2017年6月13日火曜日

「ユマニチュード」あるは<人間らしさ>を教室でも実践することについて



読もう読もうと思っていた「ユマニチュード」関係の本をふとしたきっかけで読んでみたら、やはりとても面白く、これらの本は、認知症などの看護に関わる人だけでなく、およそ人と人の関わりを職業としている人なら一読しておくべきかと思いました。


(i) 私が読んだ本・視聴したDVD


ユマニチュードという革命』(上掲書)
(教育関係者が一冊読むとしたらこれをお薦めします)

ユマニチュード入門
(介護の現場にいる方が一冊読むとしたらこれでしょうか)


ユマニチュード 認知症ケア最前線
(上記二冊のうちのどちらかを読めば特に読む必要はないかもしれませんが、それでも日本の現場での声が聞けるのは貴重です)
 『ユマニチュード 優しさを伝えるケア技術
(フランスでの実践の様子を見ることができるDVDです)

(ii)  入手したが未読の本(忙しくてなかなか本が読めません(泣))

Humanitude(ユマニチュード)「老いと介護の画期的な書」

(3) ウェブで手に入る情報
医学書院ホームページ
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=87631

ジネスト・マレスコッティ研究所
http://igmj.org/humanitude

高齢者ケア研究室チャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCHopS0wOt0R9Iun1ZH5fpLg/feed

Care giving and nursing, work conditions and Humanitude(R).
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/22316980
http://content.iospress.com/articles/work/wor0392



私自身、学校での授業のあり方についていろいろと考えさせられましたので、この記事を書いている次第です。



■ ユマニチュードとは?

「ユマニチュード」とは、フランス語の造語である "Humanitude"の日本語です。ただ、「ユマニチュード」とカタカナで言われても、何のことかわからないと思いますので、以下、私は「ユマニチュード」を<人間らしさ>と表記します。私が以下の書籍などを読んだ限りでは、「ユマニチュード」を<人間らしさ>と読み替えても不具合は生じないと判断しての表記です。

<人間らしさ>とは、認知症のケアの現場から体系化された哲学であり技法です。それは、ケアをする人がその一挙手一投足を通じて、ケアをされる人に対して「あなたは唯一のかけがえの人間であり、自由である権利をもっている」ことを伝えて、ケアされる人を人間らしく扱うことであり、またそのことによってケアをする人も自分の人間らしさを取り戻すことです。

こう書くと、「ケアの現場で人間らしさが尊重されているのは当たり前ではないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに(ごくごく一部のおかしな例外を除けば)ケアを仕事とする人は、人間を大切にしようと思っています。しかし、その意志があっても、認知症に対する十分な理解がないままに、その業界で「正しい」と思われていることをし続ける中で、ケアされる人からの抵抗(叫び声や暴力)にあい、ケアされる人を物理的に拘束してしまうこともあるというのが現実です。そんな人に<人間らしさ>を取り戻すことで、ケアに関わる人間も<人間らしさ>を取り戻してゆきます。

<人間らしさ>とは、例えば世界人権宣言の第一条に書かれている理念です。それを深く考えて(=哲学)、それを実現させるために、自分の言動のあり方を体系的に定めること(=技法)が<人間らしさ>であるとも表現できるかと思います。


世界人権宣言(外務省による「仮訳文」)

第一条
 すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html


Universal Declaration of Human Rights
Article 1.

All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed with reason and conscience and should act towards one another in a spirit of brotherhood.
http://www.un.org/en/universal-declaration-human-rights/

こういった基本理念に基づき、<人間らしさ>の提唱者であるジネストとマレスコッティは以下のように述べます。

社会にはさまざまな価値があります。ユマニチュードにおいては、自律と自由と依存を掲げます。誰かに依存していなければ私たちは生きていけない。これも重要な価値として定義しているのです。自律を可能にする依存。ここにユマニチュードの革命性があり ます。

イヴ・ジネスト; ロゼット・マレスコッティ. 「ユマニチュード」という革命:なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか (Kindle の位置No.1030-1032). 誠文堂新光社. Kindle 版. (第3章 私たちが権利を失うとき)

