昨日、
寺島隆吉先生の『英語教育が亡びるとき』(2009年、明石書店)の紹介記事を書きながら心配していたのが、批判という行為が、個人間の対立に歪曲化されてしまうことでした。
従来、日本では、学説においても批判行為が、人格攻撃だと誤解され、批判から有益な結果がなかなか得られないという状況があります。(また、批判を人格攻撃だと誤解して、大声で糾弾したり、慇懃無礼にネチネチと責めたりして、その結果、歪曲した自己優越感を充たそうとする残念な人もいまだ存在することも事実です)。
さらに、英語教育界では、特にそういった傾向が強いのではないかということを、Tom Gally先生は『Web英語青年』の「ブログ ことばのくも」で述べておられます。
こうしてみますと、日本の英語教育界ではきちんとした議論がなかなか醸成されず、しばしば感情的な対立が引き起こされているのではないかという懸念は、まんざら的外れのものではないように思えます。
他方で私は、数多くの尊敬する友人・知人から「なぜ英語教育の学会では、みんなお利口さんのいい子で、議論が発展しないのだ」とこれまで何度も尋ねられてきました。学会内で議論が発展しないのは、ひょっとして上記の感情の爆発を恐れるがゆえ、みんな、きちんとした立論をすることを自制しているのかもしれません(そしてきちんとした立論をする少数者を少しずつ巧妙に排斥しているのかもしれません)。
そういった中、寺島先生は今回の本で、きちんと引用をした上で、可能な限り丁寧に立論をされているように思えます。私はこういった本の出版を契機に、ぜひ英語教育界でも良質なコミュニケーションが生じることを願っています。感情的対立でもなければ、体裁のいい黙殺でもない、議論が生じることが、日本の英語教育の健全化には必要だと思っています。というより、きちんとした議論をすることが、少しでも「知識人」と呼ばれる立場にある人間の社会的義務でしょう。
しかし、その際に確認しておきたいポイントがあります。それは制度内にいる者のコミュニケーションと、制度の外にいる者のコミュニケーションは、構造的な理由からしばしばかみ合わないということです。そしてこのコミュニケーションの齟齬は、制度内外のどちらかの者を悪者にすることによっては決して解決しないということです。以下、その「構造的な理由」を可能な限り説明してみます。
制度内の人間とは、たとえば大きな国家プロジェクトの推進責任者です。彼/彼女らには、個人的信念がどうであれ、そのプロジェクトを遂行する義務を負っています。彼/彼女らはその立場上、プロジェクトを否定することは言えません。
つまり制度内の人間は、個人として語っているのでなく、制度上の機能の一環として語っています。もちろん個人の信念と制度の要求がまったく乖離してしまえば、その人はその制度から辞任します。あるいはその人が個人の信念を制度の要求よりも大事なものとして行動すれば、組織はその人を解任します。ですが、そういった辞職や解任は、常識的に考えて頻繁に起こるものではなく、人はある制度内の役割を引き受けたら、通常はその制度の論理を前提として言動します。
そういった制度内の人間にとって、制度の外から制度を批判する者は、時におよそ勝手で無責任な人間であると思えてきます。そうして制度内の人間は、しばしば制度の外の人間からのコミュニケーションの試みを、黙殺したり、体良くかわしたりして無効化します。
これは制度の外にいる人間からすれば、およそ非人格的な行為に思えます。コミュニケーションの試みに、まともに向かい合ってくれないからです。しかし、制度内の人間は、一人の人格的存在としてではなく、制度上の機能として語っているわけですから、制度自体を否定する意見には、どうあっても賛成できないわけです。制度の外の人間は、そういった制度の内にある人間の制約を理解する必要があると私は考えます。
ですから、外からの制度批判と内からの反論というコミュニケーションは、原理的には人格的なコミュニケーションではありえません。制度の内と外の間でのコミュニケーションは、話題が制度の存廃に関するものである場合は、異なる言説の論理(コミュニケーション・システム)の間で交わされる、原理上折り合うことのできないコミュニケーションです。つまり合意に至ることのないコミュニケーションと言えましょう。
そこを下手に人格的な配慮で、「まあまあ」とやっていると制度の論理と批判の論理が崩れてしまいます。批判者が制度に懐柔されてしまいます。もし批判者の影響力が強ければ、制度が本来の目的からずれたものになってしまいます(あるいは内部者は二枚舌を使うようになります)。
