2014年2月12日水曜日

デューイ『民主主義と教育』を読んで(院生による文章)





今年度後期の大学院授業(修士課程)の一つでは、デューイの『民主主義と教育』を読みながら討論したところ、非常に面白い展開となりました。受講生の皆さん、改めてありがとう。



John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)

http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html




授業の最終日では、学生さんがそれまで授業の予習と振り返りで書いてくれた膨大な文章(単純試算によれば約5万文字)の中から、一番自分にとって印象深い文章を、もう一度練り直した上で提出してもらい、授業中にはそれについて短い発表をしてもらいました(私はいつも、単に本をまとめるのではなく、本を読んで自分がどんな事例を思い出し、それについてどう考えたかを書くことを奨励していました)。

以下は、その提出された文章です。ご興味がございましたら、ぜひ読んでやってください。







YK君

生徒の依存先の一つとなる


 デューイは、生徒(the immature)を、「大人の領域に達していない未完成者」としてしか捉えないことに警鐘を鳴らします。p.41の、 ‘Taken absolutely, instead of comparatively, immaturity designates a positive force or ability, -the power to grow.’や、 ‘Where there is life, there are already eager and impassioned activities. Growth is not something done to them; it is something they do.’との言及も、教育者は大人と子どもの比較から抜け出し、「すでに生徒の中に在る力」に目を向ける必要があることを含意しています。生徒に内在する力こそ彼らの成長を促すものであり、また、外在する力(例えば教師による指導)によって直接的に生徒を成長させることはできないとしています。そこでデューイは、生徒が本質的に持つ「依存性」と「可塑性」という特性に焦点を当てます。「依存性」とは、生徒自身の「無力さ」を指しています。他の動物とは異なり、1人では生き続けることができない人間の子どもは、本質的に無力であることで「他者からの協力的な関心を得る力を持っている」ということです。「可塑性」とは、経験から学び、後に直面する課題への対処に役立てる力をいいます。  

 教師として生徒と接する際、生徒が持つどちらの力も考慮すべきだと思います。この2つの中でも、私が教師として現場に出た時に特に注意を払いたいのは「依存性」であり、さらに言うなら、「私が生徒の依存先の一つで在れるよう、また在り続けられるよう努める」ということです。これは、「この先生には心を開ける(依存できる)」と生徒が感じる関係を、教師が少しでも築けた時、教師は生徒の成長に影響を与える存在となりえるのだと、フリースクールでの経験を通じて私が信じているからです。柳瀬先生のブログの予習記事中の小児科医熊谷さんのエピソード (http://mainichi.jp/feature/ikirumonogatari/archive/) を読み、改めてその思いを強くしているところです(「依存先」という言葉はこの記事から拝借しています)。「生徒の依存先になる」ということについて、以下で私の経験を踏まえながら、もう少し具体的に考えていきます。  

 先日の組田幸一郎先生の講演会組田幸一郎先生の講演会の中で、「教師は自分の教育哲学を持つべきである」とのお話がありました。今回学んだ「依存性」という概念も踏まえ、私の持つ哲学は何かと考えてみたところ、現段階で一番しっくりきたものは「生徒の話を聞ける教師であること」でした(この場合「教育」哲学というより、「教師」哲学といったほうが適切かもしれません)。この哲学の中の「生徒の話を聞ける教師」になるためには、「生徒が話をしようと思うような教師」であるべきでしょう。生徒がそう思うためには、生徒に教師がどう見えているか、どう認識されているかが影響すると思われ、その認識に直結するのが教師の自身の取る態度ではないでしょうか。そこで、教師自身の態度がどうあるべきかについて考えます。

 私の思う「生徒の話を聞ける教師」の持つべき態度とは、「生徒の話を常に聞こうとする態度」です。例えば、和気あいあいと話している生徒に「なんや楽しそうやな、何かいいことあった?」と日常的に声をかける(面倒臭がられることのないように、話しかけるタイミングと頻度のバランスの考慮は必要でしょうが)態度や、生徒が話しかけてきた時に、その話題が一見取るに足らないようなものであっても「生徒が話したいと思っていること」であればしっかり耳を傾けようとする態度を指します。こうした態度を「常に」取り続けることで、「私はあなたのことに関心があるのだ」との気持ちを生徒に示し続けることが大切だと思っています。こう思うに至ったのは、前述したように、フリースクールでの経験があったからです。私がフリースクールに入ったばかりの頃、それぞれにそれぞれの発達障害を持つ生徒たちは、新参者の私に対して「とりあえず」壁を作り、「こいつはいったいどんな奴なんだ」と伺っている様子でした。話しかけてくれる生徒が少なかったものですから、関係を築くためには私から話しかけに行くほかありません。無視されることが何度もありましたが、話しかけ続けることで、次第に話を聞いてくれるようになってきました。そうなったと思えるまでに、半年はかかったかと思います。  

