2015年9月29日火曜日

「コミュニケーション能力と英語教育」 (2015年度)


この記事について:学部三年生用の授業「コミュニケーション能力と英語教育」 (木曜1/2限 K208教室) のためのファイル・リンク集です。内容は昨年度の内容を一部修正(「神経科学の意識論」と「ルーマンの意味論とコミュニケーション論」を追加)したものです。


なお私は「言語コミュニケーション力」 (ability for linguistic communication) という言い方が理論的には適切ではないかと(少なくとも現在のところ)考えていますが、この用語は人口に膾炙していないので、新しい授業名でも、一般的に 通用している「コミュニケーション能力」 (communicative competence) という用語を使いました (また商業的出版物においてもしばしば私はわかりやすさを優先させるため、この「コミュニケーション能力」という用語を使っています)。しかし私があくま でも興味をもっているのが言語 (特に第二言語) を主な媒体としたコミュニケーションです。「コミュニケーション」の媒体は言語に限らず、モノや商品やお金、あるいは突き蹴りや投げ(笑)もありますので ご注意を。







・凡例:記事・論文・書籍の名前の前に付けられた■、▲、★の記号はそれぞれ次のような意味を持っています。

■ 授業の前にきちんと読んで、そのまとめや感想などをBb9システムに書いておくべきもの(四角ですから「きちんと読め」と覚えて下さい)。

▲ 授業の前に参考程度に読んでおくべきもの(三角ですから、四角ほど「四角四面に読む必要はない」と覚えて下さい)。

★ S(秀)判定のための課題例(星印ですから「輝くSを取るためのもの」)と覚えて下さい。



評価方法に関しては、以下をお読み下さい。



2013年度後期から私の授業ではポートフォリオ評価を導入します。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/2013.html


なお、Sを取る(あるいは成績を一段階上げる)ためには、以下の記事を読んで下さい。書評の本はこのブログ記事の★印の本や自分で面白いと思った本を選んで下さい。

自主性を開拓するために ―書評かプロジェクトに挑戦してみてください―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/blog-post_08.html



・ダウンロード資料について:ダウンロードする資料で、引用が多いものは、公開すると著作権法にふれますから、授業を受けた人にだけパスワードを教えます。パスワードは授業の受講者以外には教えないでください。なお、著作権法にふれるおそれのないダウンロード資料にはパスワードはかけていません。



・授業の予習と復習:(a)予習として、この記事に指示された文献を読み(■は必須。▲は速読。★は意欲があれば読む)、そこで考えたことや感じたことをBb9システムに書きこむ。(b)授業中は講義を 聞いてできるだけ討論をする。(c)復習として、授業後に考えたことやBb9に書きこむ ― これらの日々の読み書きがポートフォリオの素材となります。

なおBb9に投稿をする際は、いきなりBb9上に書き込むのではなく、いったんエディター やワープロで文章を完成させてからそれをコピーしてBb9に貼り付けてください。前者の方法ですと、誤って未完成原稿を投稿しあとで削除でき なくなったりすることがありますし、後者の方法ですと、自分で文章をじっくり読んで推敲できます。後者の方法でお願いします。

また、優れたコメントや作品については、みなさんの名前を匿名化した上で、私のブログやツイッターで紹介させていた だくことがあります。そういった公開に適さない内容を書いた場合は、その旨を書いておいて下さい(なお、Bb9を部外者が見ることはできませんが、この授 業の受講者は全員見ることができます)。

※たくさん読んで、考えて、書くことは大変ですが、それこそが勉強です。大学時代にしっかり勉強して下さい!皆さん の先輩方も以下のリンク先ページを見ていただけたら明白なように、読み・書き・考えることを続けることで、優れた観察力・分析力・思考力そして文章力をつ けました。今年もお互いいい学びの共同体を作りましょう!


BB9の使い方を知らない人は以下のスライドを参照しておいてください。



なお、私の講義の原則を下にまとめています。振り返りの言語化を重視します。






講義の流れは、(a)言語学・応用言語学の個人心理学的なコミュニケーション能力論の総括、(b) 身体や意識の観点からのコミュニケーション能力論の導入、(c) 「社会」の観点からのコミュニケーション能力論の展開、というものです。





イントロダクション (および、部分への分析と全体の統合について)

(a) 言語学・応用言語学の個人心理学的なコミュニケーション能力論

カントとチョムスキー

応用言語学のコミュニケーション能力論

コミュニケーション能力の三次元的理解


(b)身体や意識といった観点からのコミュニケーション能力論

ウィトゲンシュタインのコミュニケーション論  (1) と (2)
レイコフとジョンソンの認知意味論
野口三千三と竹内敏晴の身体論
日本の身体論(竹内敏晴、野口三千三を中心に)
神経科学の意識論


(c) 「社会」の観点からのコミュニケーション能力論

ルーマンの意味論とコミュニケーション論
アレントのコミュニケーション論
異文化間コミュニケーションとしての翻訳

時間があれば

ヤーコブソンのコミュニケーション論





ちなみに以下は2008年時点での私の総括です。読んでみてください。

▲ 言語コミュニケーション力論の構想
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_01.html

大学院で私が担当する講義では、このコミュニケーション能力論をさらに発展させながら英語教育について根源的に考えてゆきます。2015年度は次の本を読んで、お互いに考え話し合っています。

★ Index to pages about Critical Applied Linguistics
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2010/10/index-to-calx-pages.html
★ Index to pages about Alternative Approaches to Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/index-to-pages-about-alternative.html
★ John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html





授業では特に取り上げませんが、コミュニケーション(および言語)に関する副読本としては以下をお薦めします。

★ 末田清子・福田浩子(2003)『コミュニケーション学』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/02/2003.html

