2012年6月17日日曜日

からだの感性でわかること ― 上本晋之先生のメールから




敬愛する上本晋之先生からメールをいただきました。武術と英語教育についての洞察にみちたこの文章を私一人で留めておくのももったいなく思いましたので、上本先生の許可を得て以下にその一部を転載します。斜字体の部分が上本先生の文面で、それを補うために、他の著書からの引用や私の駄文を加えます。

上本:さて、以前先生からいただいた竹内敏晴ノートを読み返していました。特にやわらと弓の稽古の場面から、自分の受け取った考えを勝手に書かせてもらいます。(いい迷惑でしょうが、おつきあいください=強引)


ここでいう「竹内敏晴ノート」とは、竹内敏晴氏の著作を読み進めながら、私が印象的な文章を抜書きしている私的なノートのことです(著作権の関係で、私的利用にのみとどめています)。

上本先生が主に言及しているのは以下の部分かと思いました。このくらいの転載なら著作権にもふれないので、以下に引用します。

嘉納治五郎は柔術とか小具足術とか「やわら」と呼ばれていた流派の体術をとりまとめ新しく組織して「柔道」を始めた。これは「近代化」と呼ばれる明治時代における文化再編成の努力の一貫だろう。それは、現在から眺めれば、第一に、「やわら」を生活の実用から切り離してヨーロッパ風のスポーツの枠内に位置づけた、ということであり、第二に、その結果、勝ち負けを基準とするゲームに仕立て直した、ということを意味するだろう。

祖父からわたしへ、からだからからだへと伝えられてきた、いわば志のようなものをことばにしてみれば、「やわら」とは、第一に素手で相手に立ち向かうすべであり、第二には常に勝ち負けと別の次元で相手と向かいあう身構えであった。「やわら」とは武器を持つ相手にから手で向かい、その勢いをむしろ利用してかわし、これを倒すのではなく、押えて、これと対等に向いあって立つこと、言いかえれば、対話の始まりうる地点にまで相手と自分とを導く振舞なのであった。 「やわら」の志は「柔道」化によって、なにがなんでも勝ち抜くぞ、敵対する相手を倒さずにはおかぬぞ、というヨーロッパ思考に呑み込まれ、覆い隠されてしまった、と言ってよいだろう。十字軍に代表されるこの思考への違和感は同時代の内村鑑三や岡倉天心からもしばしば発せられたことだが、ヨーロッパ風近代化に血眼になっている明治の文化人たちの眼には入らなかったのは当然のことだったのだろうと思われる。現代においても、たとえばアメリカから流入する心理療法の多くに共通する「勝ち犬負け犬」といったイメージにも氷山の一角は露れていよう。これに抵抗を感じる日本人は少なくない。

だが「勝ち負け」を至上の価値基準とする思考は欧米だけのものではないことは勿論である。日本伝来の武術においても、「やわら」と背中合わせの思考はある。(竹内 2010, 80)



[インターハイの弓道をテレビで見ていて] でも、そのうちに、こうやって見事に当てて、彼らはいったい何が面白いんだろうという気になってきた。私の場合は、弓を引いて、その記録も持っているけれども、的に当てるために弓を引いていたわけじゃないということに、その時に非常にはっきり気がついたんです。こうやって引いて、息をはかって、クッとなったらポンと当たる。それだけのことなら、ある運動センスを持っていたら、かなりの程度で当てることはできるんです。で、画面を見ていると、彼らにはそれ以上のことがまったくない。ただスポーツとしてやっているという感じでした。的に当てるのが目的で、20本引くとしたら何本当たるかということだけでやっていることがよくわかるんですね。私は弓を引く時に、こういうふうになったことはなかったということに、見ているうちに逆に気がつきました。

じゃあ、自分は一体何のために弓を引いていたかと考えると、的に当てるために引いていたという記憶はありません。自分の実感からいうと、左手に弓を握って前へ押し、右手を弦で引っぱるでしょう。すると世界が水平に無限に広がっていくわけです。それで広がり広がって、あるところでビューッと矢が飛んでいく感じだった。水平だけでは駄目で、もちろん垂直にもやるわけだけど、五重十文字といいますが、無限に広がっていってはじめてぶち当たるある存在感みたいなものがあって、それがスポッと開いたとたんにパーンと当たっているということです。ただそれだけといえばそれだけのことですが、それをどう名づけていいかがよくわからない。ですから、いつの間にそうなったかはともかく、とにかく弓を引いて的に当てるために苦労するということが自分にはなかったと気がついた。(竹内 2010, 112-113)



