2016年10月4日火曜日

昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想



2015年度後期から始めました昼休みの自主的読書運動である「昼読」を今期も継続します。




方針は基本的に前期と同じです。以下は「昼読」の基本理念です。



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あなたが使うことば ― これがあなたの人格を形成します。
あなたの人間関係も、あなたが生きる社会も形成します。

ことばを豊かに丁寧に使うことによって、あなたの平安がもたらされます。あなたの仲間の平安も、あなたの社会の平安も。

粗雑で無思慮なことばは、あなたをかき乱してしまいます。あなたの仲間も、あなたの社会も。


「昼読」とは昼休みに集まって、それぞれが持ってきた本を静かに読む時間を共有する場です。少々行儀は悪いですが、お昼ごはんを食べながら本を読んでもかまいません。読書の文化を根づかせるために行っています。広大の構成員(学生・教職員)なら誰でも歓迎します。

授業期間中の月・水・金の昼休みに行います(ただし初回は10/3とします)。一応12:05-12:45という時間帯を設定しますが、皆さんぞれの都合があるでしょうから、遅刻や早退はまったく問題ありません。場所は教育学部のA棟2階のA212(英語教育学演習室。英語教育学図書室の隣)です。

日本語で書かれた純文学や娯楽小説、あるいはノンフィクションや自然科学の啓蒙書、はてまた新聞でもかまいません。英語ならGraded Readersでも普通のペーパーバックでもかまいません。第二外国語の読本や参考書・問題集も歓迎します(第二外国語の習得はなかなか進まないものですから、第二(あるいは第三・第四・・・)外国語の場合は、自発的に選んだ参考書や問題集を読むことも認めることにしましょう)

ただし自由な読書文化を促進させるための試みですので、必要に迫られての授業の予習などは歓迎しません。あくまで自主的・自発的に選んだ本をもってきてください。

昼読の最後の五分では、その日の読書の感想を周りの人と共有します。その語り合いで私たちの世界が広がることを期待しています。

書物のことばは、(質の悪い例外を除けば)練りに練られたものです。SNSなどで刹那的あるいは衝動的なことば遣いが横行する現在、読書文化を守り、育ててゆきましょう。読書で培われた思慮深いことば遣いこそが近代社会の基礎となると私は信じて疑いません。



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この記事掲載に伴い、前期に熱心に昼読に参加してくれて、ハリー・ポッターの第一巻をフランス語で完読した学部4年生のM君の振り返りを掲載します。この振り返りは8月5日に完成していたものですが、私が、ドイツ語暗唱を続けてくれた学部3年生Tさんの感想と併せてブログ掲載しようと欲張っていたので、掲載が今日まで遅れました(Tさんは現在ドイツの大学に留学しています)。




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“Harry”を「アリー」と読む言語での読書体験


2016年8月5日
学部4年 MY

 今からちょうど2年前、私はパリの中心部から少し離れた通りの、ある書店にいました。数か月間のイギリス留学を終えて、帰国前に友人とフランスに寄って観光しようということで、数日間ですがパリに滞在していました。街を散策中、留学前からフランスで購入したいと考えていた書籍があったため、いくつか書店を覗きながら歩き、お目当ての本を見つけました。 Harry Potter a L’ecole Des Sorciers-言わずと知れたベストセラー、『ハリー・ポッターと賢者の石』のフランス語翻訳版でした。

 一年生のころに第二外国語の授業でフランス語に触れ、興味を抱いたため独学ながら今も学習を進めていますが、パリに滞在した当時はまだフランス語歴(?)も一年ほどで、もちろんハリー・ポッターをフランス語で読める仏語力は全くありませんでした。知っていたことといえば、 “Harry”をフランス語で発音すると、 “h”の音がもともと発音されないため、「アリー」となってしまうことくらいでした(笑)。映画を見ていたこと、そして英語の原文で読んでいた経験はあったものの、それでは太刀打ちできない言語の壁を感じました。実際、半ばお土産として、フランスに来た記念として買ったようなところがあり、案の定帰国後は部屋の本棚にオブジェとしておかれることに。しかし、買っただけで読まないのはやはりもったいないという思いがあり、何とかこの本をフランス語で読むために学習を続けました。

