学部三年生を対象とした「コミュニケーション能力と英語教育」 という授業で、レイコフとジョンソンの認知意味論を扱った次に、野口三千三と竹内敏晴の身体論的言語論を扱いました。私は毎回の授業で、授業の振り返りと予習の要点を言語化して学内専用電子掲示板 (Bb9) に掲載することを学生さんに求めていますが、以下はその一部です。転載した文章は原文のままですが、色付けをしたのは私です。
私は学生さんの言語化においては、いったん英語教育の話題を離れてもいいから、可能ならば、自分がよく知っていて本当に納得している事柄を例にして、授業で学んだこと・学ぶ予定のことを自分なりに咀嚼することを求めています。もちろん、その知見から、再び英語教育の議論に戻すことは当然行っています。
以下の文章で、学生さんは授業における「声」や、自らが親しむ技芸にける「身体」について書いてくれています。なかなか面白いことを書いていると(親バカ的に)思ったので、ここに掲載する次第です。
ちなみに、以前に(英語)教育における思考力の育成について授業で議論した時に、次々に学生さんから飛び出した意見・感想は、「こうやって思い起こしてみると、自分が本当に深く考えたことがあるのは部活の時だけだ。学校の授業では真剣に考えたことがないし、今のような授業では深い思考力は育たないのではないか」というものでした。
日本の教育界では、思考力というのが一種の流行語になり、2020年の抜本的な入試改革では、思考力を「客観的」に測定するテストを導入するといった話題が出ています。この場合の「思考力」や「客観性」については再検討が必要だと思いますが、それはまた別の機会に書くとして、ここでは「声」や「身体」について学部三年生がどのように思考力を発揮したかを、以下の文章からご推察ください。
レイコフとジョンソンの認知意味論の授業の振り返り
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今回の授業では、特に「声」について考えました。
教育実習では、約40人という大人数を相手に話す機会が多く経験しました。私は、静かに授業を聞いてくれない、私語ばかりしている、騒いでいる、という状況では大きな声で怒鳴ってしまうことが多々ありました。いくら大きな声を出しても生徒が話を聞いてくれることはほとんどありませんでした。
実習に行くまでは、とにかく大きな声を出せばいいだろうと思っていました。もちろん、教室の後ろまで届く声で教師は話さなければならないと今でも思っていますが、実習期間中にある先生の授業を観察させていただいたときに、先生の声がとても小さく、後ろまで聞こえるか聞こえないかという程度であったにもかかわらず、生徒たちが熱心に先生の声を聞いていたことにとても驚いた、という経験を思い出しました。
教育実習という特殊な状況下であったということを考慮しても、私の授業と先生の授業では、教師の側の「気持ち」が違っていたのだろうと思います。私は、自分なりに一生懸命準備した授業を生徒たちに披露したい、計画通りの授業をしたい、という思いが少なからずあり、それらが生徒にも伝わってしまったのかもしれません。それに比べて、先生は生徒一人ひとりに目を向け、一人ひとりのスキルアップをよく考えられており、生徒たちは先生の「思い」を無意識的に感じ取っていたのだと思います。
また、実習校のほかの先生からのお話で、「コミュニケーションでは、自分の言葉が相手の身体の中に入って、ふわっとあがってくるものなんだよ」という言葉を聞きました。その時はその言葉をあまり深くは考えていなかったのですが、今考えてみると、自分が相手に伝えたい思いが大切で、言葉は思いを運ぶ一種のツールであり、言い方、表情、イントネーション、抑揚などが言葉をより伝わりやすくしているのではないか、このことを先生は伝えようとしてくださっていたのではないか、と思いました。
日常では常に誰かと話していますが、その言葉一つひとつ、また相手への思い一つ一つをもう一度見直し、相手を不快にさせていないか、自分の思いは伝わっているだろうかを考えようと思います。
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今回の授業の中で「信頼関係」が1つのキーワードではないかと感じました。現在の大学では客観主義的な方法論ばかりに重点を置いていて、生徒の心に届ける身体の使い方、そして生徒と信頼関係を結ぶことの大切さを説いていないように思えます。
実習を通してわたしは、教師が生徒の目を見ないと、生徒もこちらの顔を見てくれないということを身をもって感じました。教師と生徒の間に信頼関係が築けていないと、生徒は先生から学ぼうという気になれないと思います。
私は高校まで野球をずっとしてきていましたが、本当に信頼できる監督、コーチ、チームメイトのアドバイスじゃないと素直に聞き入れようとは思えませんでした。人間というものは自分が認めた相手の言うことじゃないと素直に聞き入れることができないのが常だと思います。
ここではっきりさせておきたいことは「生徒に認められる」ために授業をするというのは、生徒に気に入れられるために自分の信念を曲げたり、媚びを売ることではないということです。生徒と信頼関係を築く第一歩は、生徒を集団としてみるのではなく、ひとりの人間として認めてあげることだと思います。そのようなひとりひとりの生徒をしっかりと観察し、生徒が「先生はわたしを見てくれている」と感じることが大切なのだと思います。
また、「生徒をしっかりとみる」と同時に生徒の声をよく聞くことが教師の「声を届ける」ことにつながると思います。よく「話し上手は聞き上手」という言葉をよく耳にしますが本当にその通りだと思います。話をよく聞くことでその人が何を考え、何を悩み、何をしたいのか理解できるし、よく聞くことで適切なアドバイスをしてあげることにもつながるのではないかと思います。生徒を観察し、生徒の声をよく聞くことの大切さが現在疎かにされているように思います。単純にテストの結果や成績だけで生徒を捉えるのではなく、生徒の実体を捉えることを大切にしようと思います。
今日の授業を聞いて、以前読んだ本のことを思い出しました。「甲子園への遺言」という本の中でプロ野球の打撃コーチだった高畠導宏さんの言葉に「優しい目、大きな耳、小さな口」というものがあります。頭ごなしにフォームを教えたり強制したりするのではなく、優しい目で選手を見つめ、大きな耳で選手の意見や悩みを聞いてあげる。野球の指導者と英語教育は違うものかもしれませんが、「人を育てる」という点では同じだと思います。このような「人を教えるのではなく、育てる」という考えを私たちは忘れてはいけないと思います。
野口三千三と竹内敏晴の身体論的言語論についての予習と振り返り
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授業の中で生徒の発する「何て言ったらいいんだろう」を大切にしなければいけないということをペアの人と話しました。「何て言ったらいいんだろう」というのは身体で感じていることであり、言葉にすべきことだからです。そのためには、聞く姿勢を大切にして受け入れてもらえるという雰囲気づくりや、教師自身にも心の余裕が大切だと思います。
このことを話しているときに、私はエディンバラ大学で長年教英の学生を教えていらっしゃるBarbara先生のことを思い出しました。留学へ行く前から先生のことは先輩方から「とてもいい先生だよ」と聞いていましたが、どんな先生なのかはよく知りませんでした。しかし、留学を終えて日本に帰ってきて、「また教わりたい、また会って話をしたい、成長したところを見てほしい」と感じ、その意味がよくわかります。様々な国からの留学生を長年教えていることや海外生活の経験があり、知識が豊富なことももちろんなのですがそれ以外に大きな要因があると思います。
それは、「自分の声を受け容れてくれる」という安心感です。学生の授業中の言葉を拾い、それについてみんなで考えたりフィードバックを与えたり、私たちが話す放課後や週末の出来事についても深く掘り下げて聞いたりなど、私たちの声や伝えようとしていることを本当に大切にされていたなあと感じます。また、修正すべき間違えについてはきちんと指摘をし、一方的では決してなく授業の中での学生と先生のやりとりが温かい雰囲気の中で行われていました。
こういった授業を受けた経験があるのに、教育実習の時に生徒の言葉に対して適切な返しができなかったことは反省すべきところだと改めて感じました。子供たちの声に対する適切な返しができるように準備を怠らないこと、予想外の言葉が発せられてもそこから学びをつくることができるような、幅広い視点を持って物事を見るようにしていきたいです。
