイティブ・クラス 対 非クリエイティブ・クラス」という構図、あるいは落合先生のことばを借りるなら「機械親和性の高い人間」とそうでない人間の「戦い」(『超AI時代の生存戦略』 (Kindle の位置No.187-188))として考えるべきなのかもしれません。

ここで公教育の責任もより重大になってきます。機械的親和性が高く、言語化能力に富み、創造的な人間を育てないと、デジタルネイチャーが生み出す豊かさを享受することができない人を増やしてしまうかもしれないからです。

落合先生の本からは、(言語)教育についてもいろいろと考えさせられました。

落合先生の講演(約40分)は下でも見ることができます。






■ 三冊について

私見に過ぎませんが、一番読みやすいのが『これからの世界をつくる仲間たちへ』、読み応えがあるのが『魔法の世紀』、挑発的なのが『超AI時代の生存戦略』でしょうか。1月末には新刊も出るようです。


『これからの世界をつくる仲間たちへ』



『魔法の世紀』



『超AI時代の生存戦略』





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