2016年10月1日土曜日

自分が理解できないことに出会った時に



前の記事(西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書)でも書きましたように、私は学校教育の重要な目的の一つは、卒業生が人生で未知の課題に直面した時に、その課題専用の学校も教科書も教師がなくても、自ら何とか状況を打開できるように育てることだと考えています。

そのためには、学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度が重要です。その反応や態度が悪いままだと、現実の人生で困ることが多くなるからです。信じていた人からの信じられない言動、起こるはずがないと思っていた出来事の到来などは、実人生では避けられないと思います。その際に、なんとかそこから状況を打開することがそれこそ「生きる力」だと私は考えていますから、私は学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度を良くすることの方が、その時時のペーパーテストでよい得点を取ることよりも大切なことだと思っています。

また今後は人工知能の発展に伴い、解決方法(アルゴリズム)がわかっている仕事はどんどんと人工知能に奪われてゆく可能性がありますから(井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 文春新書)、理解できない問題に対して、何とか対処できる創造的な知性は大切になってゆくでしょう。

以下、私なりの教育・研究体験の中で見てきた、自分が理解できないことに出会った時に学習者が取る反応や態度を三つに分類してみます。下では、私の授業にはまるで問題がないかのような記述が進むかもしれませんが、私の指導技術の向上はまた別問題としてここでは触れません。



(1) 一切の努力を放棄し無関心になる

これは高校生が参加してくるオープンキャンパスで時々観察できます。学部の授業でも極めて残念ながらたまに見られます(その際は、私は心底がっかりします)。「・・・と、このように私たちが当たり前と思っているこの考え方ですけれど、例えば18世紀には・・・」などと私が言うと、オープンキャンパスの約150名の高校生の中の数名は、そのことばを聞いた瞬間に下を向きます。

この例だけでは、そういった生徒・学生が、昔の話を聞いてもわからないと自分で思い込んでいるのか、それとも昔の話を聞いても現世の利益には直結しないと思い込んでいるのかわかりませんが、大学生の話を聞いていると、少しでも授業がわからないと思ったら、寝るかスマホをいじるといった反応・態度は大教室の講義授業では珍しくないようです。理解できないことに出会ったら、それを理解するための一切の努力を放棄し無関心になるという反応・態度は現代の若者がとりがちといえるのかもしれません。

実人生で、自分が理解できないことが生じた時に、知的努力を放棄することは害をひどくすることにつながります。もちろん、そういった出来事に対して人間は無関心ではいられないので、無関心になることはないのでしょうが、それでも無力感におそわれ無気力になるということは十分に考えられます。そうだとすると、生徒・学習者が卒業まで終始このような反応・態度を取り続けていたら、その教育は失敗と言えるのかもしれません。そのような生徒・学習者に対して、手を取り品を変え、課題を極度に細分化して「できたね。よかったね」と褒めるのは、何らかの理由で自尊心や自信を根底的に失ってしまった生徒・学習者相手なら必要かつ有効かもしれませんが、健常な生徒・学習者がいつまでもこのような反応・態度を取ることを許すのは教育的とはいえないと私は考えています(もちろん教師の指導技術が話にならないぐらいにひどい場合は別です。今回の話は、教師の指導技術がまあまあであることを前提としています。また、教師は限りなく指導技術を向上すべきということもその通りでしょう。とはいえ、私は教師は指導技術だけでなく自らの学習を深める責務ももっているとは思いますが)。



(2) 不機嫌になり、理解できないことに対して怒りをぶつける

これは時折、学会でも見られます(苦笑)。ですが、それはまた別の話として(笑)、生徒・学生が、わからないことに接すると途端に不機嫌になり、そのような課題を出した教師を非難し始めるのは珍しくないでしょう(その非難の対象が、あまりにもひどすぎる発表技術しかもっていない場合は別、というのは上にも述べた通りです)。

また最近の学校教育ではしばしば無記名・匿名アンケートが行われますが、その記述の中には、お互いに顔を合わせていたらとても言えないようなことばで自分が理解できなかった怒りを表現する人もたまにいます。先日も、ある長期間の体験プログラムに参加した学生の一人が匿名で、「自分はこのプログラムから何も得ることができなかった」と行間に怒りを表しながら書いていたという報告を私は受けましたが、それを読んだ関係者は、読んだ瞬間に、その学生の学習能力の根本的な欠如に思わず苦笑したそうです。「だってこれだけの経験ができるプログラムの中で何も得ることができなかったとすれば、それは自分が○鹿だと高らかに宣言しているようなものでしょう」というのがその関係者の弁でした。