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今回の講義において教師のフィードバックに関して鋭くなおかつ強烈な指摘があったので私自身の教育実習期間中の体験とともに考察していきたいと思います。お笑い芸人のエドはるみ氏により一大ブームが巻き起こされた「グーググー」という流行語のように英語教師がフィードバックをする際にGood.ばかり連呼しているのではないか、そしてそれは生徒を馬鹿にしていることになるのではないかという指摘でしたが、これは鋭い指摘であると考えると同時に大変耳が痛かったです。
私は生徒の発言に対して褒めること、つまりはポジティブなフィードバックを与えること自体は学習上の効果が期待できると思います。なぜなら、自分の発言が教師により褒められることでそれが次の発言をする際の動機づけになり得ると考えるからです。つまり褒められるというある種の成功体験は英語学習を継続する上では一つの重要なファクターであると言えるはずです。しかし、教育実習期間において私は褒めることの意味を履き違えていました。生徒を指名して英語で何かしらの発言があれば即座にGood.とばかり言っていました。
私はこのGood.をポジティブなフィードバックであると捉えていましたが、肝心のGood.と言われた生徒の顔を見てみると、そこには嬉しそうな表情は全くありませんでした。どこか「冷めた表情」のように感じられましたが、それはどんな発言に対してもGood.というフィーバックのみで馬鹿にされていると感じていたからかもしれません。実際に私が中高生であった頃は教師から生き生きした表情もなくただ「その通りですね」と言われても身体からは何の感動も沸き起こりませんでした。それと同時に「ちゃんと聴いてくれていたのだろうか」という不安さえ抱きました。
教育実習の話に戻りますが、生徒と実習生の関係性が十分に築けていないため、生徒は例え褒められても嬉しく感じないのだと勘違いして重要な要因を見逃していました。生徒にフィードバックを与え褒める時に大切なことは生徒の発言をしっかりと聞いた上で、その発言に対する「生きたフィードバック」をすることではないでしょうか。その際には教師が持っている語彙も重要になってくるでしょう。(教育実習の苦い経験から考えると、生徒の発言を反映しない安易なGood.は生徒からしてみれば「死んだフィードバック」と同義だと言えるかもしれません。)All Englishの授業でフィードバックも英語で行う必要があることに捕われすぎていて、英語学習において本来褒めるという行為がもたらす喜びや感動を見失いがちになっていたように思います。しっかりとした語彙力を持った上で、生徒の発言をちゃんと聴くことができればあの時の生徒の顔は輝いていたのかなぁと今は考えています。
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今回は、ほめることについて考えました。授業中にもあったできていないことでもとりあえず、誉めるということは自分自身の実習中でもよく感じていることでした。それは、生徒が超えるべき壁、言い換えればステップアップの機会を奪ってしまうということにも繋がりかねないとも思います。教師の役目は生徒にできているという錯覚を与えることではなく、課題を見つけ解決した時の達成感を感じてもらうことだと思いました。それに加えてもう一つ考えた事があります。たしかに、むやみやたらに誉めることをやめ、生徒たちの課題を見つけ、解決する助けをし続ければ、学校にいる間は生徒たちは成長を続けることが出来ると思います。しかしながら、卒業後などに教師の助けなしでは、自らの課題を見つけ成長できない生徒が育ってしまっては教育の成功とはいえないと思います。ありきたりな言い回しですが、「主体的に学ぶ」ことのできる人間を育てることこそが学校の役割だと実感しました。
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また、今回の授業の中で、「なんて言ったらいいのかわからない」つまり言葉選びの段階を大切にするべきだというお話が印象に残りました。授業における話し合いの段階では、正直この考えをあまり理解できず、納得できずにいました。というのも、たとえば人に悩みを打ち明ける際、人に話すことで新たに自分が考えていることを理解していくこともあるのではないか、つまりことばにおこさなければ身体で感じていることを理解できないということもあるのではないかと考えていたのです。
しかし、復習としてもう一度考え直してみると、自分が考えていることとは、口からでてきたことばそのものではなく、たくさんあることばの中から、ひとつ、あるいはいくつかのことばを選んだそのプロセスにあるのだということに気づきました。今の気持ちは「つらい」でもなく「苦しい」でもなく、「さみしい」のだ、と、無数にあることばのなかから自分の気持ちにピタリと合う言葉を見つけていくことで、本当はどう感じているのか、何を考えているのかを徐々に理解していくのだと思います。
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竹内氏の書いた記事を読み、生徒は教師の姿勢から様々なメッセージを受け取っているのだと思いました。教育実習で体験を思い出したので、書きたいと思います。
実習の初めの方は私の授業を聞いてない生徒がいました。例えば、隣の子とばかりしゃべって授業を聞いてない生徒や、授業中当ててもすぐにわかりませんと答える生徒などがいました。正直、授業を聞いてくれないということに、傷ついたこともあります。でも、そこからなんとか生徒とできるだけコミュニケーションをしようと努めました。そうすると、生徒の反応はガラッと変わったのです。
後々、授業を聞いてない生徒は、あまり英語が好きでなくて得意ではないことを知りました。あの時、授業を聞いてないという態度を示していた生徒の姿勢からも、何らかのメッセージが発せられていたように思います。教育実習だけで、そのメッセージに関して答えられるような授業はとてもできたとは思っていませんが、生徒を理解しようとしたことで、自分のことを見る生徒の姿勢は大きく変わりました。教師が生徒のことを理解しようとすることで、生徒も教師のことを理解しようとしてくれるのだと学びました。実習最終日に、授業中当てても初めは「わかりません。」と怖い顔で言っていた男の子が、「先生、ありがとうございました。」と目を見ていってくれたことはずっと忘れることができないと思います。
40人の生徒一人一人のことについて全部理解することには無理があります。しかし、理解しようとすることで生徒は、教師に歩み寄ってきてくれるように思います。生徒は自分がクラスの中のかけがえのない一人として認められていて、教師がそれをわかってくれている、それだけで大きな支えができるのではないかと感じました。これからも、いろいろな生徒出会うと思いますが、生徒のことを理解しようとする姿勢を忘れないようにしたいと思います。
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「生徒から話しかけられにくい身体になっていないか」とお話から実習先での経験を思い出しました。以前も予習で書いたかもしれませんが、私は○○で実習を経験しました。そのとき私が担当したのは中学1年生のクラスで、担任の先生は若い女の先生でした。明るく元気なクラスでしたが、ささいなことに盛り上がりすぎてコントロールができなくなることもありました。
そんなとき先生は声を張り上げることはせず、生徒たちが自分で気づくまで静かにしていて、生徒の聞く姿勢ができるのを待っていました。そのころの私は生徒に聞こえるのにじゅうぶんな声量を出すことが教師に必要な力だと思っていました。しかしこの経験から、そんなことは絶対に必要な力ではなくて、生徒に届けたい思いと、それに伴うことばとからだの動きが何より大切なのだと思いました。それから声を張り上げることはせず、届けたい思いに従って、ことばとからだの動きを慎重に選ぶようにすると生徒へ気持ちがしっかり届いているような気がして、このこともひとつの要因として、充実した実習を過ごすことができたように思いました。