 生徒が話を聞いてくれるようになると、次第にですが、「生徒から話をしてくれる」ようになりました。この「生徒からの語り」を得られるようになって、私は生徒をより理解できるようになったとの実感があります。1人の生徒の事例を挙げます。ある生徒Aさんは当初から私に全く口をきいてくれず、授業態度もすこぶる悪いものでした。授業の内外で関わりを持とうと声かけを続けていましたが、中々まとまった話すらできずにいました。しかし、授業を持ち始めて1年が経とうとしたある日突然、Aさんは親との関係についての悩みを打ち明けてくれました。その内容は決して人に話しやすいものではなく、相談する人もいないと言っていましたから、おそらくAさんは、悩みを誰にも言えない苦しみを抱えてフリースクールに通い続けていたのだと思います。聞けば、授業態度が芳しくなかったのも、その悩みが影響していたとのことです。Aさんは「授業をまじめに受けない」ことで私に何か気づいて欲しかったのでしょう。というのも、フリースクールでは授業に参加することは強制されていないにも関わらず、Aさんは授業に「参加し」、他の生徒がとらないような言動をとって「自分を有標化」することで、私の注意を引きたかったのだと考えられるからです。私は、授業中Aさんが発していたメッセージに気づけなかったことを後悔するとともに、「目に見えるものだけで生徒を判断すること」には限界があるのでは、と考えるようになりました。仮にもし私が、授業態度が悪いという目に見えることだけでAさんを評価し、頭ごなしに叱っていたら、自分のメッセージを受け入れてもらえなかったAさんは私と距離をとり、話をしてくれることはなかったでしょう。Aさんはその後、少しづつ授業にも耳を傾けてくれるようになりました。  

 では、「生徒の目に見えない面」を教師が把握するにはどうすればいいか、未だはっきりしたものは見えていませんが、現段階での一つの答えは、「生徒からの自己開示」を促す環境整備をすることです。言い換えれば、「生徒が話をしようと思えるような教師である、生徒の依存先になる」ということです。  

 生徒は、生徒自身の力だけでは対処できない課題を、教師が思っている以上に抱えています。デューイの言う子どもの「依存性」を活かすためにも、生徒に関わり続け、心を開いてくれる瞬間が来るまで待つことが、教師に求められる態度であると考えています。







KR君

英語を勉強する意味


私たちは好きなことであれば、何でも覚えることが出来ます。どんなに外見が類似しているガンダムだって、私は勘違いすること無く名前を挙げることが出来ますし、ラーメンズのコントのワンシーンをパッと見せられれば、そこでのセリフをほとんど再生することができるでしょう。このことから考えると、私たちの頭は大容量ハードディスクで、ものすごい効率で情報処理が可能なスーパーコンピュータと呼べるでしょう。

好きなことだったら何だって覚えられるし処理できる・向き合える一方で、私たちは「勉強」となると受け付けなくなるから不思議です。好きな歌ならばその歌詞やメロディー、その背景情報まできっちり覚えられるのに対し、教科書の英文暗証には大変な労力を割かなければいけなかった印象があります。ラーメンズのコントならその言い回しを一つ一つ記憶できるのに、英語のコロケーションはいつまで経っても身につく兆しはありません。 趣味はあくまで趣味であり、「この趣味を使って一儲けしてやろう」なんてことは考えておりません。趣味を繰り返すことは利益とは結びついていないように感じます。趣味による利益は生じないのに関わらず、趣味は他人の監視や明確な目標や理由が無くとも延々と繰り返すことが出来ます。端から見ても「何でそんなにやってるの」と疑問が浮かぶほど趣味に没頭する人は見かけますから、精神的な異常による固執でもなさそうです。どうやら、趣味には自身の中に「価値」が確立しているので、どれだけ繰り返してもなかなか疲労感は蓄積せず、むしろ心が開放される感覚すら覚えるようです。自身の中で「価値」が生じているので、やればやるほどその価値に触れられ、満足感が生じます。その満足感のために、DVDは繰り返し見れますし、トランペットの練習は唇から出血するまでしていました。

一方で話が勉強となると、通常多くの人は長続きしない、もしくは非常に困難で辛いものというイメージが生じがちです。その苦痛は、趣味が継続的に行えることを基準に考えるならば並大抵のものではないように思えます。例えば英語の勉強を取り上げて見ましょう。英語をやれば「外国人とも会話でき世界が広がり」、「洋楽・洋画をより楽しめ」、「扱えるだけでカッコよく見えます」し、「受験や就職で有利」と、もはややらない理由が考えられないくらいいいこと尽くしです。少なくとも、私の趣味「(マイナーなお笑いコンビの)ラーメンズのコントを暗記する」ことのメリットは絶対に及ばないでしょう。このようにメリットや理屈では圧倒的に英語を勉強する意義は強い。それなのに実践できないのは何故なのでしょうか。それは、やはり自身の中で「価値」が生じておらず、その必要性を体で感じていないのかもしれません。結局は「頭でわかっていても、体で価値を感じていないと続かない」と感じます。デューイは本の中で、学習は生徒の日常の中で生じる疑問で行わなければならず、成長は世間に対する対応力を高めていく変容であると述べています。私はこの本を読み進めるにあたり最終的に、「勉強は頭の中でできることではなく、体・心までついてこないとできない」という考えに行き着きました。私たちは本・ネットの中に生きているわけではなくあくまで道具として用いることにより実生活を行っているのであるので、どれだけ道具である科学が発達しようとも、結局のところそれを用いる人間の身体や精神は伴いますから、身体や精神の領域から目を背け「学習」を科学で語ろうとしても限界を迎えるように感じました。つまるところ、世間一般で言われている英語学習のメリットを山ほど並べたところで、そこに人間の体や心が「価値」を見出さなければ学習の継続にはたいへんな労力を伴います。