それでは合意できないコミュニケーションを行なうことには意味がないのか? つまり、制度内の者はあくまでも制度を存続させようとし、制度の外の者は制度を壊そうとして、それぞれがそれぞれの立場から出ることができないのなら、コミュニケーションは無意味ではないのか、という疑問が生じます。
制度内の者が、制度否定に同意すれば、制度は壊れます。しかし制度内の者は、その機能的制約から、そういったことはできません(制度を否定する制度内の人間は辞職するか解職され、制度から出てしまいます。制度から出た人間は、その制度を内から止める権能を失ってしまいます)。
他方、制度の外の者は、制度存続が必然であるという前提を受け入れることができません。その前提を受け入れるなら、その人はラディカルな批判能力を放棄してしまうからです。それは自らの存在理由である自らの理性の否定です。
繰り返しますが、話題が制度の存廃にある場合、原理的に、制度の内と外の間でのコミュニケーションは合意に至りません。合意は、それぞれの存在の論理の否定です。合意することは、それぞれの言語ゲームのレパートリーにはありません。
ここでかえって合意しようとすれば、それは時に、制度外の人間の変節と豹変、制度内の人間の職務義務違反にしか終わらないのではないかというのが、私の見解です。それは制度外の人間の人格にとっても、制度が果たすべき機能にとっても残念な結果に終わりかねません。
かといって、合意できないなら、片方が他方をつぶすだけだと思い込むなら、制度の内と外の間のコミュニケーションは、お互いに負けられない立場同士での壮絶な闘いになり、コミュニケーションが理性的なものから逸脱し、いつしか醜い権謀術数の争いになりかねません。
それならどうすればいいというのか。
私の考えは、話題が制度の存廃である場合の、制度の内と外の間のコミュニケーションは、どちらかが「勝つ」こともお互いが同意することも目指さないままに、それぞれの立場から主張をし続けることが妥当な選択だというものです。
ですが、その際に二つのことが必要です。
一つは、制度内外の者が、それぞれに自分の立場や論理では決して受け入れることができない相手を、「他者」として尊重した上で、コミュニケーションを続けるということです。つまり制度内の人間は、制度外の人間を、自分の立場からすれば決して受け入れられないが、実は非常に重要なことを言っているかもしれない人間として、自らのシステムの外に存在することを歓迎するということです。自らを苛々させるしかない人間を、制度の外部に存在することが必要な人間として認めるということです。逆に制度の外の人間は、制度内の人間を、自分の理性からすれば決して容認できないが、社会をなんとか存続させるためには必要な仕事をしている人間だとして敬愛することです(これは何らかの秩序が保たれている状態は、無政府状態よりも好ましいという前提に基づいています。本日の議論ではこの前提を疑うことは割愛します)。自ら理解できない制度を運営している人間も、社会の存続のためには必要な人間として認めるということです。
これは制度の内外の人間にとっての倫理的な要請かと思います。しかし、制度内の人間もいつか制度外に出ることもあるでしょう。制度の外の人間が制度の内に入ることもひょっとしたらあるかもしれません。ですから、この倫理的な要請は、それぞれの人間の思考の幅を広げるという利点ももっていることは強調されるべきでしょう。
必要なことの二つ目は、勝敗も合意もないコミュニケーションを、熱心に見続ける観衆の存在です。このコミュニケーションにおいて、直接に発言しない観衆こそが真の自由を有しています。その自由が、適切な判断を可能にします。観衆は、発言しないからといって無力な存在ではありません。観衆こそが適切な判断を下しうる者であり、観衆の一人一人が各々の判断を語り始め、観衆の中でコミュニケーションが始まるときに、powerが生まれます。そしてそのpowerこそが民主政体の権力であり、民主主義ではその権力こそが現存制度の修正や廃止、新制度の創出を行なうことを許されているわけです。
制度の存廃は、制度内外の間でのコミュニケーションの勝敗によっては決定されません。なぜならそのコミュニケーションには、片方が他方を抹殺してしまわない限り、原理的に勝敗はあり得ないからです。制度の存廃は、そのコミュニケーションを見守る観衆の判断と、その判断に基づく観衆の間でのコミュニケーションにより行なわれます。観衆は無力な存在ではないのです。観衆が判断し、語り合ってこそ制度を改変する権力が生じるのです。新たな権力を生むのは制度存廃について議論する制度内外の人間ではありません。