しかし、考えてみると、理解できないことに対して不機嫌になるのは、子どもが自然と取る態度なのかもしれません。赤ちゃん時代は、自分が不快だという鳴き声を出すだけで、保護者がその意図を汲み取り対処をしてくれます。嫌なことや理解できないことがあれば不機嫌になるというのは、赤ちゃん時代の記憶が強い子どもとしてはとても自然な反応なのでしょう。そうだとすると、その記憶あるいはそれへの郷愁を引きずっている人が、理解できないことに対して怒りはじめるのは驚くべきことではないのでしょう。

しかし教育という営みは、子どもを大人にすることです。大人は、自分が理解できない出来事に対していちいち怒りを爆発させるべきではないでしょう(と言いながらも、私は、コンピュータの理解不能な挙動に毒づいたり、他人の想定外の言動にイライラしたりしていますから、まだ十分には大人ではありません。私にはもっと自己教育が必要です)。

ともあれ、教育が目指している大人とは、理解できないことに直面した時でも、不機嫌にならず、怒りをどこかに転嫁するのでもなく、冷静にその理解できない出来事に直面する人間です。理解できない・しがたい出来事(例えば不況での苦労)に接した時に、怒りを他に転嫁すること(例えば、「○○人が諸悪の根源」などと言い始めること)は、古今東西の歴史の中でしばしば起こっていることですから、理解できない時に、私たちは冷静になることを学ばねばなりません。



(3) 冷静に「どういうこと? (What is that?)」、「なぜ? (Why is that?)」と問いを立てる

自分が理解できないことに出会った時にとるべき反応・態度、学校教育が育むべき反応・態度は、その理解できないことを言う人(あるいはその出来事)に対して、冷静に「それはどういうこと? (What is that?)」とその正体を見極めようとして、忍耐強く「それはなぜ? (Why is that?)」とそれが生じた理由を考え続けることです。

私は幸運なことにそういう反応・態度を常に保っている方々を知っています。武術の世界でしたら例えば甲野善紀先生ですが、言語教育界でしたら例えば大津由紀雄先生です。

関連記事:1/12大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)での発表資料掲載、および大津先生へのメッセージ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/112.html

甲野先生は、理解しがたい身体の知恵や講習会参加者が持ち込んだ異分野の問題に接した時も、極めて冷静で自らの身体を使いながら考え、考え続けられております。大津先生は、上の記事でも書きましたが、例えば若くて尖っていた頃の私の立論に対しても淡々とその理路を正そうとしてくださいました。私は尊敬できるそういった方々を知ることができたことで、なんとか自分を律しようとすることができています。

あるいは私が経験していないので偉そうなことは言えませんが、大災害などが起こった場合、無気力になることもなく、「○○が悪い!」という怒りにかられて現実的対応を放棄してしまうことなく、冷静に状況を分析し、もっとも賢明な対処手段を考え行動し、それがうまくいかなければさらに冷静に分析を続ける人こそは、世の中が求めている人だと思います。

学校教育は、究極的には、理解できない出来事に接した時も、冷静にそれを分析し対応法を創造できる人を育てるべきだと考えます。

もちろん子どもが最初からそのような態度を獲得できるわけはありません。子どもは最初は (2) のような不機嫌な態度をとりがちでしょう。しかし教師は、子どもの知的好奇心に火を着けながら、子どもが忍耐強く問題に取り組む習慣を育てなければなりません。また、子どもはあまりに課題が不出来だったり、自らの知的好奇心がまったく満たされなかったりすると、(1) のような無気力・無関心を習慣化してしまいます(「学習された無力感」 learned helplessness)。それは学校教育がもたらした害ですから、その害が生じないように、教師は「受験に必要だから」とか「とにかくやりなさい」などと子どもが納得できない弁明でごまかすことなく、学校教育が害ではなく益をもたらすよう努力しなければなりません。

ですが、昨今の教育界を見ていると、そういった反応や態度の根気強い育成よりも、目の前の高得点獲得ばかりを目指しているように思えます(あるいはそうならざるを得ないような制度を「教育再生」といったスローガンのもとに完成させられようとしていると言うべきでしょうか)。

