2017年3月15日水曜日

中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました



 本日、中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました。以下には、制限字数を超えた提出前の草稿を掲載しておきます。私の悪い癖で、短い文章に多くの論点を盛り込もうとしているので、これでもわかりにくい点があるかもしれませんが、一つの意見としてお読みいただけたら幸いです。



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 中学校学習指導要領の「外国語」は、浅い「英語力」ばかりを追求しており、学びの主体性・対話性・深さを奪うものとなるでしょう。またその「英語力」の成果も、やがては人工知能に駆逐されるようなものでしょう。今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画として適切ではないと考えます。以下、四点に分けて説明します。


(1) コミュニケーション観があまりに浅薄であり、学びの主体性・対話性・深さが追求できません。

 提案された学習指導要領を読みますと、コミュニケーションとは「簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりする」程度のものとしか理解されていないようです。しかしこれは「情報伝達」にすぎません。

 たしかにコミュニケーションには「情報伝達」という側面もありますが、それ以上にコミュニケーションとは、相手の心を読みながら、相手と自分との関係性から、もっとも自分に忠実でかつ相手に対して効果的な行為を行うことであり、その展開においてはしばしば自らが予想もしなかったり受け入れがたく思えたりする事態もしばしば生じる、複合的な相互作用です。

 このようなコミュニケーションを、優れた中学校英語教師は、日々の授業で実現させています。また入念な準備の末、英語でのスピーチを語り合うことでも実現しています。コミュニケーションにおいて重要なのは、参加者が主体性を発揮し、対話でそれぞれが発見をしながら、共に理解を深めてゆくことです。提案のコミュニケーション観があまりに浅薄なので、以下の(2)や(3)、ひいては(4)といった問題が生じています。

 付言しておきますと、「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方」およびそれを「働かせ」ることという表現については、それが意味することを私はまったく理解できません。私は拙いながらもこれまでコミュニケーション(能力)について研究を続けてきましたが、これらの表現が具体的に何を指しているのいっこうに想像できません。これらの表現は、日常語としても学術語としても意味がよくわからない表現だと考えます。


(2)  日本国における公教育で日本語使用を排斥する教育的意義が理解できません。

 高校に引き続き中学校でも「授業は英語で行うことを基本とする」理由として、「生徒が英語に触れる機会を充実する」とともに、「授業を実際のコミュニケーションの場とする」ことが挙げられています。しかし、これは上述したように極めて浅いコミュニケーション理解に基づくものです。

 生徒と教師が充実したコミュニケーションを実感するのは、それぞれの主体性が発揮された対話で、自らとは異なる見解などが立ち現れながらも、それを共有して、それぞれの理解が深まることです。端的には「ああ」、「なるほど」といったことばが思わずもれるような言語経験です。

 こういった言語経験を行うには、少なくとも中学校段階では、中学生の知性と感性の根幹である日本語を適切に使用することが必要です。いたずらに「英語に触れる機会」と称して定型的で凡庸な英語表現ばかり教師が使っても、生徒も教師もコミュニケーションを実感できません(多くの教師が毎時間尋ねる曜日や天候についての英語質問という「英語に触れる機会」が、どれだけ学びの主体性・対話性・深さを促進(あるいは阻害)しているかについて想像してみてください)。

 促進すべきは、(上述した意味での)英語でのコミュニケーションであり、英語の機械的使用ではありません。


(3) 「読むこと」があまりに単純化され、主体性・対話性・深さを追求することができません。

 「読むこと」に関しては「内容を表現するような音読」などと評価できる記述もありますが、その根幹は、情報や概要や要点だけをとらえるものであり、内容(字義・明意)を正確に読み取ること、および正確な内容理解に伴う可能な解釈(含意・暗意)の理解を行うことという「読むこと」の本質が失われています。

 情報・概要・要点などを把握することを超えて、字義・明意を正確に把握すること、さらにはそこから生じる含意・暗意を解釈することは、中学英語でも可能です。例えば"I have brothers and sisters"から話者は最低五人兄弟であること(字義・明意)を把握し、その文およびその文脈から話者の暮らしぶりなど(含意・暗意)を解釈することにより、生徒が英語を主体的に読み解こうとし、対話を重ね、英語理解を深める実践などがあります。

 しかしこのように英語をきちんと「読むこと」には、中学校段階では日本語使用が欠かせません。日本語を適切に使ってこそ、英語が深く理解できます。そしてその深い英語理解が、英語使用の源となります。授業における英語使用の機械的な強制は、英語教育を極めて表層的なものにするもので言語教育として不適切です。


(4) これからの人工知能の台頭を考えた上での教育の方向性が必要です。

 表層的な情報を読み取り、それを出力することは、近い将来、人工知能によって実現するでしょう。現時点でも職業的翻訳家や理工系研究者の少なからずは、機械翻訳を部分的・補助的に使用していますが、人工知能の機械翻訳の精度はこれからますます向上するでしょう。定型的な外国語日常会話でしたらスマホでも実現できる日は遠くないでしょう。

 そうなった時に必要な力は、表層的・表面的な入出力を行う力ではなく、機械・人工知能では実現し難い深い思考力・判断力・表現力です。現在の職業翻訳家や理工系研究者が機械の粗訳を見ながらそれを修正しているような力がこれからは必要です。そしてやがては機械を借りずとも英語で深い思考力・判断力・表現力を外国語で発揮できることが望まれます。

 中学校レベルといえど、この方向性をもつ必要がありますが、提案された「外国語」はやがては人工知能で駆逐されるような英語力ばかりを追い求めているように思えます。

 以上の四点から、今回の提案は21世紀の外国語教育・言語教育の計画としてはあまりにも浅薄なものだと私は考えます。




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