2017年1月17日火曜日

学部4年生のM君による英語教師養成システムへの「違和感」の表明



「コミュニケーション能力と英語教育」という授業は学部3年生向けの授業ですが、ほぼ毎年、学部4年生や大学院生が一人、二人、授業を(再)聴講してくれています。以下は、そのようにして現在、授業を再聴講してくれている学部4年生のM君が書いてくれた文章です。

私はこのように自分の所属する機関(広大教英)の英語教師養成システムに対してきちんと批判的な見解を述べてくれる学生さんのことをとても誇りに思います。こういった学生さんを、妙な外圧から守りつつも、変な党派性に陥ることがないように見守り、対話を続けたいと思います。そして独立独歩で思考し発言し行動しながら、他者と連携がとれる若者を育て続けたいと思っています。


以下は、M君の文章(原文)です。文中にある「今回の予習記事」は、この記事の一番下に掲載しています。

広大教英、そしてそれ以外の大学でもおそらく似たような形で行われているはずの英語教師養成システムへの建設的批判としてお読みいただけたら幸いです。



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広島大学の教育学部において英語教育を専攻し、はや4年が経ちました。その中で私が教英に関して違和感を覚えた点がいくつかありますが、そのうちの2つが、「他の教科、研究分野との連携、またはその推奨にそれほど積極的でないこと」および「現行のシステムを問い直す機会がほぼ無いこと」です。どちらの違和感に関しても、今回の予習記事を読ませていただければ、それらを違和感として取る事が妥当であることが明らかでしょう。

一つ目の違和感は、「英語教育」という分野を他の分野から独立したものとして捉えてしまっていることにより、「英語教育」が依っている多様な分野への注意が弱まっていることが原因だと考えられます。日本の高等教育機関では専門化が進むにつれ、ますます広い分野での教養的な面がないがしろにされてしまっていると聞きます。広島大学でも、一年生のときには単位のために他の分野を教養科目として履修しますが、それが終わればきれいさっぱり忘れてしまうのが常で、それを咎める者もいません。2年生以降になれば専門への傾倒が急速に強まります。したがって、自分の専門は英語教育だから他の分野を勉強している暇はない、というわけです。しかし、この英語教育と他の分野を全く関係ないかのように区分してしまっていることが、英語教育の視野を狭めているように感じられます。「英語教育学」という学問は存在しないと言われた先生がいらっしゃいましたが、少なくとも英語教育は他の様々な分野からの多大な知見に支えられてきたことを忘れてはならないと思います。単純に考えただけでも、言語学、文学、社会学、心理学など複数の拠り所が挙げられます。英語教育の狭い文脈の中だけで考えていると解決できないことも、他の分野を参照すると解決の糸口が見えることも多々あります。しかし、今の教英の講義においては、他の分野を積極的に参照したりする機会がほとんどないどころか、それを推奨する雰囲気すらないのではないでしょうか。

もう一つの違和感は、現場への適応を第一として考える教師の養成機関としての性格を考えると、至極妥当な印象も受けます。たしかに、大学としては4年という期間の中で、少なくとも現場に適応するための素地を養っておかなければなりませんし、現場、そして現場を動かしている上のシステムに関していちいち疑いを持ったりすれば、いつまで経っても適応できない、というわけです。しかし、この状況は二つの点で問題があります。

一つは、学生は現場に文句を言わず適応していけ、と言われているような状況が生まれている点です。大学では、基本的に「よくできる」学習者を念頭に置いている傾向があり、卒業し新任教師となった学生が無責任にも現場の荒波に放り込まれることになります。たしかに、どれだけ大学で学んできたとしても、現場は毎日のように絶えず状況が変化していく場所であり、そう簡単に適応することはできません。しかし、そうであるからこそ、在学中にもっと様々な生徒像、学校像、教師像を具体的な例からイメージできなければならないと思います。このままでは、最悪の場合、附属学校で理想的な現場のイメージを植え付けられただけの学生を量産してしまうように思われます。これでは、現場のシステムに疑いを持つこともなく、適応することを強いられてしまいます。様々な事例を見ることができる機会があれば、上下下達のシステムと現場がうまく合致していない状況を見ることが多々あると思います。

もう一つは、このような状況が続く限り、現場を上から支配しているシステムは安泰であり、文科 / 現場という支配 / 被支配関係は改善しないという点です。これは非常に単純であり、文科からすれば、大学側がシステムを疑わせない指導をしてくれた方が都合が良い。反対に、いちいちせっかく通達した文科の意向に反発すれば、補助金等も出したくなくなるわけです。したがって、研究費を得るには言うことを聞いておくのが得策というわけです。現場の教員の方々ならなおさらで、公務員である以上、お上の命令に背くことは難しいしくみになっています。しかし、だからこそ、そうした制限の付きにくい学生がこうした議論を行うべきなのではないでしょうか。たしかに教英は現場の英語教員を志望する方が多く、早く現場のノウハウを知りたいし、現場にいかに適応するかが最優先となるのはごく自然かと思います。しかし、仮に私たちがしなければ、こうした議論を積極的にできる機会を持つ人は少ないと思います。もしも教英が日本の英語教育関連のコースの中で優秀だと言われる理由が、上から通達された命令を遂行する能力が高いことだけだとしたら、それは問題である以前に悲しく思われます。良い評価を日ごろからいただいているからこそ、No.と言うべきところでNo.と言う責任が私たちにはあるのではないでしょうか。そういった機会が教英の講義の中であまり設けられてこなかったことは、やはり問題として挙げても差し支えないと思われます。