教師としては、学校教育の根本的な目的が何であるのかを粘り強く考え続けその見識を実践に活かしていきたいと思います。

一個人としては、これだけ偉そうなことを言いながら、日常生活で自分が (1) や (2) の態度を取らないように自己観察を怠らないようにしないと思います(汗)。


おそまつ



西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書

この記事は学部1年生向けの授業(「英語教師のためのコンピュータ入門」)の資料の一つとして作成しました。


西垣通先生はまさに文理統合の識者で、私にとっても、ルーマンをきちんと読むことの必要性を感じさせていただいた先生(といっても読書を通じての一方的な関係です)ですので、西垣先生の著作はできるだけ読むようにしています。

今回の『ビッグデータと人工知能』も、時期に適った出版でありながら、単に現在の流れを報告するだけでなく、いくつかの本質的な問題を示しているように思えます。

ここでは私なりに重要と感じた論点を簡単にまとめます。ただ、そのまとめを理解するための最低限の前提として、人工知能の歴史をごく簡単におさえておきます。

人工知能の第一次ブームは1950年代後半に生じました。キーワードは「論理」 (logic) で、機械にルール・アルゴリズムを与え、それを基に高速論理処理させることによってオセロのような簡単なゲームを行うといったものでした (p.58) 。

しかし「論理」だけでは、人工知能がそもそも目指していた "General Problem Solver" (ざっくりと言うなら、汎用型人工知能と同じ) とは程遠いところにあります。その理想を目指すための動きが高まったのが1980年代の第二次人工知能ブームです。この時のキーワードは「知識」 (knowledge) で、コンピュータに人間の獲得した知識を溜め込ませて「論理プラス知識」で知性を実現させようとしました(この動きは「知識工学」 (knowledge engineering) や「エキスパート・システム」(expert system)  といった概念でも説明できます)。(p.60)

しかしまだ人工知能は人間の知性に近づきませんでした。そもそも「人間の知識の大半は、たとえ表面上は論理的な命題のような形式で記述されていても、絶対的な正確さをもっているわけではない」 (p.62) からです。ですから、「曖昧さの残る知識にもとづいてコンピュータで厳密な演繹推論をしても、結論は不確かになってしまう」 (p.62)  ことは十分に考えられます。

そこで第二次人工ブームも停滞期を迎えますが、やがて2010年代半ばから第三次人工知能ブームが生じます。その要因の一つは、コンピュータの性能向上で「ビッグデータ」が扱えるようになったことです。ビッグデータの特徴は、データを「質より量」でとにかくかたっぱしからすべて集めて分析し (「全件処理」)、大まかな傾向性が判明すればいい(「因果から相関へ」)の三つですが (p.73)、このようにビッグデータを活用する方法は、そもそも曖昧な人間の知識を扱うには適しているとも考えられます。

さらにビッグデータに基いてコンピュータに「ディープラーニング・深層学習」をさせれば、人工知能は人間の知性に近づきやがてはそれを超えるのではないか(参考:「シンギュラリティ」)というのが、現在の第三次人工知能ブームでしばしば言われていることです。

こういった前提を踏まえて、以下、西垣先生が提示した論点で、言語教育にも関連があると思われる点を私なりにまとめてみます。



■ 汎用人工知能 (強い人工知能)は人間の概念を獲得できない?

西垣先生は、ディープラーニング(深層学習)によって、人工知能が人間の概念を獲得できるとするのは楽天的すぎるのではないかと考えておられます。

もちろん現在、人工知能はディープラーニングなどで概念の獲得をしていますが、西垣先生が指摘するのは、その概念は、「人間社会で通用する概念とぴったり一致するとは限らない」 (p.86) ということです。なぜなら機械は人間のように「意味」を理解しているのではなく、ビッグデータを -- まさに「機械的」に -- 処理しているだけだからです。人間の意味や知能は、「生きる」という価値軸にそって行われています(p.148)。人間が「生きる」というということは、人間の身体に基づいた活動ですから、人間の身体をもたない機械(コンピュータ)は、人間からすれば奇妙なパターン分類(概念獲得)をしてしまうかもしれません。 (p.86)。

そもそもさまざまなSF作品で、機械の理解と人間の理解が異なるというエピソードはいろいろと描かれているかと思います。そうなると、人間が身体を有しているという身体性、さらにその身体から生じる情感性(情動と感情)、ひいてはその情感性に基づく(人間の)意味について理解しておくことが、今後のコンピュータの進化に伴いますます重要になると思われます。