18、9歳の頃、私はひたすら弓術に打ち込んだ。戦時中であり、他にろくな娯楽がなかったせいでもあろう。絶好調であった時、ふと気づくと、引きしぼっている矢の先の的が、近く大きく見えるのであろう。ただ大きく見えるだけではない。自分の左手はすでに的の中に入っていて、的は自分の左肘のあたりにある。すでに矢先が的の中に入っているのであるから、これははずれるはずがない。 こういう状態を、昔の人ならば、的と一体になっていると言ったかも知れない。(竹内 2010, 128)





これらの竹内の記述を受け、上本先生は、大切なのは他人との比較ではなく、理想と自分との距離であることを述べます。

上本:昔のやわら、柔術と今の柔道と何が違うか、というと、「勝負論の違い」と言えそうです。誰との勝負か、ということから始まり、勝負を目的とするか、手段とするか、の観点の違いも指摘できそうです。勝負を目的にして、勝手は喜び、負けては悔しがり、という経験をすることが精神的な成長になると考える人も多いのではないでしょうか。しかし、それが「精神修養」という言葉でまとめられているようで、私は賛成できません。技の稽古を通して、学び、理解することは自分自身の現在地点と、技が描く到達点との距離だと私は考えます。私が未だに稽古にこだわるのは、非才の身の自分がどこまで行けるか、距離をどこまで縮めることができるか、試したいからです。


上本先生は、ここで古流の武術稽古が、どれだけからだの感性を高めたかを述べ、同時に近代的な解明をいたずらに崇めることに警戒します。

上本:竹内氏がどれほど武術をからだに染みこませる稽古精進をされたか、その到達された体感は文面から想像できます。その過程で、稽古そのものを通して、お持ちだった感受性を磨き、からだと対話する意識を発展させていかれたのでしょう。それは、氏の体感能力、身体意識の高さを示すと共に、古流の武術が築き上げた稽古修行の体系が見事であったことの証左であると思います。

些か極論めいていますが、いわゆるスポーツの理論で技を読み解き、解釈しても、(昔の)名人、達人レベルを理解できないと私は考えます。昔、某国立大学の少林寺拳法部がCGで高段者の技を解析して、「コツ」を科学するという試みをしました。分かりやすくしたつもりの取り組みでしたが、結論としては成功したとは言えません。それは、技を成立させている要素のほんの一部しか示せないからだと考えます。形として見えているものだけに焦点を当てての分析の限界です。


近代的な分析とは「客観的」に対象にアプローチする万人に開かれた方法論ですが、万人に開かれているということは、「誰でもわかる」ことでもあります。「誰にもわかる」ことを公正に記述することの重要性は言うまでもありませんが、「誰にもわかる」ことだけを探究の対象とすることは、質の高い経験にささえられた鋭敏な感性でのみはじめてわかることを、考察の対象から外してしまうことでもあります。

熟達者だけがわかることは、「客観的」で「科学的」な方法論からすれば「錯覚」となるでしょうが、わかる者にははっきりとわかり、わからない者にはまるでわからない現象というものはあるものです。別にこれはオカルトではなく、耳の肥えた人が共に認め合う見事な音楽演奏や、鑑識眼に長けた人がこぞって称える骨董品、あるいは味のわかる人なら頷く料理などで私たちの生活にも浸透していることです。もちろんこれらの領域においても俗人というものはいますから、俗人がわかりもしないのに通ぶって恥をかくことは多くあり、私たちはそういった例から、選りすぐられた人間だけがわかる感性的理解を嘲笑しがちですが、それは僻みというもので、マイケル・ポラニーもいうように、技能・技芸に熟達した者のみが理解し得ることというのは厳然としてあります。