★ 小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012.html

▲ 『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060307

★ 野矢茂樹・西村義樹 (2013) 『言語学の教室 ― 哲学者と学ぶ認知言語学』 (中公新書) 








▲ 2011年度の学生さんのレポートから
「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」の感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/2011.html
「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」での学生さんの様々な気づき
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/2011_19.html
学生さんによる物語論・身体論・授業論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_19.html
学生さんによる、スポーツから考える英語教育論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_6281.html
学生さんによる、音楽から考えるコミュニケーション論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_8814.html
学生さんの哲学的な文章(「「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」を受けて)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/2011_9057.html

▲ 2010年度の学生さんのレポートから
英語授業を具体的に分析し、自省する
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/blog-post_19.html
英語教師であるということはどういうことか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/blog-post_4340.html

▲ 2009年度の学生さんのレポートから
言語コミュニケーション力論とCritical Applied Linguisticsについて
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/02/critical-applied-linguistics.html






第1回:はじめに

まず、和田玲先生という中堅実力教師のワークショップを観察した記事を読んで下さい。特に、「なぜ『つながる』ことはよいのか?」の項目は丁寧に読んで下さい。

■和田玲先生(順天中学・高等学校)から学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/02/blog-post.html

次に上記の記事との関連記事を読んで下さい。ただし(注)以下は武術ヲタ用ですので、読まなくて結構です。

■授業の「正中線」?
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/09/blog-post_23.html

また、極端な事例のように思えるかもしれませんが、教室でのコミュニケーションを考えるために、次の記事を読んで下さい。

■ 教育現場で「よく観察し、よく考える」こと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/07/blog-post.html

■岩本茂樹『教育をぶっとばせ --反学校文化の輩たち--』文春新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/05/blog-post_27.html

次に、皆さんの先輩が、学校現場でどう豊かなコミュニケーションを取りながら活躍しているかについて読んでみましょう。

■教師と生徒の相互理解と相互認証 ― 広島大学英語文化教育学会での齋藤智子先生の発表
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/blog-post.html



この授業では、言語コミュニケーション、そしてそれを可能にしている として私たちが想定しているコミュニケーション能力について様々な観点から検討します。一見難しく思える話題もあるかもしれませんが、できるだけわかりや すく解説します。一緒に考え、語り、書いて、観察力・分析力・思考力を上げて、それによって実践力を高めて、お互いによい社会を作れるように努力しましょ う!



さて、コミュニケーション能力ですが、少なくともみなさんは、それを 英語授業において育成する教育方法について他の授業で習ってきたはずです。多くの教育方法では、ねらいをできるだけ明確に定め、そのねらいを達成するため に必要なのは何かを分析し、その分析に基づき教示 (instruction) や訓練 (training) や練習 (exercise) や活動 (activity) をします。教育方法の中には、その効果が「実験で証明された」と喧伝されているものもあります。この授業でも、いろいろな分析の仕方を導入します。分析は 私たちの近代生活にとって必要不可欠な知的活動です。

しかし、最初にお断りしておきたいのは、分析に基づく方法にも限界があるということです。「分析」に対しては「統 合」、「部分」に対しては「全体」が対概念となりますが、対概念抜きに分析と部分ばかりで考え行動してゆくと失敗します(逆に統合と全体にしか大切にせ ず、分析と部分を毛嫌いしてもうまくゆきません ―天才と呼ばれる人たちは分析と部分について考えずとも物事をすいすいやってのけることができますが、ここでは私たちはみんな凡人であるとして話を進めま す)。

次の記事を読んで、皆さんがこれまで学んだ、分析に基づく部分の教示・訓練・練習・活動などをうまく相対化してください。

■ 教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/blog-post_7.html

■ 全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html

▲ 科学者の見識と科学の限界の可能性について ―E. O. ウィルソンの『人間の本性について』から考える―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/e-o.html

▲ 「実験研究は成功を連呼するのに、英語教育が一向に改善しないように見えるのはなぜなのか」という素朴な問いに対する答えの試み
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_22.html

▲ 農業はわずか2世代で工業化し投資の対象となった。では教育は?
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/2.html

▲ 自然栽培的な教育? ― 杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』幻冬舎新書を読んで
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/2013.html

▲ 「研究力強化に向けた教員活動評価項目」への回答前文
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/09/blog-post.html








第2回:カントとチョムスキー

■「カントとチョムスキー」(授業用スライド)
https://app.box.com/s/8uvu4tozlshdsu9yn57c
■ 「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/blog-post_5.html
■チョムスキーに関するファイル(パスワード必要)
https://app.box.com/s/jbzfsxndbnukblpwrmqz
■「文法をカラダで覚える」とは何か
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4664.html

参考文献
★Chomsky, N. 1965. Aspects of the theory of syntax. Cambridge, Massachusetts: The MIT Press (第一章のセクション1,2,8のみ)
★Marc D. Hauser, Noam Chomsky and W. Tecumseh Fitch
The Faculty of Language: What Is It, Who Has It, and How Did It Evolve? http://www.sciencemag.org/content/298/5598/1569.short
★レイ・ジャッケンドフ(2004)『心のパターン』岩波書店
★レイ・ジャッケンドフ(2006)『言語の基盤―脳・意味・文法・進化』岩波書店
★1 Introduction and Key terms - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/introduction-and-key-terms-summary-of.html
★2 Transcendental ideas - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/transcendental-ideas-summary-of-kants.html
★3 'I' as the transcendental subject of thoughts = X - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/i-as-transcendental-subject-of-thoughts.html
★4 Freedom - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/freedom-summary-of-kants-critique-of.html
★5 Principle of Pure Reason - Summary of Kant’s Critique of Pure Reason (Kritik der reinen Vernunft)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/principle-of-pure-reason-summary-of.html