■ 人間にとっての言語と機械にとっての「言語」の違い

身体性・情感性・意味を理解することが重要といいますのは、現在、英語教育にせよ、その成果がコンピュータに処理できる形(典型的にはマークシート方式)で評価・判定・決定されたり、学習そのものもコンピュータによって支援できる形でなされる傾向が強くなることが予測されるからです。しばしば人間は道具を使いこなしているように見えて、実は機械に飼いならされてしまい思考行動様式を変えているものだと私は考えています(例、車に慣れてしまい、運動不足のまま残業して健康を損ねてでも車のローンを払おうとする。コピーに慣れてしまい、熟読玩味する習慣をなくしてしまう。スマホ画面の操作性に慣れてしまい、紙の本で提供される長い文章を疎んじてしまうようになる、など。)

もちろん私は(英語)教育におけるコンピュータ利用に反対しているわけではありません(そもそもこのブログ自体、コンピュータ抜きには不可能です)。私が言いたいのは、人間とコンピュータの違いをきちんと理解していないと、ますます普及するコンピュータという道具・媒体により私たち自体が変化を受け、どんどんと機械化する一方で (チャップリンはかつて "machine men" を批判しました)、失うべきではない人間性を失ってしまうかもしれないからです。そして(英語)が、その非人間化のお先棒を担ぐことになりかねないからです。




西垣先生のまとめ (pp.124-126) に従うなら、人間の言語では、意味がコミュニケーションによって多義的・多次元的にふくらんでゆきます。「椅子」ということばでも、人間はそれを切り株に対して使ったり(山登りの途中の「ああ、ここにいい椅子があった」といった発言など)、比喩的に使ったりします(「彼は社長の椅子をねらっている」という発言など)。「比喩的にイメージを重ね、ふくらませていく詩的作用が、人間の言語コミュニケーションの最大の特色に他ならない」(pp.124-125) と西垣先生は総括します。この人間の言語使用は、「コンピュータにさまざまな画像を見せて、その共通特徴を抽出する深層学習とは逆の作用」 (p.124) です。別の言い方をすれば、「人間が比喩によって言語記号の意味解釈を動的に広げていく傾向をもつのに対し、人工知能は逆に意味解釈の幅をせばめ固定しようとする」 (p.125) わけです。

しかしマークシート方式といった教育測定は、そういった意味の広がりを嫌います。正解は、いくつかの選択肢の中の一つとして定められなければならないからです。比喩をマークシート方式で問うにせよ、せいぜいそれは典型的な正解とされる比喩的意味を特定することぐらいにしか使われません。比喩から連想的に広がるコミュニケーションの力は、(少なくとも現在のところは)機械では評価できません。

しかし、それにもかかわらず、多くの人々はコンピュータ採点のテストを「客観的」な英語力として信じて疑いません。英語教育の成果は、その「客観的」な(しかし実は極めて限定的な)力によって測定されるべきだと考え、実際、その数値によって多くのことを決定してゆこうという傾向は強まっています(ハーバマスにしたがって、「流通するあまり、人々がそれに対して何の疑念も抱かなくなってしまった思考法」をイデオロギーと呼ぶならば、「客観的数値は現実を十全に表現している」というのは現代のイデオロギーでしょう)。

このように考えてゆくと、現代は、言語教育が、言語テストの一形態にすぎない「客観式テスト」という道具によって、その本質を歪められている状態であり、その傾向はコンピュータ・人工知能の今後の普及に伴いますます強くなっていくことが考えられます。言語教育を考える人間の一人としては懸念を覚えざるをえません。



■ 機械と生物の違い

西垣先生が「本書をつらぬく基調テーマ」 (p.105) として掲げておられるのが生物と機械の違いです。「えっ、なぜそんなことが大切なの?」とお思いの方も多いかもしれませんが、しばし共に考えましょう。こういった根源的理解により、プログラミングで機械に学習することと人間という生物が自ら学習することの違いが明らかになり、前者の学習観で後者の学習を設計しようとする現代の傾向の危険性が明らかになるからです。

そもそもコンピュータとはプログラム、すなわち「前もって (pro) 書く (gram)」ことによって作成された指示によってのみ動くものです (p.106)。その意味で、コンピュータとは「純粋に「過去」に囚われた存在」 (p.106) だと西垣先生は指摘します。コンピュータが高速計算をしているのは、プログラムが書かれた過去のある時点で想定されていた論理空間の中でのことであり、コンピュータは時々刻々と思考する論理空間を自ら書き換えているわけではありません。

