5/30(土)の午後に東洋英和女学院大学六本木キャンパス 大学院201教室 (東京都港区六本木5-14-40)で開催される「英語教育における質的研究ワークショップ」(JACET言語教師認知研究会と外国語教育質的研究会の共同開催)で、私は講演(「質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性」)をさせていただきます。
さきほどようやくその投影用スライドと配布用印刷レジメができました。ダウンロードできるように、このブログでも公開しますので、ご興味のある方は御覧ください。
ワークショップの詳細については、http://www3.plala.or.jp/sasageru/ELTqualitativeresearch0530.pdf をお読みいただきたいのですが、下記のような構成となっており、私の講演はさておき(苦笑)、大変面白そうなグループディスカッションとワークショップが予定されておりますので、ぜひ皆様お越しください。
■講演 (全体)
柳瀬陽介(広島大学) (聞き手 笹島茂)
「質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性」
■ グループディスカッション(全体)
髙木亜希子(青山学院大学)(課題設定)
「質的研究におけるreflexivity(再帰性)について考える」
■ ワークショップ(同時進行)
(1) 宮原万寿子(国際基督教大学)(コーディネーター)
「A dialogue on theoretical and methodological issues in narrative studies」
(2) 飯田敦史(群馬大学)(コーディネーター)
「Literacy Autobiographies as Research: Theoretical and Methodological Issues」
(3) 東條弘子(順天堂大学)(コーディネーター)
「教室談話分析の方法と実際」
(4) 武田礼子(青山学院大学)(コーディネーター)
「会話分析で英語学習者の発話を分析する」
追記 (2015/06/03)
この講演の直前の週の授業は特別編成授業で、週二回私の授業がありました。ただでさえ予習の量が多い私の授業を週に二回もやるのは酷かなと思い、学生さんに週に二回目の授業は通常授業がよいかそれとも(予習のいらない)特別授業がよいかと尋ねたところ、後者という答えが返ってきたので、その時間、私は学生さん相手に上記の講演を行いました。
私は特に口頭言語では、聴衆の理解を得るために、聴衆の興味を引きそうな例をよく使いますが、この時は少林寺拳法をずっとやっていた学生さんがいたので、武術(合気道)の例を使いました。以下はその学生さんによる感想です。
今回の授業では、質的研究や授業実践などにおける非合理性、自己参照性、複合性について教わった。先生による合気道の例が一番自分にとってしっくり来たので、私も大学でやっていた少林寺拳法と照らし合わせて今回の授業を振り返りたい。
<非合理性>
「非」と「反」は紙一重であると思ってしまうことがあり、「非合理的」という文字のみを見ると悪い印象を受けていた。しかし「割り切れないもの、割りきって説明することが困難なもの」と考えると、世界ではむしろ非合理的な事象の方が多いように思われた。
例えば柔法(掴まれる攻撃に対して抜く、相手を投げるなど)を指導される際、よく「『いい感じのところ』で~して」と指導されることがあった。自分の感覚でしか相手が倒れるタイミングを見極めることはできないからである。自分が指導する立場になった時もその「いい感じ」を正確に説明することができず、数をこなすことで感覚を体に染み込ませてもらっていた。
一方で、少林寺拳法には理論も存在する。少林寺拳法はどのように・何のために創設されたか。当て身の要素とは。なぜ力が必要なのか。身体で覚えることも大切だが、このように成文化された理論も理解しておかなくてはならない。理論がわからなければ効果的に技を修得することができない。仮にできたとしても、力の使い方を誤り他人を傷つけることがある。おそらく、どのスポーツも合理的なもの(理論)と非合理的なもの(実践)で成立している競技なのではないかと思う。
<自己参照性>
少林寺拳法は、教わる先生によって方法が違うことが多い。時には完全に矛盾していることさえある。先輩に相談した際に受けたアドバイスは、自分のやりやすい方法を真似ることであった。その先生ご自身も、色々なやり方を教わった上でその方法を選択している。すべての方法を鵜呑みにすることは到底不可能である。教わった方法を大学の道場に持ち帰り、自分であれこれ試してみる。すると、自分の体格や身体的特徴にしっくりくる方法が必ず見つかる(しかし他の方法も頭の片隅に置いておき、後輩の指導に用いることもある)。
<複合性>
ヒトの身体はただでさえ複雑なのに、個人によって特徴があまりにも違う。私が技の練習で難しさを感じるのは、主にこのことが原因であった。本当にスタンダードな方法をAとすると、A'にしないと効かない人がいる。時にはBやCを使わなければならないことさえある。
例えば、私は肩と肘が非常に柔らかい。そのため、私には肩を固定したり腕の急所を捉える技はほとんど効かない。その場合はバランスを崩されたり、同時に別の急所を捉えることで落とされることが多い。このように「絶対に」効く方法など存在しないため、一つの技について何パターンもの落とし方を教わってきた。先輩や監督のように絶対的な答えがない問題に対して多くの引き出しを持っている人は、試行錯誤を重ねて本当に学んできた人だと思う。
授業の中で、「真似れば誰にでも同じ効果が期待される方法など存在しない」という言葉が印象的であった。当たり前のことであるが、上手くいかない時はどうしてもそれを追求してしまう気がしたからである。しかし、「最低限これをしなければ絶対に上手くいかない」ことは存在すると思う。部活では、どの技においても自分の体勢をキープすること、手足だけでなく腰など体幹を使って攻撃することの大切さを耳にタコができるほど聞いた。
上記のように、世の中には一つの問題に対しいくつも正解があり、私たちはその一つを選択しているにすぎない。しかし、それは最低限のことができた上で成り立つこと。基礎が補完できていなければ、どれを選択しても不正解になるのではないかと思った。
0 件のコメント:
コメントを投稿