*****今回の予習記事*****

■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html


■ 「言語学という基盤を問い直す応用言語学?―意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて―」 (応用言語学セミナーでのスライドとレジメ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/blog-post_15.html
■ 今井邦彦・西山佑司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店 (「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」の準備の一環としてのまとめ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/2012-19.html
■ ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html
■ ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/06/blog-post_15.html
■ ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ --  Identitat - was oder wie? より
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html




「コミュニケーション実践と『客観性』」についての学生さんの予習書き込み

以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。

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「コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、コミュニケーション実践と「客観性」という講義を本日これから180分の前半部分で行います。予習では以下の記事を読んでおくことを求めました。


■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html


完全な親バカ状態ですが、予習段階で学生さんは既にいろいろなことを考えているようにも思えました。以下に、その一部を掲載します。赤字化と段落改行の追加は私が行いましたが、それ以外はどの文章も学生さんが書いたとおりの文章です。



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■ 「数直線的客観性」、これに私たちは支配されています。資本主義社会においてあらゆる商品はその質と関係なく「貨幣量」という指標で表される。また、教育の成果は数値で示される。確かに、数値化することで具体性が増したり目標が明確になったりすることもあります。

 最近、ある授業で他人の解答を採点する機会がありました。こちらが設定した採点基準に沿って相手の解答を数値化します。しかしその時に採点対象となるのは回答欄に書かれている文字のみであり、その人の思考プロセスなどは考慮されません。

 アクティブラーニングの推進により、単なる一問一答形式の思考は以前ほど必要とされなくなると思います。そうではなく、以前取り上げた新井紀子さんの言葉を再び用いるなら「物事の意味を理解し、思考し、表現できる力」がより大切になってきます。その時に依然として数値化に拘っていては、点数を取ることが勉強のモチベーションであることはずっと変わらないだろうし、思考することの意義を理解できる生徒は生まれないと思います。


■ 客観性によって私たちは物事の区別をより明確にしてきたのだと今回の予習を通して感じました。黒字/赤字もそうだしテストによる学力の測定も”できる””できない”を明確に区別するために採用されてきたのです。

あらゆる物事においてこの「客観性」が使われ、区別されているわけですが私たちはもっとこの事実に対して慎重になるべきであると思います。そもそも区別する必要があるのか?客観的だと思っているものは客観的なのか?客観性を保証するものは十分なのか?特に教育という分野において考えるとこのような一方向の直線上での客観的評価が権力を浮き彫りにし、本来権利を与えられているはずの学習者がその権力に抗えない状況を創り出しているように思われます。


■ 今回の予習記事では主に「客観性とは何か」についてでした。現在の教育研究においては客観性や再現性が求められており,それに対する答えとして現在用いられているものは英語能力を測るテストのスコアを教育目標として設定したり,対照実験的に授業方法の良し悪しを測ろうとしています。以前の授業でも先生がおっしゃっていたことですが,教師・生徒・教室・その日の天気,気温など本当に様々な要素で構成されている教育というものを一元的な客観性でみようとすることに疑問を抱くのは私でも理解できます。教育だけでなく,そもそも,一次元的な客観性を用いることが妥当であるものは本当に少ないように思えるのです。

 私が興味を持っているコンピュータの性能の話をすると,コンピュータの性能というものはベンチマークソフトが充実しているので,簡単にCPUやグラフィック描画の性能を数値化して測ることができます。コンピュータなんて一次元的な物差しの塊みたいなものだと思われるかもしれませんが,実はCPUの性能ですら一次元的な物差しでは測れないものなのです。例えば動画編集をして,それを出力するときに必要な性能と,ゲームをするときに必要な性能というものは違っていて,それはベンチマークの数値だけではどちらがいいのか判断がつかないことがあります。グラフィック描画を担当するGPUというパーツにおいても,3DCGを制作するためのものとこれまたゲームをするためのものでは単純にベンチマークのスコアの差ではわかりません。

 私たちは物事を見る時に,安易に「これに換算して」という方法,つまり一次元的な尺度で物事を測りがちです。これは例えば英検準1級はTOEFL iBT換算でどのくらいのスコアになるのかということや,この敷地は東京ドーム換算で何個分であったりとか,ということです。ただ,コンピュータの性能での例の通り,本当に一次元的な物差しが妥当であるものは稀であり,無理矢理に数直線的な物差しに落とし込もうとすると色々と不都合が出てくるはずです。実際に,TOEICの900点がTOEFL iBTの101点ほどであるなんてことを言っているサイトを見ましたが,両方受験した自分からすれば違和感ありまくりです。