それに対して人間をはじめとした生物は、もちろん過去の経験を踏まえて行動しますが、基本的には「現在」の時点で判断して生きています (p.106)。とりわけ人間は、自ら思考する論理空間を書き換えることもできます。(例「これまではこの観点ばかりから考えてきたが、今からはこの新たな観点からも同時に考えてゆこう。)例えば将棋や囲碁といった限定された論理空間での計算の速さに関して、人間は人工知能に勝てませんが、人間の現実世界での生活あるいは人生の論理空間は限定されていません。

機械と生物の違いについて西垣先生は次のようにまとめています。


コンピュータにかぎらず、一般に機械とは再現性にもとづく静的な存在である。(中略) これに対して、生物とは、流れ行く時間のなかで状況に対処しつつ、たえず自分を変えながら生きる動的な存在である。(中略) あらかじめ設計されたルールに基いて作動を繰り返す空間的な存在が機械だとすれば、一回性のある出来事を重ねていく時間的存在が生物というものなのである。 (pp.107-108)


「空間的存在」と「時間的存在」という表現は、私にとってわかるようでわからない表現なので書き換えますと、「機械とは再現性にもとづく静的な存在であり、生物とは出来事性にもとづく動的な存在」とまとめられましょうか。(ちなみに「出来事」 (events) とは、「安定した単位 (stable units) ではなく、現れては消えるもの (vanish as soon as they appear) だとルーマンは説明しています)。

関連記事
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html

この機械と生物の違いは、「要素群の組み立て方や作動の仕方が生物と機械では違うのではないか」 (p.113) というシステム論の観点からもさらに明確にできると西垣先生はお考えです。

機械は、それ自身以外の存在(人間)によって設計され作成され、設計・作成されたプログラム通りに動く「他律的 (heteronomous)」システムです。それに対して、生物は「自律的 (autonomous)」システムです。(p.116) 別の言い方をすれば、機械は人間という異物(アロ)(=自分自身以外のもの)によってつくられ、作動結果という異物(≒自分自身を変更しないもの)をつくりだす「アロポイエティック・システム」(allopoietic system) であり、生物は「自ら(オート)にもとづいて自らをつくる(ポイエーシスする)存在つまり自己循環的に作動する「オートポイエティック・システム」 (autopoietic system)です。(pp.116-117) 。

この区別は、ルーマンも使う「オートポイエーシス理論」(自己創出理論、自己生成理論) ですが、この理論は最初はわかりにくいかもしれません。そこで、直観的理解を促進するため例え話を導入します。

教育はしばしば教師が知っていることを生徒に覚えさせることだと考えられています。つまり教師が予め書いた (pro-gram) 教育内容を生徒がそのまま暗記し、生徒がそれをテストできちんと再生できたら教師は教育が成功したとする考え方です(私はこのように退屈で役に立たない「教育」に辟易していますが、まあ、それはそれとして)。

しかし、現実には、一部の情報をそのように丸暗記してしまうことはたまにはありますが、生徒は教師が言ったことをそのまま丸暗記するのではありません。生徒は自分なりに自分のことばや自分の思考枠組みにしたがって理解し、自分なりにその理解を展開します。つまり、教師のことばは生徒にとって外的な刺激にすぎず、生徒はそれを契機としますが、あくまでも生徒自身が、生徒自身のこれまでの知的能力を使ってそれを理解し、その理解を加えた新しい自分自身を作り出しているわけです。生徒は、異物(アロ)(=自分自身以外のもの)によってつくられ、作動結果という異物(≒自分自身を変更しないもの)をつくりだす「アロポイエティック・システム」ではなく、「自ら(オート)にもとづいて自らをつくる(ポイエーシスする)存在つまり自己循環的に作動する「オートポイエティック・システム」なのです。

オートポイエーシス理論は、これからますます重要になっていくと私は思っています。学部一年生には明らかに難しすぎるでしょうが、次の論文は非常によくまとめられているので、未来の自分が自分自身とするべき異物として、自分なりに読んでみてください。

河島茂生「生命・心理領域における現実構成」『図書館情報学研究』Vol.4, pp.81-104 2008
http://www.seigakuin.jp/course/library/images/5.pdf



■ 脳と心の違い

ついでながら、西垣先生は、脳と心の違いについても明確に述べていらっしゃいますので、それもここで紹介しておきます。これからの教師にとって脳科学(神経科学)は、必須の専門的教養の一つとなってゆくでしょうが、その知識だけで人間の心を理解できると誤解しないためにも次の区別を理解しておいてください。