ではどうすれば、教師として教壇に立った際に、生徒の中に英語の価値を確立させることができるのでしょうか。前述のとおり、単に英語のメリットを理解させるだけでは頭の次元までしか通用しないために効果は薄いことが予想されるため、心まで動かさなくてはいけません。しかし、多くの人が経験から何となくわかるでしょうが、人の心を動かすのは容易なことではありません。今回考えた3つの方法を以下で紹介しますが、これらは一朝一夕で実践できることだとは考えていません。教壇に立つ上での心構えとして掲げながら、きちんと生徒一人ひとりと向き合い対応しなければならないことを前提としています。

まず1つ目の方法は「英語そのものの面白さから英語の価値を生じさせる」ことです。イメージとしてはテレビ番組のアメトーーク、実際にはないのですが「英語芸人」です。テレビ番組アメトーークで、毎週テーマごとに集められた芸人が自分たちのテーマをもとに面白おかしく展開されていくバラエティ番組です。この番組では数多くのテーマを取り扱うため、テーマによっては一切の背景知識がない場合があります。しかし、身近でないし背景知識のないテーマであるのにかかわらず、出演者は面白おかしくそのテーマを紹介し笑いをとります。番組が終わった際には、「何か面白そうだな」と思ってしまいます。私は、このアメトーークの構図が、英語の内容面に重きを置く英語の授業と非常に通じていると感じています。英語のマニア(芸人)である教師がその内容の面白さを視聴者である学習者に伝え、学習者内に面白さという「価値」を引き起こし、授業に引き込む。笑いの有無に関わらず、そこで行われている行為は類似しているのではないでしょうか。この方法で教師に求められることは、徹底した教材研究だと思います。この教材研究はひとりよがりであってはいけません。視聴者である学習者がどのような内容なら関心を示してくれるか、どのように運べばきちんと楽しんでもらえるか、どう使わせたら生徒は家で教科書を見返させられるか。教材研究には常に視聴者である学習者を想定しなければなりません。単なる教師の目線からだけではなく、まだ英語習得の長い道のりのスタートラインに立っている生徒まで近づき、教材の下見を行い、丁寧に先導しなければ生徒は迷子になってしまいます。英語という側面から生徒を引っ張るためには、綿密で視野の広い教材研究が必至なのではないでしょうか。

2つ目の方法は「個人内の別の価値観と英語を(無理やり)関連させる」ことです。塾での個別指導では、英語というか勉強に全く興味のない生徒を受け持つことが多々あります。以前、音楽が大好きでバンド活動を行っておりベースを持つと眠れなくなるものの、英単語帳ターゲットを持つと10秒で眠れると豪語する生徒がいました。彼の中では「大学に行くこと」は実感がなかったようで、英語を勉強する意義が見いだせていませんでした。たまたま私はバンド経験者だったので、よく生徒が練習している曲について話が盛り上がったのですが、彼の身の回りの曲は英語の歌詞ばかりで非常に違和感を覚えました。「英語を勉強すれば自分の演奏している曲のメッセージがわかるよ」と伝えると、彼は半ば「仕方ないか」といった様子で単語テストに精を出すようになり、学習が少しずつ積み重なるようになりました。今のは非常に限定的な一例ですが、生徒の中には既にきちんと価値観が生じている場合が多く、彼らの既存の価値観と教科の関連を教師が示すだけで、彼らは「英語の価値」を確立してくれるかもしれません。この方法のためには、若者文化に精通していたり、幅広い趣味・教養が求められます。教室の後ろでたむろする生徒に対して魅力的な洋楽であったり、部活しか頭にない生徒に対しサッカーの英語サイトを紹介したりと、教師はある程度広い領域の文化に精通しておくとひょんなことから彼らの学習につなげることができるかもしれません。

3つ目の方法は「(英語という要素を取っ払い)自尊心のために使用する」ことです。しばしば勉強に取り組めない子の多くは、特に勉強に対して苦手感情を強く持っている場合が多いように感じます。そのような場合、ひとまず英語という勉強が成功する感覚を覚えさせ、取り組みに対して楽しさを見出してもらうことは、一つの方法だと考えます。以前達人セミナーで、上山先生が「生徒が家庭学習に取り組むためには、その成果が見られるような仕掛け作りをすることが重要です」とおっしゃっていました。これは家庭学習にとどまらず、すべての勉強に当てはまるのではないかと思います。実際に生徒の取り組みが明示的に残り、さらにそれらが褒められたりすると、それはそのまま「英語は褒めてもらえる=他人から評価され得る価値」へと変容する可能性があります。この場合、英語そのものの特質とは関係ありません。単に成果が残りやすい形であれば掃除でも生活態度でも構わないと思います。ただし、この方法は生徒が認めている人から評価されることでその効果を強く発揮する側面があるように思われます。例え実際に地位のある校長先生から褒められたとしても生徒がその存在を高く感じていない場合はあまり効果を発揮しない可能性があります。できれば尊敬されている教師・もしくは親しい友人から評価され得る機会を作ってみることがいいのかもしれません。

とつらつらと述べてきましたが、振り返って思うのは結局のところ、相手は人間、しかもその価値観ですから、本来は直接操作することが出来ないものです。生徒が英語に価値を見出すことには3ヶ月、長ければ3年かかってしまうかもしれません。彼らの心に英語の価値という種が根付かなければ、教室でいくら良い肥料や水を与えたところで成長してくれません。最終的には教師は試行錯誤しながらも、生徒の心に英語の価値が根付くのをじっくりと待たなければならないのかもしれません。