■ 予習記事には大きくは「客観性」と「再現性」について書かれてありました。私の中でよく理解できたところは数直線的客観性の例です。資本主義の中ですべての商品を貨幣量という一本の数直線上に配置している、そして黒字/赤字を二値的コードに分けているものを客観的指標として使用されているというものがありました。このシステムの仕組みの“客観性”に私自身少し騙されているということに気がつかされました。さらにそれが教育の世界でも絶対的な指標として使われようとしているということへの疑問を理解できました。

前回までの授業で各種資格試験では一部のものははかれても、あらゆる技能やコミュニケーション能力をはかることはできないということを痛感してきました。今回の予習の中の「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」という記事でもよくわかりました。リーディングとリスニングは一つの正解しか認めないから、含意をめぐる多面的な解釈を問題にすることができない、そしてスピーキングとライティングは「よくある話」を適当に産出しているだけという言葉に悲しいけどそうなっているという事実があるなと感じました。

そして評価も誰がやっても同じ評価になるような標準化をしないといけないと思っていたので、確かにそれは自分たちの管理のための簡易化になってしまうかもしれないと感じました。なぜ評価するのかということの本質的な意味を一度問いただせたので良かったです。多元的客観性の必要性を強く感じました。


■ 前半部分の記事では「客観性」や「再現性」を英語教育に絡めながら説明がありました。読んでいる中で、どんどん現在の英語教育の問題点が浮き彫りになり、今まで深く考えることのなかった学校での英語教育の仕組みというものがどのようなものであるかがはっきりと見えるようになってきました。何箇所か気になった部分をピックアップします。

 「テスト得点の貨幣化」という表現がとても印象的でした。この授業の中でもよく英語の技能を測る試験の話が出てきます。確かにその得点を貨幣化してしまって、それだけの貨幣(ある程度の点数)と引き換えに、単位であったり、点数であったり、受験校への合格であったり、留学の切符など、様々なものを私たちは得ることができます。確かにそういったテストの得点は「客観性」に基づいたものかもしれませんが、一元的客観性に分類されます。数値的な一元的客観性だけでは英語能力を客観的に見ることはできません。数字が全ての指標ではないことを十分に理解した上で多元的客観性を用いて英語教育は推し進めていくべきではないか思った一方で、コミュニケーションといった二度と同じ会話や場面などがあり得ないような流動的なものを一般化して測るには、やはり数値化されるような英語能力試験などが必要にもなってきて、英語教育の中でもある程度の権力は維持されてしまうのではないかと思いました。

 「現実世界のコミュニケーションの条件が、四技能テストでは捨象されている。四技能テストのある程度の得点は、実際の英語コミュニケーション能力の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。」この文章の中の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない、というところがとてもわかりやすく、コミュニケーション能力を測ろうとしているテストの是非を論じる際にぼんやりしていた部分を明瞭にしてくれました。全く意味が無いわけではないと思う、という私の考えがこの文章を見て「こういうことだ!」と上手く自分の中でまとまりました。


■ この授業で何度も話がでてきているが、教育における評価も科学知におけるものに一元化されて、他の様々な複合的な要素を捨象してしまっている現状が問題視されている。評価・テストが一元化されるために、指導も一元化されるという負のbackwash effectが起き、自分の意識を介さない、可能性を無視した現実性しか生まない人材をつくりだしてしまう可能性がある。極論ではあるが、皆が同じことばを話す社会は、まるで全員がAIのようであるように感じる。

教育の研究やSLA研究においても、この視点というものは大切で、一部分だけを見つめて、科学によってこのように証明されました、皆さんご参考にどうぞ、というのは危険な発想であると感じた。特に教育の現場というのは、普通の学級であるならば、30人程度の生徒と教師がいる。それに加えて、人間関係やその時の身体状況など様々な要素が絡み合って、教室というものは成立している。この複合的要素を見落としては、全く現場に沿っていないものとなってしまう。将来日々学習し続けなければならない教師も、この複合的要素を頭に入れて、生徒との対話を続けていかなければならないなと感じた。


■ 客観性とは何か、再現性とは何か、意味とは何か…。次々に問いただされていく言葉たち。私はこの授業を受けるようになってからこの「そもそも」ということを自然と考える癖がついてしまったように思う。

生活の中では、私たちを視覚的にも聴覚的にも溢れんばかりのことばが取り巻いている。それは当たり前のことで、一つ一つのことばをいちいち気にしたりはしない。しかし、これは前回の授業の内容に関連するがそのような日常に溶け込んでしまっているものというのは自分の興味のないものであり、それ故無意識のうちにスルーしているのである。今までは情報として判断していなかったものが浮かび上がるようになったのは、自分のアンテナの及ぶ域が広がって反応しなかったものに反応するようになったからなのかもしれないなどという気がしている。