 それから一年半ほどたって、私は教英で柳瀬先生と大学院生の方が主催している読書会(「昼読」)に参加させていただくようになりました。各人が読みたい本をなんでも持ち寄って読もうということでしたので、私は前々から読みたかったハリー・ポッターの仏語版にチャレンジしてみることにしました。柳瀬先生や大学院生の方がドイツ語の本を読まれていましたので、自分も変な対抗心を燃やし(笑)、何とか読んでやろうと、辞書を片手に読書会に通いました。

 最初は1ページ読むのに何十分もかかったりと、かなりゆっくりとしたペースで読んでいました。ただでさえフランス語ということで知らない単語だらけでしたし、加えてハリー・ポッターならではの、魔法使いの世界に関連する語句が多く見られました。1ページに何度も何度も辞書を引くこともありました。しかし、そのようにして読んでいく中で、徐々に読む速度も上がり、時には英語の原文との比較にも注目できるようになりました。「フランス語で読んでるぞ」という(良い意味で)妙な高揚感がモチベーションにもなり、エンディングまで読みきることを目標に、読書会への参加を続けました。

 そうしたフランス語との格闘を続けることさらに半年、先月末にようやく『賢者の石』をフランス語で読み切ることができました。もちろん、細かい文法の用法や文学的な工夫などを理解するためにはまだまだ勉強不足です。しかし、一冊の作品をフランス語で読む、という体験は目で見て分かる証拠として、私の今までの学習を保証してくれている気がします。もともと物語を読むことが大好きで、このこともモチベーション維持に一役買ってくれました。はじめて読んだフランス語書籍が、自分の好きなハリー・ポッターで良かったと思っています。

 また、英語教育を専門として学んでいることとの関連でも少し発見がありました。英語教育の現場には、私のようにある程度英語が得意だったり、得意とまではいかなくても英語が好きである、といった生徒さんばかりがいるわけではありません。また、英語を学びたての頃は誰しも、単語を一つ覚えるにも時間がかかるものです。しかし、今英語教育を専門に大学で学んでいると、そうした学び初めの頃の記憶、苦労して学んだ記憶が薄れてしまっているように感じます。それは私だけでなく、クラスメートの学生、さらには先生方にもやはり共通することだと思います。もともと英語が苦手だったのが後に好きになったという人も中にはいますが、そうでない人がほとんどです。

 こうした記憶を忘れさらないためには、学習者の気持ちが分かるようになるためにはどうしたら良いのでしょうか。その一つの方法として、私は第二外国語学習があると考えています。もちろん、語学学習が好きという点は学習に有利に働きますが、学習の初期段階ではスタートラインは同じはずです。第二外国語のあいさつを覚えたり、自己紹介したりすることを覚えるはずです。そのプロセス自体は第一外国語でも第二外国語でも大きくは変わらないでしょう。そうした学習経験を再体験するためにも、第二外国語学習は非常に重要です。私は学生ということもあり、専門分野の他に第二外国語を学ぶための時間もたっぷりあると感じています。大学にいるときにできることをしておきたいですね。

 「第二外国語」というと、「でもやっぱり今は英語の時代」と思われる方もいるかもしれません。しかし、英語も他の外国語も同じ言語、本質的に優劣はありません。それぞれの外国語を学ぶことには等しく価値があります。私自身、これからもフランス語の学習を続けていきたいと思います。とりあえずの目標は、ハリー・ポッターシリーズを全巻フランス語で読破することです。その後は、前々から個人的に興味のあるフランス現代思想家たちの著作を、フランス語の原文で読み解くためにフランス語の読書力をつけていきたいと考えています。


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広大の学生・教職員の皆さん、ぜひ「昼読」にご参加ください!