UJ君

完成品としての教師を作ることを「目指す」ような環境づくり


 前回の授業の中で、教育界では新卒で採用した教師を既に教師として「完成品」として見ている傾向があるという指摘があがりました。個人的に非常に印象に残る指摘だったのですが、同時にどうしてそのような風潮ができてしまったのかが非常に疑問でした。この振り返りでは教育界ではなく、いつものユニクロネタを通して少し考えたことを述べてみたいと思います。ユニクロでは、新卒で採用されていきなり各地域の店舗に配属される人はほとんどいない(と思う)のですが、新卒の一部の人に関しては「店長育成コース」とでも言うべき「エリートコース」を歩む人たちがおり、その人たちは通常の真逆で現場からスタートします。ユニクロの理念の中に「現場・現実・現物に基づいたリアルなビジネス活動を行います」という項目があるのですが、私の憶測では店の運営を左右する店長は「現場・現実・現物」を見ないことには育成できないという考えのもと、このようなコースが設置されているのではないかと考えています。数年前に実際、私が勤務する店舗にこのエリートコースを進む3人の新卒の方が着任されました。店舗内での階級は着任当初から「社員」とされていましたが、正直なところ我々アルバイトよりもこなせる業務は少なく、まだ店舗の右も左もわかっていない状況でした。そんな中1年後に店長昇格試験を受けて店長への昇格を目指すことが目標とされていました。しかしながら感動したことに1年後全員店長昇格試験に合格したのです。今振り返ってみると、合格をバックアップしたのは彼女たち自身の賢明な努力だけでなく、彼女たちを取り巻いていた「環境」であったように思えます。では実際にどのような環境だったのか、私の記憶の限りで思い出してみようと思います。  

彼女たちを取り巻いていた環境を主に、(1)スタッフ一人一人の「質」、(2)「スタッフ同士」の関係、(3)「新卒同士」の関係という3つの観点から見直してみたいと思います(もちろんこれ以外にも様々な環境の要因が考えられるでしょうが、本稿では自分以外の「人間」がどのように環境と関係しているかについて考えてみます)。まず(1)に関して考えていきます。はじめに、店長になるためには何といっても他のスタッフではなく「店長」しか行わないこと・行えないこと、つまり「店長業務」を知る必要があります。店長業務は「店長」のみしか教えることができないため、業務を教えたのは当時の自店の店長でした。当時の店長は彼女たち以前にも、「店長育成コース」として着任した多くの新卒たちを一年後に店長に育て上げてきた敏腕店長でした。その点において非常に「質の良い」人材が彼女たちの近くにいたと言えるでしょう。手前味噌のようになるかもしれませんが、私の勤務する店舗は店長以外のスタッフも皆「質の良い」人材と言えます。社内のスタッフコンテストで日本一のスタッフに輝いたスタッフや、お客様から「○○さんって今日いるかしら」と常に指名されるほどお客様から信頼されているスタッフもたくさんいますし、常に我々の成長を気にかけて細かく声掛けをしてくれる方など、スタッフ一人一人の質が非常に高いという事が出来ます。実際、店長が変わり、他の店長が着任されると必ず「この店のスタッフとは非常に一緒に仕事がしやすい」と揃って口にされます。以上のようなスタッフ一人一人の「質の高さ」が環境の一つとして考えられます。

しかしながら、たとえ一人一人が抜きん出ていたとしても、同じ目標を持ち、互いに助け合って目標達成に向かっていく中で「社会集団」を形成しなければ、店舗としては成り立ちません。そこで次に(2)のスタッフ同士の人間関係に目を向けてみます。今まで私が入社して以来、店長が合計5回異動しているのですが、どの店長が着任されても「この店舗のスタッフのチームワークは非常に高い」とお褒めを頂いています。このような評価につながることとして、仕事をしている時でも、また休憩時間や退勤後なども、社員やバイトなどの垣根を越えてお互いがとても良好な人間関係を築いていることがあげられます。バイト同士で仲が良いといった「横」の関係だけでなく、バイト・準社員・社員といった店舗内での階級を超えた「縦」の人間関係は非常に重要です。階級を超えて良好な人間関係ができているため、例えば社員が「○○にしよう」と決めた方針を、バイトが「いや○○じゃなくて△△の方がいいんじゃないかと思うのですが」と意見を述べるといった具合に、店舗運営に全員が積極的に関わっていくことができます。もしも縦の関係が非常にギスギスしていたら、上の者には刃向えない風潮ができてしまい、バイトなど階級が低い者は思ったことが言えない環境になることも考えられます。このように「横」および「縦」の良好な人間関係が既に構築されている環境は、新卒として着任した彼女たちには非常に馴染みやすく、かつ働きやすい環境であったと思われます。実際彼女たちは着任してすぐスタッフと打ち解けあい、笑い話をしたり、時には店舗運営に関して本気でスタッフと議論していました。またお互いが徐々に打ち解けあってくると、あちらからも積極的にコミュニケーションを取ってくるようになりました。わからないことがあったら、店長だけでなくバイトの私にさえも「これってどうやるのかな?」とか「この業務をもっと効率よく行う方法ってないかな?」など多くのことを積極的に聞きに来られていたことを覚えています。さらに私が感動したのは退勤後にも、彼女たちが何時間も残ってスタッフに相談に乗ってもらっていたり、その日行った業務を手助けしてくれた人にメッセージを書いていたことです。以上のように新卒3人とスタッフ同士の非常に良好な関係も、彼女らを取り巻いていた良い環境であったのではないでしょうか。