第3回:応用言語学のコミュニケーション能力論

■ Hymes, Canale & Swain, Widdowson and Bachman & Palmer (授業用スライド:パスワード必要)
https://app.box.com/s/vc1iqyoufo4ifpehf7v5
■ Hymes, Canale, Swainの論に関するファイル(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/7en2j1cs8l
■ 教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/10/blog-post_4057.html
■ WiddowsonとBachmanに関するPDFファイルのダウンロードはここ(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/2hhexdlyt0
▲ バックマンのCommunicative Language Abilityの図のダウンロードはここ(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/f08jx75sc2
▲ バックマンのLanguage Competenceの図のダウンロードはここ(パスワード必要)
https://app.box.com/shared/ccjro3phbc
■ バックマンとパーマーの2010年に関する記事は
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/bachman-and-palmer-2010-describing.html
この短いNTYのエッセイは非常に啓発的です。
■ Measurement and Its Discontents
http://www.nytimes.com/2011/10/23/opinion/sunday/measurement-and-its-discontents.html

参考文献
★Hymes, D. 1972. On Communicative Competence. In J. Pride and J. Holmes (eds.), Sociolinguistics: Selected readings (pp. 269-93). Harmondsworth: Penguin.
★Canale, M. and Swain. M. 1980. "Theoretical bases of communicative approaches to second language teaching and testing." Applied Linguistics, 1 (1): 1-47.(セクション1と3のみ)
★Canale, M. 1983. From communicative competence to communicative language pedagogy. In J. C. Richards and R. W. Schmidt (eds.), Language and Communication (pp. 2-27).  London: Longman.
★Widdowson, H. G. 1983. Learning purpose and language use. Oxford: Oxford University Press.(第1章のみ)
★Bachman, L. F. 1990. Fundamental considerations in language testing. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
★Bachman, L. F. and Palmer, A. S. 1996. Language testing in practice. Oxford: Oxford University Press.(第4章のみ)
★Bachman, L.f. and Palmer, A.S. 2010. Language Assessment in Practice. Oxford: Oxford University Press. (第3章のみ)







第4回:コミュニケーション能力の三次元的理解

■ 授業スライド:コミュニケーション能力の三次元的理解
https://app.box.com/s/8tpkdkyzrtzoxkt6702m
■ 中学三年生向けの言語コミュニケーション力論
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/11/blog-post_18.html
■ 「学校英語教育の見通し」(パスワードが必要です)
https://app.box.com/shared/rz8lkgkj4i
■ 『日本言語テスト学会』論文
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html







第5回と第6回: ウィトゲンシュタイン

■ 授業用スライド
 https://app.box.com/s/yfpb7o8j8jbsrv26lbfe

■ 「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/blog-post.html

■ ウィトゲンシュタイン『哲学的探究』の1-88節-- 特に『論考』との関連から
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/1-88.html

▲ 野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/01/2006.html

■ 鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951』講談社現代新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2003-1912-1951.html

■ ジョン・M・ヒートン著、土平紀子訳 (2004) 『ウィトゲンシュタインと精神分析』(岩波書店) (2005/8/3) 
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2004-5.html#050803

■ ウィトゲンシュタインに関するファイルをダウンロード(パスワード必要)
https://app.box.com/s/uz2839935sszn8597nsx

▲ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2005.html


参考文献

★永井均(1995)『ウィトゲンシュタイン入門』ちくま新書





★鬼界彰夫(2003)『ウィトゲンシュタインはこう考えた-哲学的思考の全軌跡1912~1951 (講談社現代新書)』講談社現代新書





★飯田隆(2005)『ウィトゲンシュタイン』講談社






第7回:レイコフとジョンソンの認知意味論



■授業用スライド
 https://app.box.com/s/ysv9ab7qwmtkuacqb6k4
■ 身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html

■ ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html

■ マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

■ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html

■ レイコフとジョンソンによる「客観主義」と「経験基盤主義」に関して寄せられた学部生コメント
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/01/blog-post.html 



参考文献

★ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン(1986)『レトリックと人生』大修館書店、もしくはこの原著Metaphors We Live by







★ ジョージ・レイコフ(1993)『認知意味論―言語から見た人間の心』紀伊国屋書店、もしくはこの原著Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal About the Mind
 







★ マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心のなかの身体 』紀伊国屋書店 もしくはこの原著The Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reason



★ ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン(2004)『肉中の哲学―肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』哲学書房、もしくはこの原著Philosophy In The Flesh












第8回:野口三千三と竹内敏晴の身体論

■授業投影スライド(パスワード必要)
https://app.box.com/s/njl8k8uz6svm3gihg7d752s3wuarmhg1

■竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html
■竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_18.html
■「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/ss.html
■野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html
■和田玲先生による「原初体験と表現の喪失」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post.html
■3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/34.html
■京都講演に対する松井孝志先生のコメントを受けて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/03/blog-post_06.html
★竹内敏晴に関するファイル (パスワード必要)
https://www.box.com/s/7da4jzanu85qve930tmq
★野口三千三に関するファイル (パスワード必要)
https://app.box.com/s/dfd55pysamtzw4dq8h0o

▲田尻悟郎先生の多声性について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html
▲平田オリザ先生のワークショップに参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/01/blog-post_17.html
▲Do not let mind mind mind (Yes, deconstruction is what Zen is about)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/07/do-not-let-mind-mind-mind-yes.html
▲Movement of Budo (martial arts) and Luhmann's systems theory
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/04/movement-of-bodo-martial-arts-and.html
▲Comparing Foreign Language Communication to Budo (Martial Arts)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/03/comparing-foreign-language.html