関連記事

前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html

2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html

月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html



追記

これと同じ記事は、私が所属する講座ブログ(「広大教英ブログ」)にも掲載しています。
広大教英ブログでは、教英に関するさまざまな情報を提供しています。
「広大教英ブログ」もぜひご贔屓に。



広大教英ブログ









2016年10月1日土曜日

自分が理解できないことに出会った時に



前の記事(西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書)でも書きましたように、私は学校教育の重要な目的の一つは、卒業生が人生で未知の課題に直面した時に、その課題専用の学校も教科書も教師がなくても、自ら何とか状況を打開できるように育てることだと考えています。

そのためには、学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度が重要です。その反応や態度が悪いままだと、現実の人生で困ることが多くなるからです。信じていた人からの信じられない言動、起こるはずがないと思っていた出来事の到来などは、実人生では避けられないと思います。その際に、なんとかそこから状況を打開することがそれこそ「生きる力」だと私は考えていますから、私は学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度を良くすることの方が、その時時のペーパーテストでよい得点を取ることよりも大切なことだと思っています。

また今後は人工知能の発展に伴い、解決方法(アルゴリズム)がわかっている仕事はどんどんと人工知能に奪われてゆく可能性がありますから(井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 文春新書)、理解できない問題に対して、何とか対処できる創造的な知性は大切になってゆくでしょう。

以下、私なりの教育・研究体験の中で見てきた、自分が理解できないことに出会った時に学習者が取る反応や態度を三つに分類してみます。下では、私の授業にはまるで問題がないかのような記述が進むかもしれませんが、私の指導技術の向上はまた別問題としてここでは触れません。



(1) 一切の努力を放棄し無関心になる

これは高校生が参加してくるオープンキャンパスで時々観察できます。学部の授業でも極めて残念ながらたまに見られます(その際は、私は心底がっかりします)。「・・・と、このように私たちが当たり前と思っているこの考え方ですけれど、例えば18世紀には・・・」などと私が言うと、オープンキャンパスの約150名の高校生の中の数名は、そのことばを聞いた瞬間に下を向きます。

この例だけでは、そういった生徒・学生が、昔の話を聞いてもわからないと自分で思い込んでいるのか、それとも昔の話を聞いても現世の利益には直結しないと思い込んでいるのかわかりませんが、大学生の話を聞いていると、少しでも授業がわからないと思ったら、寝るかスマホをいじるといった反応・態度は大教室の講義授業では珍しくないようです。理解できないことに出会ったら、それを理解するための一切の努力を放棄し無関心になるという反応・態度は現代の若者がとりがちといえるのかもしれません。

実人生で、自分が理解できないことが生じた時に、知的努力を放棄することは害をひどくすることにつながります。もちろん、そういった出来事に対して人間は無関心ではいられないので、無関心になることはないのでしょうが、それでも無力感におそわれ無気力になるということは十分に考えられます。そうだとすると、生徒・学習者が卒業まで終始このような反応・態度を取り続けていたら、その教育は失敗と言えるのかもしれません。そのような生徒・学習者に対して、手を取り品を変え、課題を極度に細分化して「できたね。よかったね」と褒めるのは、何らかの理由で自尊心や自信を根底的に失ってしまった生徒・学習者相手なら必要かつ有効かもしれませんが、健常な生徒・学習者がいつまでもこのような反応・態度を取ることを許すのは教育的とはいえないと私は考えています(もちろん教師の指導技術が話にならないぐらいにひどい場合は別です。今回の話は、教師の指導技術がまあまあであることを前提としています。また、教師は限りなく指導技術を向上すべきということもその通りでしょう。とはいえ、私は教師は指導技術だけでなく自らの学習を深める責務ももっているとは思いますが)。



(2) 不機嫌になり、理解できないことに対して怒りをぶつける

これは時折、学会でも見られます(苦笑)。ですが、それはまた別の話として(笑)、生徒・学生が、わからないことに接すると途端に不機嫌になり、そのような課題を出した教師を非難し始めるのは珍しくないでしょう(その非難の対象が、あまりにもひどすぎる発表技術しかもっていない場合は別、というのは上にも述べた通りです)。

