2015年9月20日日曜日

「スーパーグローバル」と「スーパーナショナル」

  以下の文章は、三友社『新英語教育』2015年8月号の23ページに、「どうする日本の英語教育」のシリーズ第17回目として "「スーパーグローバル」と「スーパーナショナル」" という題名で掲載していただいた私の文章です。出版から少し時間がたちましたので、編集部との予めの合意に基づき、このブログにも掲載します。

  「グローバル化」につきましては、大修館書店『英語教育 2015年6月号』の91ページに、"「グローバル人材」再考  ―言語と教育から日本の国際化を考える"(西山教行・平畑奈美編 くろしお出版)の書評を書かせていただいた際にも短く私見を述べました。この本や拙稿も合わせてお読みいただけたら幸いです。
 


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「スーパーグローバル」と「スーパーナショナル」



  日本通の英語話者によく「superglobalって何のことだ」とニヤニヤして尋ねられる。文部科学省が推進する「スーパーグローバル大学等事業」の表現のことだ。接頭辞super-の基本的意味はabove or beyondだから、彼らが意味不明だとするのも無理はない。関西人なら「Globeを超えてしまって、君たちどこへ行くねん。あんたら宇宙人か!」と突っ込むところだろう。これが英語としては通用していない表現であることを知ってか、日本学術振興会はホームページでこの事業のことをTop Global University Projectと翻訳している。

  だがsuper-には「機能が徹底した」という比喩的意味もある。Supercomputerがその一例である。「スーパーグローバル」の唱導者もおそらくは「グローバル化を強く推進している」ぐらいの意味を込めたかったのだろう。

  しかし文科省による通知でも日本学術振興会の説明でも、この事業は「我が国の高等教育の国際競争力の向上を目的に」行われるものと説明されている。国の事業だから当たり前とも言えるが、大学は本来、国や私人の利益を超えて真理を追求するまさにグローバルなネットワークを基盤としている組織であることを考えると、国家間での競争という発想には少々違和感を覚える。たしかに大学は、直接的には各国の税金や学生の授業料などで運営されている。しかし大学の研究活動(およびそこから生み出される教育活動)の根幹は、国や私人の利益を超えて人類規模の協力と協調で蓄積されかつ更新され続けている知識である。そうすると大学についてあまり国家意識を強調するのもどうかと思う。

  だがこの4月、下村博文文科大臣は、参院予算委員会での安倍晋三首相の発言を受け、国立大学に対し、入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱の実施を要請することを明らかにした。あくまでも強制ではないと大臣は言うが、所管官庁の要請がしばしば圧力に転化するのは世の常である。ましてや近年は大学への運営交付金が年々確実に減らされ、大学は重点配分を欲しがっている(スーパーグローバル大学の事業もまさに重点配分である)。そうなるとこの発言は「要請」よりも強い効果をもちかねない。

  この国家意識の強調は、「グローバル化」の一つの解釈から生じているのかもしれない。「グローバル化」は英語教育界でも重要概念として使われるから、ここで簡単に確認しておこう。

  その一つの解釈というのは、グローバル化を世界の等質化として捉える解釈だ。冷戦終結と情報革命により、世界中が資本主義によって包摂されたとする考えである。もちろんその包摂に抵抗するように、それぞれの国や地域は文化的アイデンティティを主張しようとする。だが、世界の基本構造は資本主義に等質化されたとするのがこの解釈である。日本という国家が資本主義(およびそれに奉仕する科学)の競争に勝つこと、および「日本人」としてのアイデンティティの重要性を強調する文科省(あるいは安倍政権)も、この解釈をとっているのだろう。そうならば「スーパーグローバル」は、むしろsupernationalと解釈した方がわかりやすい。だがbeyond nationalismではない。ナショナリズムの徹底という意味だ。そう考えると「スーパーグローバル」に国家主義が見え隠れすることが納得できる。

  しかし等質化だけがグローバル化の解釈ではない。もう一つの解釈は、世界の急変性・複合性・多様性の進行だ。情報の流れが速く多種多様になり、思いもかけない組み合わせによる、これまでにない変化が次々に生じるのがグローバル化という解釈だ。資本主義や英語の影響力の強さは認めつつも、それらが世界の共通枠組みだとは考えない。ナショナリズムに拘っていれば諸問題は解決しない(むしろ悪化しうる)とも考える。英語教師としてのあなたの「グローバル化」の解釈はどちらだろうか。

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