参考文献
★竹内敏晴(1988)『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)(初版は1975年に思想の科学社から出版)
★竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫 (竹内敏晴(1982)『からだが語ることば』評論社、と竹内敏晴(1983)『ドラマとしての授業』評論社に数篇を加え、新たに編み直したもの)
★竹内敏晴 (2001) 『思想する「からだ」』晶文社
★竹内敏晴(2009)『出会うということ』藤原書店
★竹内敏晴 (2010) 『レッスンする人』藤原書店
★野口三千三(2003)『原初生命体としての人間 野口体操の理論』岩波書店・岩波現代文庫(1972年に三笠書房より出版。1996年に改訂版が岩波書店・同時代ライブラリー版として出版)
▲野口三千三(1977)『からだに貞く』柏樹社
▲野口三千三(1979)『おもさに貞く』柏樹社
▲羽鳥操(2002)『野口体操 感覚こそ力』春秋社
▲羽鳥操(2003)『野口体操入門』岩波アクティブ新書
▲羽鳥操(2004)『野口体操 ことばに貞く』春秋社
▲羽鳥操・松尾哲矢(2007)『身体感覚をひらく』岩波ジュニア新書

竹内敏晴氏の主要作品は、現在4巻本の『選集』で読むことができます。ご興味のある方は品切れになる前に入手されることをお勧めします。









第9回: 神経科学の意識論

※後日資料を掲載します。学習文法についての資料も掲載予定です。




第10回:ルーマンの意味論とコミュニケーション論

※後日資料を掲載します。




第11回: アレントのコミュニケーション論


■スライド
https://app.box.com/shared/oh69hm6b35

■ アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418
■ 「人間らしい生活--英語学習の使用と喜び」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_31.html

■ E・ヤング=ブルエール著、矢原久美子訳 (2008) 『なぜアーレントが重要なのか』みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/e-2008.html
■ 仲正昌樹 (2009) 『今こそアーレントを読み直す』 (講談社現代新書)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2009.html

■ 人間の条件としての複数性
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_8473.html
■ この世の中にとどまり、複数形で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post_24.html
■ 「政治」とは何であり、何でないのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_11.html
■ アレントによる根源的な「個人心理学」批判
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post.html
■ 世界を心に閉じこめる近代人
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_1835.html
■ 欠陥商品としての「考える」こと
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/blog-post_16.html

関連して、バトラーに関する次の二つの記事も読んで下さい。
■ ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2008.html
■ ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2004.html
さらに
■ 「現代社会における英語教育の人間形成について―社会哲学的考察」を読んでください。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/pdf.html
ついでに
■ 「当事者が語るということ」もどうぞ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

▲西洋哲学の寵児の政治的判断
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_10.html
▲人間、ハンナ・アレント
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/blog-post_12.html
および
▲アレント哲学の枠組みの中での「芸術」の位置づけ:エクセルファイルの概念図
https://app.box.com/shared/lseur17j1e
映画『ハンナ・アーレント』予告編

http://www.cetera.co.jp/h_arendt/





第12回: 当事者研究とオープンダイアローグから考えるコミュニケーション論


■ 授業用スライド
https://app.box.com/s/s1w8wiskeh46d7xi2eipfzqg4p1y744q

▲ 浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

■ 浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

■ 当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

■ べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

▲ 綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

★ 熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

■ 石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html

■ オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/poetics-of-open-dialogue.html

■ オープンダイアローグでの実践上の原則、および情動と身体性の重要性について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/12/blog-post.html

■ オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/emotional-attunement.html

■ オープンダイアローグにおける「愛」 (love) の概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/01/love.html




第13回:異文化間コミュニケーションとしての翻訳


■文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ―「は」の文法的・機能的転移を中心に
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_29.html
■伊藤和夫『予備校の英語』研究社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1997.html
■純粋な「英語教育」って何のこと? 複合的な言語能力観
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_7354.html
■翻訳教育の部分的導入について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_26.html
■水村美苗『日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008_16.html
■藤本一勇『外国語学』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2009_18.html
■内田樹 (2012) 『街場の文体論』 ミシマ社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/09/2012_10.html
■イ・ヨンスク『「国語」という思想』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1996.html
■イ・ヨンスク『「ことば」という幻影』明石書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2009.html
■橋本治『言文一致体の誕生』朝日新聞出版
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2010.html
■安田敏郎『「国語」の近代史』中公新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/09/2006.html
■オメの考えなんざどうでもいいから、英文が意味していることをきっちり表現してくれ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/10/blog-post_21.html
■「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/blog-post_28.html
■Vivian Cookの「多言語能力」(multi-competence)は日本の英語教育界にとっての重要概念である
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/11/vivian-cookmulti-competence.html
■Some excerpts from the Website "multi-competence" by Vivian Cook
http://yosukeyanase.blogspot.com/2011/11/some-excerpts-from-website-multi.html
■木村敏(2010)『精神医学から臨床哲学へ』ミネルヴァ書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/2010_08.html
■山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/12/blog-post_736.html
■国立国語研究所講演:単一的言語コミュニケーション力論から複合的言語コミュニケーション力論へ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_16.html
▲国立国語研究所での招待講演の音声と補記
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_20.html
▲日本語の危機とウェブ進化/水村美苗+梅田望夫
http://www.shinchosha.co.jp/shincho/tachiyomi/200901_talk.html
▲After Babel
http://yosukeyanase.blogspot.com/2010/08/after-babel-aspects-of-language-and.html
▲ジェレミー・マンディ『翻訳学入門』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2009.html
▲山岡洋一先生の翻訳論
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/06/blog-post_9410.html
▲山口仲美『日本語の歴史』岩波新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2006.html
▲福島直恭『書記言語としての「日本語」の誕生』笠間書院
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008.html
▲Googleが変える検索文化と翻訳文化
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/05/google.html
▲参考スライド
ポスト近代日本の英語教育―両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/blog-post_20.html