教科に関係なく教育は、多元的客観性でもってそれを遂行するべきだという考えがあった。特に評価することについては、一元的に数値化することで満足してしまうことほど恐ろしいことはないように思われる。一体誰のために勉強しているのか?ということになる。もちろん、国のためでも学校のためでもなく自分自身のためである。この世界に身を置く唯一無二の「私」が学習するから意味があるのであり、それはここにいる「私」と「私」の目の前にある現実世界の関わりがあってはじめて成立する。それなのに今の四技能テストで点数をとることが目先の目標になってしまえば、そんな学びの価値などどこかへ行ってしまいそうだ。広島大学が掲げる「学問は、最高の遊びである。」という言葉は外からの評価ではなく、自分自身が感じる学ぶ喜びに価値を見出そうとしているように思えた。


■ 数直線的客観性は、資本主義社会における商品の価格で説明されていてわかりやすかったです。あらゆる商品の質ではなく、商品を価格という一つの数直線上に配置します。この価格という数値が資本主義社会の客観的指標として使用されています。しかしこれを教育で同じことをしても良いでしょうか。

現代の教育界では、テストの点数という指標で客観的に生徒たちの英語力などの力を評価しています。記事には、一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性は構造的に排除されているとありました。資本主義社会において、価格という指標に統一することはむしろ便利であると思います。しかし教育では点数という数値で測ってしまうべきではありません。

この授業で、評価、テストの話がよく出てきます。例えば、面接において話した内容が事実でなくてもミスをせずに英語を話せば高得点を獲得できますが言語に多少のミスがありながらも本当に伝えたいことを伝えようと一生懸命話している生徒はどうでしょうか。教育における指標が点数、得点であるがために生徒たちはその得点を取るために学び、教師でさえも受験のための授業をします。このままでは本当に生徒たちが学ぶべきことを学べません。「得点」という客観的指標では英語力は測りきれていないと思います。


■ 高校の修学旅行で姉妹校の外国人生徒と交流しました。その時、英語の文法があっているか気にしてなかなか言葉をつなげることができない日本人生徒よりも、ジェスチャーや表情でどんどん相手に何かを訴えようとする日本人生徒のほうが、最後には外国人の生徒と仲良くなっていたように感じました。しかし、学校における英語教育ではできるだけ正しい文法を使って自分を表現するほうが与えられる評価が高いように思います。もしジェスチャーや表情で意思を伝えることが点数化できたらどうなるのでしょうか。点数化できないだけで、非言語のものにも重要な価値があります。

そもそも学校の教育という視点を離れると、本来の、何のために英語を学ぶのか、によって何を評価するかは変わってくると思います。世界中の人と友達になるために、外国語の論文が読めるようになるために、洋楽が上手に歌えるように。中学生の時、高校への進学は内申点が大きく関与してきました。しかし学校のレベルによって内申点は様々です。異なる人々が多様な環境でそれぞれ違う経験を積んできたのだから、誰が見ても同じ、いつでもどの状況でも同様の結果が得られる、ということは難しいと思います。人によって重要とするものやその基準は本来異なるものであるように思います。サークルのオーディションでは、数人の審査員がそれぞれの観点をもって審査を行う、という形式がとられたことがありました。わからないところがたくさんあるので授業で理解したいです。




野口三千三の身体論・言語論についての学生さんの振り返り

「コミュニケーション能力と英語教育」という学部3年生向けの授業で、野口三千三さんの身体論・言語論を講義したところ、(親バカなのかもしれませんが)学生さんたちなりによく理解してくれたのではないかと思います。


ここでは身体論(意識と非意識)、言語論(ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階)についての振り返りの一部を掲載します。赤字化と段落改行の追加は私が行いましたが、それ以外はどの文章も学生さんが書いたとおりの文章です。


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■ 前半の授業で野口三千三さんの「こころにとっては非意識こそが本来的であり、意識は必要に応じて非意識が出現させるものに過ぎない」という言葉を読んで、実際の生活の中で具体的にどのようなことがこれに当てはまるだろうかと考えてみました。

1つ思いついたのが、今住んでいるアパートのオートロックの鍵番号です。アパートのオートロックを解除する際、もう完璧に覚えているのでいちいち鍵番号を確認したり、唱えながら押したりはしません。ですが先日出先で鍵番号を思い出そうとした時、とっさに思い出すことができませんでした。そこで目を瞑り、頭の中でオートロックを解除する情景を思い浮かべ、右手を空中で動かしてみると、やっと数字を思い出すことができました。いつも鍵番号を打ち込む時は「非意識」で、それを出先でなんとか思い出そうとした時に「意識」を出現させたのだと思います。



■ 今日の授業を振り返って,私は「意識的なもの」というのは人間の中身のほんの一部が表出したものに過ぎないということ・人間のほとんどが非意識によって支えられているということを知って正直驚いた。