そして最後に(3)「新卒同士」の関係についてみていきたいと思います。新卒「と」他のスタッフの関係は見てきましたが、新卒「同士」の関係についてはまだ触れていませんでした。彼女たちは3人とも全く異なる大学を卒業し、ユニクロに就職した職場での同期であるとのことでした。全員が女性で同性であったことも相まってか、元々着任されたときからある程度お互い仲が良いようでした。しかしながら着任して時が経つにつれて、仲の良さから「ライバル心」のようなものが芽生えているように思えました。とはいえ彼女らの関係がギスギスしていたというわけではなく、互いが互いを信頼しながらも、ひそかにライバル視しているように思えたということです。もしかしたら彼女たちが3人ではなく1人でバラバラに異なる店舗に着任していたら、状況は変わっていたかもしれません。彼女らの近くにいた「同期」という「ライバル」がいた環境も要因の一つではないでしょうか。

 最後に、このエピソードから何が言いたいかというと、ユニクロでは新卒のスタッフを「完成品」として見ると言うよりも、その真逆で、まだまだ原石にすぎない一人一人を、彼らを取り巻く「環境」を基に育てているように思えたということです。私が言いたいのは「我らユニクロはすごいだろ」などといったことではなく、教育界も同様に新卒という原石を、彼らを取り巻く環境から育てていくという観点を持ってもよいのではないかという事です。とはいえ教師に関して言うと、「教師」になるための「教育学部」が大学に設置されているのに対して、「ユニクロスタッフ」になるための「ユニクロ学部」などというものは存在しません。つまり教師の場合、専門の養成課程が設置されている以上、一定の専門的知識や経験は大学で既に培われているはずであるという前提があるのかもしれません。しかしながら教育学部を卒業して教師になったからと言って「完成された教師」になっているということは考えにくいのではないでしょうか。むしろ逆に、ある程度の背景知識は持っているけどまだまだ荒削りな教師であるため、「完成品」として育て上げることを目標とする環境を作ってやることも大切なのではないでしょうか。







FT君

価値は生徒が見出す


"In general what is desirable is that a topic be presented in such a way that it either have an immediate value, and require no justification, or else be perceived to be a means of achieving something of intrinsic value. An instrumental value then has the intrinsic value of being a means to an end."


 これはJohn DeweyのDemocracy and Educationを読む中で、価値(value)という概念について私が最も共感した本文の引用である。私の部活動での経験を省みてみると、野球をすることが楽しくて入った部活動であったのに、いつのまにかレギュラー争いという競争に取り込まれ、レギュラーを勝ち取ると言う目的を達成する為に野球が上手くなりたいと考え、がむしゃらに練習に打ち込むようになった。しかし、その目的達成の過程でうまく伸びない葛藤や悔しさを味わいながら研鑽を積んでいく中で、いつしかレギュラーを取るための練習ではなく、純粋に野球を楽しみたいから練習するといった心境の変化が生じた。野球を目いっぱい楽しめるようにと様々な角度から自他の練習を見ることができるようになると、野球を楽しむということが主目的になり、レギュラーを取るという目的は通過点的、副産物的な扱いになった。この経験をデューイの引用から考察してみると、かつては内在的価値に惹かれて入った野球部で、いつのまにかレギュラーを取るために練習するといった道具的価値を重要視するようになったが、その過程で自らの成長と変化を感じていくにつれて本来の内在的価値にあらためて気付いた結果、道具的価値は内在的価値を追い求める過程で触れる通過点のようなものに私の中で変化していったということだろうか。  

 従来、英語教育においても道具的価値、内在的価値という二項対立で生徒に英語学習の意義を説明してきた教師も少なくないと思う。以前、英語教育に携わる人たちが共通の話題でブログ記事を書こうという企画(http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20131101/p1)で、そのテーマの一つに、「なんで英語なんか勉強するの?」と聞かれた時あなたはどう答えますか、というテーマがあった。多くの教師が「今世界はグローバル化していて英語は必ず使わなければならなくなるから」「自分の夢を叶えるためには受験を突破しなきゃいけなくてそのために英語は必ず必要だから」という英語の道具的価値や、「英語で本を読むことができるようになると楽しい」「英語で海外の人とコミュニケーションを取れるようになると楽しい」という内在的価値のどちらかを生徒に説くという解答をしていた。道具的価値と内在的価値、この二元論で多くの教師が英語教育の価値を論じていたのだが、ある教師の発言だけ妙に異質で目にとまった。彼は「そもそもこんな質問をされるってことは、生徒は授業を面白いと思っていないか、英語が分かっていないのだろう」という指摘をしていて、私はこの意見に「なるほど、そうかもしれない」と深く共感した。教師が自身の抱いた道具的価値や内在的価値を説くのも大事だとは思うのだが、それよりも生徒が自身の経験からそういった価値を見いだせていないと彼らの心には実感として入り込んでいかないだろうと経験的に感じたからである。ただ説くという直接的な介入では、生徒の表面的な部分に一時的に作用するだけで、心の底から納得するという状況までいたらないのは想像に易い。苦手教科に関して教師から理屈で勉強する意義を説かれても「まぁそうだろうけど。あたまではわかってもなんか納得いかない。」といった反発的な意見は誰しも抱いたことがあるのではないだろうか。  