かといって最初から観衆が権力をもっているというものでもないでしょう。制度外からの批判がなければ、観衆は制度の問題の存在にすら気がつかないかもしれません。また制度内からの反論がなければ制度の利点も理解できないかもしれません。なにより観衆が考え判断することを止め、語り始めなければ権力は発生しません。
つまり権力とは人々の「間(あいだ)」にあるといえます。コミュニケーションが、勝敗もつかず、合意も得られないままに継続することによって、言説は循環します。その循環の中で、数々の判断が形成され、その判断に一定の傾向が見られるようになったとき、私たちはそれを具体的な政治制度にします。
制度内の者だけが権力をもっているのではありません。制度の権力は、制度の外の人間に支えられているからです。制度外の者だけが権力を有しているのでもありません。制度内の人間が現行の制度を維持していなければ無政府状態となり、権力ではなく、むき出しの強制力や暴力がこの世を支配してしまうからです。基本的に沈黙を守る大多数の人も、その存在ゆえに権力をもっているわけではありません。数々の言説を聞き、考え、語り合わなければ、権力は生まれてこないからです。
権力は、自由な言説空間で、コミュニケーションが継続される中で発生します。発生した権力はやがて制度の形をとりますが、その制度が健全さを保てるのは、制度の内と外の間のコミュニケーションを許し、かつ他の人間にそのコミュニケーションを公開し、さらにはその観衆が自らの判断を下し、その判断を口にするというコミュニケーションがある限りにおいてです。
つまり権力は、常にコミュニケーションと共にあらねばなりません。コミュニケーションを許さない権力はしばしば恣意的な強制力そして暴力に転じてしまうことは歴史が教える通りです。
英語教育においても、自由で良質なコミュニケーションを通じて、健全な権力が発生し、修正されながら循環してゆくことを願う次第です。
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悪癖というのはなかなか治らず、本日も衝動的に文章を書き連ねました。これをもとに、もう少し自分で考えを整理したいと思います。
なお、誤解される方もいないと思いますが、上の論考は一般的なものであり、具体的に特定の誰かを指したりしているものではありません。
今回の論考では、異なるシステム間でのコミュニケーションは合意に至らないという点で
ルーマン、理解不能なものを「他者」として受け入れる点で
レヴィナス、「観衆」の判断の重要性を訴える点で
アレント、言説が循環する点で
フーコーの影響を受けましたが、これらの理解も、私の誤解に満ちたものかもしれません。現実をより的確に理解するために、抽象的な理論をこれからも学び続けてゆきたいと思います。
また今回の試みは、「差異を前提としたコミュニケーション」が必要であることを訴える上で、以前に書いた拙論「
現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」とつながっていることも付記させていただきます。
10/11のシンポジウムでお会いできたら幸いです。
追記以上を書き終えて、自分なりに、わかりやすく要約を試みました。おそまつ。
要約
■制度内の人間は制度を否定するようなことは決して言わない。
■したがって制度の存廃に関わる議論では、決して制度内の人間は負けるわけにはいかず、負けないためにはあらゆる手段を使う。
■他方、制度外の人間は現行制度を新制度に変えるための制度的権限も具体的ノウハウももたない。
■したがって制度外の人間が、制度の存廃に関わる議論に勝ったとしても、それはその場かぎりの勝利に終わる。
■ゆえに制度の存廃に関わる議論は基本的に勝ち負けがつかない構造になっているし、仮に制度外の人間が勝っても、それが制度改革にはつながるとは限らない。
■しかし制度内外の者がお互いに議論をしなければ、制度の改廃の検討すらできない。
■重要なのは議論を見聞きする観衆である。観衆こそはもっとも自由な立場にいる。その立場からの判断を観衆が語り合えば、そこから自然なpowerが発生する。そのpowerこそが制度の改廃を実行できる権力になりうる。
■民主主義制度においては、権力は常に人々の間の自由な議論と共にあらねばならない。