しかし、スポーツに例えてみると、確かにそのことは明確に当てはまる。私は小中高と剣道を続けてきたが,剣道の技の中に「返し技」、いわゆるカウンター攻撃のようなものがあり,相手の繰り出してくる技に対して,それを利用してこちらが仕掛けていくのだが,それは意識すればするほど,相手の動きを見すぎてカウンターの態勢に入るのに数秒遅れてしまいうまくいかないことが多かった。逆に,返し技が成功した時は,いつも気づいたときにはもう終わっていた。授業スライドの中で「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」という記述があったが,まさに意識的に正そうとするよりも,準備を整えることの方が重要だと今思えばとても実感できる。


 このことは子どもの学習にも効果を発揮すると考えられる。子どもに意識させる指導も大切ではあるが,「気づけばできるようになっていた」という体験をさせるために、いかに授業の中で仕込みをしておくか,どのような学習の環境下に置くことで子どもたちが「好ましい適切な自動制御能力を発揮する準備」を整えることができるかを考えることは大切だと感じた。そのことは言語教育にも共通していて,言葉の吟味においては,子どもたちが「どうしてもこのニュアンスを言葉で表したい!」と思わせるような授業づくりや活動の設定が不可欠である。気づかぬうちに夢中になっていたことが学習につながるほど素晴らしいことはないと思った。



■ 「意識で把握できることはほとんどわずかなことにしかすぎない」という言葉がとても印象的でした。私もどちらかといえば人は意識で動いていると思っていましたが、まずは無意識で動いていてそれを意識的にしていると脳が錯覚を起こしているというのには驚かされました。もともと意識で制御できるように人間の体はできておらず、だからこそ意識しすぎると逆にうまくいかないということが起こりうるのかと、大いに納得しました。

まさに、英会話がそうだと思います。何を話すか何を聞こうか準備して望んでも思ったように話すことはできないし、イレギュラーなことに対応できなくなってしまうという経験をしたことがあります。会話をしなくては!と意識しすぎるのではなくいかに自然体で“おしゃべり”を楽しめるか、というのが大切なのだと感じました。

これは授業づくりでも同じで、生徒がどうしても話したい内容があって相手に伝えたいと思えば、なんとかして身振り手振りも交えて相手に伝えようとするでしょう。そういったトピックを授業に取り入れることができればなあと改めて感じました。不自然なジェスチャーを叩き込むのではなく、生徒から自然に湧き出てくるジェスチャーを大切にしてあげたいです。


■ 言語と非意識についてまとめると,母国語に関しては意識せずとも表現が口から出てきますが,外国語に関してはなかなかそうとはいきません。ただ,一度だけ自分でも驚くほど意識せずとも英語がスラスラと話せたことがありました。それは留学中に開催した日本文化を現地の人に紹介するイベントのでの出来事でした。いくつかの企業にスポンサーとして協賛してもらっていて,そのスポンサーの方がイベントへ来た時に自分が説明しなければいけませんでした。英語で日本文化を紹介しなければいけない,なかなか難易度が高いシチュエーションだったのですが,不思議と言葉に詰まることなくスラスラと説明することができ,相手もよく理解してくれていました。


この時私は「意識の中でできることと,人間ができることとの間には乖離がある」ということを身をもって体感することができたように思います。その時私が意識していたことと言えば何を話そうか,どういった説明の仕方をすれば伝わるのかと言ったような内容に関するものばかりで,英語の表現に関しては一切考えていませんでした。普段英語を話している時とその場面とで何が違ったのかを考えると,責任感や話す内容が私にとって馴染み深いものであったことなど様々考えられますが,一番はやはり伝えたいという気持ちが極限まで高まっていたことだと思います。自分が一生懸命に考えたイベントをどうにかしてスポンサーに人にわかってもらいたい。この気持ちこそが言語を使用する時に最も大切な要素であることは重々理解していたつもりでしたが,言語を非意識のうちに使うためにも大事であると今回わかりました。


■ 前回の授業で学んだことのひとつに、無意識に体が反応することが、言語を生成する時にも起こっているというものがある。我々が日本語を話す時は言いたいことがすらすらと出てくるが、英語を話す時はそうはいかない、と、外国語を学ぶ人は思っている。しかし、私の経験を踏まえて自分が本当に伝えたいと思うことを話している時は英語であっても言葉は無意識に出ていることがある。

この度学科の行事で英語を話す機会があったが、みんなにこれだけは分かってほしいと願うような内容は無意識に言葉が出てくる。もちろん、文法ミスは発音のミスはたくさんしている。しかし、自分が本当に言いたいことを言っている時、言葉につまってしまうことはなかった。

それに対し、文法にこだわって話している時は全くすらすらと言葉が出てこない。例えば、明日の予定を言う時に、「未来のことだからwillか。いや結構近い未来やからbe going toかな。いや、明日ってことは近接未来やから現在進行形でもいいかも。あ、でも確定した未来の予定を表すには現在形でもいけるって最近習ったな。」などといちいち考えていては何も話せない。笑い話のように思えるが、同じようなことはあちこちの学校で教えられている。現に僕が予備校で受けていた授業はこういった形式で行われていた(予備校の目的が受験で勝たせることなので当然のことではあるが)。