明らかにここでは「依存」が肯定的な意味で使われています。ネストとマレスコッティはこうも述べます。

私がユマニチュードにおいて依存を大切な価値としている理由は、私たちは依存関係なしに絆を結ぶことができないからです。 関係を築く絆は私とあなたを結びます。 絆がなくなると孤独になります。ユマニチュードは 絆の哲学です。「誰に依存するか」を言い換えるならば、 「いかにポジティブな絆をつくるか」になり ます。ポジティブな依存の哲学です。

イヴ・ジネスト; ロゼット・マレスコッティ. 「ユマニチュード」という革命:なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか (Kindle の位置No.1049-1052). 誠文堂新光社. Kindle 版.  (第3章 私たちが権利を失うとき)



■ どうして当たり前の常識が気づかれず、行われないのか

ケアの現場に<人間らしさ>を導入すると、これまで「攻撃的」とか「望みなし」と思われていた老人などが、少しずつ、時には劇的に、人間らしい心身を取り戻してゆきます。

しかしこれは魔法でも奇跡でもありません。哲学をもった技術です。そしてその哲学とは、今や近代人なら誰でも心得ているはずの人権の理念でありごく当たり前の常識です。

ただその「当たり前の常識」が、過酷な労働条件で人々が働かざるをえない業界の中ではいつしか忘れ去られてしまうのは、認知症ケアに関する業界だけではないでしょう。ジネストとマレスコッティは、自分たちが看護のバックグラウンドを持っていなかったからこそ、かえって自由に考えられ、専門知識に縛られずに「当たり前の常識」に気づき、それを体系化できたと言っています。

専門家がいかに偏りうるかについては、ジネストとマレスコッティによる以下のような述懐もあります。

私たちはケアに関わる人たちに、「 感情と優しさが必要だ」と言い続けてきました。 そのたびに「おかしなことを言っている」と受け取られてきました。 それもそのはずです。ユマニチュードが登場するまでに、ケアに 感情と優しさが必要だ」とは誰も言わなかったからです。むしろケアの世界では、 個人的な感情や優しさは介護の邪魔になるという考え方をしていました。

イヴ・ジネスト; ロゼット・マレスコッティ. 「ユマニチュード」という革命:なぜ、このケアで認知症高齢者と心が通うのか (Kindle の位置No.463-466). 誠文堂新光社. Kindle 版. (第1章 ユマニチュード誕生前夜)

『ユマニチュード入門』の帯はこう書いています。「この本には常識しか書かれていません。しかし、常識を徹底させると革命になります」。

それでは教室で、<人間らしさ>という当たり前の常識を徹底したらどうなるでしょうか。以下、しばらくお付き合いください。



■ <人間らしさ>の四つの柱

<人間らしさ>では、見る、話す、触れる、立つを四つの柱としています(上記英語論文ではこれらは gaze, touch, talk, standingと訳されています。原著での表現は、私は悲しいかなフランス語の知識をもっていないので(←人文系としては恥ずかしい)ここでは引用しません)。

介護でこれら四つの柱がどのように展開されるのかについては上掲書を読んでいただくとして、ここでは私が思いっきり換骨奪胎して、学校の授業でこれらをどう考えることができるかを下に書いてみます。私なりの歪曲などがずいぶん入っていますので、もともとの考え方について知りたい人は必ず上掲書などの本を読んで下さい。


(A) 見る

人間は本来、対等な視線・水平な視線で語り合うことを望みます。「上から目線」という熟語表現が示しているように、見下ろすような視線は支配や見下しを意味してしまいます。たとえ教師にその意図はなかったとしても、学習者は情動のレベルで(いわば「動物的な直感で」)その視線の意味を感知します。

実際、熟達英語教師の田尻悟郎先生などは、机間巡視の際に生徒の質問に個別に答える時は、その生徒の横に蹲踞などの姿勢で座って、視線を水平に、時には教師の方が生徒を少し見上げるような視線で話をすると随分前におっしゃっていました(以来、私もおよばずながら実践しています)。