第14回:ヤーコブソンのコミュニケーション論

■ コミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長 (ブログ記事)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/06/blog-post_26.html

■ コミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長 (スライド)
https://app.box.com/s/2e3karvztbaudym4tgeb
■  Jakobson (1960) Linguistics and Poeticsを読む
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/06/jakobson-1960-linguistics-and-poetics.html

■コミュニケーションとしての授業: 情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルから考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/6.html

■小山亘(2012)『コミュニケーション論のまなざし』三元社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012.html

■ コミュニケーションに関するヤーコブソン・モデルの展開 (論文)
https://app.box.com/s/mj5nf4fhzhjd3ocy486e

▲ ヤーコブソン
http://en.wikipedia.org/wiki/Roman_Jakobson
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロマーン・ヤーコブソン





月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。












あなたが使うことば ― これがあなたの人格を形成します。
あなたの人間関係も、あなたが生きる社会も形成します。

ことばを豊かに丁寧に使うことによって、あなたの平安がもたらされます。あなたの仲間の平安も、あなたの社会の平安も。

粗雑で無思慮なことばは、あなたをかき乱してしまいます。あなたの仲間も、あなたの社会も。


教育の大切な目的の一つは、ことばを適切に使えるようにすることです。

この意味で、2015年6月8日の文部科学大臣通知は、経団連すらからも批判されるように、短見浅慮の極みとしかいえません。教員養成系学部・大学院や人文社会科学系学部・大学院について「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」というこの方針は、社会や文化や人間に対する洞察を欠いたものです。



しかし現在の人文系・教育系・社会系などでは、十分にことばが育てられているでしょうか。


あやしいのではないかと私は思っています。



なるほど専門用語をふりまわすことは覚えるかもしれません。(教育界では専門用語というより業界用語と言うべきでしょうか)。しかし、それらの用語は空回りし、私たちの実感から乖離していないでしょうか。


そもそも教養を身につけるため ―人間の営みについて広く深い洞察を得るため― の読書という文化が廃れはじめています。


現代の私たちの多くが熱心に見ているのはスマホの画面です。


狭い世界だけで完結しているSNSの他愛のない話や、扇情的で一方的なウェブ記事などばかりが読まれます。

そこで使われていることばの多くは平板で惰性的です。単純化された感情が表明されても、微細な情感の深まりはありません。自己完結的な正義に終始する大声はあっても、矛盾を含んだこの世界を落ち着いて語る含羞のある声がありません。

人間が文字文明を始めて以来、思慮深く書かれた本を、静かな心で丁寧に理解する読書という文化は大切にされてきました。

しかしインターネットの普及で、ひょっとすると「悪貨は良貨を駆逐する」といわんばかりに、読書文化が廃れてしまうかもしれないという懸念があります。

あなたの生活でも、ラインやフェイスブックばかりに追われて、読書の時間がどんどんなくなってきていませんか?



そこで、みんなで集まって、静かに読書をする時間と場所を創ることにしました。

やることは単純で、自分が読みたい本を持ってきて読むだけです。


既に試行的に何度かやっていますが、複数の人間が集まって静かに読書に集中する時空を味わうことは、一人ではなかなかできないことです。

最後の五分ぐらいで、それぞれが読書から感じたことや考えたことを語り合う時間も設けます。

少々遅刻してきたり早退してもかまいません。お昼ごはんを食べながらの読書でもかまいません。どうぞ昼休みの読書 ― 「昼読」 ― にご参加ください。


とりあえず教英生を中心に呼びかけていますが、広大生なら誰でも歓迎です。



毎週月・水・金の12:05-12:45に、教育学研究棟K207教室で読書をします。(祝日や特別行事がある日は開催しません)。

追記: 11月より、水曜日だけはA212で開催しています。


月曜日は英語です。教科書・問題集・単語集など以外で、自分が自分の感性で選んだ英語の本を読んでゆきます。ペーパーバックでもGraded Readersでもかまいませんし、新聞や雑誌でもかまいません。要は、授業や資格試験に直結していない、自発的な英語読書なら何でも結構です。

水曜日は日本語文学です。思考の基盤になる第一言語の力を耕すために、もっとも創造的な言語使用をおこなっている文学作品を読みます。評論や自然科学書も大切ですが、この読書会では「無用の用」の文学作品を読んでゆきます。古典でも現代作品でも、純文学でも大衆文学でも、日本語に翻訳された外国文学作品でもかまいません。

金曜日は第二外国語です。第二外国語はまだ読書を楽しむ力がついていない場合が多いでしょうから、文法書などを読んだり問題集を解いたりしてもよいことにします。よくわからない箇所はお互いに質問しあいましょう。試行的にはドイツ語を学ぶメンバーで集まって昼読しましたが、ドイツ語以外の第二外国語を学びたい・読みたいメンバーも歓迎します。

と、月・水・金の原則を立てましたが、もしどうしても都合が合わない人は、異なる曜日の内容の読書をしてくださってもかまいません。読書の習慣を形成することを優先したいからです。


これまで人々が積み重ねてきた豊かなことばを継承し発展させて、自他共に豊かな人生を送れるような社会づくりを目指したいと思います。派手な集まりではありませんが、ぜひご参加ください。