 私たちは言葉で価値観を押し付けられても、そうすぐにはその価値観に同調することはできない。自分にとって実感のわく経験を通して私たちがそう考えた時にこそ、その価値観が私たちの中に芽生えるのだろう。生徒に道具的価値、内在的価値を抱かせるというような教師から生徒へ直接働きかけるという考えを捨て、ある事柄について生徒が存分に学べる環境を整備した上で様々な経験をさせ、その中で生徒自身が価値を見出していくというように、私たちは間接的な働きかけにもっと力を注ぐ必要があるのではないだろうか。これこそDeweyの主張する教師の唯一の役割である。







SS君

授業における「ノイズ」の考察


 前回の授業でのYK君の発言に、「生徒個人の興味や実生活と関連しているインプットが、生徒の刺激となる。それ以外のインプットは、生徒にとって意味を成さない、ただのノイズとなる」という言及がありました。これは私にとって新たな気づきを与えてくれるものでした。以下では、このYK君の言及に、自分なりの考察を加えていきたいと思います。

 私が目指している英語の授業は、「日常と結びつけて考える力を育む授業」です。その力を育むためには、それぞれの生徒がそれぞれの過ごす日常と授業内容とを結びつけるような、機会や材料を与えながら授業を進めます(これについては、後ほど具体に述べます)。そうして生徒にインプットされた内容は、生徒に身についているといえるものであると信じています。一方、生徒の興味もなく実生活にも基づいていないもの、すなわち、教師の都合で生徒に与えるインプットは、生徒に“身につき”ません。これはYK君が述べたとおり、「ノイズ」となってしまいます。この「ノイズ」について、さらに考えていきます。

 私の疑問は、果たして教師の都合で与えるインプットを「ノイズ」という言葉で片つけてよいのか、ということです。「ノイズ」とはどういうものなのでしょうか。それを考えるにあたり、まずは「教師の都合で与えるインプット」をもう少し具体的にしておきたいと思います。「教師の都合で与えるインプット」とは、私たちをtrivial-machineにしてきた、(少なくとも私が受けてきた)従来の授業で与えられるインプットのことです。カリキュラムで教えなければならないから、受験で出やすいから、期末試験で出す問題だから…という、本来の教育の目的を見失った状態で教師が生徒に与えるインプットです。たとえば、「accept=受け入れる」といったような単語テストに正解することで生徒にその単語が“身についた”ことにしたり(=思い違い・教師の怠惰)、文法事項の“良い説明”をして生徒に身につかないようならそれを生徒の責任にしてしまったりする(=思い込み・生徒を見ない授業)ようなことです。こういったインプットを押しつけることが「教師の都合で与えるインプット」です。

 そうして生徒にインプットされたものを「ノイズ」と呼びました。「ノイズ」に関して、私は以下の点を補足や留意点として設けるべきだと思います。  

1 「ノイズ」をなくすことは、不可能である。
2 「ノイズ」といっても、否定的な意味だけではない。
この2点を詳述します。


 1に関して、40人という大人数の生徒を相手にする現在の教室現場において、すべての生徒にいつも興味のある、実生活に基づいたインプットを与えることは実質不可能だと考えます。それは生態学的アプローチ(柳瀬先生ブログ記事http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/blog-post_7.html)から考えれば明らかです。精神状態や体力的な問題などから、そもそも生徒が机に座っているのも苦痛であるかもしれません。あるいは、カリキュラム上教えるべき内容が多すぎるから、あるいは、教師が多忙であることから、義務的に教科内容をインプットせざると得ない場面も必ずあるはずです。いろいろな要因が考えられますが、「ノイズ」をなくすというのは実質不可能でしょう。

 2に関しては、ノイズはいつか考える材料になるという意味で「否定的な意味だけではない」と書かせていただきました。私の拙い事例をとりあげて説明します。司馬遼太郎、ドナルド・キーン著『日本人と日本文化』(中公新書)という本の中で、「今の日本文化は、室町時代の東山文化に大きな影響を受けている」と書かれていました。また、応仁の乱が私たちの今の生活にどれほど影響を与えているかを知りました。そういったことに私は感動させられたのですが、それはおそらく学校教育で日本史を勉強し、当時は「ノイズ」であった基礎知識をインプットしておいたからだと思います。当時の日本史の先生がもし今の私の生活に結びつけて東山文化や応仁の乱を教えてくれていたら、それはもっと私に身についていたでしょう。しかし、「ノイズ」としてでも私にインプットした知識が、22才の今となってようやく日常と結びつき、感動を覚えました。1でも述べたとおり「ノイズ」をなくすことは不可能ですが、なくそうとせずとも、「ノイズ」は「ノイズ」として生徒の中に置いておくことも無駄なことばかりではないと思います。

 以上が私の「ノイズ」に関する考察です。YK君が述べたとおり、基本的に「生徒個人の興味や実生活と関連しているインプットが、生徒の刺激となる。それ以外のインプットは、生徒にとって意味を成さないただのノイズとなるので、それは避けるべきだ」ということを念頭におく中で、ある程度「ノイズ」に寛容になる姿勢も大切ではないかと思います。 その姿勢を持ち合わせて初めて、理想の「ノイズが刺激に変わっていく授業」が実現していくような気がします。