また最近の学校教育ではしばしば無記名・匿名アンケートが行われますが、その記述の中には、お互いに顔を合わせていたらとても言えないようなことばで自分が理解できなかった怒りを表現する人もたまにいます。先日も、ある長期間の体験プログラムに参加した学生の一人が匿名で、「自分はこのプログラムから何も得ることができなかった」と行間に怒りを表しながら書いていたという報告を私は受けましたが、それを読んだ関係者は、読んだ瞬間に、その学生の学習能力の根本的な欠如に思わず苦笑したそうです。「だってこれだけの経験ができるプログラムの中で何も得ることができなかったとすれば、それは自分が○鹿だと高らかに宣言しているようなものでしょう」というのがその関係者の弁でした。

しかし、考えてみると、理解できないことに対して不機嫌になるのは、子どもが自然と取る態度なのかもしれません。赤ちゃん時代は、自分が不快だという鳴き声を出すだけで、保護者がその意図を汲み取り対処をしてくれます。嫌なことや理解できないことがあれば不機嫌になるというのは、赤ちゃん時代の記憶が強い子どもとしてはとても自然な反応なのでしょう。そうだとすると、その記憶あるいはそれへの郷愁を引きずっている人が、理解できないことに対して怒りはじめるのは驚くべきことではないのでしょう。

しかし教育という営みは、子どもを大人にすることです。大人は、自分が理解できない出来事に対していちいち怒りを爆発させるべきではないでしょう(と言いながらも、私は、コンピュータの理解不能な挙動に毒づいたり、他人の想定外の言動にイライラしたりしていますから、まだ十分には大人ではありません。私にはもっと自己教育が必要です)。

ともあれ、教育が目指している大人とは、理解できないことに直面した時でも、不機嫌にならず、怒りをどこかに転嫁するのでもなく、冷静にその理解できない出来事に直面する人間です。理解できない・しがたい出来事(例えば不況での苦労)に接した時に、怒りを他に転嫁すること(例えば、「○○人が諸悪の根源」などと言い始めること)は、古今東西の歴史の中でしばしば起こっていることですから、理解できない時に、私たちは冷静になることを学ばねばなりません。



(3) 冷静に「どういうこと? (What is that?)」、「なぜ? (Why is that?)」と問いを立てる

自分が理解できないことに出会った時にとるべき反応・態度、学校教育が育むべき反応・態度は、その理解できないことを言う人(あるいはその出来事)に対して、冷静に「それはどういうこと? (What is that?)」とその正体を見極めようとして、忍耐強く「それはなぜ? (Why is that?)」とそれが生じた理由を考え続けることです。

私は幸運なことにそういう反応・態度を常に保っている方々を知っています。武術の世界でしたら例えば甲野善紀先生ですが、言語教育界でしたら例えば大津由紀雄先生です。

関連記事:1/12大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)での発表資料掲載、および大津先生へのメッセージ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/112.html

甲野先生は、理解しがたい身体の知恵や講習会参加者が持ち込んだ異分野の問題に接した時も、極めて冷静で自らの身体を使いながら考え、考え続けられております。大津先生は、上の記事でも書きましたが、例えば若くて尖っていた頃の私の立論に対しても淡々とその理路を正そうとしてくださいました。私は尊敬できるそういった方々を知ることができたことで、なんとか自分を律しようとすることができています。

あるいは私が経験していないので偉そうなことは言えませんが、大災害などが起こった場合、無気力になることもなく、「○○が悪い!」という怒りにかられて現実的対応を放棄してしまうことなく、冷静に状況を分析し、もっとも賢明な対処手段を考え行動し、それがうまくいかなければさらに冷静に分析を続ける人こそは、世の中が求めている人だと思います。

学校教育は、究極的には、理解できない出来事に接した時も、冷静にそれを分析し対応法を創造できる人を育てるべきだと考えます。

もちろん子どもが最初からそのような態度を獲得できるわけはありません。子どもは最初は (2) のような不機嫌な態度をとりがちでしょう。しかし教師は、子どもの知的好奇心に火を着けながら、子どもが忍耐強く問題に取り組む習慣を育てなければなりません。また、子どもはあまりに課題が不出来だったり、自らの知的好奇心がまったく満たされなかったりすると、(1) のような無気力・無関心を習慣化してしまいます(「学習された無力感」 learned helplessness)。それは学校教育がもたらした害ですから、その害が生じないように、教師は「受験に必要だから」とか「とにかくやりなさい」などと子どもが納得できない弁明でごまかすことなく、学校教育が害ではなく益をもたらすよう努力しなければなりません。