本格的に開始するのは10月からです。月・水・金の昼休みにK207でお会いしましょう。



2015年9月20日日曜日

「スーパーグローバル」と「スーパーナショナル」

  以下の文章は、三友社『新英語教育』2015年8月号の23ページに、「どうする日本の英語教育」のシリーズ第17回目として "「スーパーグローバル」と「スーパーナショナル」" という題名で掲載していただいた私の文章です。出版から少し時間がたちましたので、編集部との予めの合意に基づき、このブログにも掲載します。

  「グローバル化」につきましては、大修館書店『英語教育 2015年6月号』の91ページに、"「グローバル人材」再考  ―言語と教育から日本の国際化を考える"(西山教行・平畑奈美編 くろしお出版)の書評を書かせていただいた際にも短く私見を述べました。この本や拙稿も合わせてお読みいただけたら幸いです。
 


*****


「スーパーグローバル」と「スーパーナショナル」



  日本通の英語話者によく「superglobalって何のことだ」とニヤニヤして尋ねられる。文部科学省が推進する「スーパーグローバル大学等事業」の表現のことだ。接頭辞super-の基本的意味はabove or beyondだから、彼らが意味不明だとするのも無理はない。関西人なら「Globeを超えてしまって、君たちどこへ行くねん。あんたら宇宙人か!」と突っ込むところだろう。これが英語としては通用していない表現であることを知ってか、日本学術振興会はホームページでこの事業のことをTop Global University Projectと翻訳している。

  だがsuper-には「機能が徹底した」という比喩的意味もある。Supercomputerがその一例である。「スーパーグローバル」の唱導者もおそらくは「グローバル化を強く推進している」ぐらいの意味を込めたかったのだろう。

  しかし文科省による通知でも日本学術振興会の説明でも、この事業は「我が国の高等教育の国際競争力の向上を目的に」行われるものと説明されている。国の事業だから当たり前とも言えるが、大学は本来、国や私人の利益を超えて真理を追求するまさにグローバルなネットワークを基盤としている組織であることを考えると、国家間での競争という発想には少々違和感を覚える。たしかに大学は、直接的には各国の税金や学生の授業料などで運営されている。しかし大学の研究活動(およびそこから生み出される教育活動)の根幹は、国や私人の利益を超えて人類規模の協力と協調で蓄積されかつ更新され続けている知識である。そうすると大学についてあまり国家意識を強調するのもどうかと思う。

  だがこの4月、下村博文文科大臣は、参院予算委員会での安倍晋三首相の発言を受け、国立大学に対し、入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱の実施を要請することを明らかにした。あくまでも強制ではないと大臣は言うが、所管官庁の要請がしばしば圧力に転化するのは世の常である。ましてや近年は大学への運営交付金が年々確実に減らされ、大学は重点配分を欲しがっている(スーパーグローバル大学の事業もまさに重点配分である)。そうなるとこの発言は「要請」よりも強い効果をもちかねない。

  この国家意識の強調は、「グローバル化」の一つの解釈から生じているのかもしれない。「グローバル化」は英語教育界でも重要概念として使われるから、ここで簡単に確認しておこう。

  その一つの解釈というのは、グローバル化を世界の等質化として捉える解釈だ。冷戦終結と情報革命により、世界中が資本主義によって包摂されたとする考えである。もちろんその包摂に抵抗するように、それぞれの国や地域は文化的アイデンティティを主張しようとする。だが、世界の基本構造は資本主義に等質化されたとするのがこの解釈である。日本という国家が資本主義(およびそれに奉仕する科学)の競争に勝つこと、および「日本人」としてのアイデンティティの重要性を強調する文科省(あるいは安倍政権)も、この解釈をとっているのだろう。そうならば「スーパーグローバル」は、むしろsupernationalと解釈した方がわかりやすい。だがbeyond nationalismではない。ナショナリズムの徹底という意味だ。そう考えると「スーパーグローバル」に国家主義が見え隠れすることが納得できる。

  しかし等質化だけがグローバル化の解釈ではない。もう一つの解釈は、世界の急変性・複合性・多様性の進行だ。情報の流れが速く多種多様になり、思いもかけない組み合わせによる、これまでにない変化が次々に生じるのがグローバル化という解釈だ。資本主義や英語の影響力の強さは認めつつも、それらが世界の共通枠組みだとは考えない。ナショナリズムに拘っていれば諸問題は解決しない(むしろ悪化しうる)とも考える。英語教師としてのあなたの「グローバル化」の解釈はどちらだろうか。

写真というコミュニケーションの試み


写真共有サイトFlickrを始めて今日でちょうど一年になる。
https://www.flickr.com/photos/yosukeyanase/

ここ一年半あまり、ほぼ毎日写真を撮っている。

たまに行事や式の写真係となり、ズームレンズとオートフォーカスを駆使して一日何百枚も撮ることがあるが、たいていの場合は、朝の出勤途中20分程度寄り道をして道端の草花や木々を撮っている。それだけだ。

最近のお気に入りはマニュアルレンズで、焦点を合わせている間、私は何も考えずに、ただひたすらファインダー越しに焦点を合わせている。合焦を通じて対象と私が一つになったように感じられる瞬間を探している。ニコンD600なら「カシャン」、D7200なら「カシャッ」とやや硬い音、富士フィルムX-T1なら「パッシュ」とやや弱い音でシャッターがおり、撮影が終わる。