■ 今回の授業では日常で特別意識しないような「当たり前」のことを、新たな角度から再認識することが出来た。「人は意識があって反応する」という考えが一般論であり、私もそれを信じていた者の1人であるが、実はそうではないらしい。

「心、からだ、ことば、声の全ては、からだの中身の変化である」、つまり非意識の変化が先で意識はその後に生じるということだ。確かに痒いと思う前に勝手に手が伸びていたり、熱いと認識する前にからだが動いていたりする経験から納得がいく。誰かに向かって何かを熱く語っている時、一体どこからことばが出てくるのか不思議に思ったこともあるが、これも同じ原理だと分かった。


 イギリスに留学中、何度かこの経験をした。各国出身の人と会話をしていると、授業内外問わず日本のことについて尋ねられることがあった。「日本ではどんな英語教育が行われているの?」「なぜ日本人は授業中消極的なの?」「日本語に興味があるから、漢字を教えてほしい」。日本ではなかなか質問されないような内容であったのと、ぜひ皆に日本のことを知ってほしいと思ったので、私はこれらの質問につたない英語で必死に答えた。語彙も表現も決して豊かとはいえない英語であったが、自然と英語が次から次へと出てきたし、その時ばかりは日本語ではなく英語で思考しているような感覚におそわれた。これはきっと意識して話そうとしたのではなく、日本のことをもっと知ってほしい、という私の中での動機が高ぶっていたからだと思う。

 近年、英語の授業においてディベートやディスカッションの導入が注目を浴びており、それの実践には様々な段階が必要である。私自身実習中、議論する時に役に立つ表現や論の展開の仕方をどうやって指導するかばかり気にして、それに頭を抱えていた。しかし、今日の授業を受けて、生徒たちに必要なのは議論のための知識ではなく、心から「話したい」「伝えたい」と思えるような動機なのではないかと思った。こちらの示した何かが生徒たちの中で変化を起こし、それが強い衝撃、動機にさえなれば、議論は勝手に生じ、進んでいくのだと思う。


■ こころとからだについて学びを深めることができたと思います。人間は非意識が主体であり、意識を作り出している。からだの状態が悪い時に、何でもネガティブにとらえてしまいがちになるのはこの一種でしょうか。スポーツに関して、僕はサッカーをしていたのですが、この話には大いに共感がもてました。一対一をするときに相手をだますフェイントをかけることがあるのですが、実際試合中対峙したときに、相手にこうフェイントをしようなどは考えておらず、身体が勝手に動いて気づいたら相手を抜いていたり、取られていたりします。試合中はボールをもっているときはほぼ無意識で動いています。またゴール前で急にボールが転がってきたときは、身体が勝手に“反応”します。習い始めの初歩的な時は、軸足の位置やボールのどの位置を蹴るかなど、しっかりと意識するのですが、徐々にしなくなり、非意識でそのように動きます。いちいち意識していたらコンマ一秒を争う競技では時間がないです。


目の前にボールが転がってきたときに体が反応するというのは、私たちが目指したい教育と同じなのではないでしょうか。生徒に何らかを提示し、それに生徒の意識ではなく、非意識、身体が反応し、感覚・情動が奮い起こされ、こう言いたいという意識となり、さらにはことばとなって表出する。今回でてきた言葉で言うと、それぞれの生徒にとって情報が溢れている課題を用意してあげることが教師にとって必要なことではないかなと思います。



■ 意識と非意識についての話では、言語使用や教育について考えさせられました。「非意識が自己の総体の主体であって、主体が意識を創りだし、それを使い利用する」と野口さんの言葉にありました。確かに、日常生活で常に何かを意識しなら行動をすることはありません。日本語を使うときも意識よりも先に言葉が出てきますし、日本語とまではいかなくても、英語でも意識することなく口から言葉が出てくることもあります。

そう考えると、PPPとTBLTが咬み合わないというのはとても納得がいきました。ある文法を提示し、練習させ、それができるように何か活動する、といった授業では常にその文法、形式を意識しながら会話をしてしまいます。意識することによってその形式が使えても、非意識の中でその形式が使うことができるようになるとは思えません。無意識のところから英語が出てくるようになるための方法をこれから取っていく必要があることを実感しました。

また、ジェスチャーについても同じようなことを思いました。自分が中・高のときにジェスチャーをしなさいと教えられていたことや、授業観察などでもジャスチャーを指導しているのを見たことを思い返して、意識してジェスチャーをすることの不自然さを今回の授業を聞いていて感じました。おそらくジェスチャーをするように求められたり、教えられたりするのは、英語を話すときに言葉に意識を置いているからだと思います。「言葉を使う」ことに意識してしまっていて、「言葉を伝える」ことができていないのではないでしょうか。私は授業中に隣の人と意見を交わすだけでも、身振り手振りで話していました。ジャスチャーが自然と使えるようになるためには、やはり言葉を非意識の中で使うことを求められるのだと思います。