ですが、昨今の教育界を見ていると、そういった反応や態度の根気強い育成よりも、目の前の高得点獲得ばかりを目指しているように思えます(あるいはそうならざるを得ないような制度を「教育再生」といったスローガンのもとに完成させられようとしていると言うべきでしょうか)。

教師としては、学校教育の根本的な目的が何であるのかを粘り強く考え続けその見識を実践に活かしていきたいと思います。

一個人としては、これだけ偉そうなことを言いながら、日常生活で自分が (1) や (2) の態度を取らないように自己観察を怠らないようにしないと思います(汗)。


おそまつ



西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書

この記事は学部1年生向けの授業(「英語教師のためのコンピュータ入門」)の資料の一つとして作成しました。


西垣通先生はまさに文理統合の識者で、私にとっても、ルーマンをきちんと読むことの必要性を感じさせていただいた先生(といっても読書を通じての一方的な関係です)ですので、西垣先生の著作はできるだけ読むようにしています。

今回の『ビッグデータと人工知能』も、時期に適った出版でありながら、単に現在の流れを報告するだけでなく、いくつかの本質的な問題を示しているように思えます。

ここでは私なりに重要と感じた論点を簡単にまとめます。ただ、そのまとめを理解するための最低限の前提として、人工知能の歴史をごく簡単におさえておきます。

人工知能の第一次ブームは1950年代後半に生じました。キーワードは「論理」 (logic) で、機械にルール・アルゴリズムを与え、それを基に高速論理処理させることによってオセロのような簡単なゲームを行うといったものでした (p.58) 。

しかし「論理」だけでは、人工知能がそもそも目指していた "General Problem Solver" (ざっくりと言うなら、汎用型人工知能と同じ) とは程遠いところにあります。その理想を目指すための動きが高まったのが1980年代の第二次人工知能ブームです。この時のキーワードは「知識」 (knowledge) で、コンピュータに人間の獲得した知識を溜め込ませて「論理プラス知識」で知性を実現させようとしました(この動きは「知識工学」 (knowledge engineering) や「エキスパート・システム」(expert system)  といった概念でも説明できます)。(p.60)

しかしまだ人工知能は人間の知性に近づきませんでした。そもそも「人間の知識の大半は、たとえ表面上は論理的な命題のような形式で記述されていても、絶対的な正確さをもっているわけではない」 (p.62) からです。ですから、「曖昧さの残る知識にもとづいてコンピュータで厳密な演繹推論をしても、結論は不確かになってしまう」 (p.62)  ことは十分に考えられます。

そこで第二次人工ブームも停滞期を迎えますが、やがて2010年代半ばから第三次人工知能ブームが生じます。その要因の一つは、コンピュータの性能向上で「ビッグデータ」が扱えるようになったことです。ビッグデータの特徴は、データを「質より量」でとにかくかたっぱしからすべて集めて分析し (「全件処理」)、大まかな傾向性が判明すればいい(「因果から相関へ」)の三つですが (p.73)、このようにビッグデータを活用する方法は、そもそも曖昧な人間の知識を扱うには適しているとも考えられます。

さらにビッグデータに基いてコンピュータに「ディープラーニング・深層学習」をさせれば、人工知能は人間の知性に近づきやがてはそれを超えるのではないか(参考:「シンギュラリティ」)というのが、現在の第三次人工知能ブームでしばしば言われていることです。

こういった前提を踏まえて、以下、西垣先生が提示した論点で、言語教育にも関連があると思われる点を私なりにまとめてみます。



■ 汎用人工知能 (強い人工知能)は人間の概念を獲得できない?