撮影の時間は私にとってとても親密なものだ。

通勤途中に「あっ、」と思うと自転車を降りる。カメラを構える。対象に魅入られ、その魅力を一番表せる構図を探し、焦点を合わせる。


「コミュニケーションとは何か」という問いに対して、私はかつてルーマンのコミュニケーション論に基づきながらポンコツな定義を試みた。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/03/jopt.html

今なりに言い直すなら、「両者が、自分が相手を受け入れられないとせず、そうかといって自分が相手を思い通りにするともせず、相手の存在と反応を受け入れ、自分の思いではなく、相手のその存在と反応を自分の存在と反応の基盤とし続けること」というのが私なりのコミュニケーションの定義となるかもしれない。

上の定義ではもちろん「両者が」という箇所が重要で、その「両者が、・・・」以後を一方だけがやってもそれはコミュニケーションにならない。それは、いわば片思いにすぎないのだが、そうなると私はほぼ毎日片思いをしているのかもしれない(苦笑)。

写真撮影のマナーの一つとして私は対象を動かしたりはしない(特に自然を破壊するようなことは断じてしない)。私が魅入られた対象は、時に撮影しにくい場所にあり、私はそれをなんとか構図に入れようと歩きまわる(私は個人的に写真を撮る時にはほとんど単焦点レンズを使い、ズームはほとんど使わない)。

私は対象を思いのままに撮影しようとは決して思わない。もし私が「思った通りの写真」を撮りたいとばかり思っていたら、私は対象の個性を私の思い込みで潰すだろう。何を撮っても同じような写真ばかりを量産し、やがては自分の思いに窒息してしまうだろう(そして写真という趣味から離れるだろう)。

だから私はできるだけ自分が動いて対象を撮影する。実際には「撮影しても、対象の個性を活かす写真が撮れない」と判断し撮影を止めることもあるが ―なにせ撮影は出勤途中の短い時間である―、その判断はたいていの場合、カメラを向ける前に行っている。私は再び自転車をこぎはじめる。

しかしいったんカメラを向けたら、私は動きまわり、カメラの角度を変え、焦点を合わせ、対象と私にとっての最適の時空を見出す。見出したことは「カシャン」、「カシャッ」、「パッシュ」、という音が教えてくれる。


これが私のコミュニケーションの試みである。それは写真という形に結実する。写真は時にファインダー越しに私が感じていた予感を超えており、私でも驚くことがある(もちろん駄目な写真しか撮れなかった方がはるかに多いのであるが)。

もし草花や木々が私の写真を見て、それを自分の次の存在・反応のきっかけにしてくれれば、コミュニケーションは成立し始める。しかし、植物が写真を見ることもなく 、私は毎日コミュニケーションを試みるだけ試みる。


しかし、私はなぜそんなに毎日、実ることのないコミュニケーションの試みを行っているのだろう。

対象に魅入られているから、というのが一つの答えだ。しかし、私の対象は何ということもない近くの草花や木々だ。別に美しさや珍しさで顕著な存在であるわけもない。私は対象の稀有な美や価値に魅入られているのではない。

ただ私の心は振るえている。「あっ」と言った瞬間から、シャッターが降りるまで、そして写真ができてその写真を見る間、思い出す間、その対象は私の心を振るわせている。

私の心が一方的に振動しているだけなのだろう。だが、ひょっとしたらそれは共感なのかとも思う。

「すべての存在物は固有の振動をもつ」などと言い出せばオカルトになってしまうが、科学としてではなく便利な比喩として考えれば、対象の振動と私の振動は共振し共鳴しているのかもしれない。だから私は自転車を降り、カメラを動かしながら合焦しているのだろう。そしてそれを自分らしさを見いだせる大切な、大切な時間と感じているのだろう。


私は対象の運命に共感している。

対象が発する振動に私が共振・共鳴している。

絶景の場に咲くわけでもなく、絶頂の美しさをかこっているわけでもない草花や木々の運命に、私は何かを感じ、心が振るえている。

その共感に自分が生きている実感をしみじみと覚える。 


世間的に美しいから撮影しているわけではない(世間的な美しさの押しつけに私は辟易している)。世間的に価値づけられているから撮影しているわけでもない(世間的な価値の厚かましさに私は閉口している)。

私が写真を撮るのは、対象が私を振るわせる振動を発しているから、対象と私が共振しているから、互いに共感しているからだ。対象の運命と私の運命がどこか共鳴している。そんな対象は、私にとっての佳きものである。天からの恵みとすらいってよい。


― と、私は自分の思い込みに酔ってしまっている。


私は写真を撮っているだけだった。私のコミュニケーションの試みが、例えばFlickrで見られる写真に形になっているだけだった。

その写真は多くの人の関心の対象とならない。何人か多少の興味を示してくれる。
そんなものだと思う。




私はいつか草花や木々が写真を見てくれればと夢想しながら撮り続ける。




2015年9月15日火曜日

9/21(月・祝)10時~16時45分の講演・ワークショップのお知らせ + 私の講義の原則

手違いでお知らせが大変遅くなってしまいましたが、9/21(月・祝日)に東京でワークショップを行います。10時から16時45分までゆっくり時間をかけられますので、聴衆の皆さんに納得してもらえることを再優先にしてお話しし、語り合いたいと思います。

そのワークショップの準備の一環として、「私の講義の原則」というスライドを作りました。
この原則は、今回のワークショップだけに限らないものなので、ここに公開をしておきます。大学・大学院での授業でもこの原則を貫いています。