長年の武術鍛錬を行なってきた上本先生は、いわゆる古武術の黒田鉄山先生の稽古会・懇親会に参加された時のエピソードを次のように語ります。

上本:たとえば、黒田鉄山先生が稽古後の懇親会で私の目の前で示された「軸」の伸展と収縮。意のままに正中線が、体軸が現れ、消える。これは機械では測定不可能です。黒田先生に私が感想を述べたところ、ニヤっとお笑いなり、「おわかりなんですね。」というお言葉をいただきました。間近におられたお弟子さん達は不思議そうな顔で、「今、何があったんですか?」と先生に尋ねていました。同じ空間にいても、見えない人もいる。見えた者は示した人と同じ感覚を有する。不思議な感じがしますが、これが相手との交流で得られる体験の深さです。これを科学は「錯覚」というでしょうね。


ここから上本先生は、話を本業である英語教育に移して、「近代的」で「客観的」で「科学的」でもあろうとする授業分析について語ります。トーンは批判的ですが、別に上本先生は反近代的・反客観的・反科学的になっているわけではありません。強いて言うなら上本先生は、脱近代主義的・脱客観主義的・脱科学主義的であることについて語っているのだと私は理解しています。

上本:翻って、英語授業について。若い英語教師たちは、本当に授業運営について、よく「知って」います。最近の大学では名人・達人と称される人たちの映像を見て、研究する授業があるそうですね。

先に某大学少林寺の話を出しました。これとよく似たことが今でも、英語の教師の中で行われている気がします。若い教師の皆さんは、よく「知って」いるのです。でも、実際に使うという場面で活かされていない。このギャップをどう埋めるのか?

近代的・客観的・科学的であろうとすることの重要性を十分に理解しながらも、それらをイデオロギー化してしまったという意味での近代主義・客観主義・科学主義に囚われてしまわないために、上本先生は、武術の稽古のやり方を指摘し、英語教育においても、近代主義・客観主義・科学主義的に一般論として語れないが、弟子が師と実践の感覚を共にしながら少しずつ自分のからだに染み込ませてゆく身体的な理解の重要性を説きます。

こういった徒弟制度・内弟子制度そして口伝の重要性は、西洋近代化する以前の日本では当たり前のこととして日々実践されてきたことですが、今では前近代的で主観的で非科学的なものとして一部の人々(特に悪い意味での官僚的感性と知性しかもたないエリート)にとって軽視されています。しかし近代主義・客観主義・科学主義的には捉えられない実践そしてからだの知恵を否定することは、反知性的であり、非現実的なことです。私たちは自らが無自覚に陥ってしまっているかもしれない呪縛(=イデオロギー)から自分たちを解放し、知性的で現実的であることを目指さなければなりません。

上本:古伝の空手では、型を学び、型の分解組み手 [=型で学んだ動きが、実際の戦いではどのように使えるのかを学ぶこと] をし、型に戻るようです。型の習熟が使える技の必要条件でしょう。英語指導でこういうシステムがあるのか、学びの浅い私は知りません。知っている技術を使ってみる。反応を分析して技術に改良を加える。こういう過程になるのでしょうか。落とし穴は、自分の指導技術がすぐその場で通用するか確認しにくいため、気づくのに時間がかることです。武術ならば、試したその時点で結果が、つまり利くかどうかが瞬時に応えとして出るのです。

私は若い人たちに期待したいです。年寄りの私は、自ら見栄(そういうもの、実はないのですが)を捨てて、若い人達に授業を見せています。私の役目かと勝手に考えてのことです。なんと、来年には私が職場で現役教諭最年長になります(苦笑)。昨年までの2年間は、職場に連続して新任が二人入ったので、私とペアで同じ学年(3年)を担当しました。ある意味で、内弟子制度(苦笑)です。声の出し方、視線の向け方なども示しました。頭での理解にとどまらず、「腑に落ちる」ところまで行って欲しいという願いからでした。


上本先生からのメールの引用は以上ですが、こういった身体的あるいは感性的な理解と学びは、別に武術稽古をやった人間だけが強調していることではありません。小・中・高の様々な教科の授業をこれまで1万以上観察してきた佐藤学先生は、『教師花伝書』で ―これはすばらしい本です。下手な研究会や学会に行く暇があれば、この本を読むことを強くおすすめします― も次のように述べます。

