2014年9月14日日曜日

「研究力強化に向けた教員活動評価項目」への回答前文



今年度、私は講座主任となりましたが、順番で言語教育系の三講座をまとめる専攻長も兼任することになりました。さらに今年度は、組織改革を行わなければならない年であり、その関係で改組委員会やらその他の委員会に引っ張り回されることとなりました。

その一つの委員会では、数値管理型の「研究力強化に向けた教員活動評価項目」を提出することが大学本部から求められ、私が所属する研究科もその枠組での項目案を提出することになりました。

しかしその枠組での回答をする一方、その枠組自体についての検討を促す文章を添えるべきではないか、ということを委員会で私はずっと主張していましたら、案の定、「それなら君がその文章の草案を書きなさい」ということになりました←黙っていることができない損なタイプ(笑)。

以下の文章は、その草案の下書きです。読者の皆様で、もし何かご意見があればお知らせください。この程度の文章は公開してもいいし、むしろ税金を使って運営されている組織である以上、多くの皆さんの意見を求めるべきだと考えて、ここに公開します。





■ この前文の必要性について

標記の件につき、教育学研究科は回答しますが、そもそもこの件の枠組自体に対しての懸念が、少なくとも一部の教員から表明されましたので、この懸念も合わせて教育学研究科の回答としてお受け取りいただきたく、ここに前文を記します。

今回の「研究力強化に向けた教員活動評価項目」は、各研究科の研究力・教育力を向上させるために、個々の教員の活動を数値化してそれを教員の処遇に反映させるという発想であると理解します。

ここには、

(a) 研究・教育活動は要素分解的に数値化でき、その数値を統合すれば研究・教育活動を正しく反映することができるという前提(=数量化の妥当性の前提)と、

(b) 個々の教員を数値評価とそれに連動した処遇で競わせることにより組織が活性化するという前提(=個人間競争の妥当性の前提)


があると考えられます。

言うまでもなく、この発想は近年多くの領域で見られている発想であり、近代組織としては「当然の常識」であるとお考えの方も少なくないでしょう。しかし人々がある事を「当然」と思い、疑いを挟むことを忘れた時、あるいは疑いを挟む者を異端視する時、社会は大きく誤りうるというのが歴史が教えることでもあります。ましてや私達の組織は高等教育機関であるわけですから、当然視されている営みに対しても批判的意識を失うわけにはいきません。そこで、ここでは上の、数量化の妥当性の前提と個人間競争の妥当性の前提についての若干の検討を加えます。



■ 数量化の妥当性の前提について

数量化は西洋近代の特徴の一つであり、時間・空間・現象をできるだけ分割した要素に還元し数量化し、要素間の関係性を記述した数量モデルを構築します。この技術的合理性により、西洋近代文明は自然を制御し支配する力を他の文明にもまして獲得しました。要素還元・数量化・モデル制御は、科学技術のみならず資本主義経済とも親和性が高く、数量化の妥当性は、科学技術と資本主義の繁栄と同じように、近代の常識と思われるようになりました。

しかし、この技術的合理性が、本来は、要素還元・数量化・モデル制御になじまず、その場に生きる人々のコミュニケーションにより了解し合い解決すべき領域までに侵食していることに警鐘を鳴らしたのがハーバマスです。人々の話し合いなどではなく、技術的合理性により物事を進歩させなくてはならないという考え方が、人々の批判を免れたイデオロギーとなりつつあることを彼は20世紀後半の早い時期から指摘していましたが、彼の警鐘の重要性は、後に紹介する事例でますます明らかになっています。



■ 個人間競争の妥当性について

複数の人間が集うところでの社会的な相互作用の創発よりも、個々人を競わせることによる個人的競争力の向上を重んずる思考法は、新自由主義的発想の特徴の一つです。新自由主義は、私的所有権・自由市場・自由貿易を強力に促進する資本主義的ビジネスモデルを、公共性の高い、医療・福祉・環境・警察・軍事・教育・研究などに当てはめることを推進し、国家の役割はそのための制度的枠組みを作ることだと考えます。今回の評価制度の導入も、まさにその流れにあると考えられます。