■ 野口三千三さんは、敗戦体験や自身の障害から、人生が一瞬で変わる経験をし、絶対的な価値観、絶対的基準は存在しないのだと考えました。そして、すべての基準は、自分自身の中で作り、そのつど更新していくものだと考えました。「もの・こと」が静かに語ってくれることを貞くことが大切で、そうすることが生きることなのだともおっしゃっています。五感があることで、感覚とは外界の情報を受け入れるものと思われがちですが、自分の内側にも感覚があり、それが感覚の本質であります。未知のものも含む無数の感覚が有機的につながりながら感覚として内側で機能している、という記述が気になり、からだのことやからだとこころのつながりについて少し調べてみたところ、人体の不思議さに思い至りました。「細胞一つ一つに意識がある」という記述も見つけました。


 こころの主体は無意識であり、意識とは無意識が作り出した道具ということで、授業中にも楽器の演奏と意識の在り方についての発言がありました。私は打楽器を演奏しますが、その中でも特にドラムセットや鍵盤楽器といった複数の打点を移動する楽器を演奏する際は、やはり意識しなくても手が動くまで練習します。打点を移動する流れを腕に組み込むようなイメージですが、最初は最短距離を効率よく移動するように、あるいは楽器の音がきちんと鳴るような向きで次の音を叩けるようにマレット(楽器を叩くもの)の動きを意識しながらゆっくり繰り返します。そして、だんだん意識しなくても動かせるようになるようにします。この場合も意識は、非意識の状態で新たな動きをできるようになるために、その動きを習得するための道具として働いているといえるのだろうと解釈しています。また、私は演奏会本番での記憶がいつもほとんどありません。ただ、いつもできないところができた、あるいはミスをしてしまったところは、急に意識が出現して、その場面のことはきちんと覚えています。だから、記憶がないときは、非意識の中で演奏していたということだったのだろうと思いました。


 さらにもう一点、楽器を通しての経験から意識/非意識について言及したいと思います。最近吹奏楽界でも注目され始めた指導法及び練習法で、アレキサンダー・テクニークと呼ばれるものがあります。昨年5月に講習会に初めて行ってから、少しずつ関連記事を読み、自分の演奏やサークル活動の参考にさせて頂いていました。「『どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか』というところに、問題の鍵がひそんでいるのである。」という記述がありましたが、アレキサンダー・テクニークはこの点を非常に重視した指導法だと思います。そもそも、人間の体のつくりや、脳の働きを考慮に入れ、効率よく体を動かすことを目指す指導法であり、音を出す前の姿勢の作り方や、なにを考えて演奏に臨むべきか、ということを考えます。例えば、「◯◯するな」という伝え方は逆効果であること、合奏で失敗して謝るのはおかしいこと、自然なからだの在り方が最高のパフォーマンスに欠かせないことなどがあり、吹奏楽に限らず、英語教育でも応用できると感じたのを思い出しました。結局吹奏楽の側面を重視して見ていたことが多かったので、改めて英語教育でも使えるように見直したいと思います。


■ 今回の講義の中で一つの柱であった意識の観点から二点についてまとめていきたい。

 まず意識の観点から一点目として、「非意識が意識を創り出しそれを使い利用する」という考えについて意見をまとめたい。正直なところ予習の段階では野口さんが何を言いたいのか自分の頭に上手く落とし込めていなかったが、柳瀬先生の「好きな人って意識しなくてもあらゆる感覚で探し当てて目で追ってしまっているでしょう」という具体例を聞いて即座に「外界の情報を基盤として無意識が意識を作り出している」ということを理解することができた。好きだと言う意識よりも先に勝手に目で追っていたり、知らぬうちにその人のことを考えてしまったりというような非意識に起きた現象が原因で、それが〇〇さんのことが好きだという意識を創り出していると考えることは確かにできると納得した。


 二点目は前述の意識の話に伴い、「『人間はもともと意識で思うように制御(コントロール)できるようには出来ていないのだ』ということであり、『どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか』というところに問題の鍵が潜んでいる」という主張について、私はサッカーという競技を通じて思う節があった。

サッカーという競技は意識と無意識が何度も行き来する競技で、例えばプレーをしている時に左右どちらの足で、どこにトラップすればシュートが打てる、などと意識的に考えながらプレーする時もあれば、非意識のうちに体が動いてプレーしている時もある。私は小学1年生の時からサッカーをしているが、プレーの調子が良い時というのはなぜ調子がいいのか自分にもよく分からないうえに、特にあれやこれやと考えている感覚もない。気づいたら身体が意識よりも先に動いて、意識が現れた頃には既にシュートを放っていて、ゴールの中に吸い込まれていく光景だけが目の前に広がっている。このような現象が恐らく、無意識が意識を作り出す前に行動に現れ、それを最高・最善の意識として生み出しているということなのだと思った。