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予習として竹内敏晴に関する記事は自分にとって、また、多くの教英生にとって非常に読みやすく興味深いものだったのではないかと思いました。なぜなら最も身近な言語教育に関して比較的具体的な現場をもとにした考察が述べられていたからです。例えば、「生徒のことば」や「生徒のからだ」に関しての考察です。私は「姿勢とは孤立したものではなく、相手と主体との間に成り立つ関係の表現である。」という文言が印象的でした。自分は小さいころよく食事の時は肘をつかない、左手をだす、など言われていました。この場合の姿勢というのは、マナーのような相手を気遣い自分の価値を下げない(この表現は適切かどうかはわかりませんが)ようにするものです。しかし、教室で見られる姿勢というのはすこし複雑だと思います。竹内敏晴の表現の言う通り教室内の生徒の姿勢というのは教師との関係を表したものだからです。よくある事だと思いますが、教師によって態度を変える生徒を考えてみれば納得できます。
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今回の予習では竹内敏晴氏の記事を改めて読み直しました。その過程で考察したことを「からだからの朗読」という観点でまとめたいと思います。記事の中に、『「朗読」というのも、口先だけの「発音」だけではなく、からだ全体(ということは、心全体)から行われなければならない。』という言葉を見つけました。そこで、私は自分自身の中高生時代の記憶の中から国語の授業における朗読や英語の授業における音読を思い起こしてみました。すると、不思議なことに当時の先生方のからだの動きを全く思い出すことができなかったのです。おそらくこれは当時の先生方がからだを動かすことなく朗読していたからであろうと考えられます。竹内氏が述べるように、「人のからだ全体が大きく脈打ち、深く息づいている見るものに迫る、つまりこころの動きが鮮やかに現れること」はなかったように思います。
そうして中高時代を振り返っている内に、この講義で柳瀬先生が幾度かおっしゃった「きちんと英語を朗読できる教師が日本にどれほどいるのか、まずは教師自身がしっかりと朗読をすることが大事」という言葉の意味を再び考えるようになりました。私が大学入学以前に受けてきた教育の中では言葉は言葉として独立していることが多かったような印象です。とりわけ朗読や音読の際には音声的側面のみが抽出され、からだの動きという側面は排除されていました。私の教育実習での経験を鑑みても、音読活動を行う際には、「発音・イントネーション・ストレス・スピード・声量」などにしか目がいかず、今考えるとからだの動きを完全排除した指導になってしまっていたと思います。
竹内氏の「話しことばはからだの動きと一つになって生きる」という言葉を見た時は、私に不足していたものはこれだったのかと痛感せざるを得ませんでした。そしてこの「話しことばとからだの動きが一つになって生きている」ことをありありと感じることができたのは先日開催された第40回教英ITCでの出来事です。二日目のディベートエキシビジョンマッチにおいて柳瀬先生(のご友人でいらっしゃいますヘナー教授)により紡ぎ出された英語の一文一文が説得力のあるものでしたが、そこには私たち聴衆にも訴えかける「からだの動き」が存在し、言葉とともに印象に強く残っています。話しことばとからだの動きが一つになって生きているとすれば、私は教育実習期間中、後者を度外視した指導を行っていたことになります。音読は「発音・イントネーション・ストレス・スピード・声量」さえクリアしていれば良いというわけではなく、それらに伴う「からだの動き」に目を向ける必要があるのではないかと考えました。
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竹内敏晴さんに関しての記事を読み、印象的だったのが、教科書を音読するときに「このような感情を込めて読もう」というように、教師が感情を決めることが適切かどうかということです。このような指導は音読指導の中ではよくすることです。しかし、感情は個々人がどのように感じるかで変わるのだと思います。その文章を読んで、どのような感情を込めるべきかを自分で考え、それを声として発することこそが大切なのだと思います。一方的に感情を押し付けるのではなく、自分たちで感じたことを表現させるようにしたいです。
このことに関して、先日のITCでの劇は本当に面白かったです。それぞれが、準備した原稿を書かれた通りに読むのではなく、その状況に応じてどのような感情を込めるべきなのか、どのような間の取り方がふさわしいのか、そして時には声まで変えていました。英語であってもあれほど感情豊かに表現できるのはすごいと思いました。あの劇は前々から準備していたということもありますが、あれが即興で出来るようになることこそが英語学習をする際に目標にしていくべきではないかと考えました。
また、「驚く」という一語に全てを一つにまとめてしまい、身体の微妙な違いを感じ分けなくなっているということがありました。私もよく使う言葉なのですが、「やばい」という言葉のせいで、感情を表すことが出来なくなっているのではないかと思っています。いいことも悪いことも全て「やばい」という言葉を使ってしまいます。この言葉を使わずに、適切な言葉を選んで感情を表現していかなければならないと思いました。
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今回の予習記事のなかで竹内氏がおっしゃっている、「からだが語ることば」こそ話すことばのもとであるという部分を読んで、以前ある学校で観察をしたクラスで行われたShow and Tellの活動を思い出しました。それぞれの生徒が夏休みに自分の気になる標識について調べ、それを休み明けの授業で発表しあうという活動でした。自分の調べてきたことをしっかりと伝えようと原稿を読むのではなく、聞き手に語り掛けるように話していた生徒もちらほら見受けられましたが、ほとんどの生徒は原稿を読みっぱなしで、Showするべきものを見せずにさっさと終えてしまおうとする姿がとても印象に残りました。やはり、そのような「こころ」のない発表を熱心に聞く生徒もほとんどおらず、Evaluation Sheetを見ても、「声が大きい。」や「面白そう。」という感想しか書いていませんでした。
確かに、原稿を書く際に文章構成や文法等の添削を受け、それを読むのだから、少なくとも英語力の向上は見込めるでしょう。しかし、そのように心を殺して適切な英語表現を学んだところで、将来子供たちが英語を好きになって、自分で更に学んでいくことはしないと思います。おそらく私たちがShow and Tellをすれば、生徒がしゃべって英語力やコミュニケーション能力が向上するという先入観を自分たちの受けてきた教育から勝手に生み出しているのではないでしょうか。
しかし、それらは都合のよいところだけを記憶の中から切り取ったものであると考えます。それよりも、生徒が経験して非意識的にでも語ろうとすることができる活動をするためにどのようなことに子供たちが口を開き、豊かな声を発しているのかを、時間をかけてでも観察していかなければならないと感じています。生徒に声を届かせると同時に、生徒がどのような声を発しているのか理解できるような教師になることの大切さを学びました。
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竹内敏晴のノートの中で「たとえば学級のなかで発表をするということになると、天井を向いたまま覚えこんできた文章を単調に音声にしてゆく、という場面をたくさん見聞きする」という言葉から始まる一節を読むと、そういえば小学校の時には、自分ではなくて言葉がしゃべっている、というような状態があったなと思い出しました。
ここでも書かれているように、私も小学校時代、学級での発表は抑揚のない早口で、誰のことも見ずに、文を読み上げてから座っていた経験があります。また、この間テレビでみた小学生は、給食の時間の合掌を担当していて、「残さずおいしく食べましょう、いただきます」というような言葉を、上を向いて早口でまくし立てていました。ラグビークラブに所属していて活発な男の子だっただけに、この光景を見て少しぞっとしたのを覚えています。
意味の伴わない言葉というと、すごく悪い言い方になってしまうのですが、このような言葉の使われ方が特に小学校では多かったような気がします。単に、意味を体感していないストックフレーズを使っているだけで、成長とともに意味が伴っていく、と考えることもできるのですが、子どもたちのそういった声の出し方はとてもイキイキしているとは思えません。校庭で遊ぶ子どもたちが話すような声を教室内で聞くことができるようにどのように教師は働きかけられるのか。どのように私たちは言葉を伝え、伝えられるということを学んでいくのかなということが気になります。
