2014年9月20日土曜日

世界との和解そして調和としての写真撮影



感性の点で私が深い影響を受けた人に、東京都写真美術館を教えてもらったのはもう何年も前のことになるが、正直その頃の私はそれほど写真に興味をもっていたわけではなかった。

それでも卒業式などで学生さんの写真を撮るためにコンパクトデジカメを買ったものの、レスポンスが遅く、目をつぶった瞬間の学生さんの写真を量産していた。だから、「何でもいいから」とキャノンの安い一眼レフ(当然のごとくデジタル)を買ったが、それほど写真は撮らなかった。とはいえ、一眼レフを買うとそれなりに写真に興味を持ち始め、昨年の初夏に思い切ってフルサイズのニコンのD600を買った。

だが、本格的に写真を撮り始めたのは、今年の3月からだった。

昨年の晩秋から冬にかけて、私はまたも体調を崩し耳下腺炎などを患っていたが、体と心は連動しているもので、そのうちごく軽いうつ状態になった。それでも人生万事塞翁が馬で、それを機会に臨床心理学関係の本をたくさん読み、自分を振り返ることができたのは幸いだった(学部2年生の時に、転学科しようかと思うぐらい夢中になっていたユング心理学に再会できたのは特に大きかった)。

季節が春に向かうにつれ、調子もだいぶ戻ってきたが ―考えてみれば私は冬には調子を落としていることが多い― その時、突然感じたのが「写真を撮りたい」という衝動だった。広島駅から新幹線で東京に向かう直前に、広島市内の家電量販店に立ち寄り、「とにかく携帯しやすいデジカメを」ということで買ったのがニコンのP340だった。

以来、私は写真に夢中になった。実際、購入直後に乗った新幹線で私はバッテリーを充電し、東京駅に降りた時から写真を撮り始めていた。

P340は、一眼レフでできることの多くができるのに、極めて小さく、常に携行でき、画質もかなりよいコンパクトデジカメだった ―カメラのことをよく知らない一般の人がこのデジカメで撮影した写真と本格一眼レフで撮影した写真を区別することは難しいかもしれない―。その多機能性・携行性・高画質性に促され私は写真に夢中になった。

しかし、それよりも大きかったのは、私が情動・感情表現の媒体を得たということだった。

私が自己分析する限りにおいて、私の不調には、仕事のしすぎによる慢性的な過労とストレスが基盤としてあるものの、それ以外に、私がうまく自分の情動と感情 ―両者の違いについてはDamasioの論をご参照ください― を表現できていないことが原因としてあった。情動と感情の不全を、仕事中毒でごまかすという悪い循環に私は入っていた。

近代知の研究と教育という職業に過剰適応することにより、私は、幼少の頃から抑圧していた身体的な情動と意識的に心で自覚する感情をさらに抑圧していたのかもしれない。だから職業的機能はこなせても、自らの身心を、ずいぶん押さえつけていたのだろう。その歪みは、さまざまなところで出て、自分はおろか他人も苦しめていたはずだったが、私はその自己抑圧の自覚がほとんどなく、「人生はこんなものだろう」と思い込んでいた。

しかし身心の不調に迫られて読んだ臨床心理学の本による自己分析と自己セラピー(アクティヴ・イマジネーション)の試みで、自分は相当に情動と感情を否定した人生を生きていたらしいことがわかった。

誤解のないように言うと、私は社交的な情動・感情表現 ―儀礼的な微笑、愛想笑い、はては追従など― は人並みに、あるいは人並み以上にできる。私はこれを機能社会での重要技術として意識的に学び獲得した。しかし、自分自身に対して、あるいは社交より深い親密な他人に対して、自分の情動と感情を自然に表現することは苦手としていた(いや、苦手であると自覚しないぐらいに抑圧していた)。

さらにいうなら表現以前に、私は自分の情動や感情をうまく発見すらできていなかったのかもしれない。「情動やら感情にかまける時間があるなら、仕事をせよ」と私は自分を追い立てていた。そしてその追い立ての激しさと一徹さで私は職業上のそれなりの成功を享受していた。

「それでは」と、自分の情動や感情を発見し、表現しようとしても、これが長年の歪みでうまくできなかった。自らの偏りを自覚した身心は情動と感情の発見と表現を欲し始めていたのだが、いざやろうとしてもうまくできない。

そこに現れたのがコンパクトデジカメだった。私はとにかく毎日持ち歩いた。日によっては一日百枚ぐらいは撮影した。撮影といっても、わざわざ旅行に行くほどの余裕はない。撮影は通勤途上、せいぜい出張の折ぐらいに限られた。花や風景のスナップがほとんどだった。

私は被写体という世界のあり様に自分の情動や感情を見出そうとした。こと情動・感情に関しては、言語的媒体よりも非言語的媒体の方が適している。情動や感情に関して、言語はあまりにも粗すぎる(文学的表現はもちろん精妙だが、それでも、そのことばは、朗読のニュアンスといった非言語的な表現手段を必要としている。そして文学的表現は、私が関与している英語教育界でも近年どんどんと軽んじられている)。

P340といった優れたコンパクトデジタルカメラは、私に情動・感情を発見し表現することを促す、この上ない非言語的な道具となってくれた。私はこれまで抑圧していた自分の情動・感情を、被写体に発見しそれを表現しようと毎日、毎日、写真を撮った。