ちなみに9/21のワークショップでは、以下を大きな柱とします。

(1) 学びを取り戻す
(2) 意味を取り戻す
(3) 「からだ」と「こころ」を取り戻す
(4) 「想い」を取り戻す
(5) 授業づくり

理論的な背景は以下の通りです。

(1) マルクスの疎外論(参考:『経済学・哲学草稿』および『英語教師は楽しい』の中の拙稿)とTrivial Machineの比喩(参考:Heinz von Foerster (2003) Understanding understandingの第15章)
(2) ルーマンの意味論(参考:『批判理論と社会システム理論 』、『社会システム理論』、『社会の社会』)
(3)と(4) ダマシオの身体論(参考: Self comes to mindなどの一連の著作

この半年間、さまざまな機会でさまざまな方々に、上記の原則に基づきこれらの論点について語ってきました。そこから学べたことをもとにしつつ、今回も、講義を練りなおしている最中です。もしよろしかったらお越しください。



お申込み



以下は主催者からのお知らせを転載したものです。

*****
柳瀬陽介先生 講演会@東京 
日時: 2015年9月21日(月・祝)10:00-16:45(受付 9:40)
会場:大田区立池上会館 第一会議室
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/ikegamikaikan/
〒146-0082 東京都大田区池上一丁目32番8号
参加費:3,500円 (学生1,700円)


◆テーマ:「わくわく」ってつまりどういうこと?
英語は「ことば」であり、「ことば」は人間形成の根幹であり、社会の中での人間の営みに関わるものである。
だが、「ことば」は「こころ」に結びついていなければ、単なる記号形式にすぎず、こどもの身につかない。
また、そんな形骸化した記号形式をいくら発音しても、それが「ことば」として他人を動かすことはない。
「こころ」とは、人間が自らの「からだ」で実感している気持ちのことである。
「からだ」の内部で何かが動き始めて、はじめて「こころ」が生まれる。

◆「すべてのこどもたちをつれていく」ために「からだ・こころ・あたま」を使った能動的な学びとは、 どういうものか。 授業では、どのように生かすことができるのか。科学知と実践知が融合する貴重な機会です。

☆8月に大好評だった大阪での講演会に続く第2弾です。

●《参加者の声(一部抜粋)》
今回の為に事前学習として先生の著書に関する記事やブログを拝読させていただきましたが、難しそうで、ついていけるかとの不安も感じていましたが、とても解りやすくお話しして頂き、全てが興味深かったです。
●表と裏の意味のコントラストを受けとってコミュニケーションしているのだ!
●潜在的意味を持った質問が子どもたちの頭と心を動かすこと。 そういった授業の組み立てが小学校の先生こそが得意(理解している)だということ。
●身ぶりが自然に出ていくまで、言葉の奥を考えるレッスン準備をしようと思いました。
●ことばにとって相手は必須。 常に相手に届ける、伝えるということを意識することが重要。
●「わくわく」 から「想い」が生まれ、「想い」が促されて「あたま」が働き、ことばが生まれる。
●すべてが心に響きました。 その中でも特に「想い」は「重い」であること。
「伝えたい!」という強く大きく重い「想い」があってこそのことばであること。

本テーマは、2015年11月8日「第2回こども英語教育研究大会」にもつながります。
これからの英語教育を考える基盤となる講演会のひとつです。





2015年9月7日月曜日

「気づき」の意味論的・身体論的定義による教育実践分析(9/12(土)研究社英語センター)



この度、英語能力・評価研究会(VELC研究会)という団体が開催する第四回研究会のパネル・ディスカッション(「気づきを促す英語の授業とは?」)に登壇する機会を得ました。




ここでは、その際に使用する投映スライドと印刷配布資料を公開します。





 追記:このスライドの22ページは2015/10/04に一部修正されました。

印刷配布資料



今回の「気づき」というテーマを考える際も、私は今年前半で説明し続けている理論的枠組(『小学校からの英語教育をどうするか』で萌芽的に展開している身体論)を使用しますが、私としては同じ内容の講演をするのは嫌いなので、今回は次の点を新たに加えました。

○ 諸概念の関係を整理した図の導入

しかし、本来なら以下の点をきちんと調べた上で発表すべきところを、時間不足で怠っていることを予めお詫びしておきます(関連文献に直接あたらず、パネル・ディスカッションのコーディネーターが提示してくれた資料しか読んでいません)。

× SLAでの「気づき」関連論文の詳細な検討

業界の事情通の方なら、パネル・ディスカッションのメンバーを見て、二人の温厚な人と、二人の個性の塊のような人間がいることにお気づきのことと思います(笑)。私は、このメンバーなら面白い話ができそうなので、この話を引き受けました。


ご興味のある方は、上記URLをクリックして「お申込みフォーム」を記入した上で、ぜひお越しください。


追記 (2015/10/05)
スライドの中で言及したダマシオの論については下記のサイトなどである程度のまとめをしています。

Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza" (DECEMBER 28, 2012)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/12/emotions-and-feelings-according-to.html

Another short summary of Damasio's argument on consciousness and self (JUNE 25, 2012)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/06/another-short-summary-of-damasios.html

Damasio (2000) The Feeling of What Happens (FEBRUARY 25, 2012)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/02/damasio-2000-feeling-of-what-happens.html

'Feeling' of language as a sign of autopoiesis (SEPTEMBER 7, 2011)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/feeling-of-language-as-sign-of.html

A summary of Damasio’s “Self Comes to Mind” (SEPTEMBER 4, 2011)
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/summary-of-damasios-self-comes-to-mind.html


また、気づきの三段階については、下記のシンポジウムでも話をしました。

1/12大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)での発表資料掲載、および大津先生へのメッセージ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/112.html









追記 (2015/10/10)
研究会が撮影した私の講演映像です。








なお、この研究会の他の動画などもすべて下記サイトから見ることができます。このようなサイトを用意してくださった研究会に感謝します。