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竹内敏晴ノートを読んでみて考えたことを予習として述べたいと思います。「学校」の部分で引用されている竹内氏の考えは非常に興味深いと感じました。いくつかの引用部分について意見を述べたいと思います。
まず、学校現場で教師が生徒に「三角坐り」をさせることについての部分です。自分自身これに関して、この姿勢矯正の是非について疑問を持ったことがありませんでした。しかし、よくよく考えてみると、三角坐りはそれ自体とくに自然な座り方ではなく、むしろ生徒にとって窮屈なイメージがあります。それは竹内氏も述べているように、生徒を「手も足も出ない」状態に縛り付けることと、また単純に生徒を列単位で並ばせるのにコンパクトな座り方であることが関係していると考えられます。私が生徒だったとき、思い返してみればクラスにはなかなか三角坐りをして、「お利口に」座ろうとしない生徒もいたと思います。そのときは、彼らが単に先生の言うことを聞かない不真面目な生徒だと感じましたが、竹内氏の考えを読んだあと振り返ると、先生方の声が彼らのもとへ、その心へ届いていなかったこともあったのかもしれません。生徒を無理やり一定の固定された、半ば無理な姿勢に縛り付けることで統制することは、授業中の秩序が守られているように見えます。しかし、それにもかかわらず生徒が学習意欲を掻き立てられない場合は、教師と生徒がこころと体の両方で向き合うことができてないからだと考えられます。
また、「話したくないのに話している」学生の話については、私自身そうした経験があります。大学の講義ではいろいろな生徒が指名され、発言の機会を与えられます。しかし、指名された生徒の中には、堂々と自分の意見を自分の言葉で述べることができる者もいれば、指名の強制力に押しつぶされそうになりながら何とか発言しようとする者もいます。これに関しては竹内氏の意見に賛成する一方で、そうした生徒が増える原因となったものは何かと考えました。
日本の学校現場、生徒が教師から指名される状況では、「正しい答え」が常に要求され、間違えると恥ずかしいという雰囲気が生まれるものだと思います。こうした状況では「間違えてもいいから発言してもらいたい」「みんなの意見をくみ取りたい」という教師の期待とは裏腹に、生徒は口ごもってしまいます。私も中高生時代はそうした雰囲気で学習していたため、やはり間違うことを恐れていました。生徒を指名する前にペアで意見交換する機会を与えたり、間違った答えをうまく活用して正解に導くなど、生徒が考えていることをそのまま口にできる場を作ることが必要であると考えました。
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今回の授業スライドの「教師の私は、生徒にとっての他者」のところから考えたことを書きたいと思います。
「見るものが見られ、働きかけるものが働きかけられて変わってゆく」ようなコミュニケーションは、ちょっと考えてみれば当たり前のように思えることなのですが、多くの場合であまり重視されていないような気がします。「私」の頭のなかに伝えたいことがあって、それが記号になって音声になって、他者の耳に届いたことを持ってコミュニケーションとする、主体から客体への一方向的な働きかけとしてコミュニケーションを捉える、のではなく、主体「私」が発した言葉を主体「あなた」が受け取り了解し、「あなた」の返事が「私」の言いたいこと、再構成される主体としての「私」を新たに創りだすような、主体が主体と相互に働きかけ合うダイナミックなものとしてコミュニケーションを捉えるべきだということだと思います。
ものすごく反省しなければならないことなのですが、私が塾で生徒に書くアドバイスシートは、「この学年のこの単元の生徒にはこう書く」という意識から書かれていることがあるように思います。そうではなく、「今日ここで二時間見ていたこの生徒に宛てて」彼/彼女のつまずきに対してのアドバイスを書かなければならない。前者のコミュニケーション観で生徒の学びを扱おうとすると、こういった間違いを起こしてしまうことがあるようです。
ことばによる相互働きかけのその力を信じることができるなら、学び終わった人間、固定した視点から生徒を見続ける教師でなく、つねに生徒と互いに働きかけあいながら共に変わっていくことができる、そんな教師になることができるのではないかと思います。
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今回の授業を受けていて、生徒の声をよく聞くためにはやはり教師が自らの身体を生徒に対して開き、生徒の声に耳を傾けようとする姿勢を常に作る努力をしなければならないということを強く感じました。しかし、身体を生徒に対して開くといってもどのようにすればいいのかいまだにわかりません。自分の体というのを客観的にとらえることは非常に難しいことだと思うからです。
僕が今感じていることは、「自分の体が生徒に対してどのように見えているのか、開けているのか」、ということに捉われるよりも、「自分の身体がどう見えているのかあれこれ考えて悩むよりも、生徒の声を聴きいろうという意識を常に持つこと」、が大切なのではないかということです。見た目から入る、というよりも実際に生徒の声を聴く意識をすることで体は無意識に、生徒に対して開かれるのではないかと思います。正しいかどうかはわかりませんが、自分にとってはこの考えの方がしっくりくるなと思います。
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今日の授業を聞いて、教師と生徒がともに主体となれるような授業づくりをこれから心がけていきたいと改めて思いました。私が今まで受けてきた授業は、どちらかというと、講師が主体、生徒が客体である授業が多く、教育実習で自分が行った授業もこれと同じようなものだったように思います。授業の準備として、教師は授業の計画を行い、立てた目標に向かって生徒が目標を達成できるような授業を目指します。これはある意味では、生徒をコントロールすることになりますが、私はついついコントロールし過ぎてしまう傾向にあると思います。コントロールをしなければ、生徒は授業を全く聞かずに好き勝手にしてしまうかもしれないし、生徒から全く予想していなかった答えが返ってきたときに上手く対応できる自信がないからです。
そのような授業は、教師にとっては都合がいいかもしれませんが、生徒にとっては何か主体的に学んだと感じることが出来る授業になっているのだろうか、と感じます。実習校で附属の先生方の授業を見せていただく機会が何度かありましたが、決定的に自分の授業と違っていたのは、生徒が常に主体であった、という点にあると思います。また、生徒が主体となるためには、生徒が活動する時間が授業のほとんどを占めていたように感じました。例えば、「生徒が二人組になって1分間話し続ける」という活動を授業のWarm-upとして先生が取り入れられていた時は、代表のペアを立たせて、全員の前で会話をする、それを先生が少しサポートするというようにされていました。ここでは、先生が話を進めたり、教師と生徒間で会話をしたりするのではなく、生徒と生徒の間で会話をさせることで生徒を授業の中で主体とするだけではなく、先生が生徒の話をじっと「聴く」ことによって、それを見て、他の生徒も話を「聴く」という雰囲気や環境が出来上がっていたのではないかと考えました。教師になったら、生徒のことばを「聴く」姿勢を、生徒に見せることが出来たらなと思いました。
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教室内において生徒とは教師に対する「客体」なのか、教師と共に授業づくりをする「主体」なのか。私は理想はもちろん後者であるし、後者のような授業づくりに励んでいく必要があると思う。しかしながら、経験の浅い私たちは往々にして先輩教師の経験だったりとか、大学の授業で学んだ‘どうすれば生徒を使って授業できるのか’ということで授業づくりを学んでいます。つまり、後者のような授業づくりができるようになるためには、経験が必要だということです。