西垣先生は、ディープラーニング(深層学習)によって、人工知能が人間の概念を獲得できるとするのは楽天的すぎるのではないかと考えておられます。

もちろん現在、人工知能はディープラーニングなどで概念の獲得をしていますが、西垣先生が指摘するのは、その概念は、「人間社会で通用する概念とぴったり一致するとは限らない」 (p.86) ということです。なぜなら機械は人間のように「意味」を理解しているのではなく、ビッグデータを -- まさに「機械的」に -- 処理しているだけだからです。人間の意味や知能は、「生きる」という価値軸にそって行われています(p.148)。人間が「生きる」というということは、人間の身体に基づいた活動ですから、人間の身体をもたない機械(コンピュータ)は、人間からすれば奇妙なパターン分類(概念獲得)をしてしまうかもしれません。 (p.86)。

そもそもさまざまなSF作品で、機械の理解と人間の理解が異なるというエピソードはいろいろと描かれているかと思います。そうなると、人間が身体を有しているという身体性、さらにその身体から生じる情感性(情動と感情)、ひいてはその情感性に基づく(人間の)意味について理解しておくことが、今後のコンピュータの進化に伴いますます重要になると思われます。



■ 人間にとっての言語と機械にとっての「言語」の違い

身体性・情感性・意味を理解することが重要といいますのは、現在、英語教育にせよ、その成果がコンピュータに処理できる形(典型的にはマークシート方式)で評価・判定・決定されたり、学習そのものもコンピュータによって支援できる形でなされる傾向が強くなることが予測されるからです。しばしば人間は道具を使いこなしているように見えて、実は機械に飼いならされてしまい思考行動様式を変えているものだと私は考えています(例、車に慣れてしまい、運動不足のまま残業して健康を損ねてでも車のローンを払おうとする。コピーに慣れてしまい、熟読玩味する習慣をなくしてしまう。スマホ画面の操作性に慣れてしまい、紙の本で提供される長い文章を疎んじてしまうようになる、など。)

もちろん私は(英語)教育におけるコンピュータ利用に反対しているわけではありません(そもそもこのブログ自体、コンピュータ抜きには不可能です)。私が言いたいのは、人間とコンピュータの違いをきちんと理解していないと、ますます普及するコンピュータという道具・媒体により私たち自体が変化を受け、どんどんと機械化する一方で (チャップリンはかつて "machine men" を批判しました)、失うべきではない人間性を失ってしまうかもしれないからです。そして(英語)が、その非人間化のお先棒を担ぐことになりかねないからです。




西垣先生のまとめ (pp.124-126) に従うなら、人間の言語では、意味がコミュニケーションによって多義的・多次元的にふくらんでゆきます。「椅子」ということばでも、人間はそれを切り株に対して使ったり(山登りの途中の「ああ、ここにいい椅子があった」といった発言など)、比喩的に使ったりします(「彼は社長の椅子をねらっている」という発言など)。「比喩的にイメージを重ね、ふくらませていく詩的作用が、人間の言語コミュニケーションの最大の特色に他ならない」(pp.124-125) と西垣先生は総括します。この人間の言語使用は、「コンピュータにさまざまな画像を見せて、その共通特徴を抽出する深層学習とは逆の作用」 (p.124) です。別の言い方をすれば、「人間が比喩によって言語記号の意味解釈を動的に広げていく傾向をもつのに対し、人工知能は逆に意味解釈の幅をせばめ固定しようとする」 (p.125) わけです。

しかしマークシート方式といった教育測定は、そういった意味の広がりを嫌います。正解は、いくつかの選択肢の中の一つとして定められなければならないからです。比喩をマークシート方式で問うにせよ、せいぜいそれは典型的な正解とされる比喩的意味を特定することぐらいにしか使われません。比喩から連想的に広がるコミュニケーションの力は、(少なくとも現在のところは)機械では評価できません。

しかし、それにもかかわらず、多くの人々はコンピュータ採点のテストを「客観的」な英語力として信じて疑いません。英語教育の成果は、その「客観的」な(しかし実は極めて限定的な)力によって測定されるべきだと考え、実際、その数値によって多くのことを決定してゆこうという傾向は強まっています(ハーバマスにしたがって、「流通するあまり、人々がそれに対して何の疑念も抱かなくなってしまった思考法」をイデオロギーと呼ぶならば、「客観的数値は現実を十全に表現している」というのは現代のイデオロギーでしょう)。