また、人間は(本当に当たり前のことで恐縮ですが)眼と眼を合わせるコミュニケーションを好みます(多少の文化差はありますが、そういったコミュニケーションを好まないと通説で言われている日本文化でも大切な時は眼と眼を合わせるでしょう)。ですが、授業中にほとんど学習者と眼を合わせていない教師すら、実はたまにいます。正直、教師も人間ですから、苦手な学習者とは眼と眼を合わせたがらないものです。

しかし、眼を合わせないということ、ひいては相手を見ないということは、相手の存在を否定することです。教師も職業人として、おざなりでないアイコンタクトを取ることを授業の目標とするべきでしょう。

<人間らしさ>による介護では「視線をつかみに行く」といって、例えば壁ばかりを向いている老人に対しては、少々ベッドの位置を静かに動かしても、その人の視線の方向に自分が動いていってアイコンタクトを取ることが進められています。

これは伝聞ですが、教育学に携わる人間ならおよそ誰でも知っている有名なある教育学者の講演に行ったある人は、その教育学者が壇上から降りて、マイクをもって語りながら会場を200人あまりの聴衆の一人ひとりと視線を合わせていたことにとても感銘を受けたそうです。考えるべきエピソードかと思います。


(B) 話す

<人間らしさ>で「話す」と言う時、それは単に言葉を発することではなく、まるで赤ちゃんや愛する人に対して話しかけるように話すことがイメージされています(もちろん、これはイメージで、実際の話しかけ方は、相手の人格を認め、その人独自の自由と自律を尊重した話しかけ方ですので、介護される人を赤ちゃん扱いしたりすることはありません)。

そうなるとことばの選択だけでなく、声の調子も大切になります。もちろん (A) で述べたように、相手を見ながら話をするということは必須の前提です。

しかし、授業では学習者に向かっての語りかけではなく、ただ教室空間に虚しく説明をするだけの教師も珍しくありません。あるいはモノローグ的に説明し、ごく一部の向学心にあふれた学習者だけがそれを熱心に聞き、大多数は興味を失ってうなだれているか眠っている教室も多いことは否定できないでしょう。

ちなみに、教師の声などについては、私は学部3年生の授業で、竹内敏晴氏の論考などを引用しながら、教師の語り方や声の重要性について述べています。

■竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html
■竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_18.html
■「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/ss.html
■野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html
■和田玲先生による「原初体験と表現の喪失」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html
■3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/34.html

しかし、特に英語の授業では、学習指導要領の「授業は英語で」にしたがって教師が不承不承に英語を使う時、教師の心でさえ目の前の生徒に向かずに自分の言っている英語の正しさのチェックに向き、実際の眼は生徒の眼と合うことなく宙をさまようことがあります。そうなると、多くの学習者が日本語授業の時以上にうなだれ、学ぶ意欲を失います。もう一度、教師が、「話す」ことの<人間らしさ>について考え直し、その技術を改善することは必要ではないでしょうか。(「オートフィードバック」の話し方は、教師の英語発話にも応用可能かもしれませんが、ここでの論考は割愛します)。


(C) 触れる

教室では介護現場ほどに「触れる」ことがないのは自明のこととしていいかと思います。しかしそれでも教室で、適切に教師が学習者に身体接触をする場合もあります。

英語教育では活動の際に、チームの中などで「ハイタッチ」 (high-five) をさせる場合があります。私も「ハイタッチ」をワークショップで経験してみますと、たしかにこの身体接触によって参加意識ややる気が高まることを感じます。そもそも「ハイタッチ」は互いの呼吸を合わせないとできませんから、「ハイタッチ」によってお互いの気が合うようになってくるというのは不思議ではないかと思います。

また、ある先生は、中長期にわたる課題に生徒が(何度かの失敗の後に)成功した時に、満面の笑顔を浮かべて、もう全身を使って握手をしていました。この握手を経験した生徒は、最初は「喜ぶのは僕であって、教師ではないだろう」とも思ったそうですが、やがて「あの握手は先生からの最高の贈り物だったのだ」とも感じたとも聞いています。