この新自由主義的な発想は、一定の時代的な意義はあったものの、近年の加速化に対して批判が高まっていることは、資本主義的発想の行き詰まりの指摘と共にますます私達の注意をひいているところです。そんな中に、広島大学がもし無批判的に新自由主義的な個人間競争を促進する制度を導入することには懸念を覚えずにはいられません。



■ 米国経営コンサルタントによる自己批判

話をこれ以上抽象化・理念化せず、具体的なレベルのものにしますと、数量化モデルにより従業員個人を競わせる経営方法には、それを推進していた当の経営コンサルタントから反省の念が聞かれています。フェランはMITで博士号を得た後、米国の大手コンサルティング会社に長年勤めたコンサルタントですが、彼女は、「目標による管理」や「競争戦略」などのお題目を唱えて、論理的な分析を行いさまざまなモデルや理論を駆使して、その結果、会社を傾かせてしまった経営コンサルタントを代表して詫びるために書を著しました。それによりますと、いくつかの数的指標(数値目標)を定めてその評価基準をもとに経営を行うと、以下のようになり、経営が失敗することがほとんどです。

(1) 部下は評価基準ばかり気にして、上司と意味ある会話をせず評価基準に関することしかやらなくなる。

(2) データ分析や報告書の作成ばかりに追われて、全員で実際に問題に取り組む時間がなくなる。

(3) 時には評価のための数値を不正に操作してしまう。

(4) 上層部も数値ばかり気にして、まるでダッシュボードの数値ばかり見ながら自動車を運転する人間のようになり、判断を誤る。



「評価指標は、せいぜい参考にすべきものであり、管理の方法になってはいけない、ましてや評価基準とインセンティブ制度を絡めて懲罰的な効果が出てくるようになると、評価指標そのものが目的になり、本末転倒が起こってしまう」というのが、経営コンサルティング会社の最前線で長年過ごした彼女の結論です。



■ MBA文化の蔓延に対する批判

もちろんこういった批判的見解は彼女だけのものではなく、経営学の大家ミンツバーグも、サイエンスに偏りすぎた官僚的な「計算型」のマネジメントスタイルを批判し、それを生み出しているMBA文化を批判し、次のように述べています。

立派な組織をつくるには何年もかかるが、衰退させるには数ヶ月もあれば十分だ。民主主義社会を築くには何世紀もの期間を要するが、その土台を揺るがすには数十年でいい。リーダーシップという古くから存在するものも、MBA流のマネジメントという比較的新しいものによって簡単に破壊される恐れがある。私に言わせれば、教育、マネジメント、組織、社会に蔓延している腐敗--腐敗という言葉を私は軽々しく使っているつもりはない--の原因は、MBA教育にある。


また日本でも、1990年台後半からはなばなしく導入された「成果主義」も停止や修正をよぎなくされている企業が多くあります。



■ 非営利組織(世界銀行)の例

営利企業ですら、こうなのですから、非営利組織においては、数値管理・個人間競争経営については、一層の警戒が必要です。元世界銀行副総裁の西水美恵子氏は2014年7月20日に毎日新聞で世銀での経験を語っています。それによりますと、世銀では担当プロジェクトの数や融資総額などのアウトプット(output)を功績とし、それにより報酬と人事が大きく左右されていたそうで、数値に現れにくい側面も含めたアウトカム(outcome)を評価している教育機関や優良企業がうまく行っていることを知りつつも、そういった「ソフトな思考」を侮る空気が強かったそうです。

それを一変させたのが、金融企業出身のある総裁で、就任早々ブラジルとインドの貧民街を視察し、取締役会でこう発言しました。「この旅で、世銀融資の成果は、発展途上国の子供たちの笑顔にあると学んだ。プロジェクト件数や融資総額などのアウトプットは、むろん無視できない。しかし、次世代の笑顔なしには、世銀の未来さえ危うくなりかねない」。総裁はさらに「笑顔の成果を追う仕事は、同じ笑顔の職員にしかできない」とも付け加えたそうです。これにより世銀の改革が始まり、紆余曲折の末、「大切なのは職員と上司の対話だと学んだ」と西水氏は述べています。