西垣先生はこうまとめています。

「脳」とは、われわれが外側から、なるべく客観的・絶対的に分析把握するものであり、一方、「心」とは、われわれが内側から、主観的・相対的に分析把握するものだ。 (p. 111)

脳と心は、観察の仕方や視点に伴って出現するもので、それぞれのカテゴリー(範疇)は異なっています。 (p. 111) 神経学者は、ある人の「脳」の状態について外側から精密な記述をすることができます(そしてその記述は他の神経学者の記述とほぼ同じものとなるでしょう)。ですが、その当人が心で感じている内容(クオリア)は、その当人の心の内側からしか体験することができません。外的観察記述は客観的であり万人にとって理解できるものですが、クオリアはその個人の主観世界の出来事であり、他人は理解できません(もちろん、他人はそのクオリアがどのようなものかを、それぞれのクオリアの経験に基いてそれなりに推測することはできますが)。

「究極のところで、人間はお互いを完全に理解できない」というのは私たちが覚悟して受け入れるべき理(ことわり)だと私は考えます。だからこそ、私たちは全身を使って共感的に互いを理解しようとする責務を有するとも私は考えています。私のこの考え方は、(一部の人からすれば)悲観的前提に基づいた建設的な考え方だと自負しています。この考え方は「人間はお互いの完全な理解が可能だ」という(私からすれば)楽観的前提に基いて努力し挫折するという否定的結果を得られるよりも有益だと私は考えています。


と、いろいろ脱線しながらまとめましたが、よい本ですので、学部生はこういった書物を自主的にたくさん読んで下さい。仮に大学の成績表がオールAでも、自主的に本を読んだことがない人を私は個人的には信頼していません。そういう人は、「オートポイエティック・システム」というよりもむしろ「アロポイエティック・システム」に近く、そのような人は未知の課題にはうろたえるばかりだからです。学校教育の目的の一つは、卒業生が人生で、未知の課題に直面した時に、その課題専用の学校も教師もない状況でも、自ら何とか状況を打開できるように育てることだと私は考えています。




追記 1

以下は、西垣先生も関与している会議の報告です。文理統合という観点からも面白く読めます。

日本学術会議 大学教育の分野別質保証委員会
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigakuhosyo/daigakuhosyo.html

大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準 情報学分野
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-h160323-2.pdf


追記 2
この本で紹介されている「記号接地問題」 (symbol grounding problem) という問いの立て方はなかなか興味深いので、ここに備忘録として付記しておきます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Symbol_grounding_problem









2016年9月15日木曜日

井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 (文春新書)



この記事は学部1年生向けの授業「英語教師のためのコンピュータ入門」の資料の一つとして作られました。以下、■印の文は私なりの本書のまとめで、○はそれに基づく愚見です。


■ 21世紀に入ってから、米国では労働生産性やGDPは上昇するものの、雇用者数や家計所得(中央値)が伸びないという状況が顕著になってきた(The Great Decopuling of the US Economy)。(p.33)


http://andrewmcafee.org/2012/12/the-great-decoupling-of-the-us-economy/ より転載)


このグラフを作成したAndrew McAfee氏は、上のサイトでこの乖離の重要な要因の一つとして技術の進歩  (technological progress) をあげている。

Our argument, in brief, is that digital technologies have been able to do routine work for a while now. This allows them to substitute for less-skilled and -educated workers, and puts a lot of downward pressure on the median wage. As computers and robots get more and more powerful while simultaneously getting cheaper and more widespread this phenomenon spreads, to the point where economically rational employers prefer buying more technology over hiring more workers. In other words, they prefer capital over labor. This preference affects both wages and job volumes. And the situation will only accelerate as robots and computers learn to do more and more, and to take over jobs that we currently think of not as ‘routine,’ but as requiring a lot of skill and/or education.
http://andrewmcafee.org/2012/12/the-great-decoupling-of-the-us-economy/

この分析からするなら、現在の雇用の多くがますます機械によって奪われると考えられる。

○ もちろんまだ日本の格差はアメリカの格差ほどではないが、このアメリカの傾向が今後日本でも見られるのではないだろうか(少なくともそれに反論する材料を私はもたない)。


■ オックスフォード大学のフレイとオズボーンの研究(「雇用の未来」)は、様々な職業がコンピュータによる自動化で消滅する確率を出している。(p.37) 日本版の結果は、野村総合研究所が公開している。

日本の労働人口の49%が人工知能やロボット等で代替可能に

○ 「人工知能やロボット等による代替可能性が低い100種の職業」の中に、「小学校教員」は入っているが、中高大あるいは塾の(英語)教師はどうだろうか?機械に代わった方がいいと思えるような(英語)教師はいないだろうか?(そもそもサテライト授業は、ある程度の機械代替であると考えられる。また、教育のICT化も人間のコミュニケーションより情報伝達を主とするものも少なくないのではないだろうか?)