しかしながら、このことに気付いたことが無利益だったとは思いません。なぜなら、この考え方「生徒は教師と共に授業づくりする集団、教室内の客体ではない。」を持っておくことが将来的に経験を得た後の成長につながると思うからです。この考え方がなければ、経験を得たとしても教室内の生徒たちは客体のままだと思うし、授業論理に縛られて彼らを身体機械のように見てしまうことにつながりかねません。‘長いスパンで’教師として成長していかなければならないと感じました。
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今回の講義での竹内氏の身体論を通して、やはりコミュニケーションをしっかりと取れる関係づくりは重要であるということを考えました。
私だけでなく、多くの人が経験したことがあると思うのですが、学校の先生の中には生徒を自分の都合のいいように教師という立場を使って管理をしようとするような先生がいました。その先生の授業は確かに余計なことを排除して効率を第一に考えていたので、確かにわかりやすかったのですが、生徒のからだから出てくる声というものを完全に無視したものであったので、私たち生徒も無心で授業に臨むようになり、無味乾燥な授業になってしまっていたことを覚えています。しかし、その先生は発表点を使って、無理やり生徒に口を開かせようとしていたように思えます。
この授業スタイルが間違っているとまでいう気はありませんが、教育という観点から考えたときに、生徒のからだから出る声を無駄であるとみなして排除することで、数値化できないような力(例えば0から答えのない問いに取り組む思考力)は失われていくのではないでしょうか。教科の知識を身に着けさせることも1つ大切なことではあると思うのですが、例えば英語の場合、知識を詰め込まれたところで卒業した次の日から学ぼうとしなくなる授業をして、みずみずしい身体を作り上げることができなければその教育は成功したと言えるのでしょうか。
教師になったときには、生徒の声にもしっかりと耳を傾けて、生徒が話しかけたくなる、また生徒にしっかり話しかけることができる授業を作っていきたいと考えています。そうすることで、ことばが空虚なものではなくてよい働きかけになるようなコミュニケーションをとることができるのではないでしょうか。
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今日の授業で、子どもたちを操作の対象として見ないようにしていかなければならないと改めて思いました。こういうことをすれば、このような能力が伸びるというようなマニュアルがどうしてもできてしまうことがあります。確かに統計的にある行為が生徒のある能力を伸ばすということはあると思います。しかし必ずしもその方法が全生徒に当てはまるわけではありません。全員を一斉に見ることは不可能かもしれませんが、その中でも一人一人に目を向け、それぞれの生徒にあった対応をすることが必要なのだと思います。
また、田尻先生のお話の中で出てきた、生徒ができた時に教師が生徒以上に喜んだという経験がありました。この経験は何となく感じたことがあります。塾で教えているときに、それまでほとんど理解できていなかった子が、自力でその問題を解いて、「わかった!」と言ってくれた時に、嬉しさもあり鳥肌が立ちました。これは生徒をsubjectとして見ているからこそできていたのだと思います。分析の対象として見るのではなく、一人一人とsubjectとsubjectの関係で見ていこうと思いました。
さらに、感情を伴わない言葉で、「こうしなさい」と言われたことは、実際にやったとしてもその子が身に付けることはできず、考えるということ、そして感情を表現することが出来なくなるのではないかと思います。私自身、小さい頃から親の言うとおりにしなければいけないという思いがあり、泣くことはあっても、嬉しさを表現するということはなかなかしませんでした。しかし、親元を離れて、ある程度の「自由」を手にしてから、少しずつですが、嬉しいというような思いも周りを気にせずに表現できるようになりました。自分がどのように感じるかを、身体が感じたままに表現することこそが大切なのだと実感するようになりました。生徒にも、言われた通りにするだけでなく、自分が感じたままに行動できるような環境を整えなければならないと思いました。
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今回の講義の中で教英行事ITCに関する議題が上がりましたが、その中で大変納得できたことがあります。「言語を話すことは一人でもできることと思いがちだが、実は相手がいて初めて出てくる言葉がある。」という言葉に集約することができますが、この議題に関して、今まで参加・運営してきたFWTやITC、LES等の教英行事が自然と想起されました。それらの行事において、例えば劇や子芝居をする際、もしくはチェアパーソンとして進行役をする際などは基本的に台本やマニュアルが存在します。劇や子芝居の類ならば台本に記載されている言葉を暗記し、進行役ならばマニュアルに記載されている言葉を脇目に見ながら進行役に徹するわけです。約2年前、私が初めてITCの英語劇(題材はToy Storyでした)に挑戦した時は、練習中に英語の台詞を台本と一字一句違わず暗記することに精一杯でした。意識としては「言葉を話すのは当然のことながら発話者自身であり、劇中での言葉とはすなわち台詞。台詞を覚えなければ大恥をかいてしまうだろう。」といったようなものが潜在的にありました。端的に言えば「言語を話すことは一人でもできること」だと思っていたのです。
しかし、いざITC当日になってみれば、そこには足を運んでくださった先生方、大勢の先輩方や仲間がいて、同じ空間で私たちの英語劇を「聴いて」くれていました。時には大きな歓声が、時には大きな笑い声が、そして時には大きなガヤが部屋中を包み込んでいました。言葉(劇においては台詞)を受けてる「相手」の存在は私に安心感や安らぎを与え、その結果、台本には一言も書いていないような台詞が口を突いて飛び出てきたことに驚愕したことを覚えています。(先日のITC英語劇においても、1年生は同じような体験をしたことだろうと想像しています。)
今までの教英行事では上記のような体験に何度も遭遇しました。その過程で「言語を話すということは一人以上で成り立つこともあるんだ。」としきりに思うようになりました。そのようにして考えると、英語の授業において、「発話をする相手との関係の中でどのような言葉を紡ぎ出すか」ということに目を向ける必要があるのではないかと提言できます。文法の正確さや、発音の正しさだけに拘るということは先に述べた側面を削ぎ落としていることになります。教室には一人の生徒がいて、大勢のクラスメートがいて、教師が存在(共存)しています。学校で学ぶことの意義の一つはこれらの存在とともにあることだとするならば、これらの存在の中で成り立つ言葉を大事にするべきではないでしょうか。今回の考察を通して、教師ひとりひとりが学校という場において「一人でやるべきこと」と「相手がいてできること」の理解を深めていく必要があると感じました。
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今回の授業を振り返ってもう一度「言葉を届ける」ということに関して考え直しました。
「生徒に対し何かを伝えたい」「生徒を理解し、お互いに良い関係性を築きたい」という姿勢を教師がしっかりと作ることが出来ていれば、それが雰囲気となって身体からオーラのように広がり、生徒へと届く。そもそも人間はオーラに敏感であるのではないかと思いました。「殺気を感じる」という言葉がありますが、「自分を殺そうとしている」という雰囲気、オーラをなんとなく身体的に感じることが出来る、それは極端に言えば人間的に察知しておかないと生死にかかわる情報だからであるのだと考えます。その変化を感じておかなければ最悪死ぬかもしれない。しっかりとその雰囲気をとらえておかないと、、、といったように、人は周りの変化の兆しはしっかりととらえようとするのではないでしょうか。極端な例になってしまいましたが、生徒は教師から出る雰囲気、オーラをしっかりととらえてくれると考え、教師は「何かを伝える」「生徒を理解する」という姿勢を貫くことが重要になるのだと考えました。