「ノイズ」の話はここまでにして、では、私が目指す「日常と結びつけて考える力を育む授業」とはどんな授業なのか。それを書くことで、自分の中でできるだけ明確にしたいと思います。

【「日常と結びつけて考える力を育む授業」とは】

以下の内容は、某高校への研究授業に向かう車の中でM1のN君と話した内容です。実際の会話を、簡潔な形で抜粋します。

N 「教壇に立ったらどういう授業がしたい?」
私 「生徒が自ら、授業の内容を、全て実生活に結び付けながら聞く授業。生徒が考える授業をしたいと思ってる。」
N 「生徒に考えさせる授業か。おれも実習でその大切さを教わった。おれの指導教員は、『生徒にいかに考えさせるかが、教師の力量に直結する』とおっしゃってたな。その話、もう少し詳しくお願い。」
私 「例えば、サッカー部の子はサッカー部での経験と、授業内容を結びつけながら。部活していない子は、昨日読んだ本とか体験したことに結びつけて。」
N 「そうか、つまり柳瀬先生の授業でおれたちがやってきたやつだ。でも、①経験が浅い高校生にそれができるか?発達段階的に不可能では?あと、②じゃあ例えば、英語の文章をパラフレーズするやり方を教える授業をするんやったら、生徒はどういう風に実生活と結びつけたらいいの?」


 N君は、私よりはるかに教師になったときのことを具体的に考えており、かつ、努力を惜しまずやっている友人です。そんなN君と話していて、多くのことを考えさせられました。特に上の会話で出た2点は、私にとって重要な課題です。それらをDeweyに沿って考えていきたいと思います。

① 発達段階 v.s. 悪習慣
 高校生は、人生経験が浅く、知識も大学生に比べて乏しいです。ここでは、そういった意味で発達段階と言うことにします。そういった高校生に、授業を通して、実生活に結びつけて考えさせる習慣を培うことは不可能なのでしょうか。つまり、知識を教師から一方的に教えることしかできないのか、あるいはその方が良いのでしょうか。  

 この点について、私は完全に反対の立場に立つことはできません。Deweyも”Knowledge, already attained knowledge, controls thinking and makes it fruitful.”と述べています。高校生は、おしなべて言えば、考える材料(知識や様々な経験)が大学生よりも少ないです。大学生が柳瀬先生の授業で日常と結びつけることができるのは、ある一定の知識を得ているからかもしれません(ちなみに私の場合、色んなものを結び付けて考える習慣がようやくついたのは、大学4年生くらいからでした)。また、高校生は、1日に6~8授業をこなしており、与えられる知識も膨大な量になります。膨大な知識量を詰めこまれるため、そもそも、考えることに体力を消費している暇がないのかもしれません。ただただ授業を受け続け、知識を教わり続け、椅子に座っている以外に、高校生ができる選択肢はないのかもしれません。もしそうなのであれば、私の目指す授業を展開するには、少なくとも、学校全体が動くことが必要になると思います。若手の下っ端教員である数年後の私にとって、それはあまり現実的ではありません。  

 しかし、それでも私は「生徒に考えさせる授業、日常に結びつける習慣がつく授業」を展開したいという思いがあります。ここで私が主張したいのは、「英語教師の授業形態によっては、英語の授業においてだけでも考える習慣がつくのではないか」ということです。Deweyは

…a theory apart from an experience cannot be definitely grasped even as theory. It tends to become a mere verbal formula, a set of catchwords used to render thinking, or genuine theorizing, unnecessary and impossible. (p.138)(拙訳:経験と離された教育内容は、教育内容としてすらきちんと理解されない。[経験と結びついていないならば、]教育内容は、思考や純粋な教育内容の構築を不要あるいは不可能にしてしまうために使われる、単なることばの形式や定型表現となってしまう。)


と述べています。教師のこのような授業形態(すなわち、生徒自身の経験と教育内容とを結びつけない授業)の連続が、生徒を考えることから遠ざけているのだと思います。高校生に知識が少ないからではなく、そもそも経験(すなわち日常)で考えることをさせずにいるという現状があるのではないでしょうか。英語教師が英語の授業で日常と結びつける術を教え、そうして考えることを授業内で行わせていけば、少なくとも英語の時間は日常で考えるようになってくれるのではないでしょうか。そう信じて、教壇に立った時には授業を展開してみたいと思います(粘り強くやってみて、それが駄目だったら、obstinacyにならないよう、方向転換を考えますが…)。

② パラフレーズをどうやって日常で考える?
Deweyが

Thinking, in other words, is the intentional endeavor to discover specific connections between something which we do and the consequences which result, so that the two become continuous.(p.140)


と述べている通り、「考えることは結びつけること」です。では、英語の授業でしばしば行われるパラフレーズの指導を例にとるならば、それはどのように日常と結びつくのでしょうか。

 英語の授業では、説明文教材などを用いてパラフレーズの仕方を学習します。指導が成功すれば、生徒は「こうやって言い換えをすれば、わかりやすくするのか」「こうやって文章を整理していけばいいんだ」といったことを学びます。生徒はこの技術を駆使して、期末試験やセンター試験などを解いていくことでしょう。

 しかし、この技術を英語のテストだけに用いるのはもったいないですし、そもそもそれでは意味がないと思います。テストで問われない限り、一生その技術を使う日などきません。それでは学校で教える意味がありません。

