2015年9月20日日曜日

写真というコミュニケーションの試み


写真共有サイトFlickrを始めて今日でちょうど一年になる。
https://www.flickr.com/photos/yosukeyanase/

ここ一年半あまり、ほぼ毎日写真を撮っている。

たまに行事や式の写真係となり、ズームレンズとオートフォーカスを駆使して一日何百枚も撮ることがあるが、たいていの場合は、朝の出勤途中20分程度寄り道をして道端の草花や木々を撮っている。それだけだ。

最近のお気に入りはマニュアルレンズで、焦点を合わせている間、私は何も考えずに、ただひたすらファインダー越しに焦点を合わせている。合焦を通じて対象と私が一つになったように感じられる瞬間を探している。ニコンD600なら「カシャン」、D7200なら「カシャッ」とやや硬い音、富士フィルムX-T1なら「パッシュ」とやや弱い音でシャッターがおり、撮影が終わる。


撮影の時間は私にとってとても親密なものだ。

通勤途中に「あっ、」と思うと自転車を降りる。カメラを構える。対象に魅入られ、その魅力を一番表せる構図を探し、焦点を合わせる。


「コミュニケーションとは何か」という問いに対して、私はかつてルーマンのコミュニケーション論に基づきながらポンコツな定義を試みた。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/03/jopt.html

今なりに言い直すなら、「両者が、自分が相手を受け入れられないとせず、そうかといって自分が相手を思い通りにするともせず、相手の存在と反応を受け入れ、自分の思いではなく、相手のその存在と反応を自分の存在と反応の基盤とし続けること」というのが私なりのコミュニケーションの定義となるかもしれない。

上の定義ではもちろん「両者が」という箇所が重要で、その「両者が、・・・」以後を一方だけがやってもそれはコミュニケーションにならない。それは、いわば片思いにすぎないのだが、そうなると私はほぼ毎日片思いをしているのかもしれない(苦笑)。

写真撮影のマナーの一つとして私は対象を動かしたりはしない(特に自然を破壊するようなことは断じてしない)。私が魅入られた対象は、時に撮影しにくい場所にあり、私はそれをなんとか構図に入れようと歩きまわる(私は個人的に写真を撮る時にはほとんど単焦点レンズを使い、ズームはほとんど使わない)。

私は対象を思いのままに撮影しようとは決して思わない。もし私が「思った通りの写真」を撮りたいとばかり思っていたら、私は対象の個性を私の思い込みで潰すだろう。何を撮っても同じような写真ばかりを量産し、やがては自分の思いに窒息してしまうだろう(そして写真という趣味から離れるだろう)。

だから私はできるだけ自分が動いて対象を撮影する。実際には「撮影しても、対象の個性を活かす写真が撮れない」と判断し撮影を止めることもあるが ―なにせ撮影は出勤途中の短い時間である―、その判断はたいていの場合、カメラを向ける前に行っている。私は再び自転車をこぎはじめる。

しかしいったんカメラを向けたら、私は動きまわり、カメラの角度を変え、焦点を合わせ、対象と私にとっての最適の時空を見出す。見出したことは「カシャン」、「カシャッ」、「パッシュ」、という音が教えてくれる。


これが私のコミュニケーションの試みである。それは写真という形に結実する。写真は時にファインダー越しに私が感じていた予感を超えており、私でも驚くことがある(もちろん駄目な写真しか撮れなかった方がはるかに多いのであるが)。

もし草花や木々が私の写真を見て、それを自分の次の存在・反応のきっかけにしてくれれば、コミュニケーションは成立し始める。しかし、植物が写真を見ることもなく 、私は毎日コミュニケーションを試みるだけ試みる。


しかし、私はなぜそんなに毎日、実ることのないコミュニケーションの試みを行っているのだろう。

対象に魅入られているから、というのが一つの答えだ。しかし、私の対象は何ということもない近くの草花や木々だ。別に美しさや珍しさで顕著な存在であるわけもない。私は対象の稀有な美や価値に魅入られているのではない。

ただ私の心は振るえている。「あっ」と言った瞬間から、シャッターが降りるまで、そして写真ができてその写真を見る間、思い出す間、その対象は私の心を振るわせている。

私の心が一方的に振動しているだけなのだろう。だが、ひょっとしたらそれは共感なのかとも思う。

「すべての存在物は固有の振動をもつ」などと言い出せばオカルトになってしまうが、科学としてではなく便利な比喩として考えれば、対象の振動と私の振動は共振し共鳴しているのかもしれない。だから私は自転車を降り、カメラを動かしながら合焦しているのだろう。そしてそれを自分らしさを見いだせる大切な、大切な時間と感じているのだろう。


私は対象の運命に共感している。

対象が発する振動に私が共振・共鳴している。

絶景の場に咲くわけでもなく、絶頂の美しさをかこっているわけでもない草花や木々の運命に、私は何かを感じ、心が振るえている。

その共感に自分が生きている実感をしみじみと覚える。 


世間的に美しいから撮影しているわけではない(世間的な美しさの押しつけに私は辟易している)。世間的に価値づけられているから撮影しているわけでもない(世間的な価値の厚かましさに私は閉口している)。

私が写真を撮るのは、対象が私を振るわせる振動を発しているから、対象と私が共振しているから、互いに共感しているからだ。対象の運命と私の運命がどこか共鳴している。そんな対象は、私にとっての佳きものである。天からの恵みとすらいってよい。


― と、私は自分の思い込みに酔ってしまっている。


私は写真を撮っているだけだった。私のコミュニケーションの試みが、例えばFlickrで見られる写真に形になっているだけだった。

その写真は多くの人の関心の対象とならない。何人か多少の興味を示してくれる。
そんなものだと思う。




私はいつか草花や木々が写真を見てくれればと夢想しながら撮り続ける。




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