雰囲気はとても重要で、まず、第一印象も「雰囲気がいい」とか「雰囲気が悪い」など判断することが多く、それは他の人ともだいたい一致することが多い。その人の雰囲気は自然に人に届くものである。それは身体のちょっとした動きであったり、姿勢であったり、目線であったり、と様々な要因から発生する。「生徒に声を届けたい」「生徒の声を聞きたい」「生徒を理解したい」という雰囲気を身体が発することが出来れば、それはきっと生徒に届くはずである。そしてそれは生徒の雰囲気を変えていくことにつながる。いくら声を発したとしても、そういった雰囲気を声が纏っていなければ届く声も届かなくなってしまう。声を張り上げるよりも前に、「伝えることがある」という雰囲気を出し、環境を作ることから始めるべきだと思いました。
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今回の授業の中で「話し言葉は他者への働きかけである」という言葉が印象的でした。同じ言葉をかけても相手から帰ってくる反応は様々だと思います。アルバイトをしている時にもそれを感じることがあります。はじめは教えてもらった通りの言葉をどのお客さんにも使っていたのですが、慣れてくるうちに年齢や性別によって反応はさまざまであることに気づき、少しずつ変化させることができるようになりました。授業中に同じことを言っても返ってくる反応は様々で予想していたような反応が返ってくるのは本当にまれだと思います。
同じ相談をしても相談相手により返ってくるアドバイスは全く異なることもあります。竹内氏のレッスンを受けたある女性の言葉の中に、「自分を変えようとするのではなく、言葉は相手いてくれてはじめて機能するものである」というようなものがありました。人に何かを伝えるとき、自信がなかったりちゃんと伝わるか不安で色々と言葉を選ぶけど思うように伝わらなかったり、伝わらないかもと感じたら言わずに済ませてしまうこともあります。しかし、言葉の持つ「他者への働きかけ」という側面を大切にし、相手から何が返ってくるかを期待する姿勢を大切にすることがよりよいコミュニケーションにつながるのかなと感じました。
また、伝える中身についても私たちはきちんと考えなければいけないと思いました。教員は、制度が変わった時に教え方や生徒への伝え方を変化させたりしなければなりません。また、学校の方針や周りの先生方との考えが少し違うと感じることもあると思います。身近な例で言うと校則などがあり、教師はきまりと生徒の橋渡し役となり、具体的な説明が求められることが多々あります。その時に、自分自身が納得していないのに「きまりだから」で片づけてしまうとそれは生徒にも伝わってしまうと思います。制度等が変わっても動じないでいられる自分の考えの軸をもっておくこと、変化を求められたときに自分なりの答えを出し、「決まりだから」など簡単な言葉で片づけない伝え方や考える姿勢を身に付けることが大切だと思いました。
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私は「自分を相手に手渡すことから出発できる」「生徒も教員も主体(=subject)であるべき」という指摘が心に残っています。
私は以前、柳瀬先生とお食事をしたときに「先生と呼ばれる職業はいくつかあるが、『教員』はその中でも最も若い世代から慕われる職業だ」とおっしゃっていたことを覚えています。確かに「医者」や「弁護士」なども「先生」と呼ばれる職業ではありますが、年老いた人、成人などを相手にするものです。そして最大の違いは「教師」は「子供」とともに成長できることではないでしょうか。「医者」は「患者」の病状を診て、必要な薬を処方し、病気が完治すればその関係は終わりです。同様に「弁護士」も依頼人の相談を受けて解決すれば、その関係もぷっつり切れてしまうことが多いでしょう。しかし「教員」は「子供」と信頼関係を築くために「自らを相手に手渡さ」なければいけません。なぜなら教員も、子どもも「主体的な存在」であるからです。それはこれまでの授業でも習ったことからも想像がつきます。同じ情報であっても伝える「主体」としての教師の声の大きさや身振り一つで子供の受け取り方は異なるということは野口氏や竹内氏も繰り返し述べているところですし、私自身も教育実習で同様の思いをしました。
また「教師は子供に育てられる」とも言われます。実習中私は指導案やワークシートの作成で追われかなり追い込まれていましたが、授業後に生徒から質問などを受けるとやはり一人の教員と見られているのだなと安堵の思いに浸ったことも幾度かあります。と同時に生徒の授業中の発言に助けられたこともあり、教師と生徒はお互いに働けかけ、依存し合っている関係だという思いを抱きました。
私は改めて『教員』という仕事は「人間臭い」ものだということを痛感しました。そしてこれこそが教員の良さですし、これに自覚的になることで自らの成長を促すことが出来ると思います。しかし、ひとたび教員という立場に甘んじ、傲慢な態度を取ってしまえば、生徒との関係も崩壊するでしょうし、自分自身の成長も望めないでしょう。教員の原点は子供とともに成長する「主体」ということを忘れないようにしたいです。
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今回の記事を読んで、「重さの方向を正しく感じること」の大切さをあらためて考えさせられました。普通に考えてしまうと、筋肉=身体を動かすものという認識になってしまうと思います。しかし、実際にスポーツなどをしてみると、「筋肉が強い」=「体を強く、速く動かすことができる」わけではないことがわかります。
野球でも、もちろんウエイトトレーニングは必要不可欠なものではあるのですが、より速い球を投げたり、打球を遠くへ飛ばすためには、「重さの伝え方」=「体重移動」が重要になってきます。ピッチングでいうと、腕の振りさえ速くすれば球速が上がるというわけではなく、右足に乗せた体重を(右投げの場合)効率よく正しい方向へ移動させることで自分の体重を指先に込めることができ、また下半身と上半身が連動することによって、肘を鞭のようにしならせることができ、速い球を投げることができます。上半身や腕の力だけで投げようとすると、筋肉がこわばり上半身と下半身の連動もうまくきかずにいわゆる「手投げ」になってしまいます。
野球は「打つ・捕る・投げる」といった一見単純な動きであるように思えますが、非常に繊細な動きが求められるスポーツです。守備でも、取ってから投げるまでは一連の動きになっているし、バッティングでも上半身でバットを振るのではなく、腰の回転と共に自分の重さをボールにぶつける、というイメージで体を動かします。筋力トレーニングをして筋肉そのものの力をつけることも大事ですが、それよりも「自分の重さと重さの方向を正しく感じる」という点をより重要視しなければならないというのは野球と関連させることで自分なりに理解できたつもりです。
「声を届ける」と考えたときに、コトバと身体も同じように考えられるのではないかと思いました。コトバ=筋肉が「声を届ける」ための原動力だと思い込んでしまうと、うまく生徒に自分の伝えたいことが伝わらないのではないかと思います。本当に「声が届いた」ときというのは必死に言葉を紡がなくても伝わるのではないかと思います。コトバで伝えようと必死になるのではなく(もちろんコトバそのものも非常に重要ですが…)、からだ(コトバ)自体の重さの流れ・つながり・つたわりが、そのつど関係のなかで、なめらかに変換していくことが大切なのではないかと感じました。
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今回野口三千三氏の予習記事を読み、野球の動作と重なり合うところがあると感じたので、それについて考えてみます。
バットを振る動作において、左バッターならば両足をついている状態から体重を左足にかけてバランスを崩します。すると左足にかかった体重は元に戻ろうとして、足を踏み出すようになります。その際に、下半身の筋肉を使って勢いよく踏み込んで、さらに腰をひねります。そうすることによって、力を入れていない上半身も下半身について回ります。加えて、体をひねるときにバットも一緒についてまわります。バット自身にも重さがあるため、力を入れずとも遠心力でバットは回ります。下半身に変化を与えることで、徐々に上体に伝わっていき、力みのないスイングになるのですが、このなめらかさが柔軟性であると言えます。そして、インパクトの瞬間からフォロースルーにかけて力を加えることによって力強いスイングになります。
バッティングが苦手な人の一例として、スイングが鈍い人がいます。その人たちは力強いスイングというのを、最初から最後まで力を思いっきり入れて振りぬくことであると誤解をしていることがよくあります。これはまさしく、記事で野口氏が述べている満身の筋肉に力を込めたら動くことができないという言葉に当てはまるのではないでしょうか。