また、文章後半の「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」という主張についてだが、この、状態を準備するというところをサッカー選手はとても大事にしているように感じた。自分を含めサッカー選手は「調子」というものにとても大きく左右される。だがそれを完璧にコントロールできる人はいない。しかしながら調子を良い状態に保ち続けるために、サッカー選手は食事に気を使い、何時に寝るか考え、体のケアをし、本当に効果があるとは思えないけれど気休めになるはずだとルーティーンをするのである。プロに近づけば近づく程、これを大切にしているように思うし、大切にしているからこそある程度高いクオリティでプレーし続けることができるのだと思う。従ってサッカー選手は、無意識のうちにこの最高・最善の意識を産出する状態の準備というものを行っていたのである。

 そこでこの状態の準備というものを英語教育に当てはめると、非意識的に英語が口からでるという環境(状態)を教師が整備する必要があるということにつながる。その状態の整備というものは具体的に、英語を使うことの楽しさを感じさせること、失敗を歓迎する空気感、リアリティを演出することなどに終着するのではなかろうか。試合の前日にダラダラと過ごしお酒を飲んだりしていたら翌日動きが悪くなるのと同じように、文法説明を聞かせられた後に、急に英語を喋れ、などと言われても何の準備(英語を非意識的に発するための準備)もできていないのだから良いパフォーマンスができないのはもっともなことである。




■ 原初段階を大切にするということ -- 本日の授業で最も印象に残り、考えを深めるきっかけとなったお話です。原初段階とは、言葉を選択する以前の、何か言いたいこと、伝えたいことが心の中でもぞもぞしている状態のことだと解釈しました。現在の教育では、この部分を評価することはあまりないように感じます。(そもそも評価する必要もないのかもしれませんが)

それでは原初段階にはなんの意義もないのかというと、そうではありません。適切な言葉は見つけられなくても、何か言いたい、伝えたい、言葉にしたいと生徒が感じた瞬間にこそ学びは始まるのだと思います。僕らがこれまで大学の授業で学んだのは、生徒が何か言いたい、伝えたいと感じるような状況設定の上で言語活動をするということでした。この意味を僕個人としては「なんとなく、生徒がやる気が出て身につきやすいんだろうな」と考えていましたが、そうではないことに今日気づきました。英語の授業で上記のような指導がされたのは、「何か言いたい、伝えたいと生徒が感じたときにこそ心と体は密接に絡まりながらはたらく」からだと解釈しました。


もちろん評価の観点には関心・意欲・態度が含まれていますから、伝えようとする姿勢、意思も一応評価の対象にはされていますが、それでもやはり「できるようになったこと」に重点がおかれているように感じます。数値化されるものだけを見ていては、教育は現状維持。現状維持ではこのままAIに仕事を奪われていくことになるでしょう。意思、つまり心の働きを必要としない事柄についてはAIが担うことができるのですから。英語教師だけではなく、教育に携わるものとして考えなくてはならないことは、1人の人間が多くの子どもたちの成長に関わっていく中で何をしてあげられるのかということだと思います。もう4年生になりますが、しっかりと考えていこうと思います。


■ほんとうにことばを大切にするためには,ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階を大切にしなければならない。選んで決めてしまうことを急がないで、ことば選び(動き選び)を大切にしなければならない。(野口 2003, 225)


『ことばを大切にするということ』から,S君が,自分たちは日本語でも,ことば選び(動き選び)を上手くすることができないと言ってくれました。そして私も,自分の本当に言いたいことを表現できない場面があるなあということを考えました。

私は,モーツァルトのレクイエムがとても好きなので,レクイエムのオーケストラDVDを見たり,モーツァルトの人生を描いた映画(アマデウス)を何度も見たりするのですが,1曲終わるごとになんとも言えない感覚に陥ります。これは素晴らしいTED Talksや合唱も同じで,プレゼンが終わってから拍手が起こるまでに微妙な間があります。そういうものを見たり聞いたりしたときに私たちは,「ためいきがでる」とか,「なんとも言えない」,とかいうあまりはっきりしない表現をとるように思えます。

その「なんとも言えない」感覚は,なかなか簡単に言語化できないし,言語化しようとすると,すべてが陳腐な表現に思えてしまうのです。そしてうまくことば選びをしたとしても,私の感じた,その感覚は聞き手にそのとおりには伝わりません。

野口さんが言っているのは,「やばい」とか「すげえ」とかそういう言葉を使うなということではなく,たとえ最終的に「やばい」としか言えなかったとしても,その時言語化したかった感情をああでもない,こうでもない,と慎重にことば選びをして,でもやっぱり「やばい」としか言えない,このようなプロセスが大切だと言っているのだと理解することができました。そして,慎重なことば選びを介しても,うまく表現できないとき,うまく表現できないからこそ,私たちは話し手の感情を直接経験したいと感じます。これが歌舞伎や能などの日本伝統芸能や,世界的に有名なオーケストラのコンサートが長い歴史の中で観客を絶やさない所以なのだろうと感じました。