■ これからの仕事のコンピュータ化・機械化の中核は人工知能 (Artificial Intelligence: AI) であるが、AIは「特化型AI」と「汎用型AI」に分けられる。現在のAIはすべて特化型AIで、例えばSiriは音声でのiPhone操作に特化している。(p.77)  今年 (2016年)は、Alpha Goがプロ囲碁棋士を破り話題となったが、これも特化型AIである。

○ Siriはもちろん英語でも日本語でも実現されている。少なくとも機能を限定した特化型AIなら、携帯などによる機械翻訳も遠くない将来に実用化されると考えられる。つまり「旅行用英会話」などだけなら人間が習得する必要はない。そうなった時、英語教育(外国語教育)はどのように進化すべきだろうか(それとも絶滅するべきだろうか)。私には私なりの考えがあるが、まずは皆さん一人ひとりで考えてほしい。


■ ちなみに国立情報学研究所は、2016年度までに大学入試センター試験で高得点をマークすること、また2021年度に東京大学入試を突破することを目標に研究活動を進めている(Todai Robot Project)。2015年の結果では、AIはセンター試験(ベネッセ進研模試)で偏差値57.8(受験者総数44万人)を獲得している。(http://21robot.org/%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF/)

○ 「やっぱり受験は大切」とは(一部の)高校教師の好きな台詞だが、そういった受験学力は、遠くない将来に簡単に機械で実現されるようなものになるだろう。そういう時代が来た時に、受験勉強しかできない人間の社会的価値はどうなるのだろうか。


■ 汎用型AIは、特定の機能だけに知性を働かせるのではなく、人間のようにさまざまな状況に応じて考えることができる。チェスもできれば、試験も解けるし、人間と会話を楽しむこともできる。(p.77)

■ 汎用型AIを実現するには、全脳アーキテクチャか全脳エミュレーションの方法が考えられる。全脳アーキテクチャは、脳の各部位の機能をプログラム(モジュール)として再現し、後で結合する方法である。全脳エミュレーションは、脳の神経系のネットワーク構造のすべてをスキャンするなどしてコンピュータ上で再現する方法である。(p.78)

■ 本書の「図3-1 経済システムと産業の変遷」によれば、人類史は以下の「革命」によって大転換をとげたし、とげるだろうと予想される。(p.103)


(i) 定住革命:紀元前1万年

(ii) 第一次産業革命(蒸気機関):1760年頃

(iii) 第二次産業革命(内燃機関・電気モータ):1870年頃

(iv) 第三次産業革命(パソコン・インターネット):1995年頃

(v) 第四次産業革命 (汎用AI・全脳アーキテクチャ):2030年頃

?? 全脳エミュレーション:2100年頃


○ 若い皆さんが技術革新に対してどのような思いをもっているかわからないが、私は大学に入ってコピー機に驚き、就職してファックスに驚いたと思ったら、続いてemailに仰天した。「ポケベル」が最高にイケていた時代はすぐに終わり、やがては携帯の時代が来たが、いつのまにかスマホが普及しかっこよかったはずの携帯は「ガラケー」と呼ばれ始めた。個人ブログやYouTubeの初期のウェブ上の発信者は限られていたが、SNSま瞬く間に普及した。これからどんな変化が来るのだろう?(参考:ムーアの法則


■ それぞれの革命は、「汎目的技術」(General Purpose Technology: GPT) によってもたらされた。(p.111)

■ 汎目的技術は、「技術的失業」 (technological unemployment) をもたらす。技術的失業は、「摩擦的失業」(労働者が新しい職につくまでに時間がかかるから生じる失業)と「需要不足による失業」(そもそも就く職がないことから生じる失業)がある。(pp.134-135)

○ 自分自身が、あるいはあなたが未来に教える生徒が「摩擦的失業」状態にいることを想像してみよう。「需要不足による失業」状態の想像はできるだろうか?