私自身も野球を始めたころはよくがちがちに力が入ったスイングをしていましたが、一度全身の力を抜いて体を回転させることで体重移動やバットの重みを利用したスイングのコツを身に着けました。確かに加える力の量が大きければ、ここでいうとスイングが鋭くなり、打球も勢いを増します。ただ、緊張状態の中での筋力ではなく、あくまでゆとりのある状況で力の調整を行う必要があるのではないでしょうか。
しかし、実際に打席に立った時には、投手が投げたボールは0.5秒ほどで捕手のミットに収ますので、このようなことを考えている暇はありません。ここで意識が命令を下し筋肉が緊張して体を動かすわけではないということが言えます。考えずにスイングするには体得するまで反復して素振りを繰り返さなければなりません。そうして、頭で考えなくても本番で理想的なスイングになります。
このように、言語も普段から繰り返し見聞きしたり、発信したりものが身についていくのではないでしょうか。「こころの主体は意識ではなく、非意識の総体である。」という言葉がありました。人間はもともと意識で思うように制御できないので、適切な自動制御能力が発揮できるような体を作り上げていかなければならないと考えます。そして、考えても非意識的に出てしまう言葉はあると思います。いったん出てしまった言葉についてどう思っても後の祭りです。
以上のことより、自分のカラダを大切にすることの大切さを再確認しました。
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今回の予習記事の中の野口三千三に関するファイルを読んで、考えたことに関してラグビーに関連付けて書きたいと思います。
今回の野口三千三に関するファイルで述べられている「動き・差異」「身体」「感覚」「力」「意識」というそれぞれのカテゴリーに関して読んでみるとどのカテゴリーにおいてもこれはラグビーで言う○○という感覚に近いものではないか、言われてみたらラグビーにおいてもそのような経験を今までに何度もしたことがあるといったものばかりでした。
今回はその中でも特に関連を感じられた「感覚」というものについて考えてみました。今回の予習記事の中で書かれている「感覚」についてまとめると「感覚」とは外界に向かっているもの・外界の情報を受容するものではなく、自分の内側に向かうもの、すなわち内界の情報を受容するものであるという風になります。この考え方にはとても共感できるところが多く、ラグビーにおいてもそれも間での試合や練習などの経験から見についたものが体の内部に数多くあり、その中から試合の場面に合わせて適切・適当なプレーを選び出すものこそが感覚なのではないかと思います。
例を挙げるならば、タックルという技術にも数多くの種類が存在し、練習や試合において身に着けていくのですが、試合においてはどの種類のタックルを使うのかというのはその場面を判断し、それまでに体の内部に蓄積されていたそのような場面ではこの種類のタックルがうまくいったというような経験から一つの種類のタックルを選び出すことが「感覚」なのではないかと思います。
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野口三千三さんの予習記事を読んで、その内容がコントラバスを弾くことと関連付けられる部分が多くあると感じました。コントラバスを弾くことの基本的な動作は4本の弦を弓を使って弾くことです。ヴァイオリンと違ってコントラバスは楽器そのものが大きく、弦も太いので、初めはどうしても弓を持つ右手にかなりの力を加えてしまい、右腕を痛めてしまうということも多々ありました。
そんな間違った弾き方をしている時、指導の先生方からは「無駄な力を抜いて、自然に身体の重みを弓にのせて。右腕に頼った演奏(右腕に力を入れた演奏)ではなく、身体全体で楽器を鳴らして」とおっしゃっていました。初めは理解できず、力を抜くときれいな音が出ず、やってはいけないとわかっていながらも結局は力に頼って身体を犠牲にしながら弾いていました。
野口さんの記事の中で「『良い動き』とは、からだ自体の流れ・つながり・つたわりが、そのつど関係の中でなめらかに変換していく動きだ」というものがありました。プロのコントラバス奏者の方々の弾き方は、無駄な力を入れず、こういう音を出したいと体で感じたものが身体全体を通して自然に弓へとつながり、コントラバスから音として出てくるといったものでした。弾き方を矯正し、練習を重ねるうちに私も体で感じた音を身体全体を使いながら楽器を通して伝えることができるようになりました。
そういった楽器の弾き方ができるようになるまで中学生の頃はかなり苦労していましたが、弾けるようになった今この記事を読んで、身体を使って演奏するということは無意識的に身体全体を使って表現することだというものにつながりました。自身の経験と関連付けながら野口さんの記事を読んでいると、理解しやすくなる部分が多くありましたが、理解できていない部分もあったと思うので、その点については授業を通してより理解を深めていきたいです。
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野口さんの記事を読み、書かれていることが合唱と似通っていると感じました。合唱は、口で歌うのではなく、体で歌うことが大切だとよく教わってきました。体で歌うとは意識的に体を使ってということではなく、無意識的に体全体を使って表現すること、歌うことを意味します。
「実際には意識という働きの必要性が絶えず起こっては 消え、消えては起こるので、一定の意識というものが存在しているように、意識の状態にある非意識が意識するだけのことであろう。」とありました。歌っているときに、教えられたことを意識的にしすぎると、肩に力が入って、うまく歌えなくなります。なぜなら、それは体が意識的に動いていることで、内側の自分と体とが引き放されている状態で別物のように動いているからです。意識することなく、自分らしく自然に歌えるようになるのは、非意識の状態が絶えず起こっているからなのだと思いました。
また、「すべてのことばは必ずからだの動きを内に含み、それぞれのことばが内臓の働きや筋肉の運動その他、行動へのエネルギーをもち、独特な肉体感覚をもっているのである。」「からだの動きはもと もとことばにつける付録ではなく、動きもことばそれ自体なのである。」という言葉も印象に残りました。
歌にはそれぞれ歌詞があります。作曲者や作詞家がそれぞれの思いやメッセージを伝えるために歌詞や楽譜で表現したものを、歌い手が内側に自分のものとして取り込み、自分の内側にいろいろな考えや思いなどめぐらせ、それが歌声として外に出されます。それが聞いている他者の内側に取り込まれ、また吸収されていく。合唱はこの連鎖によって成り立っているのだと、この言葉を読んで気づかされました。また、言語を使うこともこれと同様に行われているように思いました。誰かから発せられた言葉を自分の中に吸収し、それを伝え、また誰かが吸収し、伝えていく、というようになり立っていると思いました。
しかし、言葉はいつも吸収できたり、他者に吸収されたりするとは限らないと思います。合唱で言えば、どんなに音がそろっていて美しい演奏だったとしても、心に響く演奏とは言い難いことがあります。それは、歌い手が歌を自分のものとして取り込めていない、言い換えれば、音となっているものが自分自身と一致していないからだといえると思います。このような演奏はメッセージ性がなく、聴いていてもあまり印象に残りません。合唱も他者に何かメッセージを伝えることが重要であるように、言語に関しても同じことが言えると思います。授業を行う際も、自分の中でどうやったら生徒にうまく伝えられるかを考え、いつも生徒の心に響くように語り掛けるような授業をしたいと思いました。
「意識と感覚のズレが大きくなって意識や理屈が重視され、身体の感覚が過小に評価されるなかで感覚自体が弱くなっているのが現代なのかもしれません。」「他人がどう言ったとか、昔の人がどう言ったとか、そんなこと はどうでもいい。とにかく、自分の信じられることだけ、自分が確かめられることだけで再構築していこう。これこそ今からの自分の生きる生き方だ、という確信が知らず知らずのうちに固まってきたのです。」という言葉が印象に残りました。
学校教育では、競争ばかりが重視され、テストの結果などはっきりとわかるものばかりが重視されるように思います。学校側が一方的に与えた目標を「しなければならない」から、生徒は達成しようとする(無理やり目標を合わせたような形で)のは、生徒自身の本当の目標ではないと思います。