このように考えてゆくと、現代は、言語教育が、言語テストの一形態にすぎない「客観式テスト」という道具によって、その本質を歪められている状態であり、その傾向はコンピュータ・人工知能の今後の普及に伴いますます強くなっていくことが考えられます。言語教育を考える人間の一人としては懸念を覚えざるをえません。



■ 機械と生物の違い

西垣先生が「本書をつらぬく基調テーマ」 (p.105) として掲げておられるのが生物と機械の違いです。「えっ、なぜそんなことが大切なの?」とお思いの方も多いかもしれませんが、しばし共に考えましょう。こういった根源的理解により、プログラミングで機械に学習することと人間という生物が自ら学習することの違いが明らかになり、前者の学習観で後者の学習を設計しようとする現代の傾向の危険性が明らかになるからです。

そもそもコンピュータとはプログラム、すなわち「前もって (pro) 書く (gram)」ことによって作成された指示によってのみ動くものです (p.106)。その意味で、コンピュータとは「純粋に「過去」に囚われた存在」 (p.106) だと西垣先生は指摘します。コンピュータが高速計算をしているのは、プログラムが書かれた過去のある時点で想定されていた論理空間の中でのことであり、コンピュータは時々刻々と思考する論理空間を自ら書き換えているわけではありません。

それに対して人間をはじめとした生物は、もちろん過去の経験を踏まえて行動しますが、基本的には「現在」の時点で判断して生きています (p.106)。とりわけ人間は、自ら思考する論理空間を書き換えることもできます。(例「これまではこの観点ばかりから考えてきたが、今からはこの新たな観点からも同時に考えてゆこう。)例えば将棋や囲碁といった限定された論理空間での計算の速さに関して、人間は人工知能に勝てませんが、人間の現実世界での生活あるいは人生の論理空間は限定されていません。

機械と生物の違いについて西垣先生は次のようにまとめています。


コンピュータにかぎらず、一般に機械とは再現性にもとづく静的な存在である。(中略) これに対して、生物とは、流れ行く時間のなかで状況に対処しつつ、たえず自分を変えながら生きる動的な存在である。(中略) あらかじめ設計されたルールに基いて作動を繰り返す空間的な存在が機械だとすれば、一回性のある出来事を重ねていく時間的存在が生物というものなのである。 (pp.107-108)


「空間的存在」と「時間的存在」という表現は、私にとってわかるようでわからない表現なので書き換えますと、「機械とは再現性にもとづく静的な存在であり、生物とは出来事性にもとづく動的な存在」とまとめられましょうか。(ちなみに「出来事」 (events) とは、「安定した単位 (stable units) ではなく、現れては消えるもの (vanish as soon as they appear) だとルーマンは説明しています)。

関連記事
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html

この機械と生物の違いは、「要素群の組み立て方や作動の仕方が生物と機械では違うのではないか」 (p.113) というシステム論の観点からもさらに明確にできると西垣先生はお考えです。

機械は、それ自身以外の存在(人間)によって設計され作成され、設計・作成されたプログラム通りに動く「他律的 (heteronomous)」システムです。それに対して、生物は「自律的 (autonomous)」システムです。(p.116) 別の言い方をすれば、機械は人間という異物(アロ)(=自分自身以外のもの)によってつくられ、作動結果という異物(≒自分自身を変更しないもの)をつくりだす「アロポイエティック・システム」(allopoietic system) であり、生物は「自ら(オート)にもとづいて自らをつくる(ポイエーシスする)存在つまり自己循環的に作動する「オートポイエティック・システム」 (autopoietic system)です。(pp.116-117) 。

この区別は、ルーマンも使う「オートポイエーシス理論」(自己創出理論、自己生成理論) ですが、この理論は最初はわかりにくいかもしれません。そこで、直観的理解を促進するため例え話を導入します。

教育はしばしば教師が知っていることを生徒に覚えさせることだと考えられています。つまり教師が予め書いた (pro-gram) 教育内容を生徒がそのまま暗記し、生徒がそれをテストできちんと再生できたら教師は教育が成功したとする考え方です(私はこのように退屈で役に立たない「教育」に辟易していますが、まあ、それはそれとして)。