 私の経験から、パラフレーズを学ぶ意義を考えてみます。私の友人に、「難しい本の内容を簡潔に、昨日の講義の内容を簡潔に、面白いエピソードをきれいな形で」語れる人がいます。この能力はまさに、パラフレーズが上手い一例ではないでしょうか。パラフレーズは決して英語のテストで測られるものだけでなく、私の友人の例のように日常と直結しているものであり、生きる上で大切な能力です。これはまさにコミュニケーション能力であり、英語科が目標として掲げているものです。このように、日常に落として初めて、パラフレーズの英語授業はコミュニケーション能力に結びつくものになるのではないでしょうか。

 以上が、私が「日常と結びつけて考える力を育む授業」を目指す理由と具体例です。今回はたまたまパラフレーズを教えるという事例を取り上げましたが、これは本来、生徒を前にして初めて考えるべきことです。しかし、院生である間も、目指す授業を実現すべく、できるだけ具体的に授業像を考えていきたいと思います。  

 

 

 

UK君

既知のことから未知を考える


 教室で学ぶ内容と生徒の日常を結びつける、ということと、既知のことから未知を考えるということについて、私は栗田哲也著「数学による思考のレッスン」を読んでから、「既知から未知を創造する」という言葉がとても好きになので、それについて書こうと思います。  

 まず、デューイが例として出したニュートンの話から、優れた発明や科学的発見は、既知の事実について「考える」という作業を通して結びつけて未知を生み出すことから生まれたものだと考えられます。デューイの言葉を引用すると "His originality lay in the use to which these familiar acquaintances were put by introduction into an unfamiliar context."という部分であり、これは栗田さんの本から引用すると『見かけがまったく違っているのに、「考える」という作業を通じて、より深い共通性を持った構造が発見され、そうした「より深い」構造によって、対象が記述し直される、すなわち説明し直されること』という記述(数学で例えると「補助線を引く」ことでしょうか)と重なると思います。ここで重要なのは、優れた人は「考える」ことを通して無関係に見える既知の事実達の中に未知の関連性を生み出せるということだと思います。ニュートンが万有引力の法則を考えだした基盤になったのは、太陽、月、惑星、重さ、質量、数の平方、そして「りんごが木から落ちたこと」でした。これらの事実の関連性は一見すると皆無です。しかしニュートンは考え、それらの間に関連性を見出だし、結びつけることで万有引力の法則を見出だしました。  

 Trivial machine, Non-trivial machineの議論から考えると、ニュートンは既知の事実という刺激一つ一つを別個の刺激として捉える (=Trivial machine) のではなく、既知の諸事実と、それらについて自分が考えたことを[Z]として頭の中に蓄え、その[Z]を通して既知の諸事実をつなげること(=Non-trivial machine)によって万有引力の法則を発見するに至ったのだと思います。
 
 優れた教師は、一見無関係に見える生徒達の普段の行動の諸事実と、自分の教えるべき内容との間に関連性を生み出すのが上手いのだと思いました。数学に例えると、図形の面積を理解するのに補助線をいくつも引くことができる、もしくは、一番理解を促進できる補助線を見出だすことができる能力だと思います。そして、本当にすごい教師は、生徒の日常と教材内容の関連性を見出だす過程を生徒自身に踏ませてしまうのだと考えました。つまりは生徒自身に補助線を見出だし、引かせるのだと思います。こんなことを考えていると、「平凡な教師は言って聞かせる。よい教師は説明する。優秀な教師はやってみせる。しかし最高の教師は子どもの心に火をつける。」という言葉の意味について、最後の「優秀な教師」と「最高の教師」の意味がようやく少し分かった気がしました。















RMさん

Focusing on the ‘grey area’: medium-level students


1. Who are medium-level students?

‘She is often called ‘No. 23’ by classmates, because she is always ranked 23rd in exams. Obviously, she is one of the medium-level students in class.’ ‘Once there was an extra question in a middle-term exam, choosing one as your most appreciate student in class, and I was unexpected when told by her class teacher later that most students chose my daughter because she is warm-hearted, easy-going, optimistic and has a sense of humor.

--- from a blog article my daughter is a medium-level student

Q: How can you define medium-level students?

There is a tendency that medium-level students = those academic achievement at medium level in class



2. Medium-level students: neglected group?

2.1 Voices:
From Students:
I become silent in class. Even if I did my homework as good as those top students, there is no praise from teachers. It seems that my effort is 'invisible'.

From parents:
I want the class teacher to get an impression of my child so that I ask him/her to take many tutorial classes after school in order to improve his/her academic peformance.

2.2 Types
Type 1: hard-working without effective learning strategies
Type 2: satisfying the current state 
Type 3: emotional-oriented with unstable learning state (fluctuation in scores)
Discussion point: any other type(s)

3. Suggestions & implications


For teachers:
・Changing the class focus: the minority (top & poor students) → the majority (medium-level students)
Advantage: creating a learning momentum to the whole class to make top students feel ‘pressure’ and bring poor students ‘hope’
・Improving the learning habits and strategies (esp. for type 1)
・The power of timely praise and encouragement discovering the potential merits of medium-level students to rebuild their self-confidence and alleviate self-inferiority
For parents:
・Do not make comparison between your child with others based on academic achievement (deepening the self-inferiority and rebellion against learning)

References:
http://www.mstxx.com/topic.php?id=201202







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