よく高校までは学校側が大学受験合格など目標を提示してくれたが、大学生になると自分で目標を見つけねばならず、途端になんのために大学に入ったのかわからなくなる、という人がいます。それは、今まで周りから与えられる明示的指針や目標によって操り人形みたいになってしまったからではないでしょうか。本当の自分のことがわからなくなってしまう、これは生徒の将来を考えるうえでも極めて危険なことのように思えます。
学校教育では、内側にある自分の思いと対話する時間、本当の自分の思いや身体の感覚に触れる機会を持たせることが大切であると思います。その中で、自分がやりたいことや達成したいことはなにか。「しなければならない」ではなくて「したいこと」は何かを考えていくこと、それこそが生徒自身にとって、これから生きていく中での糧となるのではないかと考えました。
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今回の予習として読んだ「竹内敏晴ノート」の中に、武術の例として弓道の話題が出てきました。長い間ご無沙汰していますが、自分も高校生のときに弓道をしていた経験があったので、竹内氏の考えの中に納得できるものがありました。
弓道部でいつも言われるのは、「体の中心から徐々に力を加えて開いていく」ということです。私たちは一年生で入りたてのころから、基本練習としてこの「開く」動作を繰り返します。しかし、これは無理に意識していてもなかなか実践することができません。そうすることで、一連の動作の他の部分がおろそかになってしまったり、手先だけの動きになってしまったりしてしまいます。この「開く」動作がうまく行われないと、矢がまっすぐ飛ばなかったり、力が十分に入りきらなかったりするわけです。また、たまたま矢が的に当たったとしても、それは長続きしない場合が多いです。ここはこういう動作で、ここはああいう動作で…と意識している間は体よりも意識が先行してしまい、意識と体が一体となった動作が生まれません。
一方で、弓道部なら必ず経験することだと思いますが、どこかでスッと力が抜けるような感覚を覚えることがあります。そういったとき、たいてい矢は的に向かって一直線に飛んでくれます。その場合、「これはもう当たるな」という感覚すら生まれます。力を入れなければならないのに、力が抜ける感覚というのも矛盾しているようですが、これが無意識のうちに体が動いているということなのかもしれません。
弓道ではこの感覚をどれだけ長続きさせられるかが勝負になります。「考えるな、感じろ」ではありませんが、的に当てよう当てようと考えている間は矢が言うことを聞きません。しかし、意識を超え、体と弓と矢が三位一体となることにより、初めて良い射ができるようになります。最近は弓を手にする機会が無く、竹内氏の記事を読み、高校生のときの弓道経験が貴重な経験であったと思いますし、長い間弓道から離れていたことが少しもったいなかったかもしれないと思っています。
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野口氏の身体論・意識論・言語論の記事をもう一度読み直しました。私は以前バレエ教室で、フランクリンメソッドというボディーワークを取り入れたクラスを受けていました。フランクリンメソッドとは、身体は本来どのように動くようにできているか、どうすればそう動けるようになるかを教えるムーブメントの教授法です。
クラスは毎回、まず床に寝ころび目をつぶり、頭のてっぺんから、首、肩、・・・、脚、足の指の先まで体のすみずみまで、順番に「観察する」ことから始まります。そして、先生は、「体のどこが床に触れているか」「床の硬さ、温度、地面からの高さはどのくらいか」など、普段は見向きもしないような、考えたこともないような、身体やその感覚のありのままに意識を向けるのです。そして、徐々に体を動かしていきます。
クラスでは様々なムーブメントを行うのですべては書き切れませんが、フランクリンメソッドでは、単に身体を動かすのではなく、動かすことで関節や骨、筋肉や皮膚がどんなふうに機能しているのかに意識を向けることで、身体が本来どのようにできているのかを知り、それを日常生活やダンスなどの身体表現に活かすことができる、「動きで心身を変える事ができる画期的なメソッド」であるともいわれています。
正直、フランクリンメソッドのクラスを受けていたのは高校生のころで、(武道と同じく)バレエに何の意味があるのだろうと思っていましたが、例えば肩甲骨を取り上げたクラスの後だと、踊っている最中普段より肩の力を抜きやすく(抜けやすく?)なるようなことがありました。 肩甲骨を下げようと意識するから肩甲骨が下がったのではなく、肩甲骨に意識を向けたことで(ここでいう意識とは、動かそうという意識ではなく、観察に近い意味)うまく身体の一部をコントロールできたということだと思います。
身体をうまくコントロールしようとすれば、コントロールしようと意識するのではなく、まずは身体の動きや感覚のありのままを「観察」することが大切なのではないかと考えます。また、野口氏の主張にあるように、「からだの動きもことばそのものである」とすれば、ことばを使いこなすためには、身体と同じようにまずはことばを「観察」することが必要なのではないかと思います。これは、「ことばを大切にするということ」にもつながってくると思います。
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■ 身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
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■ ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
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■ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
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■ レイコフとジョンソンによる「客観主義」と「経験基盤主義」に関して寄せられた学部生コメント
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■竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
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■竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想
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■「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)
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■和田玲先生による「原初体験と表現の喪失」
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▲Movement of Budo (martial arts) and Luhmann's systems theory
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▲Comparing Foreign Language Communication to Budo (Martial Arts)
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拙著『小学校からの英語教育をどうするか』も、上記のような身体論的言語論に基づいて書かれています。まだお読みでない方は、ぜひお読みいただければありがたく思います。また、大変僭越な言い方になりますが、一度読まれてもピンと来なかった方も、上の学生さんの言葉を読まれた上で、今一度読み返していただけたらとも思っております。
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