■ 近代社会の成果の一つとして、人間の労働には最低賃金が法律で認められているが、ロボットにはそのような法律がない。ロボットによる労働の値段が、人間の最低賃金以下になるならば、汎用AI・ロボットが生産活動に全面的に導入されるような経済(「純粋機械化経済」)が到来する可能性がある。(p.171)

■ ちなみにソフトバンクのロボットPepperのレンタル価格は一時間1500円(ただしPepperのサポート要員の給料などは考慮せず)であり、東京都の最低賃金900円との差は600円しかない。(p.171)

■ マルクスが描写したように、第二次産業革命の機械化により一部の労働者は失業し、資本家ばかりが反映する格差が増大したが、第四次産業革命では一部の労働者ではなく多くの労働者が失業するかもしれない。(p.198)(上記の「雇用の未来」と「需要不足による失業」を併せて考えよ)

○ 「ボクは英語を教えるセンセイになりたいのだから、マルクスなんて関係ない」などと無教養な台詞を得意気に語らないでほしい。もし現代日本の英語教師の多くが英語を一種の「商品」のようにみなして教えているのなら、「商品」についても考察してほしい。また、英語学力という商品の未来についても考えてほしい。

以下は、著者(経済学者)が、資本主義の特質を踏まえて、教育について述べたことである。経済学が教育学と関係などとは言わないでほしい。

そもそも、自分が必要とされているか否かで悩むことは近代人特有の病であり、資本主義がもたらした価値転倒の産物です。しかも、価値転倒が起きたことすら意識できないくらいに、私たちは有用性を重んじるような世界に慣れ親しんでしまっています。有用性を極度に重視する近代的な価値観は資本主義の発展とともに育まれてきました。(p.239)

その観点 [=教育は人的資本に対する投資であるという考え方] からすれば、小学校に上がってから退職するまでの人生は、投資期間とその回収期間として位置づけられます。受験勉強のための塾通いは多くの場合まさにこの観点からなされています。子供の時間は未来の富のために捧げられているのです。
資本主義の発達にともなって、学術は真実を探求するもの、あるいは人間を自由にするものとしての価値を失ってきました。「知識は、それ自身だけで善いものとみられず、また一般的にいって、ひろくて情味豊かな人生観を生み出す方法としては考えられず、単なる技術の一要素とみなすようになって来ている
のです。 (p.240)

参考記事
マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/blog-post_14.html
モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/20121993.html


■ 著者は次のことばをもって本書を終えている。

「もしBI [= Basic Income:ベーシックインカム]のような社会保障制度がなければ大半の人々にとって、未来の経済は暗澹たるものになりかねません。BIなきAIはディストピアをもたらします。しかし、BIのあるAIはユートピアをもたらすことでしょう。」(p.235)


○ 私はこの主張に説得力を感じたが、皆さんはどうだろう。自分で読んで考えてほしい。(読むだけで考えなくては駄目だし、考えるばかりで読まないのもいけない)。

しかし、このような人工知能の発展を考えると、これからの教育には、人間の生物的感性に基づいた芸術的側面や、人間の複数性に基づいた社会的側面、そしてそれらを活用した創造性が大切であるように思える。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/06/blog-post.html

また、人工知能の発展の経済的帰結を考えると、国民一人ひとりがきちんと社会科学的素養を身につけないならば、おそらくは資本家・権力者の巧みなメディアコントロールなどで、BIなどの制度の実現は阻まれるだろう。(もしう私が代々にわたっての資産家で強欲な人格なら、おそらくBIには反対するだろう)。

こうなると、後に懸命に否定しようとしたものの、かつて文部科学省までが言った「これからの大学には、人文社会系の学問はいらないのではないか」といった言説は、無知ゆえの妄言というより、陰謀的な言説ではないかとすら思える(いや、陰謀ほどに自覚的でない、権力者による直観的な自己防衛・自己増殖言説なのだろうか)。

大学時代には幅広く読書して思考力を身につけてほしい。教養も思考力もない教師に教えられる児童・生徒は不幸だからだ。




追記
  本日(2016/09/16)の毎日新聞の報道によりますと、みずほ銀行とソフトバンクは、利用者がスマートフォンで申し込むと、AIが審査し、利用者が将来稼ぐお金などを予測して貸し出す形の個人向け融資事業を始めると発表しました。
  こういったFin Tech (Financial technology) を利用すると、コストが抑えられ低金利での融資が可能とのこと。AIを活用した機器・システム全体の国内市場規模は現在の3.8兆円から2020年に23兆円に達するとの試算もあるそうです。
http://mainichi.jp/articles/20160916/ddm/008/020/118000c