授業が始まり、まず私を驚嘆させたのは、小グループで夢中になって学び合う子どもたちの姿だった。一人ひとりが自然体で、しかも弾むような好奇心を共有して考えを交流し、知性的に探究し合う姿は素晴らしかった。これほど学びの作法を洗練させ、質の高い学びを実現している教室はそれほどあるものではない。(p. 20)



授業の始まりにおいて私が最も大切にしているものは、教室の「息づかい」である。教室を訪問すると、「息づかい」が感じられない教室がある。「息づかい」が乱れている教室があれば、整っている教室もある。「息づかい」が浅い教室もあれば、深い教室もある。授業が始まる時点の「息づかい」が、その授業のその後のすべてを決定すると言っても過言ではない。それほど教室の「息づかい」は授業の成否にとって重要である。(p. 27)



その短いシーンを見た途端、「これはすごい!」と唸ってしまった。子どもたちの姿が自然体で柔らかいのである。そのしなやかで柔らかい子どもたちの身のこなしを見ただけで、呉井さんの仕事が一つの境地を開いてきたことを直観し、これから始まる授業が小学校低学年の文学の授業の最先端を切り開くものになることを予感した。この直感と予感を言葉で説明するのは至難である。教室の学びを推進させる「息づかい」という言葉が最も適切なのかもしれない。あるいは東洋哲学の「気」という言葉が事柄を言い当てているのかもしれない。授業開始の「息づかい」や「気」の流れが、その授業のすべてを前もって決定している。(pp. 108-109)




こういった、「子どもたちの姿」「自然体」「身のこなし」「息づかい」などについて語ると、現職の先生の多くは大きく頷いてくれますが、一部の研究者はこれらのことばに対して冷笑的な態度を貫きます(ましてや「気の流れ」といったことばなど聞いた日には!)。しかし、感じることができる者には感じられ、理解できる者には理解でき、そうでない人にはまったく感じられないし理解もされないことは厳然と存在するのです。私たちはそういった感性や理解を、独善に陥らずに、ことばの深い意味で客観的に(=客観主義的ではないやり方で)探究し解明してゆく必要があります。(関連記事:「質的研究に関する私的ブックガイド」の下の方にある、鯨岡峻(2005)『エピソード記述入門  実践と質的研究のために』(東京大学出版会)の紹介記事)。



最後にある講演会で、聴衆からの質問に答えた佐藤学先生のことばを紹介します。貧困な感性と頑なな知性しかもたない権力志向の管理職タイプの人間が聞けば、顔を真赤にして否定しそうなことばですが、教育という実践は、このようなことばを等身大に受け止め、否定もしないが過大評価もしない知性と現実性を必要とすると私は考えます。「学力向上を目的にして協同学習をしてはいけない」という佐藤先生の主張に対して、「それでは協同学習の目的とは何なのか。協同学習がうまくいっているかどうかを判断する指標とは何か」という聴衆からの質問を受けて、佐藤先生は次のように答えます。

佐藤: 協同的学びの目的は何か、ということはぼくにとって、学校の目的は何かということと一体ですね。ひとり残らず子どもたちが学びに参加し、その権利が実現できること、学びの質を高めることです。学力の結果は直接的には求めない。なぜなら、学力の結果自体を目的とすると、学びがやせ細っていくし、その結果、学力が伸びない。そういう関係なので。ということでよろしいでしょうか。あとなんでしたか。
[吉岡=シンポジウム司会]: 指標です。 
佐藤: 指標ね。「見ればわかる」という考え方です(笑)。それ以上はないです。すごくぼくは気になっているんですね。玄人が見ればわかります。確かに素人だとわからないかもしれない。学生みたいな教師とか。だけど、そういうことをきちんきちんと伝えていかないと、何でも測定して数にして、比較して、というのに慣れてしまうと、もう教育は成り立ちませんよ。

ラボ教育センター (2011) p. 201







関連記事
野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判(特に追記・追追記)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html



追記
内田樹先生が「直感と医療について」という文章を書かれています。上の私の記事と関係があるので、ここでもお知らせします。
http://blog.tatsuru.com/2012/06/18_0930.php







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