しかし、それは発見よりも表現の方が勝っていたかもしれない。撮り始めた頃の写真の一部は例えばFlowersというFacebook上のアルバムにあるが、ここの写真の多くは、わざとカメラを振ったり、焦点を外したり、極端なRAW現像をしたりと、私の表現欲動によって世界のあり様を大きく変化させた写真が多い。極めて人間洞察に長けた私の友人の一人は、そんな写真を見て「柳瀬さんを写すのではなくて、もっと被写体を写したら」と助言してくれたが、当時の私は、世界のあり様よりも、自分の情動・感情の方が大切だった。今思うと、あの「実験的」な表現は、私が必要としていた過程だったのかもしれない。

そうやって写真を撮影し続け、Facebookに掲載し、人からのコメントももらい、また他人の写真も見るようになると、コンパクトデジカメがもつ画質の限界に気づき始めた。

しかし私にとって常にカメラを持ち歩くということは必要条件だった(残念ながら撮影旅行に行く時間的余裕はほとんどない)。「それなら、一眼レフを常に持ち歩けばいいのだ」と思い直し、KATAのスリングバッグ (KT DL-LT-315-B)を購入した ―これまた優れた製品だ―。これは大きな転機となった。以来、カメラは私にとって一層欠くべからざるものになっている(私は冗談半分によく「カメラは私の精神安定剤です」と言っている)。

そうして写真を撮り続けながら、写真の撮影技術・理論・哲学・歴史等などについての本を読みあさり、自分なりに気に入った写真集も何冊か買い、写真についての学びを続けた。もちろん学びの中心は、自ら撮影し、その写真を見ては反省し、その反省を活かして新たに撮影するというまさに "Reflective Practice"だ。だが、その反省における気づきを促すためには、先人の知恵が凝縮した書籍というのは本当にありがたい。

そうやっているうちに、やがて私にも発見と表現のバランスが少しはとれるようになってきた。自分の表現欲動により、被写体を強引に編集加工するのではなく、自分の心にかなう被写体を発見し、それをできるだけそのまま表現するようになってきた。現在、撮影し掲載している写真は、時間がないこともあり、RAW現像は一切していない、いわゆる「JPEG撮って出し」である(だがもちろん、ピント・絞り・シャッタースピードや、カメラで設定するピクチャーコントロールなどに関しては自分なりの工夫はしている)。

写真家の相原正明氏 ―氏による『誰も伝えなかった ランドスケープ・フォトの極意』は私がこれまで読んだ写真関連の数十冊の本の中でも最良の部類に入る本だ― は、(風景)写真を「宇宙とカメラと心のシンクロ」だと表現している。その表現を換骨奪胎して言うなら、私にとっての写真撮影は、最近ようやく「世界と自分の調和あるいは和解」になってきた。

以前の私の写真は、「世界の利用による自己表現」だったのかもしれない。私は世界の中に、自らの情動や感情を十二分には見いだせなかった。だから撮影・現像の極端な技法で世界のあり様を大きく加工していた。だが、最近、ようやく私は世界のあり様、日常の風景に自分の情動や感情を見出し、それをできるだけそのまま表現できるようになり始めたのかもしれない。

写真を撮り始める前の私は、世界のあり様を無視し否定していた強度の仕事人間だったのだろう。

写真を撮り始めて、私は世界のあり様に気づき始め、それと自分の心との関係を築こうと努力し始めた。

本格的に撮影を始めて半年ぐらいたち、私はようやく世界と和解し始め、世界との間に調和を見出し始めたのかもしれない。

今は、「このような世界のあり様を、私はこれまでの51年間も気づいていなかったのだ」と毎日のように驚いている。そしてその驚きを写真という形にしようとしている。

私はまだ写真の名作をそれほど知っているわけではないが、それでもWilliam EgglestonHenri Cartier-BressonAnsel AdamsAugust Sander植田正治木村伊兵衛ハービー山口川内倫子内田ユキオ岡嶋和幸田中長徳、そして先程も言及した相原正明などの作品には惹かれ、写真集も買っている。

そうやって買った一つにAlbert Renger-Patzschの写真集があるが、彼の有名な作品のタイトルはDie Welt ist schön 『世界は美しい』である。


「世界は美しい」と、生まれたことの恵みを実感できるようになったとしたら、写真というのも佳い趣味だろうと思う。



と、理屈を並べましたが、私はまだまだ非常に写真撮影が下手です。しかし下手な人間ほど、自分が撮った写真を他人に見せたがります。私もFacebookで掲載しているだけにとどまらず、下手をすると仕事でメールを送る相手にまで写真を添付するようになってきたので、「これではまずい(汗)」と、誰にでもアクセスできる写真公開サイトFlickrに写真を掲載し始めました。



ご興味とお時間がありましたら、一度覗いてやってください。

そして、もし写真撮影に興味を持ち始めた方がいらしたら、「どうぞお始めください。いいですよ」と申し上げたく思います。











2 件のコメント:

さちこ さんのコメント...

こんばんは。

ひとが何かを始めるには、きっかけや意味があるのでしょうね。

そしてそこで何かに気づいて・・・・。

私の場合、「見る」という行為の対象が一番身近な花で、その手段が写真を撮ることだったように思います。なんせ何も知らないのだと恥ずかしくショックを受けたもので。
まあ理由はともあれその産物も今では数多く出来て、楽しみにも繋がっていますが。

Flickrの写真少し覗かせていただきました。凄い枚数ですね。またゆっくり拝見します。

写真撮影も、自然体で出来ればいですね。

柳瀬陽介 さんのコメント...

コメントをありがとうございます。
「自然体」 -- これがまさにキーワードですね。
それでは!
2014/09/22 柳瀬陽介