しかし、現実には、一部の情報をそのように丸暗記してしまうことはたまにはありますが、生徒は教師が言ったことをそのまま丸暗記するのではありません。生徒は自分なりに自分のことばや自分の思考枠組みにしたがって理解し、自分なりにその理解を展開します。つまり、教師のことばは生徒にとって外的な刺激にすぎず、生徒はそれを契機としますが、あくまでも生徒自身が、生徒自身のこれまでの知的能力を使ってそれを理解し、その理解を加えた新しい自分自身を作り出しているわけです。生徒は、異物(アロ)(=自分自身以外のもの)によってつくられ、作動結果という異物(≒自分自身を変更しないもの)をつくりだす「アロポイエティック・システム」ではなく、「自ら(オート)にもとづいて自らをつくる(ポイエーシスする)存在つまり自己循環的に作動する「オートポイエティック・システム」なのです。

オートポイエーシス理論は、これからますます重要になっていくと私は思っています。学部一年生には明らかに難しすぎるでしょうが、次の論文は非常によくまとめられているので、未来の自分が自分自身とするべき異物として、自分なりに読んでみてください。

河島茂生「生命・心理領域における現実構成」『図書館情報学研究』Vol.4, pp.81-104 2008
http://www.seigakuin.jp/course/library/images/5.pdf



■ 脳と心の違い

ついでながら、西垣先生は、脳と心の違いについても明確に述べていらっしゃいますので、それもここで紹介しておきます。これからの教師にとって脳科学(神経科学)は、必須の専門的教養の一つとなってゆくでしょうが、その知識だけで人間の心を理解できると誤解しないためにも次の区別を理解しておいてください。

西垣先生はこうまとめています。

「脳」とは、われわれが外側から、なるべく客観的・絶対的に分析把握するものであり、一方、「心」とは、われわれが内側から、主観的・相対的に分析把握するものだ。 (p. 111)

脳と心は、観察の仕方や視点に伴って出現するもので、それぞれのカテゴリー(範疇)は異なっています。 (p. 111) 神経学者は、ある人の「脳」の状態について外側から精密な記述をすることができます(そしてその記述は他の神経学者の記述とほぼ同じものとなるでしょう)。ですが、その当人が心で感じている内容(クオリア)は、その当人の心の内側からしか体験することができません。外的観察記述は客観的であり万人にとって理解できるものですが、クオリアはその個人の主観世界の出来事であり、他人は理解できません(もちろん、他人はそのクオリアがどのようなものかを、それぞれのクオリアの経験に基いてそれなりに推測することはできますが)。

「究極のところで、人間はお互いを完全に理解できない」というのは私たちが覚悟して受け入れるべき理(ことわり)だと私は考えます。だからこそ、私たちは全身を使って共感的に互いを理解しようとする責務を有するとも私は考えています。私のこの考え方は、(一部の人からすれば)悲観的前提に基づいた建設的な考え方だと自負しています。この考え方は「人間はお互いの完全な理解が可能だ」という(私からすれば)楽観的前提に基いて努力し挫折するという否定的結果を得られるよりも有益だと私は考えています。


と、いろいろ脱線しながらまとめましたが、よい本ですので、学部生はこういった書物を自主的にたくさん読んで下さい。仮に大学の成績表がオールAでも、自主的に本を読んだことがない人を私は個人的には信頼していません。そういう人は、「オートポイエティック・システム」というよりもむしろ「アロポイエティック・システム」に近く、そのような人は未知の課題にはうろたえるばかりだからです。学校教育の目的の一つは、卒業生が人生で、未知の課題に直面した時に、その課題専用の学校も教師もない状況でも、自ら何とか状況を打開できるように育てることだと私は考えています。




追記 1

以下は、西垣先生も関与している会議の報告です。文理統合という観点からも面白く読めます。

日本学術会議 大学教育の分野別質保証委員会
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigakuhosyo/daigakuhosyo.html

大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 情報学分野
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-h160323-2.pdf


追記 2
この本で紹介されている「記号接地問題」 (symbol grounding problem) という問いの立て方はなかなか興味深いので、ここに備忘録として付記しておきます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Symbol_grounding_problem