前述のフェランも、職場での話し合いこそが重要だとして、「モデルや理論などは捨て置いて、みんなで腹を割って話し合うことに尽きる」と述べています。彼女が関わった経営コンサルティングで成功した例は、実は経営モデルに拘泥せずに、職場でのコミュニケーションを促進した例でした。人々のコミュニケーションによって解決すべき複雑で多面的な問題を、単純な技術合理性で解決しようとする考えがイデオロギー化し、技術合理性を疑い人々の話し合いの重要性を訴える人々を鼻で笑うようなことになってしまうことの危うさを批判していたハーバマスの指摘は半世紀たった今、まさに重要な警鐘となっています。

それにしても自然科学や工学で当たり前の数値データによる定量的管理は、なぜにこのように人間世界の営みにおいてうまくゆかないのか得心のいかない方もいらっしゃるかもしれません。しかし以下の三つの観点から考えれば、定量的管理だけで「科学的に」人間の営みを制御しようとすることが無理であることが理性的に納得できるかと思います。

第一の観点は複雑性です。自然科学は、複雑性 (complexity) についての理解を深めるにつれ、単純な因果関係が成り立つのは、極めて限定された系の中でのみであり、様々な要因が絡み合い偶発性が高まる大きな系においては「AをすればBが生じる」といった単純な因果は想定できないことを明らかにしてきました。大学という組織での研究や教育も閉ざされた単純な系での現象ではないことはご承知の通りです。

第二の観点は主体性です。人間を客体(=対象, object)として数的モデルを構築し、それにより人間を客体として操作しようとしても、人間は外界と自己を意識できる主体でもありますから、その主体性により、客体として把握された法則を超える(あるいはその法則から逸脱する)ことができます(あるいはありえます)。古典的な例は「ホーソン効果」であり、人間は期待された場合、それだけの理由で、特に物理的要因の向上などなくともパフォーマンスを上げることがあります。人間を客体として考えるだけでは説明のつかない現象です。医学の世界ではプラセボ効果として知られているのも周知の通りです。プラセボ効果のメカニズムについては未だ十分な科学的解明がなされていませんが、プラセボ効果(あるいはホーソン効果)という事実があることを否定することは反科学的なことです。科学的な態度とは、人間の主体性を否定したり排除したモデルを作りそれに拘泥することではなく、人間の主体性という現在の科学ではまだうまく説明できない事実を勘案にいれることだということには異論はないかと思います。

第三の観点は無意識です。人間は主体性における自己意識で自らを把握している以外の要因、すなわち無意識においても大きく駆動されていることは、フロイトやユングの精神医学やロジャースなどのカウンセリングが明らかにしている通りです。主体性をもつという点でも、人間は単純に客体化(対象化)して予測・管理されるものではないことがわかりますが、それ以上に人間には無意識の領域があり、それが本人や関係者にも予想のつかない働きをすることも私達は既に十分に知っています。精神医学やカウンセリングは、狭義の自然科学ではありません。DSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)のようにこれらの領域を標準化しようとする試みもありますが、解釈の問題や、そもそもDSMが特定の利益誘導のために作られ運用されているのではないかといった批判も出るなど、人間の心の働きは、未だ厳密な自然科学理論によっては説明できるものではありません。むしろ自然科学的な装いによる権力乱用に対する警戒がなされているぐらいとすら言えます。

これら複雑性、主体性、無意識といった観点から考えても、数的データとそれによる数的モデルを「科学的」だと信頼し、その結論に多大な権力を与えることは科学的ではなく、危険でもあることはご理解いただけると思います。


今回の「研究力強化に向けた教員活動評価項目」を推進する方々が、もしこの前文を読み、「何を青臭いことを」と冷笑的になったり、「そうはいっても、この方向で改革をするしか途はない」と思考放棄的になるとしたら、それこそ、私達は時代の流れとともに大きな過ちを犯そうとしているのではないかと考えるべきではないでしょうか。「教員活動評価項目」に過大な期待をかけ、過大な権力を付与することは危険だと考えられます。批判的意識を失わないことこそ大学の根幹かと思い、この前文をしたためました。





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ユルゲン・ハーバマス(1968/2000)『イデオロギーとしての技術と科学』(平凡社ライブラリー)
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デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)『新自由主義』作品社
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ヘンリー・ミンツバーグ著、池村千秋訳『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』日経BP
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