(英語の)授業でも適切かつ効果的な身体接触はありえます。その際の触れ方について考えることも今後の課題の一つではないでしょうか。

ですが、教室においての「触れる」とは、むしろ、「どれぐらい、そしてのどのように教師が個々の学習者に近づくか」という問題として考えた方がいいのかもしれません。教師の中には教壇から一歩も離れず、机間巡視をしない教師(しようともしない、もしくは、怖くてできない教師)、机間巡視はするもののまるで憲兵か工場長のような振る舞いで歩く教師、さまざまな植物や昆虫でいっぱいの小道を散歩するように学習者の様子を愛情深く見守る教師、などといろいろな教師がいると思います。机間巡視をするかしないかという次元から、教師がどれぐらい・どのように個々の学習者に近づくかについても、もっと考えるべきかと思います。


(D) 立つ

介護においては寝たきりの人が多いのですが、自ら立てないということ、ひいては立てないし動けないように拘束されるということは人間の尊厳に関わることだという認識から、<人間らしさ>の実践では、一日合計20分でも高齢者などが立つことを重視します。

その点、(特別の障がいをもっていない)若い学習者のほとんどは立つことはできるでしょう。しかし、それでも「生徒は、自由に動けない状態で、座り心地の悪い椅子に一日中拘束されている」と考えてみるのも発想の転換になるかもしれません。

授業という秩序を、「軍隊や刑務所ばりの管理による固定」という観点からばかり考えるのではなく(時にそのような管理が必要な事態も一部の学校では生じることは私も承知しています)、「それぞれの学習者が自由にしかし自律的に身体を動かすことによって、その授業ならではの動態的な秩序が自生的に生じてくるようにする」という観点からも授業を考えてみるべきではないでしょうか。



■ <人間らしさ>における心をつかむための五つのステップ

<人間らしさ>では、しばしば食事に呼ばれた時のマナーを例に出しつつ、どう介護者がふるまうべきかについて説明してゆきます。

ここでも、それらを私なりに教室向けに変えたものを紹介します。


(1) 出会いの準備

<人間らしさ>では、ケアの部屋に入る前に、きちんとノックをしてその反応を待ってから介護者が部屋に入ることを徹底します。被介護者の空間に入るためには、まずは許可を得ることが、被介護者を人間らしく扱うことだという考えからです。

教室という空間をどうとらえるかという感覚は、校種によっても、一つ一つの教室によってもずいぶん異なるかもしれませんから、一概にこうするべきとは言えませんが、教室という空間に教師(そして学習者一人ひとりも)どのようなマナーで入っていくべきか、そして日本の教室特有の(?)授業始めの一斉の挨拶も、形骸化するがままにまかせるのではなく、どのようにしてお互いの尊厳を認め合えるような習慣にするかという検討は必要かとも思います。


(2) ケアの準備(学びの準備)

<人間らしさ>では、ノックして入ったとしてもいきなりケアを始めるのではなく、20-40秒ぐらいかけて今からケアをしてもよいかの同意を得るそうです(この合意にかける時間は最長で3分で、それでも同意が得られなかったらその日はケアをやめるそうです)。

教室で言うなら、これは「学びの準備」で、教師が学習者に学ぶ準備ができているかを確認することに相当するでしょう。「学習者が勉強することなど当たり前だ!」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、「被介護者がケアを受けることなど当たり前だ!」と思い込んでやっていくうちに、被介護者からの想像以上の抵抗にあって、その考えを改めた介護者の例から謙虚に学びたいと思います。少なくとも「学習者が勉強する」という当たり前が成立していない教室はいくらでもあるのですから、教師もこの「学びの準備」について考えるべきかと思います。

私自身について振り返ってみると、私は時々、「朝早くから来てくれてありがとう・・・」、「お昼ごはん後の、ついつい眠くなる時間ではありますが・・・」、「夕方のお疲れのところではありますが・・・」などなどと前置きをして、「それでも授業に出てよかったと思ってもらえるようにしますから、まあ、おつきあい下さい」といった台詞を言うことがあります(授業はともかく、講演の際はしばしばこのような発言をしていると思います)。

さまざまな小学校現場で教える池亀葉子さん(グラスルーツ http://grassroots-edu.com/)は、しばしば授業の最初に子どもの身体と心の調子をグー・チョキ・パーで尋ねるそうです。「みんなの身体の調子はどうかな?元気だよという人は五本指のパーを挙げてね。まあまあの人はチョキ、しんどいなあという人はグーを挙げてね」などと述べて、子どもに一斉に手を挙げてもらいます。池亀さんはその様子を見て、子どもに近づきながら「わっ、今日しんどいねんな」と適宜声掛けをしてゆきます。その間子どもももお互いのグー・チョキ・パーの様子を見て、それぞれの体調の様子をそのまま認める空間を作ります。そして次には心の調子も同じように尋ねてゆきます。決して長い時間はかけないのですが、これが重要という池亀さんの実践を私は<人間らしさ>の実践から思い出しました。


(3) 知覚の連結(経験の調和)

「知覚の連結」とは少々難しく聞こえる用語ですが、要は、介護者の「見る」「話す」「触る」によって与えられる視覚情報・聴覚情報・触覚情報の複数種の知覚が矛盾なく連結し、「あなたを大切にしていますよ」というメッセージが伝わるようにすることです。「経験の調和」といってもいいかもしれません。

教室でも、教師は学習者に、眼差し、ことば、近接性といった形でメッセージを与えますが、それらが矛盾していることも珍しくありません(例えば、誰を見つめるわけでもなく、教壇の上からおざなりに投げかけられる "Don't be afraid of making mistakes"といった発話など)。教師の行為が学習者の学びのために、矛盾なく調和したものであるようにすること、いやおそらくはそれ以前に、教師が自らの言動の矛盾に鋭敏に気づくことができることが大切ではないでしょうか。


(4) 感情の固定(肯定的感情の想起)

ケアが終わったらすぐに去るのではなく、ケアの最後に「シャワーは気持ちよかったですね」や「いろいろ協力してくれてありがとうございました」などと述べて、ケアの際に経験した肯定的な感情を想起させて、「この看護者は自分に対して嫌なことはしない」という「感情記憶」を残すことが次回以降のケアにとって非常に大切だと<人間らしさ>は考えています。

教室でも、最後の数分間を、授業中に感じた知的な驚き、自分の変化の実感などを、確認する機会にするべきかと思います。(そんな機会は「振り返り」として既に行っているという教師も、それが形骸化していないかについて検討すべきではないでしょうか)。


(5) 再会の約束

肯定的感情を想起してもらったら、次も来て共にいい時間を過ごしましょうと約束して被介護者に見通しをもってもらうことが重要だと<人間らしさ>では考えています。

教室でも、時間通りに終わるだけでなく、(4)の肯定的感情の想起に続き、次の学びへの見通しをもってもらう時間を確保することを習慣にしたほうがいいのかもしれません。



教室で以上の、(A) 見る、(B) 話す、(C) 触る、(D) 立つ、と、(1) 出会いの準備、(2) 学びの準備、(3) 経験の調和、(4) 肯定的感情の想起、(5) 再会の約束、を毎日徹底し連動させると --もちろんわざとらしくではなく、自らの自然な情感と共に実践すると-- 教室は変わると思います。

「でもこんなこと、当たり前過ぎるんですけど・・・」と何となく腑に落ちない思いをもたれている方も多いかと思います。


介護に携わる人々もそうでした。「そんなこと必要ない!」と断言する人もいました。

しかしこの当たり前のことを徹底することで<人間らしさ>を取り戻す実践は、介護の世界を揺り動かしつつあります。

ある意味、同じ「ケア」の職種である教職関係者も、<人間らしさ>、つまりはユマニチュードに着目してもいいのではないでしょうか。







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